Kさんのご冥福をお祈り致します
7月18日、東京の「かちとる会」のKさんが亡くなられました。享年七十七歳でした。ご冥福を心よりお祈り致します。
Kさんとご遺族の意思で、お葬式は「お別れする会」という形で行われました。多くの方が参列され、Kさんの温かい人柄とおつきあいの広さを偲ばせるお葬式でした。「かちとる会」からは、7月20日のお通夜にはTさん、うり美さん、亀さん、山村が伺い、翌日の告別式には富山さんと山村が参列し、最後のお別れをしました。
Kさんと「かちとる会」の出会いは大井町の駅前でした。1992年の8月、大井町の駅頭で富山さんの再審開始を求める署名を集めていた佐藤齊一さんと私の前に、きれいな白髪の男性が立ち止まり署名をしてくださいました。その方がKさんで、ビラに載せていた阿藤周平さんの言葉を見て「八海事件のことはよく知っていますよ」とおっしゃったのを覚えています。Kさんはその時のことをのちに「真剣に訴えているあなたたちをひと目みて、この人たちの言っていることは真実だと直感しました。私はその人の目を見ればわかるんですよ」とおっしゃっていました。
その後、Kさんから手紙が届き、私とうり美さんがご自宅に招待されました。Kさんは、自らの戦争体験から、戦後ずっと二度と戦争を起こしてはならないと訴えつづけてこられた方でした。大井町で署名された時も、自らの戦争体験を若い人たちに語る集いに向かう途中だったそうです。ご自宅では、戦争中の写真なども見せて下さり、どのような社会状況の中で戦争に突き進んでいったか、戦争責任の問題、「加害者」としての痛恨の思いなどを話してくださいました。
Kさんは、1923年に熊本県で生まれ、子供の頃は豊かな自然の中で少年期を送られたそうです。「もともと私は軟派で、芸術とかそういう方面が好きだったんですよね」と言われていましたが、日本が侵略戦争に突き進む中、陸軍士官学校に入学、航空隊に所属し、卒業後は特攻隊の教官だったこともあるそうで、「わずか二十歳になるかならないかの若造が、十五、六歳の少年に死ぬことを求めた。今思うとなぜあんなことが言えたのかと思う」と辛そうに話しておられました。「戦争に負けたあと、特攻隊を考え出しそれを押し進めた責任者たちがのうのうと生きて帰ってきたことを知って、責任者たちを殺して自分も死のうと思いつめたこともあった」とのことでした。敗戦時の1945年8月15日は、偵察飛行で沖縄上空にいたそうです。「下を見るといつもと違ってアメリカ軍の艦船が港に集結し、潜水艦も浮上している。おかしいなと思っていると、司令部から無線が入り、通常は暗号のはずが生で『ただちに帰還せよ』と言ってきた。何が起きたのかと急いで帰還し飛行機を下りるとみんな泣いていた。それが敗戦だった」そうです。
敗戦後、自分はなぜ生きているのかと気持ちの荒れた時期もあったとのことでした。その中で、あの戦争は間違いだった、自分も加害者の一人だったと考えるようになり、二度と侵略戦争に加担することがあってはならないと誓ったとおっしゃっていました。「天皇こそ最大の戦犯だ」と怒りを込めて語られ、日本が再び「いつか来た道」を歩もうとしていると昨今の情勢に強い危機感を抱いていらっしゃいました。
その後、Kさんは「かちとる会」の集会に何度も参加され、定例会にも来てくださるようになりました。
富山さんがまだ獄中にいる時、富山さんの手紙を読んで、「国家権力と闘って弾圧を受けているんですね。獄に囚われても不屈に闘っている。こういう人は本物だと思う」と共感を寄せておられました。出獄後の富山さんとも意気投合したようで、「富山さんは笑顔がいい」「つきあってみれば、誰でも富山さんをいい人だと言うと思う。それをみなさんに伝えたい」とおっしゃっていました。
書道を得意とされ、みごとな毛筆でビラの表題や集会のタイトル、署名集めの時ののぼりなどを書いてくださいました。昨年二月の集会の会場に貼ったタイトル「真実はひとつ―24年間の心からの叫び」、今年三月の集会のタイトル「20世紀のうちに私たちの手で再審開始を─真実を裏付ける証拠開示」はKさんが書いてくださったものです。
また、牛乳パックに和紙を張って作ったきれいな小箱を「集会で売って再審のカンパにしてください」とたくさん持ってきてくださいました。
大井町での署名集めの苦闘を見かねてか、一昨年の10月から「お手伝いしましょう」と一緒に駅頭に立ってくださるようになりました。Kさんの温厚で篤実な人柄は全体の雰囲気をなごやかなものにし、Kさんが参加されると多くの人が立ち止まりました。その中で、Kさんがいつも一番多くの署名を集めていました。そして、「ビラをまく時は積極的に話しかけることが大事です。黙ってわたすのではなく、ぜひお読みくださいとわたすことです。今度、自分の体験を書いてみましょう」とニュース(98年11月号)に署名集めの秘訣を書いてくださいました。(もう一度掲載します)毛筆で「私は無実です。再審開始のため御署名を」と書いたのぼりも持って来てくださって、それがあるのとないのとでは道行く人々の注目が違いました。
Kさんに「軍隊では、何時に待ち合わせるという場合、時間ちょうどに着くのではなく必ず五分前には着いているというのが原則です。私は十分前には大井町に来ていますよ」と言われたにもかかわらず、いつも時間ぎりぎりに駆け込む私やうり美さんをいつも笑顔で迎えてくれました。
昨年の10月には現地調査の重要性を訴えられ、何度も事件現場に一緒に行ってくださいました。「現場に立ってみると目撃証人の供述がいかにでたらめかよくわかりますよ。富山さんの無実は間違いない」とおっしゃっていました。
Kさんは芸術面にも造詣が深く、書道や絵、写真など多彩な趣味をお持ちで、ある劇団の後援会長もなさっていました。「かちとる会」の運動を通じてのおつき合いの他に、私やうり美さんは音楽会や演劇、踊りの公演などに誘って頂きました。裁判や運動という極めて現実的な問題に向き合っている中で、その時間は心の休まるひとときでした。
最後に定例会に参加されたのは5月14日でした。日ごろ血圧が高く、時々体調を崩されているようで心配していたのですが、この時は体調がよかったのか定例会の後の私たちが“本会議”と称している交流会(飲み会)にも出てくださり、ともに楽しいひとときを過ごしました。Kさんが生まれ育った熊本県の話にもなり、民謡「おてもやん」の熊本弁の意味を説明してくださったりしていました。
6月の定例会は他の用事で出席できないという連絡があり、6月30日の東京高裁への申入れの前に電話をしたところ、「体調があまりよくないので今回は遠慮します。定例会には必ず行きますから」とおっしゃっていましたが、7月9日の定例会の前々日に電話があり、「体調を崩して入院してしまいまして」と言われ驚いていますと、「血圧が高く気分が悪くなって。三時間ほどいたら落ち着いたので帰ってきましたが、まだ本調子ではないので今回の定例会は残念ですが欠席します」とおっしゃっていました。この後の7月14日に入院され、そのまま回復されることなく18日に亡くなられたとのことで、7月7日に電話でお話したのが最後になりました。
告別式での献花の時、ご遺族の希望でKさんが好きだったという曲が流されました。ロシア民謡の『バイカル湖のほとり』でした。それは1825年、帝政ロシアに叛旗を翻しシベリアに流刑になったデカブリストの故郷への思いを歌ったもので、昨年、Kさんに誘われた音楽会で最も印象に残った曲でした。その曲を聞いていたら、今年はもうロシア民謡を聞きに行くこともないのだ、ああ、もうKさんはいないのだとたまらなくなりました。1997年に佐藤齊一さんが逝かれ、今度はKさんと、「かちとる会」にとって、そして私自身にとってかけがえのない人が相次いで亡くなられ、置いてきぼりにされたような淋しさです。
森首相の「神の国」発言や石原都知事による「第三国人」発言、9月3日の防災に名を借りた自衛隊による治安訓練等々、再び日本を「戦争のできる国」にしようとする動きが激しくなっている今こそ、Kさんの遺志を引き継ぐたたかいが求められています。Kさんの平和への思いを引き継ぎ、そして、なによりも、Kさんが心にかけてくれた富山再審を開始させ、再審無罪を必ず勝ちとりたいと思います。大井町のビラまき・署名集めも最後の勝利まで頑張ります。これからも失敗や試行錯誤を繰り返すと思いますが、Kさん、どうかその優しい笑顔で見守っていてください。 (山村)
|