集会にご参加ください ・富山保信さんは無実です
とき 6月30日(土)午後6時30分開始 |
□富山さんと「かちとる会」が東京高裁前でビラまき4月11日、富山さんの再審が審理されている東京高裁前で、富山さんと「かちとる会 」の坂本さん、うり美さん、山村の計四名で、再審開始・再審無罪を求めるビラをまきま した。ビラは富山さんが書いたもので、「私は無実です。一刻も早い再審開始・無罪実現を」 「検察官は私の無実を証明する証拠を隠すな」「東京高裁第三刑事部の裁判官は、私の無実を証明する証拠を隠し持っている検察官に、証拠開示を命令してください」と訴えるものです。裁判所に向かう職員や弁護士、司法研修生、市民の多くが受け取り、約一時間で 1000枚のビラをまきました。この四月に新たに着任した中川武隆裁判長にぜひ読んでほしいと思います。裁判所はただちに再審開始を! |
「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して 4月21日、広島で、「八海事件発生50周年記念のつどい」が「死刑と無罪の谷間で ・・・いまに活かす『八海』」と題して実行委員会の主催で開かれ、約200人の人々が参加しました。 |
シンポジウムの冒頭、阿藤さんが発言に立ち、 次に九州大学の大出良知さんが発言し、 次に花園大学の浜田寿美男さんが発言した。浜田さんは、狭山事件を契機にえん罪事件に関わるようになり、甲山事件で目撃供述、「人が語った言葉」の問題に取り組み、特別弁護人という立場で法廷に立った経過を話され、 次に、元裁判官で現在弁護士をされている秋山賢三さんが発言。秋山さんは、徳島地裁の裁判官をしていた時「徳島ラジオ商事件」の再審開始決定に関わったとのことで、裁判官としての25年の経験、その後弁護士になってからの9年の経験などに踏まえて話された。 竹澤哲夫弁護士からも、誤判原因の調査の重要性を指摘された。 最後に阿藤さんが、
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【中国新聞の記事】 : (新聞コピー画像省略) |
特集 その4世紀を越えて ・・・今、八海事件を考える 前号に続いて、今年三月、大阪で阿藤周平さんに伺ったお話を掲載する。 |
■一審も二審も死刑判決阿藤さんは、警察による激しい拷問のすえ、やってもいない罪を「自白」させられてしまう。それは阿藤さんにとって耐えがたい屈辱であった。だが、阿藤さんにはかすかな望みがあった。それは、警察官が自分の無実をわかってくれなくても、それより〈偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いない、そう思っていたのだという。1952年6月2日、そう信じていた裁判所の下した判断は、阿藤さんに死刑、他四名に対しては無期懲役であった。 阿藤さんは、「一審の時はあんまりショックがなかったと言ったらなんやけどね、一審ではね、そんなにショックはなかった。それだけ裁判所を信じてたのかもわからんね」と死刑判決を聞かされた時の心情を語る。 阿藤さんは、その時、このうえの広島高等裁判所の〈もっと偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いない、そう信じて二審判決を待っていた。しかし、1953年9月18日、ここでも阿藤さんに対する判決は死刑。 「二審(判決)では、今度は嘆きましたわな。もう、ガックリ来ました。(食事も)の どを通らんかったね。僕は、死刑囚のおる独房へ入れられてるんですから」 二度の死刑判決で阿藤さんは厳しい現実を目の当たりにする。もう、こうしてはいられない。阿藤さんは藁にもすがる思いで、雑誌を見て知ったえん罪事件で活躍していた正木ひろし弁護士や、自由法曹団の岡林辰男弁護士、また人権協会等にも自分が無実であることを訴える手紙を書いたという。 ■闇に葬られた真実を語る上申書事件は吉岡一人による犯行だった。それを警察は「複数犯行説」をとり、吉岡に阿藤さんをはじめとする四人の「共犯者」の名前を言わせ、阿藤さんを「主犯」とした。二審の広島高等裁判所は、阿藤さんに死刑、吉岡には無期懲役を言い渡している。吉岡は上告することなく服役。 阿藤さんは、吉岡に対して、今は特に憎いとも思わないと言う。もう過ぎてしまったことをとやかく言ってもしかたがない、そう阿藤さんは思うらしい。しかし、吉岡も自分たちと同じ拷問を受けて、八海事件の犠牲者であるという点に関しては強く否定した。 「同じ犠牲者でも次元が違う。あれ(吉岡)は、助かりたい、自分は罪を逃れたい、自分は罪を軽くしたい、それで友だちを引きずり込んだ。警察から責められて責められてやったけども、結局、警察と合作して、自分はそれだけ利益を得てるわけですよね。確かに、吉岡も厳しい取り調べを受けたと思いますよ。単独犯行を、罪のない者を引きずり込んで共犯説に変えるんですから、その変わる間にね、警察からずいぶん責められたと思いますよ。だけども、それにはね、並々ならぬ代償があるわけ。命という代償があるわけですよね、やっぱりね」 その一方で、検察官が吉岡を最後の最後まで自分たちの支配下において、法廷で真実を語らせようとしなかったのには、「吉岡もね、苦しかったんだと思いますわ」と語った。 吉岡は良心の呵責からか、阿藤さんたちは一切この事件に関係ないことを服役していた広島刑務所から、阿藤さんたちや弁護人、検察庁、裁判所へと「上申書」として出している。だが、この上申書は無残にも葬り去られていた。この上申書が日の目を見ることになるのは1965年、広島刑務所を出所する三名に吉岡が口頭で伝言した内容がそのうちの一人から原田香留男弁護士に、もう一人によって朝日新聞社に伝達されて初めて明らかになったのだった。これらの上申書が公になったことにより、吉岡が上申書を書いては保安課に呼び出されてひどい目にあっていたことや懲罰房に入れられていたことも、後に明らかになった。 「吉岡、だいぶ証言台に立ってますわ。それでついに自分の良心には勝てんかったんで しょうな、やっぱり。今度、本当のこと言います、今度、本当のこと言います・・・その都度、証言に立つその前日か二日前には検事に呼び出されて、またひっくり返って。また 、本当のこと言いますって言って、また検事に呼び出されて。もうイタチごっこみたいになってた。だから、検事の方では吉岡をとにかく捕まえておった。それに加担したのが刑務所ですからね。吉岡、結局、しびれ切らして、出獄する人に口頭で伝言しましたわね。それだけは刑務所は防ぐことは、止めることはできませんですわね。釈放になった受刑者が(弁護士の)原田さんの所へ吉岡の伝言を伝えに行って、それで上申書が公になった。それまで闇に葬られていた」 ■青天の霹靂・・・再収監一審、二審で死刑を宣告された阿藤さんは、最後の砦である最高裁判所へ上告した。ここでの判断は、原判決を破棄し、広島高等裁判所に差し戻すというものだった。ここにきて、ようやく阿藤さんに一縷の望みが見え始めた。この時、最高裁が原判決を維持していたならと思うとゾッとする。阿藤さんは、広島高等裁判所に差し戻された第一次差し戻し審で、結審のあと、判決を待たずに保釈されている(他の三名は結審前に保釈)。これで阿藤さんは「無罪判決」を確信した。 1959年9月23日、広島高等裁判所・村木裁判長は、阿藤さんたち四名全員に対 し無罪を言い渡した。 これで家族とともに今まで一緒に過ごせなかった時間を埋めることができる。これからは家族のために一生懸命働いてがんばろう。そう阿藤さんは思っていたに違いない。せめてこれで裁判が終わってくれれば、一度無罪判決が出た以上、検察官が上訴できるという日本の裁判システムさえなければ、この後の裁判で人生を無駄にすることはなかったのに、私はそう思わずにはいられない。 「このあとからの裁判は、今、思えば無駄だった」と、阿藤さんは言う。 検察官が再上告したことにより、再度の悪夢が阿藤さんに襲いかかることになる。 1962年5月19日、二度目の最高裁判所(第二次上告審)は、今度は無罪判決を破棄し、広島高等裁判所へ差し戻したのだった。 広島高裁での審理(第二次差し戻し審)には、阿藤さんは運送会社の運転手をして働きながら公判に通っていた。判決には、その運送会社の社長も息子さんも、そして支援してくれた人々もみんな来てくれたという。もちろん阿藤さんは無罪判決を聞くだけだと思っていた。 ところが、1965年8月30日、夏の暑い日。一度は無罪判決を出した広島高裁は、今度は阿藤さんに対し死刑を言い渡した(他の三名には12年から15年の懲役刑)。 「(判決を)裁判所で聞いて、それですぐ後、報道陣のテント村で僕らは会見した。会見して、事務官が収監するというのを、若い弁護人たちが阻止して、僕ら、泊まっていた旅館まで一旦帰った。それを事務官が追っかけてきて、収監するとか揉めてね、結局、夕方、僕らは拘置所に入った」 この死刑判決は、阿藤さんは予期していなかったという。その時の衝撃をこう語る。 「もう無罪だと思ってた。子供やら何やらまだ小さかったけど連れて行っていたし、(勤めていた)運送屋の社長も、社長の息子もね、全部、判決の日に来てくれたんですから 。夢にも思わんもんね。しかし、報道陣はね、七・三くらいで有罪やと思っとったん違いますかな。やっぱり、有罪にせいという差し戻しやからね。無罪にせいという差し戻しと違ってね。僕らはもう、えらいことするなあ思ってね」 その日の夕方、阿藤さんたちは、せっかく取り戻した家族との平穏な生活から、また塀の中の生活へ引き戻された。 ■三度目の最高裁・・無罪への確信「三回目の最高裁の時には自信があったね。自信を裏づけるようなものが出てきたからね」阿藤さんはうれしそうに語った。 その「裏づけるようなもの」というのは、拘留を更新する書類だった。第二次差し戻し審の有罪判決で阿藤さんが収監されたのが8月30日。それから、毎月、1ヵ月前には次の月の拘留更新の書類が裁判所から来ていたのだという。 「僕のは毎月えらい早く来よった、3年間。今月で言えば3月の末までには、次(4月 )の拘留更新が来てたわけ。ずーっと欠かさずに、事務的に。看守が持ってくる拘留更新に拇印ついて。これが必ず来とったんです。それがね、判決が10月25日ですねん、三度目の最高裁は。それがその前に来んのですよ、拘留更新が」 いつもなら9月の段階で来る拘留更新の書類が10月になっても、判決直前になっても来なかった。 「(弁護士の)佐々木さんがね、前の日にね、飛行機で僕の所に面会して、それから東京に行かれたんやけどね。だから、2日前ですわな。それでも拘留更新が来ないから佐々木さんに言ったんです。『先生、これ、おかしいんやけど、毎月1ヵ月前に必ず拘留更新がね、来てるんですけれども全然来ませんよ』。僕はなんで来るもんが来んのやろうと思いますわね。そしたらやっぱりそうやった。拘留更新する必要がなかった、無罪やから。 更新期日までに無罪判決が出るんですから、次の拘留更新をする必要がなかったわけ、最高裁は」 獄中の阿藤さんは、無罪判決を確信していた。しかし、今までの裁判の経過を見る限り においては、この目で、耳で確認するまではまだ手放しで喜べない状態であったと思う。判決当日、午前10時30分。最高裁判所第二小法廷・奥野健一裁判長は原判決を破棄し 、阿藤さんらに無罪を言い渡した。最高裁自らが判断した破棄自判。この報はいち早く広島拘置所の阿藤さんのもとへ届いた。 「東京から拘置所に電話があったんでしょうね。無罪判決が下りたから支度しておくようにと、すぐさまドアを開放してくれたんです。ただ、まだ正式な書面が来ないから、それまで整理しておくようにと言われて」(1998年9月5日、阿藤さん談) ■塀を越えて八海事件が発生してから無罪まで17年と9ヵ月。青春と言われる時代を阿藤さんは生と死の狭間でえん罪と闘い続けてきた。最高裁で無罪を宣告されるまで、一時だって気の休まる時はなかったであろうと思う。その茨の道を必ず真実が通る時が来ると信じて、阿藤さんは生きてきたのだと思う。それは自分自身との闘いでもあったに違いない。「自分でもよく耐えられたなあと思う」と話す阿藤さんだが、それを支えたものは一体何だったのだろうか。「やっぱり自分の信念と、みんなの支援やね」 阿藤さんはきっぱりこう語った。阿藤さんの口から何度も聞いた言葉、「信念」。言葉で言ってしまえば簡単なのだが、私自身を含めて、信念を貫き通すことができる人間はどれほどいるのだろうか。 「壁を隔てた独房の中にいるでしょ。その中で大切なのは自分の信念と、それを支えてくれた多くの支援者。それが直接声にならなくても伝わって来ます、塀を越えて。形こそいろいろ違うけれども、支援者、理解者が一番心強いね、無実で闘う人にとってね。孤独は耐えられるったってね、僕らの独房での生活を助けてくれる、支えてくれる支援者がね 、僕に限らずえん罪と闘ってる人には共通の強みだと思いますね」 ■誠実に生きる以前からどうしても阿藤さんに聞きたい質問があった。それは、今までの人生の中で、人間にとって、または阿藤さんにとって何が一番大切だと思うかという甚だ抽象的な質問であった。私はまるで人生の迷い人を導く救世主を見るかのような目で、阿藤さんの顔に見入った。 1968年10月25日。最高裁判所の無罪判決を受けて真実の扉は開かれた。阿藤さんの自宅の居間の壁には、広島拘置所から釈放された阿藤さんが満面の笑顔で握手をしている白黒の写真が拡大されて飾られている。過去を忘れることなく、現在を見つめるかのように。 (うり美) |