●ニュースNo140(2000年5月1日発行)

◎今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味(次号に続く)

□大井町ビラまき報告(休載)


 
3・18集会―浜田寿美男さんの講演

 今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味

99・9パーセントの有罪率
「日本の司法文化」
「有罪への確信と無罪可能性のチェック」
無罪判決は想定しない日本の裁判
一生無罪判決を書かない裁判官
一事不再理の逆をいく日本の裁判
富山事件における目撃証言の信用性
供述証拠の形成過程が問題
検察に都合のいい目撃者のみ選別

以下次号

控訴審判決の「基準」
目撃条件は良好か?
写真面割りの過程はブラックボックスの中
空くじなし
写真面割りの後の面通しは無意味
捜査官の間で情報交換が行なわれている
富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述
どの犯人を見て選んだのか?
科学的な検証の姿勢がない日本の裁判
仮説検証型でなく仮説固執型
日本の刑事司法全体を考え直す時

 こんばんわ。京都の花園大学におります浜田と申します。私、この事件で、6年程前に目撃に関わる鑑定書を書きました。富山事件の再審請求が現在の刑事司法においてどういう意味を持っているのかというテーマで話をしてほしいということでしたので、目撃供述の矛盾などにも絡めながらそのへんの話をさせていただきたいと思っています。

 1974年の10月だったと思いますけど、狭山事件の控訴審で10年余り闘ってきた結果、弁護団の方では裁判所が無罪判決を出してくれるのではないかと期待をしている中で、結果的には一審の死刑は破棄されましたけれども、有罪判決そのものには変わりがなくて無期懲役という形で判決が下されたということがありました。その後、弁護団が10年余りの弁護活動を改めて総反省するということで、なぜ勝てなかったのか、あらゆる争点についてもう一度議論をしなおそうということになりました。
 いろんな争点があるのですけれども、その中の一つとして、自白の問題を改めてやっていきたいということになりました。石川さんの場合は自白が取られてなおかつ第一審の段階では自白を維持したということで、彼が自白をし、それを公判廷でも維持したということが非常に大きな足かせになっていたのですね。第二審の段階で有罪判決が維持されてしまった最大の理由はおそらく自白だろう、自白についての争点をもう一度洗いなおそうということで、弁護団だけで議論するということでは問題が限られてくるということで、関心を持ちそうな精神科医あるいは心理学者に声を掛けて研究会を開くということが当時ありました。
 当時、狭山事件の弁護団事務局が大阪にあったんですね。解放運動の中心となりますと関東では難しくて、どうしても関西が中心だった時期で、弁護団の事務局が大阪にあって、その事務局にたまたま私の大学時代の知り合いがいたものですから、その人から声が掛かって、狭山事件の自白についての研究会に参加したと、それがこういう刑事事件に関わり始めた最初です。
 以来二十五年間こういう事件に関わることになりました。もともと、私、発達心理学と言って子供の心理学が専門なんで、子供の心理学をやっている人間がなんでこんな刑事裁判にどっぷり漬かっているんだとまわりからいろいろ言われるんですけれども、ともあれ、そういうきっかけで刑事裁判の仕事に入って、その後弁護士さんとのつきあいがおのずとできまして、狭山事件の方はきちんとした形でまとめられなかったんですけれども、その後、甲山事件という知的障害の子供達の施設で起こった事件に関わりました。この事件は殺人事件ということになっていますけれども、おそらくこれは事故だっただろうと思う、事故が事件という形にすり替えられてしまった事件だと思います。この事件、昨年ようやく無罪が確定しました。事件そのものは1974年なんですね。狭山の控訴審の判決が出た年に事件が起こった四年後に起訴されるといういろんな経緯をたどるんですけれども、1978年に裁判になって、その後、事件の最大の争点は知的障害の子供達の目撃供述であろうということになりまして、弁護団だけでは知的障害の子供達の表現の問題を十分扱えないかもしれないということで、狭山の自白研究会で知り合った弁護士さんから連絡があって協力してもらえないかという話になって、1979年位から甲山弁護団の一員として活動するようになりました。
 決定的なきっかけはこの甲山事件でして、いよいよもう足抜けできないというところまで追い込まれて、おかげさまでというのかなにか知りませんが、20年間つきあってようやく無罪を勝ちとれたというところです。

 こうしたきっかけでいろんな事件に関わりになりまして、えん罪事件の恐ろしさというのを、当事者ではありませんけれども、自白とか目撃供述をずっと追いかけて行く中でつくづく痛感させられてきたということなんです。

 そのひとつとして富山事件もありました。富山事件の争点も目撃供述が中心ということで、再審の段階で改めて目撃供述の心理学的な検討をしてもらえないかという話があって、かなり膨大な量の目撃供述とか公判証言があったんですけれども、それを読み取るという作業をやり鑑定書にまとめました。今日は、改めて今日の目で見たときにどういうことが言えるのかという話をしてみたいと思っています。

99・9パーセントの有罪率

 レジュメの方に、いくつかの本を参考に、その文章を抜き書きしているものが資料としてあります。

 まず一つ、「日本の司法文化」と書き出していますけ れども、とりわけ日本の刑事司法における一番大きな問題は刑事裁判における有罪率、これは非常に大きな問題をはらんでいるのではないかと思っています。有罪率はなんと99・9%です。99・9%以上なんですね。つまり、千人に一人無罪が出ればええとこだという状態。そういう状態が今の刑事司法の状態なんです。
 具体的に、1996年の場合、その年に求刑がなされて判決が出されたものだけの数なんですけれども、全体で5万4221人の人達が求刑を受け判決をこの年に迎えています。その結果、5万4221人のうち無罪は35人なんです。これ、どれだけの数かというと大変な数字で、逆に5万4千何人の人は有罪だということになります。無罪率は0・06%、有罪率は99・94%ということになります。
 ただし、否認事件に限りますと、つまり法廷で自分はやっていませんというふうに否認した人について言いますと、もう少し無罪率は上がります。5万4221人のうち否認した人は3660人。そのうち無罪判決が出たのが35人ということになります。パーセンテージにしまして0・96%です。ですから否認事件に関しては99%が有罪で残り1%位が無罪になりうる、つまり百人中一人ということになります。
 これは世界的には類を見ないことなんですね。例えばアメリカ、イギリスのように陪審制を敷いている所でありますと、数10パーセント、無罪が出るわけです。制度が違いますので単純に比較できないにしても、日本の場合、これだけの数ということは、つまり起訴されればほぼ間違いなく有罪だということになります。

 もう一つ言いますと、裁判が機能していないとも言えますね。

「日本の司法文化」

 レジュメに抜き書きしているのは、今年の2月に出た本で、佐々木知子さんという元検察官の方が書いた『日本の司法文化』という本に書かれているものです。この佐々木知子さんという人は推理小説作家でもあって、何年か前に横溝正史賞かなんかを貰ったということで、そういう意味では有名な人なんですが、この本、ぜひお読みいただいたらいいと思いますが、非常に困った本です。検察官サイドでずっと書いていまして、例えば、わが国では起訴するかどうかは非常に重要だと書いてありまして、起訴する際の基準というのは、有罪か無罪かという裁判官の基準とほぼ同じであると言っているわけです。つまり裁判官の基準と検察官の基準は変わらない、現に99・9%の有罪率ということですから、検察官が起訴すればまず間違いなく有罪だし、それだけ検察官は起訴について厳格な審査をしているんだと、こう言うんですね。つまり、無罪者を起訴するようなことはしていないというのが主張であるわけです。
 また、わが国の人々はみんな、悪い人は罰しなければいかんという、事件が起こればその真相を明らかにして犯罪を犯した当人を逃すことなく罰しなければいけないという文化を日本人はみんな持っているんだという主張を縷々(るる)述べております。最後のところでも、日本人というのは「有罪の者を逃すなど論外」だという見方をしているんだと書いています。検察庁の方は有罪者を逃すことのないように厳格に審査をして起訴に臨んで、現に起訴されたとおり99%まで有罪の判決をもらうだけのことはやっているんだと豪語しているんですね。これは実に恐いことだと、私、思っています。

「有罪への確信と無罪可能性のチェック」

 レジュメの2ページに、「有罪への確信と無罪可能性のチェック」と書きました。そこでも同じように佐々木知子さんの文章を抜き書きしてますけれども、「わが国の 刑事訴訟法の大きな目的は真実究明である。実体的真実主義には二つの側面がある。無実の者を有罪にしないという消極面と有罪のものを正しく罰するという積極面である」としまして、彼女は、起訴するかしないかについて非常に厳格にしている、その点がむしろ問題じゃないかという言い方をしています。「慎重すぎるスクリーニ ングは、消極目的をまっとうしようとする余り」、つま り無実の者を有罪にしないようにという消極的部分をまっとうしようとする余りに、「積極目的を軽視する恐れがあるのではないか」と書いてあるわけです。つまり、有罪者を逃してしまう危険性があるんじゃないかということを彼女は言っています。こういう発想です。
 大阪高裁の元裁判長でありました石松さんという人は、刑事裁判の最大の目的はなにかというと無実者を探しだすことだと言っています。つまり、これは格言でよく言われますけど、「百人の有罪者を逃すことがあっても、 一人の無実者を罰してはならない」、これは人権上大変 重要な見方だと私は思います。刑事司法の歴史的な展開を見ていきますと、有罪者を必ず罰するというところから、それを適正な手続きに基づいて罰しなければいかんというところに移ってきて、さらには、現在は少なくとも無実者を罰することがあってはならないということを強調しているのが世界的な動きなんですけれども、日本の刑事司法の中では、有罪者を逃してはいけないことが大事なんだということが相変わらず考えられている、しかも、それは国民に支持されている、日本の司法文化はそういうところにあるんだという主張を佐々木さんという人はしているわけです。これは、おそらく佐々木知子さんに限らない、司法関係者のかなり大多数の人達が持っている意見だろうと、佐々木知子曰く、弁護士も一部の人達はやいのやいの言うてるけど、大抵の弁護士はそうは思っておらんとこう書いております。ぜひお読みいただいたらと思います。

無罪判決は想定しない日本の裁判

 それはともあれ、そういう形で考えて来た時、裁判官の方も、実は99・9%というこの司法文化に左右されていると思うのですね。
 同じくレジュメの2ページの上に、羽柴駿さん、この人弁護士さんですけれども、『刑事法廷』という本が二 年ほど前に出されてまして、この中に実におもしろいエピソードが載ってましたので、それを挙げました。
 裁判官も、99・9%の有罪率となりますと、仕事上どういう感覚を持つかというと、目の前にいつも被告人が座っているわけですけれども、法廷の中では、被告人が千人いると、この千人の人達を裁くにあたってそのうち9百99人までは有罪だという感覚を持っているわけですね。つまり、目の前に被告人が次々と入れ替わり、裁判が終わる都度変わっていくわけですけど、その千人のうちわずか一人位しか無罪者はおらんということになります。
 心理学の言葉の中に期待率という言葉がありますけれども、次にどういうことが起こるかという期待をそれぞれパーセンテージ、一定程度のあるパーセンテージでこういうことが起こるだろうと、期待を統計に取るわけではないんですけれども、感覚として人は持っているわけです。例えば飛行機に乗ったら事故に遭うのは確率的に0・0、何%か知りませんけれども、大体大丈夫だろうと思ってみな乗っているわけですね。それが2百回に一回でも落ちるということになれば大分警戒するということになると思います。ある程度の期待率をわれわれは持ちながら日常生活を送っている。裁判官も一緒なんですね。そうすると、千件のうちに一件しか無罪が出ないとなると、まあ、大体、そこに座っている奴は有罪という思いでやっぱり見てしまいますよね。ですから、理屈のうえでは証拠を見て有罪心証あるいは無罪心証を取るということになるんですけれども、心理学的意味での期待率ということで言いますと、千人のうち一人だということで、現に裁判官達は無罪判決を書くのに非常に勇気がいるというわけです。めったに起こらんもんですから、よほどのちゃんとした証拠がなければ無罪判決は書けないという思いになってしまう。
 羽柴駿さんの『刑事法廷』に書かれているのは、そういう雰囲気を非常に強く伝えているエピソードだと思うんです。これは交通事故の事件、横断歩道を横切っている人を轢き殺したという事案で、被害者の人がどういう経路をたどってその横断歩道を通ったのか、ひょっとして運転していた人にとって死角に当たる位置にその人がいたのではないか、そのへんが議論になったもので、どういう経路を歩いたのかということが法廷で最大の問題として議論されてきた。ところが、検察側の立証がなかなかちゃんと行かなくて、裁判所が苛立ってきているという場面が書いてあります。その裁判の中で、公判が終わった後、裁判官がちょっと来て下さいと言って、検察官と弁護人を自分の部屋に呼び入れたというわけです。法廷でやっている表舞台と、三者会談という形で裏で弁護士さん、検察官、裁判所がいろいろ議論をするという両面があるわけです。われわれは裏の部分は見えません。この事件の場合、弁護士さんが検察官と一緒に判事の部屋に呼ばれてどう言われたかというと、こう言ったというんですね。検察官に向かって怒りを露にズバリと「検察官、これは大変な失態ですよ。このままでは有罪の心証がとれません」と言ったと。これは恐ろしいことだと私は思うんです。つまり、有罪の心証を取らしてもらわないと困るやないかと、あんたちゃんとしなさいと説教したという。弁護士さん曰く「裁判長、有罪の心証がとれないとおっしゃるのなら、無罪の判決を下さればよいのではありませんか」と言うのですけれども、それに対して言葉を濁したという話で終わります。
 つまり、裁判官というのは有罪判決を書くのがほとんどで、聞くところに依りますと、司法研修所で判決を書く練習をやるらしいんですけれども、無罪判決を書く練習というのはないらしいんですね。何を書いてももちろんいいわけですから、たまに、証拠を見て司法修習生が無罪判決を書くとえらい怒られるという話を聞いたことがあります。無罪判決というのは想定していないわけですね。ですから、裁判官は困るわけです。ちゃんと立証してもらわないと、このままでは私は無罪判決を書かなければいけない立場に追い込まれてしまいますよという趣旨なんです。

一生無罪判決を書かない裁判官

 こういう司法文化の中で裁判が行なわれていく。もちろん一部の裁判官、残念ながら一部と言わざるを得ない、一部の裁判官の中にはちゃんと無罪判決を証拠に基づいて書く人達もいるわけですけれども、千人に一人ですから、おそらく裁判官の中には一生無罪判決を書かない人もいるんじゃないかと私は思います。一度そういうのを調べていただいたらいいんじゃないかと思うのですが。刑事訴訟法をやってらっしゃる人達が、各裁判官の無罪率、有罪率を出して、全体統計が99・9%の有罪率、各個人ごとだと百%有罪の人がかなりいるんじゃないかと私は思います。百%の裁判官が何%いるかというデータを出していただくと非常に助かるなぁと私は思うんですけれども、それぐらいの状況だということなんですね。

一事不再理の逆をいく日本の裁判

 その中で何が行われているのかということになります。富山事件の場合も一審は無罪でした。これはある意味で画期的な判決だったんだと私は思います。私も無罪判決を読んで、なかなかよく出来た判決だと思います。弁護団の第一審の主張もちゃんとした形でやられていたと思います。ところが、残念ながら一審で無罪が出ても検察側は控訴できる。大体、一旦無罪が出たものが控訴できるというのが恐いですよね。もちろん、何か決定的な証拠が新たに出てきて控訴できるのならいいですよ。だけど、ある裁判所で無罪が出たやつを、もう一度蒸し返して審理ができるなんて考えられないことです。「疑わし きは被告人の利益に」という法理があるわけですけれども、一旦無罪が出ているのに対し検察官控訴が認められている、これ、どういう国なんだと私は思うんですけれども、日本の司法文化というのはそういうところにあるということなんですね。
 諸外国を見ますと、一事不再理ということで検察官控訴というのは本来認められない。もちろん逆に有罪になった場合には控訴ができるというのは人権上当然なんですけれども。一旦無罪が出たものをもう一回検察側が、権力側が蒸し返すことができるというのは許されないと私は思うのですが、残念ながらそういう事件がけっこうある。
 そして、二審で有罪になる事件ほど後が恐いものはない。むしろ、一審有罪で二審無罪の方がいいんですよね。それで確定する可能性が高くなりますから。逆のケース、甲山事件なんかそうなんですが、一審できれいな無罪判決が出て、ところが二審で差し戻しという判決が出て、二十年余り引きずってしまったという結果になる。弘前大学教授夫人殺人事件という推理小説みたいな名前の事件がありますけれども、あの事件も一審無罪、二審でひっくり返って確定してしまう。そして、獄中で真犯人を知っているという情報を聞きつけた那須さんは、娑婆に出てからその人を訪ね当てて、時効が来てましたのでその真犯人が名乗り出たことで、ようやく再審が開始されたという事件があります。ですから、二審でひっくり返るというのは本当に大変なんですね。富山事件もまさにその大変な中をやっているわけですけれども。

富山事件における目撃証言の信用性

 富山事件の場合は、他に一切の証拠がなくて、犬の臭気選別がありましたけれどもおよそ証拠とは言えない杜撰(ずさん)なものですから、決定的なのはやはり目撃だったわけですね。白昼に行なわれた事件ですから、約40名の方が目撃していたわけです。都内の路上で白昼ということですから、それくらいの目撃者がいて当然なんです。その目撃者のうち法廷に出てきたのは一審、二審合わせて6人ということですけれども、事実上証拠として出てきた人を合わせますと七人ということになります。これだけの目撃者が富山さんの写真を選んで、この人がやったんだということであれば、そこだけ聞くと、まず間違いないのではないかと思いますよね。
 ところが、この供述証拠というのが問題なんです。物証の場合は、物証でも作ってしまうような人がいますので、困りますけれども。この間、松山事件の国家賠償請求裁判が棄却されましたけれども、あの事件は鑑定に回す前にはなかった血液が、鑑定後、帰ってきた時には付いていたという、考えられない事件です。それでも国家賠償請求裁判は認められないですね。当然そんなことは認めなければいかんと僕は思うんですけれども、違法な捜査はなかったと、だから責任はないのだという結論です。こんな事件、なんで間違ったんだと僕は思うわけです。なんで間違ったのかということを国家レベルで調査しなさいと言いたいところですけれども、賠償はしないわ、調査はしないわ、なんにもしないという司法文化なんですね。これもひどいと私は思いますけれども。
 それはともあれ、富山事件に戻りますけれども、物証の場合にはよほど何か操作をしない限りそのまま証拠として使えますけど、言葉でしゃべった証拠、いわゆる供述証拠は、自白であれ、目撃供述であれ、その供述が取られてきた過程があるわけです。供述というのは、例えばわれわれがビデオを撮ったみたいに、もしビデオで現場を撮ったとして、撮ったものがそのまま記憶の中に刻まれて、法廷でそのまま出されてくるのなら、僕も文句のつけようがないかもしれませんけれども、残念ながら人間の記憶というのはビデオテープみたいにできていません。かなりいいかげんなものなんですね、記憶そのものが。それにまた事情聴取される過程でいろいろ言われますから、それで歪んでいく可能性があるわけです。

供述証拠の形成過程が問題

 問題は、供述証拠が形成されてきた過程なんですね。どういう過程を踏んでその供述が出てきたかということが問題なわけです。ところが、法廷ではなかなかその過程の部分が表に出なくて、結果として挙がった証拠だけ出されて、こういうことを言っとるんだから間違いないやないかと、こういうことになるわけですね。
 ところが、その供述の過程というのはまったく外から見えない。捜査官が、どういうことで、誰をどこに呼んで、どういう取調べをして、こういう供述が出てきたのかということがわからない。ブラックボックスなんですね。ブラックボックス、闇箱の中、ここで、何が起こっているのかわからない中で事情聴取が行われて結果だけがポコッと出てくる。ポコッと出てきた供述でもって、こいつを見たと、写真でちゃんと選んだと、面通ししたらこいつだと言ったと、だから間違いない、そのレベルで判決がなされて来てしまっている現実があるんですね。
 ところが、やはり出てくる過程が問題なんですね。とりわけ自白に関して、実に興味深いものが、警察官向けの本の中に出てきたりします。その一部をレジュメの3ページに挙げています。
 つい最近、日弁連の下の本屋さんで見つけて買った本で『犯罪捜査101問』があります。これ古くから出ている本なんですが、改版されまして、その最新版、2000年版のものです。その中に驚くことが書かれているんですね。101問の中の一つの問答なんですが、つまり、被疑者が否認をしている場合にどういう取調べをするかという質問に対する答えの部分。この書いている増井清彦さんという人は元大阪高検の検事長をやった人です。ですから、現場の人がこう考えているということがよくわかるわけですけれども、「否認している被疑者の 取調べに当たっては、次の事項に留意すべきである」として、「予め記録及び証拠物等を精査検討して事件の全 貌を把握し、確信をもって取調べること」、これはいい、その確信をもってというところを具体的にこう書いてある。「頑強に否認する被疑者に対し、『もしかすると白ではないか』との疑念をもって取調べをしてはならない」、こう書いてあるんです。逆じゃないかと、誤植じゃないかと思うような、これも驚くべき司法文化ですね。こういう思いで調べるわけです。
 目撃者の場合もそうです。一定こいつがやったんではないかという思い込みを持ちますと、それに合わせた形で証拠が集められてゆく。証拠収集という言い方をしますけれども、別の言い方で証拠固めとも言います。これ、よく言ったもんだと、語るに落ちる言葉だと思うんですよ。証拠固めというのは、捜査官が持った想定に合った証拠を集めて来る。つまり、無罪証拠も当然あるはずなんですね、実際やってない人間だったら無罪証拠はいっぱいあるはずなんですが、できるだけ無罪証拠には目をつぶって、有罪証拠を集めてくるというニュアンスを証拠固めという言葉はりっぱに語っているわけですね。

検察に都合のいい目撃者のみ選別

―公正な裁判はできない

 現に考えていただいたらわかりますが、40人程の目撃者がいたうち、法廷に6人選ばれてきた、これは検察側にとって非常にいいものを選んできた、そうじゃなくて真実をちゃんと見ている者だけ選んできたとも善意に解釈すれば見えなくはありませんけれども、やっぱり検察に都合のいい目撃者を選んできて、あと34人の中に、実は富山さんじゃないということが表れている供述が入っている可能性があるんですね。34人全部出してくれればいいじゃないかと思うけれども、いわゆる当事者主義というのを採っていますから、検察側は自分達にとって都合のいい証拠だけ出せばいいということになっている。
 ところが、検察官のみが捜査権を握っていて、弁護側は捜査権を持っておりません。あと34人の氏名を訪ねあてて、一人一人全部調べられればいいですが、そんなことはできません。検察側のみが捜査権を持っていて、弁護側は何にも持っていなくて、選ばれた証拠だけ、固められたやつだけ出てくるわけですから、圧倒的なハンディがあるわけです。せめて、全部証拠開示しなさいと、四十人余り調べたんだったら、34人から調書を取ったんだったら、証拠として出てきた7人の他のあと30何人全部出しなさいと、出すのがあたりまえだと思うんですけど、出さないですね。まして再審段階、確定してしまったやつを、出してあたりまえと思うのですけど、それだけ自信があるのでしたら全部出しなさいよとなるんですが、出さないんですね。検察官が出してきた証拠は真実を語っているのではないと、純粋に選んできたということでなくて、むしろ、一定の想定を立てた中で、その想定した犯人に合う証拠のみを集めてきたという危険性があるわけですね。
 そういう証拠収集の過程が見えなければ本来公正な裁判はできないはずだと思うんですが、全部そこのところはブラックボックスなわけです。結果的に、私なんかが鑑定するというのはブラックボックスの中をどう覗くのかという話になっちゃうわけです。出てきた供述証拠の中から、ブラックボックスの外に出てきた供述証拠を最大限読み込むなかで、どういう捜査が行われてきたか、そのブラックボックスの中を推測する以外ないということになります。推測するなかで、けっこういろんなことが見えてくるのもまた事実です。先ほど現場検証に基づく報告がありましたけれども、一つ一つ見て行きますと、とんでもないことが行なわれているということがよくわかるんですね。
 ブラックボックスの中が見えないというのが非常に困るということで、最近、こういう刑事裁判に関わる問題について関心を持つ心理学の研究者も増えて来まして、研究会を組織して、やがて学会にしようということで動いています。

(小見出しは事務局の責任でつけさせていただきました)

以下次号

4月の大井町での署名集めは、その前日運転免許試験だったうり美さんが、見事合格したのはいいのですが頑張り過ぎダウン。富山さん、亀さん、山村の3人で行いました。

結果は、

亀さん・・・9名
山村・・・9名
富山さん・・・0名 でした。

「その第七歩目(だったかな)。三蔵法師一行が徒歩で天竺に行くようなものだと考えています。焦らない、焦らない,と思っています。」(カンパ1000を振り込んでいただきました。ありがとうございました)