●ニュースNo169(2002年10月1日発行)

◎6・29集会での
  阿藤さんの講演
 櫻井さんのあいさつ

大井町ビラまき報告


 

 
集会報告

 富山さんの再審でも検察官に証拠を出せと言っても絶対に出さない。やはり裁判所に、再審が係属している第3刑事部の裁判官に提出命令を出させる必要がある。検察官が隠し持っている証拠が出れば、再審開始は決定的です。そこまでもって行くのはみなさんの力だと思います。私たちが一緒に要請をする。国民の声いうのは力強いものなんですよ。

 真実より強いものはないという信念。これがあるから富山さんと僕は一緒に闘うことができるんです。

  今度来る時には富山さんの再審開始決定の時に来たい。必ずそれが訪れると思っています。その時にはみなさんとともに、やはり真実は強かったと、みんなの団結が、盛り上がった運動が強かったんだということを再確認したいと思います。 (6・29集会での阿藤さんの講演から)

 真理は真理として実現されなければいけない

 自分たちの未来は自分たちで切り拓くんだ  (6・29集会での櫻井さんのあいさつから)

集会報告□6・29集会報告

阿藤さんの講演

裁判所への申し入れ

 みなさん、こんばんは。私は一昨日東京にまいりました。なぜ一日早く上京したかと言いますと、昨日、東京高裁へ早く再審を開始するよう抗議に行ったわけです。その時、僕はびっくりしたんですよ。裁判所に入る時、身体検査をするんですよ。空港みたいにね。僕のボストンバックも全部機械に通すんですよ。びっくりしましたね。なぜそこまでするのか。私は裁判所は、私たちの身近に感じる裁判所であってほしいと考えていますが、裁判所が国民から離れていっているように感じました。
 私は富山事件を審理している部の書記官ね、第3刑事部の書記官が会ってくれると思ったんです。ところが、実際に会ったところ、全然関係のない裁判所の職員。裁判所の規則で担当部の書記官は会わなくなったというんです。これではいくら説明したってわからない、説明のしようがないです。私は要望書を書いて来ましたので、八海事件の元被告阿藤周平ですと出して何度も強く言いました。これを必ず第3刑事部の書記官を通して裁判官に読んでもろうてほしいと。何べんにもわたって念を押しました。そうでなかったら私が要望書を書いたのが無駄になりますから。
 八海事件の時、審理をしていた最高裁の判事は5人です。被告の家族がその裁判官の官舎へ会いに行ったんです。僕の家内や他の被告の家族が押し寄せる。私はその時、ちょうど獄中(なか)に入っていましたからね。さすがに裁判官は会ってくれませんね。しかし、その代わりに奥さんが会ってくれたそうです。女房が1歳か2歳になる子をおんぶして訪ねた。暑い時です。口頭弁論の前の時です。すると、判事の奥さんがね、ジュースを出してくれたそうです。暑かろう言うてね。きっと、その奥さんは夕食の時に、旦那さんの判事さんにね、実はこういうことがありましたと、必ず話に出ていると思うのですよ。私たちの時の裁判所はそういう雰囲気があった。35年位前なんですが、それが今は身体検査ですよ。今の裁判所を身近に感じろって言ったって、感じられるわけがないんですよ。そういう国民から離れた裁判所が誤判を生み出すんですよ。えん罪を生み出すんです。

権力に対する怒り

 八海事件から50年経ってます。八海事件が起きたのが私が26歳の時です。私はもう75歳です。しかし、私は逮捕から始まって今までのことをずっーと忘れたことはありません。昨日のことのように警察の拷問の取り調べが蘇ってきます。絶対忘れられないですよ。私は警察官も検察官も絶対信用しない。今もって警察の制服を着た人間を見ると虫酸が走るんですよ。そこまで、骨の髄まで私は権力に対して憎しみを持っているんですよ。その怒りをみなさんに知っていただきたい。
 山口県で起きたえん罪事件で仁保事件というのがありましたが、私の無罪が確定してから、仁保事件の実地検証に参加したことがありました。八海事件の当初の捜査主任が三好という警察官でしたけれども、それが栄転して今度は仁保事件の指揮を取っているんですよ。で、山口の県警本部に僕、行きました。その三好という警察官に合わせてくれと仁保事件の支援の人たちと行きましたら、三好は阿藤君一人とやったら会うと、じゃあ僕一人でけっこうですと行ったところが、三好ね、僕に頭下げました。阿藤君すまなかったと。しかし、それは自分の良心に対する気休めだったと思うんです。僕に対して本当に謝ったんではないと思う。

証拠を隠す検察官・・・裁判官は証拠開示命令を!

 みなさんに何べんもお話するんですけれども、八海事件で検察官は自分の面子で、罪のない者を有罪にして、何が何でも犯罪者に仕立てあげて、死刑に持っていこうとした。その一番いい例が八海事件の偽証問題です。1審死刑、2審死刑で、そのあと最高裁は有罪にしたのはけしからんというて差戻しになったんです。差戻審の広島高等裁判所の審理の途中で、6〜7年経った時、検察官は地元の警察を動員して証拠の洗いなおしをするんです。それも自分の都合のいいように証言をとるわけです。物証がないから証言なんです。私たち被告に有利な、真実の証言をしている人を偽証罪でしょっぴいた。3人もです。そして、20日も22日も勾留して、今まで申していたことは嘘なんです、本当はこうなんですと検察側に都合のいい証言をさせて、そして偽証罪で起訴する。そして、その証言を今度は八海事件の裁判に持ってくるわけです。それでもやはり第1次差戻審の広島高裁はそんなものはだめなんだというんで蹴ったわけです。
 ところがそれに飛びついたのが2度目の最高裁です。ご存知のように松川事件の裁判長だった下飯坂という裁判長です。それがけしからんことに、なぜこういう偽証の、無罪を有罪にするような新証拠が出て来ているのになんで無罪にしたんだということで、無罪判決を破棄してまた広島高裁に差戻したわけです。この第2次差戻審の広島高裁で僕はまた死刑にされ収監されたわけです。
 そのあと3回目の最高裁に行くわけです。最高裁の小法廷は3部あるんです。第1小法廷、第2小法廷、第3小法廷とあるんです。八海事件はその全部をまわったわけです。最初が第1小法廷。これは無罪にしろということで差し戻した。次は第3小法廷。下飯坂裁判長は有罪にしろということで差し戻した。最後が第2小法廷だったんです。3回目の最高裁。その時の裁判長が奥野という裁判長でした。ふつうは最高裁は自判しないで高裁に差し戻すんですが、八海事件はもう17年も、18年もかかっている。これ以上審理を続けても新しい証拠は出てこないし、今の新証言も有罪の証拠にはならないと、被告にされている人たちを長く被告の座に据えて置くのは忍びないというので、最高裁が直々に無罪判決を言い渡したんです。
 なぜ八海事件がそこまで長引いたかというと、検察官なんです。検察官に全面的な責任がある。最高裁が差し戻して、広島高裁で無罪になっている。にもかかわらず、検察官がそれを無罪ではないと言って再上告するわけです。それがなければ八海事件は17年も18年もかかっていないんですよ。7年か8年で終わっているはずです。そういうことを検察官はやっているわけです。昔もそうですが今も、そういうことをするのは検察官は朝飯前なんですよね。なんとも感じてないんですよ。えん罪であろうとなんであろうと、自分たちの面子だけなんですよ。自分たちの面子を守りたいんです。警察から送られて来た、起訴した。そうすると検察一体の原則で、ずっとそれを守ろうとするんですよ。裁判をそこまで持っていくのは検察官なんですよ。
 偽証罪にされた人たちは悲劇でした。3人の偽証罪にされた人は有罪が確定している。検察官は懲役6月、但し執行猶予付きの求刑をしているんです。裁判所はそのまま執行猶予にして有罪が確定している。ところが本体の八海事件の方は無罪が確定しているわけです。一番ひどかったのは、山崎という巡査でした。被告人の久永が事件に加担するには時間的に不可能という証言をしたわけです。そしたら検察は偽証罪で逮捕して、有罪になって免職ですからね。恩給が付く12年前ですから、もう何にもないですわね。そこまでするんです、検察庁は。
 だから昨日も、僕は東京高裁に行って、出てきた裁判所の職員に言ったんですけどね。富山さんの事件でも、未開示の証拠を出せと言っても検察官は絶対に出さないですよ。それを出させるのが裁判所なんですよ。裁判所は検察庁に対して手持ちの証拠があるんだからそれを出せと、提出命令を裁判所が出したら検察官は出さざるを得ない。
 八海事件の真犯人、吉岡いうんですけれども、これが3回目の最高裁の時に、良心の呵責で阿藤たちは無罪なんですと、何もやってないんですと、引きずり込んで誠に申しわけありませんという上申書を19通も出している。最高裁、検察庁、弁護人と、3ヵ所に19通書いているんですよ。それを広島刑務所は発信しないで握り潰していたんです。そして、そんなものを書いたというんで吉岡は懲罰房に入れられた。吉岡にも良心がちょっと片隅にあったんだと思いますよ。なんとかしてこれを最高裁や検察庁へ渡したいという一念から、満期で出獄する人に口頭で頼んだ。これはちょっと止めることはできないですわね。出獄した人が広島の原田香留夫弁護士の所に行って、実はこういう事実があったんだと。それでも検察官は出さない。それで、当時、八海事件の弁護人に参議院議員がおられた。その方が国会の法務委員会で法務省の役人を呼んで確かめたら確かにあると、しかしそれでも出さないということでした。最終的にその上申書が世に出たのはやっぱり裁判所なんですよ。裁判所が法務省に対して提出命令を出したわけです。それで検察官は出しました。ぞろぞろって19通出しました。他にも無罪の証拠があって、それが決定的な証拠ではないんですけど、これが一つの力になっているのは間違いないです。
 富山さんの再審でも検察官に証拠を出せと言っても絶対に出さない。やはり裁判所に、再審が係属している第3刑事部の裁判官に提出命令を出させる必要がある。検察官が隠し持っている証拠が出れば、再審開始は決定的です。そこまでもって行くのはみなさんの力だと思います。私たちが一緒に要請をする。国民の声いうのは力強いものなんですよ。

正しい裁判を

 八海事件では、『真昼の暗黒』という映画で多くの人たちが私たちのことを知ってくれました。あれは本当は東映が映画化する予定だったんです。ところが最高裁の事務局が東映に審理中の事件を映画化するのはけしからんという圧力をかけた。東映は手を引いて止めてしまった。それが俳優さんたちの手弁当でできあがった。今は亡くなられた飯田蝶子さん、左幸子さん。山村聡さん、芦田伸介さんもおられたね。その方たちは全部手弁当でやってるんです。労働組合からも300万円かなんか借りて、そしてできたんです。ところができたのはいいけれども、当時は映画は配給なんですよ。制作した独立プロは配給権を持ってない。東映とか松竹とか系列の映画館はないんですよ。だから、例えば区立体育館とかね、そういうので代わりにしたんです。ところがそれがベストセラーになりましてね、多くの映画の賞に輝きました。外国でもリボン賞なんとかいう賞も獲得しているんですよ。そういうのを裁判所は恐れるわけです。国民の声を恐れるわけです。
 だから昨日も私たちが東京高裁に申入れに行ったのは、これは非常に有効なんですよ。私は少しも裁判所に圧力をかけようとは思っていません。書記官にも僕は言いました。無罪にしろとは一切私は申しませんと、とにかく調べてくれと、慎重に調べたら、富山さんが無罪であることが必ずわかる。正しい裁判をしてほしいと、僕はいつでもそういうふうに裁判所にお願いするわけです。

八海事件の裁判官

 八海事件は7回、裁判所を行き来しました。7回でね、裁判官が27人。1審で3人、広島高裁に3度行っていますから9人、最高裁の小法廷は5人ですから、第1、第2、第3と15人。八海事件にタッチした裁判官は全部で27人です。その27人が同じ証拠を見るんですよ。同じりんごならりんごを見るわけですよ。なのにそれが見る人によって違うんです。これはりんごだと言う人もいるし、いやいや違う、梨やと言う裁判官もいる。一方は無罪にしろと言う、一方は死刑にしろと言う。これは恐ろしいことです。受ける側の僕は死刑と無罪を行ったり来たりですから。私、死刑判決を3回受けているんですよ。裁判官に予断や偏見がなければ必ず同じ答えが出ると思うんです。だけど偏見を持っている裁判官はやはり梨と言う。
 八海で一番ひどかったのは、1審の時です。もう何年なるんですか、50年位なるんですかね。山口地裁の岩国支部で、そこは裁判官は3人か4人しかいない所です。最初は白井という裁判長でした。それが定年退官して、それまで右陪席だった藤崎という裁判官が裁判長になった。そして、現場検証といって、私たちを現場に連れて行くんですよ。私たちはやってないんだから、行ってもいない現場になんで行くんだと、行く必要ないと言っても、まあいいから付いてくるだけ付いて来いとね。そうしたところが、役人が僕たち4人の代役するわけです。僕と同じ目にあった松崎というのがいました。最年少で当時21歳でした。藤崎は休憩の時に松崎を呼んでね、本当のことを言えと、本当のことを言ったらお前は見張りだけだから刑が軽くなる、阿藤に付いて行ってそんな強情を張っていると刑が重くなるぞと、こう言うわけです。松崎がこういうことがあったと言って後でわかったんですが。そういう裁判官に判決させたらもう答えは出ているのと同じです。藤崎という裁判長は、その後、八海事件について「裁判官の弁明」という本を出しました。そして、退官した後、郷里の福岡に帰って公証人になって、その後参議院議員に立候補しました。その時の自分がなぜ立候補したかという政見放送の中でなんと言ったか。八海事件は今でも有罪ですと、参議院議員立候補の政見放送で言うわけです。その時に、正木先生が、阿藤君、何票取るか見ていてみいと言ってましたが、30何票か40票でした。そういう裁判官が今でもいるかもわかりませんよ。

裁判所を揺るがす大きな運動を

 再審を開始するためには、みなさんの力が必要です。一人ではだめです。真実を守る砦になるのはみなさんの声です。富山さんの再審も、裁判所を揺すらんとあきません。揺するって言っても圧力をかけるんじゃなくて、これだけ国民のみなさんがこの事件に注目しているんだと、慎重にやらなければならないということを突きつけるわけです。
 八海事件では大きな運動がありました。正木ひろし先生が書いた『裁判官』『検察官』、そして、それが『真昼の暗黒』という映画になって全国的に広がったんです。それで第1回目の差戻審で無罪になったわけです。その時は、八海事件の被告と家族を守る会の大きな輪があったんです。支援の輪が。ところが無罪になったことで運動が消滅したんです。やれやれ無罪になった言うて運動は断ち切れ。その運動がなくなった隙を狙って、八海事件はまた元の木阿弥にもどったわけです、死刑にせよと。そして、今度は高等学校の先生たちのグループが立ち上がって八海事件の守る会ができて、それが大きな運動になった。当時、神戸の高等学校の先生、社会科の先生が、授業で何をするかというと、映画の『真昼の暗黒』を高校生に観せる。それも私立ではなくて公立の学校ですよ。今だったら考えられないですよ。免職になりかねないでしょう。今の教育委員会ではね。あの当時は、自分の受持ちの生徒に、社会科の授業で八海事件の映画を観せるわけです。そして、この被告の人たちは無実だと、こんな裁判を許してはいけないんだと教えたわけです。堂々とね。そういう時代だったんです。僕はそれが正しいと思いますよ。正義と不正を若い学生さんに教える、その方がわけもわからんことを教えるよりよっぽど勉強になると僕は思いますよ。人間としての勉強になると思います。

死刑は絶対反対

 先ほど木下先生が言われたようにえん罪はいまだになんぼでもあるんですよ。僕が知っているので死刑事件のも四つあります。私、無罪になった時に約束したんですよ。獄中日記の最後に締めくくった言葉ですが、今もその言葉は変わりません。私がこの18年間無実で苦しんだその苦しみ。無罪が確定したのは私が46才なんです。逮捕されてからその間の青春はえん罪で蝕まれてしまった。その青春を取り戻すとしたら、それはえん罪事件が起きなくなった時でしょう。そこで私は初めてこの18年間の苦しみが報いられます。そう書きました。しかし、なかなか、それは私が死ぬまで無理のようです。えん罪はなんぼでも出てきます。
 波崎事件の富山さん。もう80何歳ですよ。ずっと獄中です。法務省は帝銀事件と同じようなことを狙っているんだと思います。法務省は刑の執行をようやらん。なぜかと言うと無実だからです。だから、言葉は悪いですけど、獄中で命が消滅するのを待っているんですよ、平沢さんのように。これは絶対に許せないですよ。再審というのはまだまだ道は遠いです。針の穴より狭い。毎日毎日、独房でいつ執行になるかという恐怖の中にいる。
 私が広島の拘置所に居た時に、7人、死刑の確定者がいました。私は死刑判決を受けていましたが、まだ被告で確定していませんでした。だけど死刑が確定した人はいつ執行されるかわからない。死刑の執行というのは、私はあまり語りたくない。当時を思いだしてね。あいさつに来るんですよ。看守もそれは許してくれたわけです。房の食事とか差し入れを入れる小さな口が、穴があるんですよ、食器口と言ってね。そこから死刑囚が、執行される朝、大抵朝の9時半頃ですが、自分が持っていた石けんとかタオルをね、これを使って下さいと言ってくれるわけです。遺品ですね。向こうは阿藤君頑張ってやと、よく知っているから激励してくれるけど、僕は何も言えません。世話になったなぁ言うて。手の温もりが伝わってきます。多いときには一日に2人が執行されました。
 だから、僕は今もって死刑には反対なんですよ。絶対反対なんです。それがもしえん罪だったらどうしますか。取り返しがつきませんよ。今までの日本の裁判でえん罪で処刑された人は僕は必ず存在すると思います。だから私は死刑に絶対反対なんですよ。もし私が死刑が確定して処刑されて、後から阿藤は無実だった、えん罪だったと言って私の命は帰りますか。

真実より強いものはない

 私は拘置所でキリストを信仰した時があります。死刑の判決を受けて上告している時に、聖書を差し入れてくれた。どういう気持ちで差し入れたかわかりませんが。教戒師が一週間に一遍来るわけですが、僕は何もやっていないのになぜみんなと一緒に教戒を受けなければならないんだと怒りまして、僕だけ別に教戒を受けました。
 そしたら河相という裁判官が何と言ったと思います。被告尋問の時に、僕に問いかけるんです。阿藤、なんで君はキリストを信仰したのかと。河相裁判長が僕に問いかけたのは、お前は罪を犯して悔い改めるために、死の恐怖から逃れるために神にすがっているだという前提で私に尋問しているんですよ。これには僕びっくりしましたね。それで僕は信仰をやめました。やっぱり私が信用するのは自分の真実なんですよ。それ以外ないんですよ。真実より強いものはない。
 富山さんがここまで闘ってこられた。もちろん支援は大きな力になります。しかし、本人の中に自分はやってないんだという柱がちゃんと体の中に組み込まれているんですよ。根深く、抜いても抜けない杭があるわけです。僕にもその杭が今もってありますよ。
 真実より強いものはないという信念。これがあるから富山さんと僕は一緒に闘うことができるんです。2人とも全然気性は違うんです。タイプが違う。だけども警察に対する怒り、自分が無実だという固い信念を持っています。それで私はえん罪事件の支援をすることができるわけです。そして、皆さんとこうしてね、お話もできるんですよ。
 私は明日、正木先生のお墓にお参りしてそれから帰りますけれども、大阪に帰っても私はできるかぎり、命のあるかぎりはえん罪事件と闘いたいと思います。私は今75歳です。私、もうちょっと長生きしようと思いますけどもね。今度来る時には富山さんの再審開始決定の時に来たい。必ずそれが訪れると思っています。その時にはみなさんとともに、やはり真実は強かったと、みんなの団結が、盛り上がった運動が強かったんだということを再確認したいと思います。
 八海の場合もそうです。真実が勝ったのはみなさんの力なんですよ。僕一人の力じゃない。弁護士の力もさることながら、やはり、多くの人の力があったからこそ八海事件は勝利したわけです。富山さんの再審の扉を開くために、みなさんとともに闘ってまいりたいと思います。どうか今後ともよろしくお願い致します。

集会報告6・29集会報告

桜井さんのあいさつ

 こんばんは。部落解放同盟全国連合会の江戸川支部の桜井と申します。
 こうやって僕だけゼッケンを着けて立つのって、大変恥ずかしいんですけども、これは別に杉並支部の田中支部長に今の特別抗告審の闘いを訴えてこいと言われたとか、本部の瀬川さんに頼まれたとかということではありません。また、その力は今の私にはまだありません。これからそういう力もつけようと思っていますけれども、まだありませんので、ただ個人的な理由でゼッケンを着けさせて頂いています。

 と申しますのは、私が全国連合会、解放運動に立ち上がる以前、何にもしていなかった頃と言いますか、苦しい頃が何年かありました。若い時は三里塚闘争に行って一生懸命援農したり、闘争に参加していたんだけれども、まあ、結婚して子供ができたり、就職したりとかちょっといろんなことがありまして、いっぱいいっぱいになってしまって、ちょっと身を引こうかなと思っていた時に、たまたま富山さんの再審をかちとる会の事務局にいた人が私の知り合いでして、こういうのがあるけど来てくれないかと言われ、資料とか集会のビラとか下さいということでもらった覚えがあります。で、ちょっと読んだんですけど、なんかこう政治党派が相手の党派と命のやり取りをして、しかも一方では国家権力に本気で闘いを挑んでいて、その中で起きたえん罪、これはちょっと俺が訴えるのはかなりしんどいぞ、むずかしいぞというふうに当時は思ってました。
 まあ、とりあえず一遍行ってみようということで、義理もあったし、ちょっと寄ってみたんですね。当時、事務局の方も含めてみなさん初めてお会いする方ばっかりだったんですけれども、ちょっとお話を聞いてみたんですが、特にびっくりしたのは、山村さんとかうり美さんというのは、当時は、今も可憐なんですけれども、当時はかなり可憐で、なんでこんな人が、こんな子がこんなところに居るんだろうと思ったんですよ。ちょっとびっくりしました。亀井さんはね、プロらしいというか、ごっつい黒縁の眼鏡をずっと掛けていて、ああこんな感じかなと思ったりしたんですが。

 で、話をするなかで、どんな理由とか背景とかあってもやってないのはやってないんだと、国家権力の思うがままの状態に今あるんだということ、富山さんの問題は富山さんだけの問題じゃなくて、狭山もそうなんですけど、誰に言ったっておかしくないと、まあ、運動の初歩の初歩だと思うんですけど、教えられまして、まあそうかなぁというふうに思い始めて、事務局を手伝うというのは、なかなか自分的に苦しかったんで、ただ、ここから3キロ位先に当時住んでましたんで、大井町の街宣には家族で参加させて頂きました。先ほどのビデオの中でビラまきをしているのが出てきますが、あのビデオは今でも宝物でとってあるんですけども、あの子も今、高校生でね、時間が経つのは早いものです。
 で、いろんなことを考えながら、やっぱり俺はここから逃げてはいけないんだと思いまして、東部の江戸川に移り住みまして解放運動を始めました。2年か3年経ったかと思います。で、行ったら行ったで、それ以後ぷっつり来なくなって、申しわけないんですけれども、ずっとエールを送らせて頂いています。

 当時、富山さんは下獄して居なかったし、事務局の方は本当に苦労して、この問題をどう世間に訴えて、あるいは弁護団もどう立ち上げるかとか含めて本当に苦労されている時期がありました。その中でこつこつ闘いを維持する、自分の信念を貫いていくという事務局の考えとか、みなさんの考えに非常に教えられるものがありました。
 ということで、桜井もボツボツ曲がりなりにも、解放運動をやってますということで今日はゼッケンを着けてさせて頂ました。
 で、未来を語る集会で昔話をして申しわけなかったんですけども、最近、富山さんとメールの交換とか始めたんですけど、たまには愚痴を聞いてもらえたらなというふうに考えております。

 で、今年1月の狭山の第二次再審の異議申立棄却の時に、石川一雄さんが「法の正義というものは力によるものなのか。どんなに真理が真理であっても、それは法の正義、法の場では、実現されないのか。それは正義ではないんだ」ということをいみじくも訴えられました。じゃ、どうするのかということはありますけれども、でも、やっぱり真理は真理として実現されなければいけないと、それでも私は思います。そのためには石にかじりついても、どんな苦しみ、どんな闘いになっても、私は狭山闘争を勝利させようというふうに思います。
 そして、それとともにこの証拠開示問題は、今、私一生懸命勉強しております。やっぱり敵の思うがままの裁判をやられて、それでも勝利するというのは、阿藤さんも言ってらっしゃるように、これはかなり困難というか厳しいところがあります。何とかこれが公平な、フィフティフィフティな形に、私たちの手に1つでも2つでも取り戻さなければ、勝利はかなり厳しいというか、そこから始まるものというふうに思っております。

 私たち、最高裁に対する特別抗告審が始まりましたけれども、合わせて法務省と検察庁に対しての闘いを強めていきたいというふうに思っています。奴らの思うままにはさせない、これから自分たちの未来は自分たちで切り拓くんだということを決意しております。そのためにも品川地区の労働者のみなさんとの共闘をこれから築いていきたいと思うのでよろしくお願い致します。

 九月の大井町での署名集めは、
  亀・・・・・・・2名
  富山・・・・・・2名
  山村・・・・・・2名
  うり美・・・・・1名
でした。

 今回は夕方4時半から開始。正午からの1時間は、通行する人も忙しいから、じっくり話そうというわけにもいかず、多分に運がつきまとう。しかし、この時間帯は「お話ししましょう」が可能で、実力の勝負となる。

 実際、今回は目と目があった年輩の女性2人と話し込んで署名していただくこととなった。特に2人目の人とは話が弾んで、「学生運動をやった者としての生き方に責任を取る意味でも、再審無罪をかちとる」に「そうよ、そうしなさい。そうでなきゃあだめよ」となった。

 正直に言って、私の場合、大井町での署名集めは遅々としてはかどらないというのが実状だ。心優しい事務局員達に言わせると、怖い顔をしているかららしい。もっとにこやかにしろといつも言われる。本人はにこやかに呼びかけているつもりなのだが、どうやらいつの間にか噛みつきそうな表情になっているらしい。いったん話し始めたらけっこう快調にかみ合っていくのだが・・・。

 いつもゼロ行進で、あれでは晒し者というかまるでいじめみたいなものだ、という擁護の声をしばしば聞くが、大井町で根気よく署名を集めるのは再審・無罪への意思表示であって、絶対に最後までやり続けなければならないと考えている。同情されないためにも、いっぱい署名を集めるほかない。といっても、ただ集めるだけでなくしっかり理解・支持された証拠としての署名獲得をめざしてがんばりたい。 (富山)

 「明日の為に第30歩目(回数を数えていただいてありがとうございます。助かります。)
 季節は急に涼しくなり過ごしやすくなりました。私は体の調子が悪く、会社を長期休むことになりました。いつまでできるかわかりませんが一緒に歩んで行きましょう。」

というお便りとともに2000円を9月26日付で頂きました。ありがとうございました。
 お体、お大事になさってください。早くお元気になられることをお祈り致します。