●ニュースNo159(2001年12月1日発行)

◎世紀を越えて・・「八海」の教訓をいまに -- 八海事件五十周年・東京集会

大井町ビラまき報告


 

 

世紀を越えて・・「八海」の教訓をいまに
八海事件五十周年・東京集会

 2001年4月、広島で、「八海事件発生五十周年記念のつどい」が実行委員会の主催で開かれた。阿藤周平さんも発言されるということで、私たち東京の「かちとる会」も広島に駆けつけた。広島の「かちとる会」の人々も参加してくれた。
 この広島集会の成功を引き継ぎ、東京でも「八海五十周年」の集会を開けないだろうかという話が阿藤さんから「かちとる会」にあった。
 八海事件の経験を若い人たちに引き継ぎたい、「八海の教訓」を風化させたくないという阿藤さんの気持ちが強く伝わってきた。長年、富山再審を支援してくださっている阿藤さんの思いに応えたい、なんとかして集会を成功させたい、というのが「かちとる会」みんなの気持ちだった。
 しかし、そうは言っても、決して大きくはない「かちとる会」が、「八海五十周年」と銘打った“大集会”を準備するのは大変なことである。富山再審集会は何度もやっている。富山再審集会なら、どんなことを準備するかも、どれだけの時間や労力がかかるかも大体わかっている。しかし、「八海五十周年集会」となった場合、規模も内容もまったく違うものになる。
 不安が先立つ私たちに比べて、富山さんはやる気満々だった。「かちとる会」だけでなく、えん罪事件の支援や人権問題に取り組んでいる人々と力を合わせてやっていこうということになり、富山さんが動いた。袴田事件など幾多のえん罪事件の支援を行い、「人権と報道・連絡会」の中心的なメンバーでもある山際永三さんに相談したところ、一緒にやってくださるとの快諾を得ることができ、集会実行委員会が発足した。
 集会は10月27日と決まり、会場も都心の全水道会館を借りることができた。
 集会での講演は、当事者である阿藤周平さんはもちろん、心理学者で八海事件の研究もなさっている浜田寿美男さん、八海事件弁護団だった西嶋勝彦弁護士が引き受けてくださり、シンポジウムも行うことになった。
 阿藤さんや山際さんのご尽力もあり、集会の呼びかけ人には、八海事件弁護団の児玉憲夫弁護士、佐々木静子弁護士、元日弁連人権擁護委員長の竹澤哲夫弁護士、浜田寿美男さん(花園大学教授)、足立昌勝さん(関東学院大学教授)、木下信男さん(横浜事件再審ネットワーク代表・明治大学名誉教授)、桜井善作さん(月刊『野火』発行人)、福冨弘美さん(71年警視総監公舎爆破未遂事件冤罪被告)が名前を連ねてくださった。
 この方たちの呼びかけに応えて、多くの方々が集会に協力してくださった。八海事件弁護団をはじめとする55名の弁護士の方々など、100名を越える人々が賛同人になってくださり、集会開催のための賛同金の呼びかけにも応えてくださった。

 講演者の名前を見ても内容の濃い、いい集会になることは間違いなかった。しかし、一体、どれだけの人が集まってくれるだろう・・・参加者の数が惨憺たるものだったら、「多くの人に、とりわけこれからの世代を担う若い人たちに八海事件の教訓を伝えたい」とはりきっている阿藤さんを落胆させることになったらどうしよう。想像するだけで心臓が縮む思いだった。
 必死になって集会への参加を呼びかけ、祈るような思いでビラをまいた。呼びかけ人や賛同人になってくださった大学の先生も自分の関係している大学の学生にビラを渡してくれた。亀さんは、集会があると聞けばどこにでも行ってビラをまいてくれた。

 そして迎えた集会当日。
 午前中に映画『真昼の暗黒』を上映した。
 映画の前に、実行委員会と事務局を代表して、山際永三さんが開会のあいさつをされた。
 山際さんは、集会が多くの方々の協力のもとに開催されていることを報告し、「日本にはえん罪が多すぎる。50年前の八海事件に学んで、その教訓を生かすことがもっともっと必要なのではないか、八海を忘れてはいけないという発想で今回の集会も準備しました」とし、
 「日本では、死刑が確定した人が57人いるが、そのうちの27人が死刑再審を申し出ている」。しかし、「支援のわれわれの側でも、横の連絡が取れていません。その中で、袴田事件を中心にして、名古屋の名張事件、狭山事件、この三つの事件はいろいろな意味で再審の重要なポイントで粘り強くやっている事件ですから、なんとか横の連絡を取って、一緒にやっていこうという話になってきています」
 「今、戦争へ、戦争へという準備が進んでいる。こんな時にこそ、むしろ人権という形で、日本の民主主義社会は一体どうなったんだということをわれわれは考えながら、再審あるいはえん罪に取り組んでいきたいと思います」と結ばれた。

 『真昼の暗黒』は、正木ひろし弁護士の著作『裁判官』を映画化したもので、八海事件を世の中に広く知らしめた映画だ。出演者のそうそうたる顔ぶれ、リアルな拷問場面や法廷でのやりとり、「おっかさん、まだ最高裁があるんだ!」と阿藤さん役の青年が叫ぶラストシーン・・・何度か観たが、やはり迫力のある優れた映画である。
 1956年に作られた古い映画だが、現在版権を持っている会社から借り、映写も専門の人にお願いしたので映像は鮮明だった。
 映画を上映している間にどんどん人が集まりはじめ、午後からの集会の時には会場はほぼいっぱいになり、最終的には116名の人々が参加してくださった。

 午後からの集会の最初に、「映画『真昼の暗黒』後の八海事件」と題したスライドを上映した。八海事件と言っても、その詳しい経過を知る人は少ない。特に、若い人は「八海事件」という言葉すら知らない人が多い。八海事件の全容を知らない人のためにと、うり美さんが中心になって集会用に作ったスライドである。
 「おっかさん、まだ、最高裁があるんだ!」・・・八海事件はこの叫びの後、大変な経過をたどる。
 阿藤さんは獄中から正木ひろし弁護士や自由法曹団に無実を訴える手紙を書く。これに応えて正木弁護士、原田香留夫弁護士たちが立ち上がる。全国でまき起こる支援運動。その中で1957年10月、最高裁は有罪判決を破棄して広島高裁に差し戻す。1959年9月広島高裁で無罪判決。しかし、その後、最高裁は一転、今度は無罪判決を破棄、差し戻しを言い渡す(1962年5月)。1965年8月、広島高裁で阿藤さんに再び死刑判決。二転三転する判決。死刑と無罪を行き来する歳月。結局、1968年10月に無罪が確定するまでに18年の年月が費やされることになる。
 この経過を、新聞記事や写真などで作ったスライド、阿藤さんの獄中記の朗読、ナレーションで説明した。
 「阿藤さんは、自らの体験を伝え、二度とこのような悲劇が起こらないようにとえん罪の根絶を訴えています」というナレーションの締めくくりの後、阿藤周平さんが壇上に登場した。

 阿藤周平さんの発言から
 「映画の拷問はあれは本当なんです。拷問の場面だけは、今でも頭から離れたことがありません。昨日のごとくよみがえってきます」「『なぜ、やりもしないのに、やったと言うのか』と言う人がいるが、実際にこの身に拷問を受けた人じゃないとわからない」「誰も味方をする人がいない中で行われる拷問がいかにひどいものか」
 「私はこの映画を見て、心が痛むより怒りの涙が出る。悔し涙が出る。こういうことを二度と起こさせてはいけない。そのために一生懸命がんばっていかないといけないと思う」
 「弁護士の先生方が、私を守るということだけにとどまらず、不正な裁判と闘っていた。それを非常に心強く思った」
 「八海事件は真実が勝ったわけですけれども、それは、みなさんの不正な裁判に対する怒り、そして大きな支援の力があったからこそと私は思っています。大衆の力は偉大なものです。必ずや真実は晴れる。しかし晴れるのを待つのではなくて、晴らすために一生懸命がんばらなくてはならない」
 「私は無罪で出所した時、この18年間の苦しみがもし癒されることがあれば、それはこの世からえん罪事件がなくなった時だと、日記に書いています。残念ながらそれは今もって実現していません。おそらく私の存命中、いやいやもっと先まで、悲しいことですがえん罪事件は増えても減ることはないと思います。しかし、それを見過ごすのではなくて、みなさんと一緒になって、それに立ち向かっていくという強い心を18年の獄中生活で養うことができました。それは八海事件のたたかいの中から学び取った一つの大きな財産だと思います」
 (阿藤さんをはじめとする講演の内容は実行委員会の報告集として出す予定である。今回は簡単に要旨を掲載する。)
 次に、八海事件弁護団の西嶋勝彦弁護士が講演された。

 西嶋勝彦弁護士の発言から
 西嶋弁護士は、最初に、阿藤さんたちの弁護を引き受けることになって経緯を話され、八海事件の特徴として、
 ・松川事件とともに、裁判批判の先駆けになったこと、
 ・第二次控訴審で、検察官が従来の捜査を倍する力と時間をかけて、異例の「再捜査」を行い、阿藤さんたちのアリバイを証言する人たちを「偽証罪」で逮捕、アリバイ証言を覆させるということをやったこと、
 ・真犯人Yと警察が一体となって作り上げた事件。Yの「共犯説」を作り、維持させたのは警察であり、検察官であり、それを支持した裁判官の存在だ、
 ・18年におよぶ長期裁判、
の四点をあげられた。
 「長期裁判というのがこの八海事件の最後の特徴になると思います。18年間の裁判、本体の事件の記録が96冊、それから別件の『偽証』事件の記録が31冊、合計すると127冊。調書一冊の厚さが大体5センチとすると、127×5で6メートル35センチ、二階建ての建物を優に越えます。調書の厚さが平均3センチとしても、3メートル80センチ、この天井じゃまだ足りない。それほどの記録の事件でありました」
 そして、第三次上告審で、真犯人Yの証言を覆し、阿藤さんたち四人の無実をどのように証明していくかという裁判上の課題とともに、
 「最後に残された課題が冷えきった世論といいましょうか、再度の有罪判決に対し、その状態をどう逆転させ、どう裁判闘争を盛り上げてゆくかということであり、弁護団の編成もそのひとつの課題でした。全国で弁護団を募り、神戸から、あるいは関西から、そして最後は東京にという具合に大衆的な裁判闘争が構築されていきました」
 そして、困難を乗り越えて無罪をかちとっても、
 「私たちは完全に白、無実だと終始一貫思っている。しかし、世の中には、『本当は犯人ではないか』という目で見る人が最後までいた。八海の地元でも、阿藤さんたちの無罪が確定した後、まだ割り切れない気持ちでいたというのはそのへんも絡んでいるかも知れません。えん罪事件の終わった後もなかなかむずかしいものだということがわかります」

 えん罪を晴らし、無罪が確定しても、世の中はそれを容易には認めようとしない現実があることを指摘し、雪冤のむずかしさを語られた。

 西嶋弁護士の発言の最中に、阿藤さんとともに八海事件の被告して救援運動をたたかった稲田実さんから「体調がおもわしくなく、歩行困難なため集会に参加できず申し訳ありません。皆様によろしくお伝え下さい」という電報が届き、西嶋弁護士の発言の後、司会から読みあげられた。会場からは大きな拍手がまきおこった。

 浜田寿美男さんの発言から
 次に、心理学者として甲山事件の無罪確定のために尽力され、八海事件についても研究されている浜田寿美男さんに講演をお願いした。
 浜田さんは、「八海事件の経験を阿藤さんから聞いて、自分自身甲山事件という八海18年を塗り替える(裁判が始まってから21年)事件に関わって、日本の刑事裁判というのは本当に変わらないと思った」と語った。
 そして、やってもいないことを自白する心理について話された。
「やってもいない人間がなぜ、たとえ拷問があったとはいえ、やったと言ったんだとまわりから責められたという話が阿藤さんからありましたけれども、これはなかなかわかってもらえないですね。おそらく実際に自白を取っている取調官自身もわかっていないのではないかと思います。やっていない人間が言うはずがない、強く責めて、責めきったところで自白すればやっぱりこいつが犯人だと思い込む。
 目の前に(無実ゆえに)苦しんでいる人間がいても、その苦しみの内実というのは捜査官には見えないわけです。だから捜査官は間違ったことをやっているとは思っていない。拷問という酷いことをやっているわけですが、それでも殺人事件を犯したこいつらが悪いんだと、拷問ができる心理というのは、ある意味でこいつに間違いないという確信なんですよね。しかし、人間の確信というのがどれだけいいかげんなものかということは、いろんな裁判を見てても、取り調べの過程を見ていてもわかります」
 「えん罪事件の一番大きな原因のひとつに自白という問題がありますけれども、自白する側の心理が理解されていないことがあると思います」
 「拷問が一番典型だと思うわけですが、拷問でなくても、身柄を取られて長期にわたって取り調べを受ける、あるいはお前が犯人だという形で人格的に非難され、屈辱的な思いを味わい続ける、それがいつまで続くか見えない、そういう辛さの中で自白に落ちていく。いつまで続くかわからないという見通しのなさ、それは、その中に身を置かれた人間にしかわらかない」
 「もう一つは、やってない人間が取り調べを受ける時の非現実感。実際にやった人間ならば、犯行がまざまざと記憶に残っている。自白をすれば、あの犯罪の結果としては私は死刑になるんだということがつながりとして、現実的に感じられる。
 ところが、やっていない人間は、なにしろやってないのだから、捕まってもちゃんと弁解すればわかってくれると思う。自分がやってないものですから、調べられていること自体が非常に非現実的な感覚なんです。これだけの事件で『自白』をすれば死刑になるかもしれない、という理屈はわかるわけですが、自分のこととして現実感を持って感じるのとは別問題です。なにしろ自分はやってないんだから、やってない人間がなんで死刑になるんだというのがごく素朴な感覚です。ですから、真犯人ならば自白をすれば死刑になるかもしれないというのが重しとして自白を思いとどまる理由になりますが、やってない人間は現実感が持てないために、それが重しにならない。むしろ真犯人の方が自白に対する抵抗力が強い」
 そして、こうした自白をする心理とともに、証拠を見て判断するのではなく、思い込みで「こいつが犯人だ」と決めつけてしまう裁判官の心証形成を問題にし、「えん罪が戦後54年、一向になくならないのは、なぜ、えん罪が起こるのかというチェックを公の機関が一切してこなかったことが最大の問題。それが日本の刑事裁判が変わらない理由」と指摘された。

 児玉憲夫弁護士の発言から
 八海事件弁護団で、今回の集会の呼びかけ人にもなってくださった児玉憲夫弁護士が、この日、大阪から駆けつけてくださった。急遽、発言をお願いした。
 児玉弁護士は、「下飯坂判決が再度の差し戻しの決定を出した年の1962年4月に弁護士になり、佐々木哲蔵弁護士の事務所に入った。その5月に下飯坂判決があり、弁護団に加わった」と弁護団に加わって経過を話され、1963年8月30日の逆転有罪判決で阿藤さんたちが収監された日の思い出を語り、「真実を追求し、正義を求める裁判がいいかげんなものであったのでは、民主国家はできないはず。二度とそういうことが起きないようにするのが、国の責任であり、国民の責任であろうと思います。そういう意味で、事件から50年、判決から32年になりますが、こういう集会が開かれていることは大事だと思います。阿藤さんがいろいろな所で訴えていることも大事なことだと思います」と結ばれた。

 その後、福富弘美さんの司会によって、阿藤さん、西嶋弁護士、浜田さんのシンポジウムが行われ、討論が深められた。
 最後に、桜井善作さんが集会のまとめをしてくださった。
 桜井さんは、「ある再審の運動をやっている方が、長いトンネルに入って先が見えないような状況の時に、阿藤さんの支援を受けて大変勇気を得た、トンネルの先にかすかに光が見えた気がした、阿藤さんは真実は必ず勝つという揺るぎない信念を持っているすばらしい方だと言っていた」と紹介し、「心がより小さいものに寄せられ、人の輪をより多く結集させる。そういう姿勢、感性というものが、私たちの中に日常的に培われることが必要」と指摘、小泉首相の「憲法もなにもあったものではない」戦争政策を批判し、「こういう事態を打ち返す力が私たちになければならない」「個々の運動を強めると同時に、大きく連帯する」「小泉内閣打倒の声をあげながら、そういう思いや運動と一体化した個々の運動を広めていくことが大事じゃないかなと思っております」とまとめられた。

 今回の集会では、会場の後ろに、阿藤さんが最初に正木弁護士に書いた手紙や正木ひろし弁護士が法廷で使った模型など、普段はなかなか見る機会のない貴重な資料が展示された。ご協力頂いた方々に心より感謝したい。

 多くの方々の協力によって大変いい集会になった。参加者は116名にもなり、事前の心配は幸いなことに杞憂に終わった。集会は大成功だった。
 また、賛同人の方々が寄せてくださった賛同金のおかげで大きな赤字を出すこともなく終わることができた。
 集会が成功したのは、やはり、阿藤周平さんの存在が大きかった。18年のたたかいを 通して無罪をかちとり、その後もえん罪とたたかい続けて来られた阿藤さん。74歳になった今もなお、八海50周年を契機に自らの体験を若い人たちに引き継ぎたいとがんばっている阿藤さんの存在がこの集会の成功を切り開いた。集会の講演を引き受けてくださった方々も、呼びかけ人や賛同人の方々も、この阿藤さんのたたかいに応えてくださったのだと思う。
 また、山際永三さんには、実行委員会の連絡先を引き受けて頂くなど、事務局として準備をともに担って頂いた。山際さんと打ち合わせをしながらの集会準備の過程は大変勉強になった。
 今回の「八海五十周年集会」で培われた力をえん罪の根絶、人権擁護のために生かしていきたい。そのためにも、個々の運動でがんばるとともに、大きな連帯の輪を作っていく必要を強く感じた。今回の「八海五十周年・東京集会」の成果を、そうしたたたかいにつなげていきたいと思う。
 最後に、今回の集会開催のためにご協力頂いた多くの方々、集会に参加してくださった方々に心より御礼申し上げます。   (山村)

□ 阿藤さんの手紙

 阿藤さんが二審死刑判決の後、獄中から正木ひろし弁護士に最初に書いた手紙がある。

 わら半紙に丁寧に罫線を引いて作られた手作りの便箋。几帳面で端正な字が並ぶ。ひとつも崩していない。
 手紙は10数枚にわたってひとつひとつ事実をあげて無実を訴えている。
 集会の後、阿藤さんは懐かしそうにその手紙を見ながら、
 「あの頃は、わしもずいぶんとむずかしい言葉を使こうたんやな。きっと必死に辞書引いて書いたんやろな。今はもう書こうにも書けんで。見てみぃ、擱筆(かくひつ)って何や。え、こんなの今じゃ意味もわからんで」と他人事みたいに笑った。
 (注・擱筆=筆を擱くこと=文章を書きおえること)。
 やってもいない罪で、一審、二審と死刑判決を受けたあとの独房。書くことしかできない、それしか訴える術がない、書くことによってしか自らを救う道は切り開けない、そうした切羽詰まった状況の中で書かれたものなのだろう。文章、使われている言葉、筆跡、すべてから張り詰めたような緊張感、阿藤さんの必死さが伝わってくる。
 阿藤さんは、今はもうこんな漢字は使わない。こんなカッチリした字も書かない。ちょっと崩した書き慣れた達筆の手紙やハガキが届く。
 阿藤さんにとって、以前のような手紙を書かなくてもいい今、それは多くの犠牲を払って勝ちとったかけがえのない日々なのだろう。「今じゃ意味もわからんで」と笑う阿藤さんの顔を見ながら、そうした日々が訪れて本当によかったと思った。   (山村)

 

2001年最後の大井町での署名集めは、
 亀・・・・・・4
 うり美・・・・2
 富山・・・・・4

 寒い日であった。山村は仕事で欠席。
 いつもの昼休み時と違って夕方にやったのだが、どうやら夕方の方があっているようだ。昼休みは、ビラを読んできちんと考えてからということで、引き返してきたときには私たちはもういない。ところが、夕方にはその場で決着となる。通行人の層が異なるのか。

 この日は、母親と高校生の娘さんが署名してくれるという具合に快調。一時はダントツでトップを走って、このまま独走かというほどだった。
 終わりよければ全て良し。今年一年よく頑張った、となった次第。来年はもっと広範囲に登場というか、新規開拓を心がけたい。  (富山)

 

  「不幸なことが世界各地でぼっ発している21世紀ですが、こんな時こそ地道な努力だけが有効です。
 今年はひょっとしたら暖冬かもしれません。
 案外、活動が楽かもと思います。 明日の為に第19歩目」というお便りを11月末に頂き、
 12月末に、
 「2001年も終わりに近づきました。実りある新年になりますようにお祈りします。
 明日のために第19歩目」
というお便りを頂き、それぞれ2000円のカンパも頂きました。ありがとうございました。

 Yさんのお便りでは、9月、10月ともに「18歩目」、11月も「18歩目」、12月に「19歩目」となっていました。
 実際にYさんから頂いているのは、9月が「第18歩目」、10月が「19歩目」、11月に「20歩目」、12月「21歩目」です。
 「18歩目」が3回という“足踏み状態”が生じているのは、ひとえにニュースの発行が遅延し、Yさんのお手元に届くのが遅くなっているせいです。申しわけございません。他の読者の方々にもお詫びいたします。なんとか、早急にもとのペースに戻したいと努力しておりますので、今後ともよろしくお願い致します。  (山村)