阿藤周平さんから富山再審の開始を決定づける闘いを新しい年を迎え、新年のご挨拶を申し上げます。 昨年をふりかえって、富山再審の審理は何の進展もなく一年がすぎ去ったように思われます。再審請求を出して六年半が経過した現在、裁判所の態度は何とも不可解でなりません。開かれた司法、迅速で公正な裁判が要求される今日、まだまだ裁判所と国民の間には大きな「ミゾ」があり、その「ミゾ」は深まるばかりのように感じられます。 今年は信頼できる裁判所に近づけ、誤判をなくす闘いに取り組む中で、富山再審の開始を決定づける闘いを進めてゆきましょう。昔の「ことわざ」に「待てば海路の日和あり」というのがありますが、この意味はできる限りの尽力、闘いを強めてゆく先に見えてくる晴天であろうと私は思います。 2001年、富山再審の勝利の年にしたいものです。 皆様のご健闘をお祈りいたします。 1月1日 |
今回の年賀状のイラストは、以前にも描いて頂いたことのあるK・Mさんにお願いしました。年末の忙しい中、無理して描いて頂き感謝しております。 |
今年こそ再審開始を!証拠開示を求め、弁護団が検察庁と折衝 ・・・12月11日 12月11日、富山再審弁護団は、東京高等検察庁に赴き、証拠開示について検察官と折衝を行いました。 弁護団からは、葉山岳夫弁護士、太田惺弁護士、小原健弁護士、田中泰治弁護士、原田史緒弁護士が参加しました。事前に弁護士会で待ち合わせて、五人の弁護士がそろって検察庁に向かうところはやはり迫力があり、頼もしい弁護団だと思いました。 一体なぜ、検察官は逮捕写真を開示しないのでしょうか。 この事件は、目撃者の写真選別が争点になっています。法廷に立った目撃証人の、事件直後の供述は、富山さんとは違う「犯人像」でした。それが、捜査官の取り調べを経るにしたがって、富山さんに似た特徴を述べるようになり、富山さんの写真を「犯人に似ている」と選ぶようになります。 弁護団は折衝で、検察官が開示していない目撃者の供述調書や捜査報告書の開示も強く求めました。 法廷で富山さんを「犯人だ」としたO証人の車に乗っていて、事件を目撃したK氏という人がいます。この人は新聞記者でした。弁護団が捜し当てて話を聞いたところ、K氏は犯人は、「やせて小柄で貧弱な男」 「細面で青白くキツネ顔の男」と話し、富山さんが身長180センチもあると聞くと、「そんな大男じゃな い。それだけは言える」と言い、富山さんの写真を見せると「こんな男じゃない」と否定しました。 検察官といえども、「公益の代表者」として、真実を究明する義務を負っています。検察官が持つ証拠は、国民の税金で集められたものであり、ひとり検察官のためのものではありません。真実発見のためにこそ役立てられるべきものです。 折衝の最後に、弁護団は、25年間もこの事件をやっており請求人が犯人でないことは確信をもって言える、実体的真実発見のためにも開示してほしいと強く求めたとのことです。 昨年のたたかいのうえに、今年こそ、再審開始を! 昨年、弁護団は、新たな証拠である鑑定書やビデオ映像とともに「事実の取調請求書」を提出しました。裁判所とも折衝を行い、証拠開示命令を求め、再審開始を強く要求してきました。検察官に対しても証拠開示を求めて粘り強く折衝を行ってきました。また、四月には新しく原田史緒弁護士が弁護団に参加、再審開始を切り開く重要な力になってくださっています。また、新証拠となった鑑定書やビデオ映像は、富山再審開始につながる決定的な証拠であり、これらを作成してくださった鑑定人の方々のご尽力なくして富山再審はありませんでした。 こうしたたたかいを、阿藤周平さんをはじめとする「かちとる会」会員の方々、大井町の方々、全国の心ある方々に支えられ、えん罪や権力犯罪と闘う多くの方々とともにがんばってきました。 何よりも、裁判所に対して事実調べを求めていきたいと思います。弁護団が新証拠として提出した鑑定書を作成した鑑定人、新たな目撃者、アリバイ証人を取調べること、富山さんの本人尋問を行うことを強く求めたいと思います。 今年もまた、みなさんのご協力を心からお願い致します。 (山村) |
富山さんから あけましておめでとうございます。昨年はご尽力いただき大変ありがとうございました。 鳥取県西部地震の際にはお気遣いいただき、感謝しております。なにしろ奈良時代以来という大規模な揺れで、直後の電話回線が不通の時には最悪の事態も覚悟しましたが、幸い〈ブロック塀全滅・家屋「半壊」ながら人間は無事〉に胸をなで下ろしました。まだ余震が続いており、「大地震に連鎖傾向」「周辺で同規 模地震が続く傾向が強く」「双子の ように」という研究もあって安心できませんが、ひとまず小康状態。地域の復興も含めて課題は山積しており、すべては「これから」というなかに置かれています。 様々な報道があったなかで、印象に残った事例をひとつ紹介させてください。 「銀行(破綻)は人災です。地震は天災です。人災(の犯人・金融資本)にはいくらでも(湯水のごとく、表向きだけでも60兆円も70兆円も)援助するのに、天災(の罹災者)は見捨てるのですか」 これは、NHKテレビの特集番組での、ある被災者の訴えです。まさしく今日の政治の核心を射抜いているのではないでしょうか。名指しで問われた鳥取県知事は大童で「前例のない援助」を引き出しましたが(危機意識では無能な島根県知事・澄田を上回る)、それでも焼け石に 水でしかありません。なぜこんなことになっているのかを、よく考えてみる必要があります。 少し前まで「日本(にほんである。これをニッポンという人間、特に自称左翼は信用しない方がよい。そういう輩が実際にいるのだから嘆かわしい)の政治は三流だが、経済は一流だ」とまことしやかに語られ、 「世界に冠たる日本的経営手法」がデマゴーグや軽薄なお調子者によって喧伝されました。しかし、それが通用したかに見えたのもわずかの間にすぎず、いまではドン底を這い回る「失われた10年」のあげくにいつ奈落に転落してもおかしくない有様をどう説明できるのでしょう。おまけに、かろうじてぶら下がっている「クモの糸」ともいうべきアメリカ経済のバブルもいつ破綻するかという状態で、破局のはてに待ち構えるものを戦慄しながら見据えざるを得ないのが実状です。日米安保新ガイドラインにもとづく一連の悪法強行と人民の抵抗の根絶をめざす「いつか来た道」「新たな戦前の始まり」、規制緩和、政治改革・行政改革・司法改革、憲法改悪の行き着く先は天皇ヒロヒトを頭目として2千万人をうわまわるアジア人民を虐殺するとともにみずからも350万人をこえる犠牲をだした「すぐる大戦」の再現にほかなりません。日本が日本であるかぎり悪政は必然であり、悪政のもたらす犠牲は天災の比ではないのです。 この厳然たる事実の重みをみすえ、「いつか来た道」から人間が人間らしく生きられる社会の建設への転換をかちとる21世紀の幕開けを富山再審実現・無罪をもってきりひらくべく全力で走りますので、よろしくお願いいたします。 (富山保信) |
新年のひと言 21世紀最初の年を迎えるにあたって、みなさんから「ひと言」を頂きました。 木下信男さんから 今度の「東電OL殺人事件」控訴審判決(12月22日)は、世紀末の暗黒裁判の実態を白日の元に明らかにしました。特に、一審無罪を逆転有罪としたことは、憲法39条【一事不再理】に明瞭に違反する恐るべき、裁判官の犯罪であろうと思います。 再審開始が20世紀中は無理だったのは残念。21世紀中なんてことは言ってられない。 再審裁判、国賠裁判等には、証拠の全面開示が必要不可欠である。このことが、世論になっていないこと自体が問題である。また、日本の資本主義社会をささえた、「年功序列」「終身雇用」「企業内組合」は、前2者は資本、権力の外からの圧力で崩壊しはじめている。後一者「企業内組合」は、派遣、契約、アルバイト、パート、再雇用、雇員、嘱託・・・(インド人もビックリのカー スト制度)と内部から崩壊している。そのことに、組合役員はもちろん、一般組合員もほとんど無自覚である。(余談だが、徴兵制がなかったことも日本の資本主義社会を強くささえている。) 闘いに明け、闘いに暮れた2000年、富山再審闘争も幾多の困難な状況を一歩一歩切り開きながら2001年を迎えました。 いよいよと言うべき21世紀です。多くのやり残しの一つが富山再審です。アメリカでもムミア・アブ・ジャマルの再審要求と死刑執行ナンバーワンのブッシュ就任反対の闘いが1月20日から強力に始まろうとしています。アメリカと日本、支配者階級の法を私物化するまでの腐敗を弾劾し、新たな発展期を迎えた労働運動・市民運動の力で人類史の新世紀を真に切り開きましょう。(無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる広島の会・中島健) 亀さんから 1994年6月の再審請求から丸6年半、いつしか21世紀に突入した。その間、裁判長は何度も交代し、現在の仁田裁判長で四人目、その都度、最初からやり直しの連続であった。それぞれの裁判長は必ず、多くの裁判を抱えており忙しいことを理由に富山さんの再審は後回しにし、無責任に交代していった。 時々、山に登る。といってもハイキングに毛のはえた程度の山歩きにすぎない。それでも、山のいいところは、登り始めたらどんなに辛くても、もういやだと思っても、結局は前に足を踏み出すしかないところだ。下界のようにタクシーを拾うわけにはいかない。一歩踏み出すしか解決しない。四の五の言うよりも踏み出す一歩が意味を持つ。そして、小さくともその一歩が確実に頂上への一歩になっていく。それがいい。 そして、ついに「あーぁ、昇っちゃった・・・」。 しかも、そのうちに人間の足跡は消え、うさぎの足あとだけが雪の上に点々と残る。これはヤバいと思ったが、しかし、初めてのうり美さんの手前、動揺を見せるわけにはいかない。ここまで来たら行くしかない。もう初日の出なんかそっちのけで必死に歩いた。うり美さんも必死についてきた。やがて、前方に屋根が見えて来た。それは雲取山荘だった。私たちは雲取山荘に向かう道を行ったのだった。 |
12月、20世紀最後の大井町での署名集めは、
12月25日に、 「いつも『かちとる会』ニュースをありがとうございます。すぐに全部読みたくなる内容です。一日も早く事実取調を実現させるよう微力ながらご支援させてください。カンパ送ります」というお手紙とともに1万円頂きました。 ありがとうございました。 |