●ニュースNo167(2002年8月1日発行)

◎2002/6/29集会報告その2
木下信男さんのあいさつ
富山保信さんの発言

大井町ビラまき報告


 

集会報告□ 6・29富山再審集会報告 その2

 6月29日に、大井町の「きゅりあん」で行われた富山保信さんの再審を求める集会での発言を順次掲載していきます。
 今回は、木下信男先生(横浜事件再審ネットワーク代表・明治大学名誉教授)のあいさつと、富山保信さんの発言を掲載します。

裁判所は検察官に証拠開示を命令せよ!

 の強力な署名運動を

「このようにひどいわが国の再審状況を打破するためには、われわれがただ手を拱(こまね)いて眺めているだけではだめだろうと思います。で、どうしたらいいか。再審裁判の開始を求める運動を、全国的に、あらゆる人々と手を組んで広めていくより他に方法はないだろうと私は考えております。こういう方向に向けて、皆さま方のお力添えをぜひお願いしたいわけでございます」

--木下信男さん(横浜事件再審ネットワーク代表・明治大学名誉教授)のあいさつから

「裁判所に証拠開示命令を出させることが勝敗を決します。「証拠開示を命令せよ」という署名活動を強力に展開することが勝利につながるということです。再審無罪の実現は「裁判所は検察官に証拠開示を命令せよ」の署名運動の前進、それを広範な世論へと形成するたたかいの成否にかかっているといっても過言ではありません」

--富山保信さんの発言から

集会報告□木下信男先生のあいさつ

 

 木下でございます。

 私は、富山さんの再審運動に以前は毎回関わっていた者ですが、最近体調を崩しまして、さっぱりお役に立てませんで非常に申しわけないと思っているのですが、今日はみなさんこんなにたくさんお集まり頂きまして、富山さんに代わりましてお礼申しあげます。
 先ほどビデオにも若干出てまいりましたけれども、わが国で現在、無実の罪で35年以上牢獄に囚われている方が3人いらっしゃいます。1人は波崎事件の、富山さんと同じ姓ですが富山常喜さん、もう1人は袴田事件の袴田さん、いまひとつは名張毒ぶどう酒事件の奥西勝さんです。この3人の方々に対する再審は、開始される目処が立っていません。35年以上無実なのに獄中に囚われている、そういう歴史は世界のどこを探してもありません。こんなひどいえん罪の起きている国は日本以外にないのです。
 先ほどのビデオで阿藤周平さんがおっしゃっていましたが、八海事件で、阿藤さんが無実であるにも関わらず、無罪が確定するまで18年もかかっている。こういう例も世界にはおそらくないだろうと思います。
 富山事件について申し上げますと、再審請求をしてから8年間も、裁判所は何ら真剣な取り組みをしようとしないで来ました。こういう例は法治国家では日本だけでございます。なぜこういうことが起こっているのか。それは裁判所が富山さんの無実を知っているからです。つまり、富山さんの再審を開始しなければならないことを知っていながら、引き延ばしている。私も何回か富山さんと一緒に裁判所に抗議にまいりました。なぜこんなひどいことが行われているのかということに対して、一言も反論することができない。そのことからもわかると思います。
 このようなわが国の再審裁判の状況を打破するにはどうしたらいいか。確かに、もっともっと富山さん無実の証拠を探して、ということが必要であることはいうまでもございません。しかし、このようにひどいわが国の再審状況を打破するためには、われわれがただ手を拱いて眺めているだけではだめだろうと思います。で、どうしたらいいか。再審裁判の開始を求める運動を、全国的に、あらゆる人々と手を組んで広めていくより他に方法はないだろうと私は考えております。こういう方向に向けて、皆さま方のお力添えをぜひお願いしたいわけでございます。
 最後に、私が直接関わっております横浜事件について、最近、ようやくひとつの光が見えてきたということを申し上げたいと思います。
 戦争が終わった時にポツダム宣言というものが連合国によって出され、わが国はこれを無条件に受託しました。その中身は、戦後の日本の民主主義を確立していくうえで非常にすばらしい内容であった。横浜事件の元になった言論弾圧というようなことは絶対にやってはならないという内容が含まれていました。このポツダム宣言に従ってわが国が戦後民主主義を勝ち取っていったとするならば、おそらく今の有事立法というようなけしからん法律が提出されることはあり得なかっただろうと私は考えるわけでございます。
 ところが、このポツダム宣言を迫ったアメリカ自身が、やがてこれを歪めてまいりまして、日本に再軍備を迫ってまいります。戦後のわが国は吉田茂内閣以降、今日の小泉内閣まで、すべてポツダム宣言を抹殺するという方向に動いており、現在も改憲派の諸君は盛んに憲法改悪を唱えております。
 そういう中で、敗戦後、治安維持法が廃止される直前に横浜事件の判決が出されますが、その時の裁判所はポツダム宣言をきちんと守るべきであったという鑑定書を京都大学の大石真教授が提出してくれました。
 もし、現在、横浜事件の再審を審理している裁判所が、これを率直に聞くならば、横浜事件の再審は即日開始されなければならないと私は考えております。検察庁その他の動きを見ておりますと、必ずしも、この大石鑑定書に基づいて横浜事件の再審裁判がすんなり開始されるとは楽観はできませんが、少なくとも、わが国の戦後民主主義の原点になるポツダム宣言の受託をめぐっての判断が、横浜事件の再審開始にとって非常に大きい一歩になるであろうことを私は確信して止みません。
 横浜事件の再審については、富山再審かちとる会からもご支援を頂いておりますが、今度、7月13日の午後1時から明治大学におきまして、「7・13市民集会―横浜事件の再審裁判を実現しよう」が開かれますので、そちらの方にもご出席頂ければこれに越した幸せはございません。今後ともよろしくお願い致します。

集会報告□富山保信さんの発言

 こんばんわ、富山です。

 今日は、皆さんお忙しいなかを、それも雨が降っているにもかかわらず参加していただきまして、ありがとうございます。
こんばんわ、富山です ご覧になっているとおり、集会のタイトルは「再審請求を8年間も放置」です。それで、昨日、東京高裁に行ってきました。といっても見学ではありません。裁判所に、「事実審理をおこなえ、検察官に対して証拠開示を命令せよ」という申し入れに行ったわけです。
 ここに申入書がありますので、読みあげさせていただきます。
(申入書を読み上げる。申入書は前号のニュースに掲載)
 申し入れには阿藤さんや、大槻さん達と一緒に行ったんですけれども、後で阿藤さんも多分触れられると思いますが、書記官さえ出てこない、出てきたのは訟廷管理官と称する、普通の会社の総務課に相当する人間が出てきて、「聞きました、伝えておきます」。
 そこで、私たちは貴方たちを信用するしかないということではないか、それだったらせめて申し入れに来たという証として、申入書は受取りましたという受取だけでも書いたらどうかということを言ったんですけれども、それもできない、「受取を書けというんだったら、この書類は受け取れない」という対応でした。これが現在の裁判所の実態です。
 私は、95年の12月に出てきたのですから、出てきて6年半になります。翌々年から毎回申し入れに行っているにもかかわらず、私の申し入れがはたして裁判官に届いたのか、裁判官がどう考えているのか、再審そのものがどこまでいっているのか、ということを全く知ることができない状態に置かれています。こういう状態で、再審請求から8年が経つているわけです。
 さっき読み上げた申入書の冒頭はこうなっています。
 1975年1月13日の不当逮捕から27年半、そして94年6月20日の再審請求から数えても8年。
 改めてこの年月を考えてみると、やっぱり大変なことじゃないかと思うわけです。
 まず、27年半ですが、昨年この集会で講演していただいた原田史緒弁護士、新しく弁護団に加わられた一番若い弁護士がいらっしゃるんですけど、その彼女が生まれた年が1974年なんです。事件が発生した年に生まれた人が成長して弁護士になり、自分が生まれた年に起こった事件でえん罪に問われている人間の弁護をするという、これだけの長い歳月が経ったということなんです。
 あるいは、再審請求から数えても8年。昨日一緒に申し入れに行っていただいた阿藤さんと、その後、「再審請求の時は大変やったな、慌ただしかったで」という話になったんですけれども、その時に生まれたお孫さんが、もう小学校2年生になるそうです。こういうふうに見てみたら、27年半、8年の歳月というのは非常に長い、その持つ意味がよくわかりますね。
 その間、不正は正されることなく放置されている、まかり通り続けている、ということに他ならない。じつに恐ろしいことだと思います。これが今の司法の現実なわけです。敵は、やっぱり「敵」と私は言わざるをえないのですが、風化を狙っているとしか思えない。そういう敵の目論見に対して、生き証人として、真実を語り、現実を撃ち続ける、何が起こったのか生起した事態を具体的に述べて、さらにそれだけではなく、それはいったいどういうことなのかということをあらためて明らかにして、皆さんはこのことをどう考えられるのか、他人事として見過ごしていい問題なのかどうなのか、こんな不正を許したままにしておいていいのか、ということを問いかけ、人間としての本当に当たり前の不正に対する怒り、不正を憎む心、不正を許さないたたかいを共有していただきたいという思いで、これからしばらく話させていただきます。

 逮捕

 ビデオを観ていただいたんですけども、非常に良くなっていますね。 さっきも言いましたように、事件からもう27年半経過しており、一番若い弁護士の方は事件の年に生まれていらっしゃって、そもそも事件の背景とか、その当時どういう状況だったのか、あるいは、実際に私の身に降りかかったこと、逮捕、取り調べ、起訴されて裁判をおこない、逆転有罪になって投獄されて、実際に堺の大阪刑務所に入ったのは8年なんですけれども、実刑10年とはいったいどういうことなのか、なかなか現実感を持ってとらえられないと思うんですね。
 たしかにビデオはわかりやすいという面もありますから、ある程度はわかっていただけるんじゃないかと思いますけど、それでもやっぱり難しいと思いますので、実際に当事者の口から、どういうことだったのかということを事実に即したかたちで述べて、こういうことをはたして許していいのかどうなのか、自分自身の問題として考えていただきたいということです。
 事件については、さっきのビデオでもおわかりかと思いますが、要約して言えば74年の10月3日の午後1時過ぎに中核派4名がカクマル派に所属する山崎洋一という人物を襲って殺害した、犯人4人のうち3人が殴打し、残りの1人は少し離れた所で指揮をしていた、殴打はしていない、この指揮者が私であるというものです。これは100パーセント事実に反します。何度も何度も繰り返し言っていますが、私は事件にはまったく関与しておりません。無実なんです。
 事件の発生時には、当時、私の所属している中核派の事務所、前進社といいますけれども、これは池袋にありましたが、ここに居たんです。それで、2時45分くらいに前進社を出て、さっきのビデオにあった荏原文化センターに会場使用の申請に行った、これが真実です。この事実は何年経とうが変わらない、真実は真実なんです。動かしようがないんです。私もこれは誤魔化すことができない、私自身も縛られていますからね、事実に。これが真実なんです。
 75年の1月13日の朝に突然逮捕されました。当日は前進社に対して別の事件の容疑で家宅捜索がありまして、屋内に居る人間は建物の前の道路に全部出され、並ばされまして、その回りを機動隊が取り囲み、捜索が終わったら警察は帰っていくし、私たちは屋内に入るということになるんですけど、捜索が終わったというので私が建物に入ろうとした時、突然2人の刑事が私の両脇を取ってそのままワゴン車に連れこんだわけです。何の警告とか宣告もありません。私としては呆気に取られたというか、当時冬で寒かったものですから、ダッフルコートを着て両手をポケットに突っ込んでいたので両脇取られたらもうほとんど抵抗できない、そのまま持っていかれちゃって、ワゴン車に乗せられました。
 容疑は何も告げられず、そのまま車は出ました。私としては呆気に取られた状態から、何をするんだとまず抗議を始めたんです。手錠をはめられて、手錠の片方はワゴン車の中に鉄枠があったんですけど、それにはめられて殆ど動けない状態に置かれて、それからやおら刑事達の罵倒が始まりました。山崎を殺っただろうとか何とか言いまして、最初よく分からなかったんです。山崎を殺っただろうと言われても、私としては全然覚えが無いですからね、いったい何のことを言っているのかという状態でした。大井署に着くまでさんざん罵倒されている間、どうもこれは山崎という人物が、私たちが対カクマル戦と呼んでいるたたかいでやられたんだなということがわかりまして、どうやらその犯人にされているらしい、そういうことがわかったんですね。だけどやっぱり依然としてぴんとこない。なぜなら、少しでも自分が関与していればともかく、いっさい関わっていませんから現実感が無いんですよ。
 ただ、殺人犯として逮捕されたらしいということだけがわかったんです。その時に初めて私としては現実感をもった怒りが沸いてきたというか、そういう状態になったんですが、よく言葉で怒りにうち震えるという表現がありますね、私は決まりきった表現はあまり好きじゃないんですが、だけど本当に怒ったら体が震えてくるんですね。これは自分でも初めて体験しました。後にも先にもあれ一回きりですがね。ところが、これは敵の側から見たら別のことになるらしくて、取り調べを行った警官の法廷における尋問の時に、私が震えていたと、なんか向こうとしては捕まったから震えたんじゃないかと言いたかったようですが、私としては本当に怒りにうち震えたというのは、後にも先にも一回だけ体験しました。
 車の中では、容疑をきちんと宣告される、あるいは逮捕状を見せられるということは無くて、大井署に着いて取調室に入れられてから初めて逮捕状を突きつけられました。これが逮捕の実態です。

 取調

富山 怒りのカット1 その後取り調べに入るわけですけれども、ここで言われたことはさっきのビデオでも出てきましたけれども、核心はとにかく転向しろの一点ばりでしたね。
「事件のことについて聞こうとは思わない」―取り調べだったらやっぱりきちんと聞くべきだと思います。殺人罪ですからね、内乱に次いで重い罪名事件なんですよ、日本の刑法の中では。ところがその「殺人犯」に対して事件について聞こうとは思わないとは、いったいどういうことなんだ。
 それで、次に言ったことは、「要するにお前が運動を止めるかどうかなんだ、これに全てがかかっているんだ」「おまえは最近別件で求刑を受けたじゃないか」、当時私は別の事件で10年の求刑をされていまして、学生運動関係で10年というのは異例の重い求刑だったので新聞も大きく扱った直後だったものですから、そのことを取り上げまして、「別件の公判にひびくぞ、10年の論告求刑があったばっかりじゃないか」「このままだったら10年とか20年とかじゃなくて無期とか死刑だって充分ありうるんだぞ」ということをさかんに言いましたね。
 そのうえで、どうもこいつは転向しそうもないなと思ったら、今度は「20年後や30年後の、死刑ではなかったとしても獄中で老いぼれていく姿を考えてみろ」というようなことをさかんに言いました。つまり、実際に事件を捜査するとか、そういうことは全く考えていなかったということです。
 だから、あらためて私は言いたいんですけれども、例えば、謂われ無き罪に問われるという言葉がありますが、私は政治犯ですからね、なぜ弾圧を受けるかよくわかるわけです。
 だけれども考えてください。今の支配者はどちらなんですか。私たちですか。そうじゃないですよね。いま日本を支配している人たちは統治の規範である法律をまず、私たちよりも自分たちがきちんと守るべきなんです。それを自分たちの治安維持の能力が問われた事件を解決することができない、だから事件が解決したという形を取るために、装うために、デッチ上げをやってもいいんだというやりかたはちょっと違うんじゃないか、と私は言いたい。デッチ上げというかたちでしか自分達の支配を維持することができないのなら支配者の座から降りたらどうなのか、私たちが幾らでもとってかわりましょう。私たちは言ったことはきちんと守りますと、こういうふうに言ってもかまわないんじゃないかと思うんですね。まず支配者たちが法律をきちんと守るべきなんだ、そのあるべき立場を投げ捨て、事件のことを聞こうとは思わない、おまえが今やっている運動を止めるかどうかが問題なんだとは言語道断というほかありませんよ。
 私たちが民衆の支持を得ていないというんだったら放っとけばいいじゃないですか、そんなのは自滅するに決まっているのですから。そうじゃないからデッチ上げをやるんじゃないか、と私としては言いたくてたまらなかったんですけれども、黙秘を貫いたわけです。
 いま私が言ったことが、なんかちょっと開き直りに聞こえるな、我田引水ではないかと思っていらっしゃる方があるとしたら、当時の状況と今これから私たちが向かおうとしている情勢を考えてみていただければおわかりになるのではないでしょうか。
 先程木下先生も触れられましたけれども、有事立法に対するものすごい怒りが沸騰しておりまして、有事立法をなんとしても潰そうという気運が非常に高まっております。5月24日に明治公園で4万人の集会がおこなわれました。6月16日には代々木公園で6万人集会がおこなわれました。報道管制が敷かれて新聞なんか殆ど、テレビも全然やらない。5月24日の4万人集会は朝日新聞がカラー刷りの写真を載せ、東京新聞もちょっと触れただけ。6月16日の代々木公園の6万人集会にいたっては毎日新聞しか載せない、とまったく無視抹殺。それでも、現実にはものすごい怒りが湧き起こっていて、なんとか有事立法を潰したいという気運が漲っているんですね。
 ひるがえって考えてみれば、70年当時はこれの比ではありませんでした。70年当時、4・28沖縄闘争というのがありまして、私はこの闘いで逮捕・起訴されまして、「6・15」が終わる16日まで保釈されないで東京拘置所に閉じこめられたままだったんですけど、その直前に代々木公園で7万人の集会がおこなわれています。16日に保釈になって出てきて、その一週間後の6月23日に明治公園で2万数千の、これは学生が中心になって集まったんですが、集会がおこなわれました。当時は1万人とか2万人の集会はざらにおこなわれていました。当時、朝日新聞が学生を対象にアンケートを取りました。自分たちの生きている間に革命が起こると思うかと学生に率直に聞いたのです。そうしたら起こると答えたのは51パーセント、どうかなというのが49パーセントという回答でした。 60年はもっとすごくて、国会を十重二十重に取り囲むという闘いが6月は連日行われました。
 70年代のああいう気運の中で起こった事件で、そういう中で治安維持能力を問われた権力がデッチ上げ弾圧したんだと言えば、なんでそうなるのかおわかりいただけると思います。私たちはよく《革命の現実性》ということを言いますけれども、やっぱりその兆しはあった、敵はものすごい危機感を持っていたということなんですね。私たちの考え方や運動に異論がある方もいらっしゃるかと思いますけど、そういう方も少なくとも権力の危機感は確かにあったということはお認めになると思います。
 当時私も一応、学生の指導部の一員でしたからね。しかも、さっき言ったように懲役10年の求刑をされているということで、こいつを転向させればそれみたことかと相当の打撃を与えられるんじゃないかと考えたんだと思います。だから、弾圧する根拠はあったんです。だけども、それを実現するためにデッチ上げをやるというのは違うんじゃないの、そういうことをやること自体が、少なくとも私たちの主張が正しいという根拠を自分たちが与えてるんじゃないかということを私としては主張したかったし、依然として主張しているということなんですね。自分たちがこの日本を動かしていきたい、依然としてこれからも動かしていきたいと思うんだったら、まず、自分たちの統治の規範を守りなさいということは当然の要求じゃないか、ということをあらためて主張したいということなんです。

 その日のアリバイ

 殺人容疑で逮捕されたらしい、これはデッチ上げである、しかし、では私はその時いったい何をしていたんだろう。これはなかなか思い出せませんでした。まったく関わっていないから、わからないんです。非常に困りました。その中で、取り調べ官側がヒントを与えてくれたんですね。最初に彼らが言ったのはこういうことなんです。中核派は政治組織ですから自分たちのやった行動の正当性を主張するいわゆる軍報というのを私たちの機関紙に掲載していました。俗に言う「犯行声明」です。「あれはおまえが書いたんじゃないか」と言って部分的に刑事が読み上げるわけですね。その中に手掛かりがあったんです。
 その手掛かりのひとつは私たちの仲間に高橋範行という全逓の労働者がいたんですけれども、その人が少し前にカクマル派によって殺されるということがありました。彼はたまたま私と大学が同窓で、顔を知っていたということもあって、高橋範行同志虐殺に対する報復ということで直ぐピンときたということです。つまり、彼が殺されたということに対して、追悼集会をおこなったんですけれども、自分がそのための予備会場を借りにいったはずだ、ということがヒントになったんですね。
 さらにその前後を思い出してみると、学生運動は厳しい状態でしたから、その当時法政大学の自治会の自治委員選挙というのがありまして、会場周辺の偵察もやっていたな、あれはちょうど同じ時期ではなかったかなということで、そういうことが手掛かりになってアリバイを思い出しまして、弁護士に伝えて、早速調べてもらったわけです。そうすると、おまえが言ってるとおりだぞ、と。 それ以上の詳しいことはなかなか思い出せませんでした、例えば人名とか。でも、おおまかなところではきちんと思い出して、実際その通りだった。思い出して初めて、ああなるほどこういうふうに向こうはデッチ上げをやってくるんだということを、あらためて知ったということですね。
 それから、外で弁護士の方を先頭に、デッチ上げに対する闘いをやっていただいて、なんとかしてデッチ上げ起訴は阻止しようと努力はしたんですけれども、不当にも起訴をしてきて裁判になりました。裁判過程について、ビデオでは詳しく触れておりませんでしたので、少し述べます。

 証拠開示

 これはどの刑事裁判でもそうですけれども、検察官側は絶対に手持ちの証拠の全てを開示しないですよね。弁護士の方やあるいは少しでも裁判に関係した方は御存知ですが、有罪にするために必要な証拠以外は絶対に開示しないですよ。検察官、訴追する側は国家権力を使って、膨大な税金を投入して集めた証拠は全部自分の手に握り、被告に不利な証拠だけを開示する、そして少しでも被告にとって有利な証拠、あるいは無実、無罪を証明するような証拠は隠し通すということをやっているんですね。
 私たちも、まず裁判の冒頭でこれと取り組まなければなりませんでした。最初に開示されたのは検察官面前調書。目撃証人が検察官の前で供述した調書、これだけしか開示されないわけですよ。これを見るとよくできているんですよ。誰がみても犯人は私なんです。だって述べている顔の特徴とか体格とか年齢はまったくその通りなんですから。はなはだしいのにいたっては―当時私は26歳から27歳にかけてなんです―「27、もしかしたら26かもしれない」と、こんな調書が出てくるんですよ。ふつう人間は知らない人の年齢を言うときに、何歳かもしれない、でも一歳違うかもしれないなんてことをピッタリ同じ年齢を指して言うことはないですよ。だいたい何歳位、という言い方をしますよね。
富山 怒りのカット2 それでとにかく、法廷で出てきた証人をていねいに追及しようということで、これを実行したら、その証人が尋問するたびに違ったことをボロボロ言い始めるんです。そこで、あなたどういうことなの、調書何冊作ってあるのと尋ねたら、警察官の取り調べで作った調書がいくつもあるということを言いだしました。それを開示させなさいと裁判所に要求したんですが、最初は言を左右にしてなかなか受入れませんでした。それでも、結局、警官の前で作った員面調書を全部開示させました。それによって、最初に言っていた犯人像というのは私とはまったく違うということが判明しました。165センチ位というのでは、明らかに別人ですよ。私、立ち上がってみますけど、180センチなんですよ。これ間違いようがないと思います。特に自分より大きい人間とか、自分より小さい人間とかは、間違えないものなんです。今は高校生なんかも私よりでかいのがいっぱいいますけれども、私の年代では180センチっていうのは目立つ存在なんです。これが、最初は165センチといっていた人間が、最後は180センチの人間になっちゃう。これはどういうことなのかということなんかを追及した結果、一審は無罪判決になったわけです。
 しかも、問題はそれだけじゃないんですよ。検察官の証拠隠しはめちゃくちゃで、本当に破廉恥なことをやりました。一例をあげますと、一審で証人になったタクシードライバーが乗せていた乗客、記者なんですけれども、その記者の存在についてはずっと隠し通しました。それも隠し方が卑劣なんですよ。検察官はタクシーの乗客は捜したけれどもわからなかった、いまだにわからないと平然と法廷で言うんですよ。ところが、その後明らかになったんですけれども、タクシーの乗客は新聞記者ですからチケットを使うわけです。それで最初から新聞社も記者の名前もわかっていたんですよ。だけども、その記者は捜査側にとって都合のいい証言をしてくれないから、わからないということでごまかしていたんです。
 こんな証拠隠しとたたかって証拠を開示させて、私たちは一審の無罪判決を勝ち取ったんです。
 今、司法改革ということがいわれています。迅速裁判をやるとか集中審理をやるということで、そのために先ず争点整理をやる、つまり裁判所側がこの裁判はこういう争点をめぐってこういう審理計画で裁判をやるよってあらかじめ決めて、ちょうどいざ本番の舞台で芝居をうまくやるために舞台稽古をやるといえば聞こえがいいがやらせをやる、そういう裁判をやろうという方向で司法改革は進もうとしているんですけれど、こんなことをやられたら私たち無実の人間は、えん罪にあっている人間は、自分の無実を晴らすことは絶対にできなくなります。
 なぜか、いま言ったような司法改革は、手持ちの証拠は全部出して、そのうえで何が争点になるかを検討し、その争点整理に沿ってやろうというならまだしも、証拠の全面開示は担保されていません。国家権力が総力をあげて集めた証拠は全部提示して、そのうえで、その証拠価値を争うべきなのに、それをやらないで、検察官が自分に都合がいいということで出してきた証拠だけ列挙して争点整理を行い、それに基づいた審理計画が進行して有罪という結論に向かって導いていくというやり方をやられたら、私のこの一審の無罪判決は絶対に勝ち取られなかっただろうし、また一審判決だけじゃなくて、再審請求することもたぶん出来ないだろうと思います。
 いま私たちは、検察官は私の無実を証明する証拠を隠している、と主張しています。二審でこの事件の捜査責任者だった警察官が、目撃証人は40人位いる、そのうち34人分の調書は作った、ということを証言しちゃったんですね。だから、残ったのを出せと私たちは証拠開示要求をしているわけですけれども、こういうことが出来なくなる。そういう意味でぜひ司法改革に反対していただきたいと思っております。えん罪に泣く被告の立場、再審請求人の立場からも絶対にまやかし司法改革は阻止したい。

 二審逆転有罪判決

 二審は順調に進んだんですよ。途中までは裁判官が、出てきた検察側証人、特に警官を追及するんですよ。弁護人よりももっと激しい追及のしかたをしましたね。あんたの言っていることは違うでしょう、と。例えば捜査責任者が出てきた時も、裁判官が、あなたは最初から富山の顔も名前も知っていたでしょうと尋ねたら、証人の警官は知らないと白を切るんです。だけど裁判官は具体的に面割写真帳の作成日時なんかを突きつけて、知らないはずはないだろう、知らなかったら責任者なんかできないだろう、とぐうの音も出ないところまで追及していました。それで一審判決は維持されると思ったら、裁判官三人とも更迭されました。
 そして登場したのが萩原太郎以下の三名で、結果は逆転有罪判決。司法の独立なんか嘘ですよ。たしかに表向きは司法は独立しており行政機関は関与していないと言っていますけれども、司法行政権力というのがありますからね。判決は個々の裁判官の専権事項として判断するんだといいます。たしかにそうでしょうが、だけど、裁判は判断する裁判官を変えちゃえば別の結論が出るんですよ。だから、これは検察官にとって都合の悪い結論を出しそうだと思ったら、裁判官の首をすげ替えちゃえばいいんですよ。やっぱり敵はもう本当に卑劣な手段を、あらゆる手段を取るということです。こういうふうにして二審逆転有罪判決になりました。

 上告棄却

 さらに上告したんですけれども、棄却されました。これは責任放棄だと申入書でもいったんですけれど、棄却した理由は弁護団や私の上告理由は単なる事実誤認の主張に過ぎない、要するに最高裁は判例違反しか取り扱わないんだ、事実誤認は取り扱わないということなんです。これはまったく不当ですよ。考えてみてください、無実の人間が罪に問われようとしている、投獄されようとしているのだからきちんと正確な事実認定をしてくれという、これ以上の上告理由はないと思うんですよ。
 無辜を罰せず、つまり罪の無い人間を罰してはいけないというのが刑事裁判の使命だと思います。だから、これを自ら投げ捨てた最高裁判所というのはいったいなんなのか、ということをあらためて私は問いかけたい。最高裁に示される日本の司法権力というものは、自ら刑事裁判の存在理由を否定したんだ、自ら位置を落としめてしまったんだ、ということを私としては本当に弾劾したい。

 下獄―再審請求

 そういうことで有罪判決が確定しまして、下獄しました。大阪刑務所で8年間過ごして95年12月に出てきました。
 下獄している間に、94年6月20日に再審請求をおこなったんですけれども、それからちょうど8年。この間まったく放置したままとはいったいどういうことなのか、改めて考えてみる必要があるんじゃないかと思います。
 いくつか考えられますが、まず裁判官は誰も火中の栗は拾いたがらないということです。再審請求から8年、この間に裁判長だけでも、次々に交代して五人目です。この五人の裁判長のうち、二人はその後、高裁の長官になりました。つまり、エリートコースをまっしぐらに進んだということです。私の再審請求を真剣に検討したら、出てくる結論は再審開始・無罪判決以外あり得ません。だけど、それを出してしまったら出世コースから外れてしまいます。
 かといって棄却したら、それもまたただでは済まないわけで、学会や法曹界から叩かれるのは必至です。これは別に私が大言壮語しているわけではなく、そう言えるだけの地平を粘り強い闘いをとおしてつくってきたと自負しています。目撃証言の信用性について、これは簡単に信用しちゃいけないよということが世論として形成されている、少なくとも日本の刑事裁判の現状は近代刑事裁判が到達したあるいは確立したレベルに達していないんだ、これをなんとかしなくちゃいけないんだ、安易に容認・追認しちゃいけないんだというところまで世論形成がなされてきた。だから簡単に棄却出来ないんです。もちろん油断したら切り捨てられてしまうという状況にあること、厳しい状態にあることは変わりませんけれども、でも、そういうなかで簡単に棄却できないというところまで対峙関係を作り上げてきたんだと、これが第二番目にいえることじゃないかと思います。
 たしかに8年間放置されたままである、でも、逆に言ったら簡単に棄却できないところまで追い込んでいるんです。そういう意味ではすごい拮抗した対峙関係をやっと作り上げてきている。もちろん、それは簡単にできたことじゃあなくて、かちとる会の皆さんや弁護士の方々の本当に粘り強い闘いが切り開いた成果だと思います。たたかいの切っ先の鋭さで敵と切り結んで追い詰めており、それをバックアップする力の増大・増強が最後的勝利をもたらすということ、勝利の展望が浮き彫りになってきたということです。
 私たちが本当に再審無罪をかちとる闘いの帰趨は一重にこれからの闘いにかかっているんだ、いっそう強力にバックアップする力をつくりあげていく、これにすべてがかかっているということをあらためて確認できるような、それをやれば確実に勝てるという状況に来ているんだと言える状態にあるということだと思います。だから、けっして私は悲観してはいませんし、絶対に勝てると確信していますし、どこまでもたたかいぬくつもりです。

 「証拠開示命令を」の強力なたたかいを

 最後に強調したいことなんですけれども、そこでの攻防点は何かといったら、やっぱり検察官が拒否している証拠開示なんです。これは「証拠開示を求める署名にご協力ください」というリーフレットにも書いてあるとおり、これが開示されたら、私の無実はたちどころに明らかになります。だから隠しているんです。本当に私が「真犯人」だと思っているんだったら、目撃供述調書を全部出せばいいんですよ。そうして、嘘をついている奴とそれを支持している人を孤立させればいいじゃないですか。こんな嘘を言っているんだよ、こいつらは、と。それができないところに、逆に私の無実が証明されているんですよ。
富山 怒りのカット3 なぜこんなにしつこく言うかといいますと、隠されている証拠が私の無実を証明しているんです。一例をあげると確定判決、これは東京高裁が出した逆転有罪判決なんですけれども、このなかで「本件目撃者中最良の目撃者」と言われている人間が一人いますが、彼は会社の同僚と同じ場所で事件をみています。当然その人の供述調書も作られているであろうと推測できるわけで、実際に検察官も調書が存在していることは認めています。警察も調書があることは認めているのだから、開示しようと思えばできるわけです。裁判所に証拠開示命令を出させることが勝敗を決します。「証拠開示を命令せよ」という署名活動を強力に展開することが勝利につながるということです。再審無罪の実現は「裁判所は検察官に証拠開示を命令せよ」の署名運動の前進、それを広範な世論へと形成するたたかいの成否にかかっているといっても過言ではありません。
 最後の最後に一点、これは元裁判官だった方が辞められてから言われたことなんですが、裁判官ほど世論を気にする人間はいないということなんですね、松川事件の時に当時の最高裁長官の田中耕太郎が「雑音に耳を貸すな」なんて言ってましてたけれども、やっぱり真実の抗議には弱いのですよ、彼らも。そのためにもぜひ「証拠開示を命令せよ」という署名運動にご協力をお願いします。では、時間がきましたので。

 今回の大井町での署名集めは、
   亀・・・・・2名
   富山、山村とも0
でした。
 この日、東京の最高気温は35度を越えていました。遮る物もない直射日光の下では優に40度を越したのではないかと思います。一生懸命に声を出して署名を呼びかけるのですが、時々、気が遠のいていくような気がします。結局、暑さに負けてしまいました。その中で2名の署名を取った亀さんは相変わらずすごい。
 でもよくよく考えてみたら、いつもそうだからといって、何も炎天下の昼日中に大井町駅頭に立つことはなかったのです。今度からは、夏は夕方にしようというのが今回の総括でした。うり美さんは夏バテでお休み。(山村)

「明日のために第20? 何歩目だっけ。本当に夏バテしています。みなさんも気をつけて。(確か第28歩目かな)」
というお便りとともに二千円頂きました。ありがとうございました。