●ニュースNo181(2003年10月15日発行)

決戦のとき到来
裁判所は真摯に審理に臨め
追悼木下信男先生
木下先生を惜しんで

大井町ビラまき報告


 

いよいよ決戦のとき来る

(10月9日に届いた「求意見書」

決戦局面の到来

 10月9日、高裁第三刑事部から「求意見書」(10/8付)が届きました。
 刑事訴訟規則第286条には「再審の請求について決定をする場合には、請求をした者及びその相手方の意見を聴かなければならない」とあります。形式的な手続きはふんだわけです。それでは、「再審を開始する」あるいは「事実調べを開始する」ために形式を整えたのでしょうか。
 そうは思えません。なぜなら、現在弁護団は、補充鑑定の説明とともに、裁判所が正しい判断をするためには「34人分の取調調書があるにもかかわらず7人分の調書しか開示されていない。残る27人分の調書の開示を検察官に命令してほしい。そして、それを見て判断してほしい」という申し入れと折衝を重ねているにもかかわらず、これになにひとつ応えないで、いきなり「求意見書」を送ってよこしたのです。こんな不誠実な態度で、はたして誤りのない決定を下すために真摯に努力していると言えるのでしょうか。とてもそうは思えないと言っても過言ではありません。

裁判所は真摯に審理に臨め

 1994年6月20日の再審請求から9年半、やっと裁判所が反応を示しました。とはいっても、けっしてよい結果を期待させるものではなく、むしろ反対の結果しか予測できない「心証」を形成しているだろうと推測させるやり方です。
 私は無実です。一刻も早く事実審理を開始して再審無罪を出してほしいという要請を、裁判所はこれまで無視しつづけてきました。再審請求を真摯に検討すれば、正しい決定は再審開始・無罪以外にはないからです。歴代の裁判長4人が再審請求を放置したまま異動したのは「火中の栗は拾わない」を意味しました。
 中川裁判長は「一刻も早く」を逆手にとって願いを踏みにじろうとしています。それでも「火中の栗を拾おう」としているのです。けっこうではありませんか。真実はただ一つ、私は無実です。これを正面から見据えた決定を出してもらいましょう。健全な判断力を持つ人々の批判に耐えうる決定を、ぜひとも出してもらわねばなりません。断じて「厄介払い」などさせてなるものですか。無実・無罪をかちとるまでたたかいつづけますが、出直しなどは一回でもやりたくありません。なんとしてもこの請求審で再審無罪をたたかいとりましょう。

無実・無罪が正しい決定

 たたかいの前提となる再審請求書につづく意見書を、より鋭く、説得力あるものにすべく、私と弁護団は全力で作成に取り組みます。
 確定判決が誤判に他ならないことを、これでもか、これでもかと暴き、弾劾します。日本の刑事裁判が世界の恥さらしとなるか否かを決めるくらいの重さと位置を持つ決定であることを浮き彫りにし、裁判所に突きつけます。再審請求書と意見書に真正面から応えない限り裁判官を名乗ることはできないくらいの迫力をもったものができるでしょう。

裁判を監視する人民の目を

 つぎの課題は、裁判所にごまかしを許さぬまでに研ぎ澄まされた知性と理論の結晶である再審請求書と意見書を現実の勝利、証拠開示命令―再審開始決定へと結実させる力である広範な世論の形成、裁判を取り巻く人民の目、英知の結集、心ある人民の陣形づくりです。これが最後に勝敗を決します。勝利には不可欠です。松川裁判をめぐって、当時の最高裁長官の田中耕太郎が「裁判官は雑音(世論)に耳を貸すな」と悲鳴をあげたような「不正義は許さない、不当裁判は許さない」の声で裁判所を十重二十重に包囲しなければなりません。勝利への執念でつくりあげましょう。

人民の未来を決する富山再審

 富山再審の帰趨には人民の権利と未来がかかっています。両者は固く一体です。
 なぜこの時期に、9年半も放置していた再審請求の棄却策動に出てきたのでしょうか。狙いは明白です。戦争への道を掃き清めるため、これにほかなりません。
 今日、破廉恥なデマゴギーと開き直りをもって、戦争国家づくりの大反動攻撃が襲いかかっています。戦争国家づくりの「最後の要」と称する「司法改革」ならぬ司法大改悪は現行憲法体系を根本から転覆するものであり、憲法改悪を先取りするものです。「司法改革」の化けの皮は日を追うに従って剥げ落ちており、正体は誰の目にも明らかになりつつあります。裁判員制度、ロースクール・・・と鳴り物入りで騒ぎ立てられた「司法改革」も、証拠開示も取り調べの可視化も実現されず裁判の死だけがもたらされることは明白になりつつあります。こうした現実に、富山再審は証拠開示問題、事実認定への科学的知見の導入等をもって具体的に切り込み、司法改悪と戦争への道に立ちふさがるものとなろうとしているのです。
 戦争こそは究極の人権侵害であり、これとたたかわずして人権の確立・擁護はありえません。えん罪・人権侵害と真剣にたたかうことは、戦争への道を拒否し、阻止し続けていることでもあるのです。
 したがって、中川裁判長の再審請求棄却策動は、国家意志の表明であることを直視しなければなりません。この暴虐、再審請求棄却策動にうちかつ力は広範な人民との結合なくしては生み出されません。逆に、広範な人民との結合が実現されるならば、再審棄却策動阻止・再審実現を突破口に心ある人民とともに取り組んできたえん罪の根絶・一掃にむかって確実な前進がかちとられるのです。いまこそ「東京高裁第三刑事部は検察官に証拠開示を命令せよ。事実審理を開始せよ。再審を開始せよ」を声を大にして一人でも多くの人々に訴えましょう。不正義を憎む心、正義を愛し、平和を求める心を総結集し、裁判所を包囲する人民の輪を築きあげましょう。 (富山保信)

追悼木下信男先生

 木下信男先生(横浜事件の再審を実現しよう!全国ネットワーク代表)が5月1日、入院されていた順天堂病院で、肺炎のため亡くなられました。享年82歳。

木下信男先生(横浜事件の再審を実現しよう!全国ネットワーク代表)
【2002年6月29日の富山再審集会で発言される木下先生。これが富山集会での最後の姿となりました】

 『横浜事件再審ネットニュース』にも「先生のお連れ合いが亡くなられてから、ずっと先生のお世話をしてこられた、同居している姪御さん御夫妻が、五月一日の朝申しわけなさそうにおっしゃいました。
―故人の遺志でお通夜・告別式はいたしません、お香典・御供物はご遠慮ください。遺体は以前から決めていた大学病院に献体いたします、さらにマスコミにはぜったいに知られないようにしてください・・・、ということで、わたしどもは六月一日の横浜事件再審開始決定の報告集会までどこにも口外しませんでした。むろん、この再審ネットニュースの前号(17号)には先生のことをまったく記事にできませんでした」(第18号、9月刊)と書かれていましたが、私たちも『かちとる会ニュース』での公表をひかえてきました。
 木下先生は、1990年以来毎月「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会」の定例会に出席されていましたが、3年前に「突発性難聴」が発生し、療養のために出席が困難になられました。それでも、昨年の富山再審集会、定例会は可能なかぎり参加してくださいました。
 その後、肺ガンが発症し、検査の結果、右腕に転移していることが判明したので、腕にコバルト照射の治療を施すこととなりました。コバルト照射を終えたのでいったん退院されましたが、ガンが完治されたわけではなく「老人なので進行が遅いから」というなかで取り組まれた爆発物取締罰則違反裁判での証言は鬼気迫るものがありました。正義感の強い先生らしく毅然たる証言と、執拗な検察官の抵抗にも丁寧に答える態度に学者・人間の良心を見る思いがしたものです。疲労は大変だったと思います。感謝あるのみです。
 今年に入ってから、事態が深刻であることを、ご本人から告げられました。「肺ガンは4期」「のどに転移しており、声が思うように出ない。かすれる」「肝臓にも転移している」ということで、気丈な方なので弱音は吐かれませんでしたが、「あと1年くらいですかな」ともおっしゃいました(当然、オフレコということでした)。
 横浜事件の再審請求の結論が4月にも出るという時であり、「かちとる会」にとって先生を欠くのは断腸の思いだが、先生の意向を最優先し、その実現のために必要なことには全力で応えていきたいと思っていました。その矢先に先生を喪いました。
 先生とお会いしたのは4月6日の定例会が最後になりました。当日は思いがけなくお見えになったものの、わが目を疑うほどのやせ方に驚きを禁じ得ませんでした。責任感の強い先生だから、わが身をかえりみずに「横浜事件のある問題の解明にとりくんで」(『再審ネットニュース』)いらっしゃったようです。
 無理がたたって肺炎になり、緊急入院された4月15日は、横浜地裁で再審開始決定が出た日です。さぞかし喜ばれているだろうと思いテレビのニュースをみても先生の姿が映らず、どうしたのだろうというところに「入院」の知らせ。そして「少し回復されたようだ」に安心していたら、突然の訃報。驚きと落胆のあまり言葉もありませんでした。
 先生の謦咳に接せられたのは95年の暮れに出所してからの短い期間でしたが、密度の濃い、内容豊かな数年でした。叶うならば、もう少し教えを請う時間があればと思わずにはいられません。
 木下先生、本当にありがとうございました。先生の生き方に学び、毅然たる生き方を心がけたいと思います。かならず再審無罪をたたかいとります。 (富山保信)

 昨年6月29日の富山再審集会での木下先生の発言の抜粋

 木下でございます。
 私は、富山さんの再審運動に以前は毎回関わっていた者ですが、最近体調を崩しまして、さっぱりお役に立てませんで非常に申しわけないと思っているのですが、今日はみなさんこんなにたくさんお集まり頂きまして、富山さんに代わりましてお礼申しあげます。

 先ほどビデオにも若干出てまいりましたけれども、わが国で現在、無実の罪で三十五年以上牢獄に囚われている方が三人いらっしゃいます。一人は波崎事件の、富山さんと同じ姓ですが冨山常喜さん、もう一人は袴田事件の袴田さん、いまひとつは名張毒ぶどう酒事件の奥西勝さんです。この三人の方々に対する再審は、開始される目処が立っていません。三十五年以上無実なのに獄中に囚われている、そういう歴史は世界のどこを探してもありません。こんなひどいえん罪の起きている国は日本以外にないのです。

 先ほどのビデオで阿藤周平さんがおっしゃっていましたが、八海事件で、阿藤さんが無実であるにも関わらず、無罪が確定するまで十八年もかかっている。こういう例も世界にはおそらくないだろうと思います。

 富山事件について申し上げますと、再審請求をしてから八年間も、裁判所は何ら真剣な取り組みをしようとしないで来ました。こういう例は法治国家では日本だけでございます。なぜこういうことが起こっているのか。それは裁判所が富山さんの無実を知っているからです。つまり、富山さんの再審を開始しなければならないことを知っていながら、引き延ばしている。私も何回か富山さんと一緒に裁判所に抗議にまいりました。なぜこんなひどいことが行われているのかということに対して、一言も反論することができない。そのことからもわかると思います。

 このようなわが国の再審裁判の状況を打破するにはどうしたらいいか。確かに、もっともっと富山さん無実の証拠を探して、ということが必要であることはいうまでもございません。しかし、このようにひどいわが国の再審状況を打破するためには、われわれがただ手を拱いて眺めているだけではだめだろうと思います。で、どうしたらいいか。再審裁判の開始を求める運動を、全国的に、あらゆる人々と手を組んで広めていくより他に方法はないだろうと私は考えております。こういう方向に向けて、皆さま方のお力添えをぜひお願いしたいわけでございます。

(以下略)

木下先生を惜しんで

 木下先生が亡くなられたと聞いた時、空虚感にとらわれた。「この間、会ったばかりなのに。まさか。」頭の中で最後に先生とお会いした場面が流れていくのを感じた。私は、その事実をすぐに受け入れることはできなかった。生あるものは、すべて限りがある寿命とわかっていても、信じたくない、受け入れたくない、そう思う心が存在している限り理解するのに時間を要するものなのかもしれない。
 私達かちとる会は、せめて先生のお顔を一目見たいと思ったが、先生の強い遺志で葬儀はなく御遺体は大学病院へ献体されたとのことだった。私達は先生の為になすすべがないもどかしさを、ただただ噛み締めるしかなかった。最後の最後まで先生らしいと私は思った。
 木下先生は数学者だったが、私が知る先生は多くのえん罪事件の救援に携わっておられました。特に、戦時下最大の言論弾圧事件といわれる横浜事件においてわが事のように心血を注いでいらっしゃった。
 自身も横浜事件の被告とされ拷問にあった青地晨さんは、その著作『魔の時間』の中で「生ま身の人間は、あの息のつまる密室の中での拷問に耐えられない。私は拷問に崩れた自分は恥ずしいとは思うが、もう一度、同じ条件の下で拷問された場合、こんどは立派に耐えて見せるという確信を私はもっていない」と自らの体験をこう書いている。木下先生は、そのことを引用され拷問がいかに非人道的か、そしてそれによってでっち上げられた人達の苦しみを怒りをもって訴えておられました。その横浜事件の第三次再審請求が今年四月一五日に再審開始決定が出され、先生もひとまず安心していた矢先だっただけに残念でならない。
 私の中での木下先生を一言で語るならば、富山事件のビデオで語られているこの言葉である。「一番大きいショックといますと、私にとっては例えば島田事件の赤堀さんが三五年間近く無実で牢獄に入っていた。その無実の人が三五年間刑務所に入っていたことに対して、日本の裁判官で責任をとった人間は一人もいないということですね。これは本当に驚くべきことなので、日本の司法界が率直に言って、腐敗、堕落していると言わざるを得ない」。私は、この「今まで責任を取った裁判官が一人もいない。これは驚くべきこと」だと言っているところに先生の価値観、正義感が感じられ木下先生らしさを強く感じる。
 私達かちとる会は、木下先生から学ぶことは沢山あった。そして、これからもまだまだ学ばなければならない事は沢山あった。定例会においても、いつも適切な助言をし私達を励まし続けてきてくれていた。最後の最後まで真実を追求する先生の姿勢は、私の模範だった。
 今でも定例会に顔を見せ「今日も暑いですなあ。署名どうでした?」と笑顔で問いかけてきてくれそうな気がする。そうやって一緒に笑いあった日々が、未来の時間を刻むことなく過去のものになってしまった。けれども、これからも先生のことは忘れずに大切にしていきたい。(うり美)

大井町ビラまき報告

 亀・・・・・6
 うり美・・・1
 山村・・・・0
 富山・・・・0

 ふー。今日もなかな署名がとれない。署名が取れないから、更にやる気がでない。私と山村さんの周りにはドヨーンとした空気が立ちこめていた。そうなると、沈鬱な気持になる。どうやら富山さんも署名がとれてないようだ。横目で亀さんを見ると、なんと、またもや署名をとっている様子。久しぶりの浦島亀は、今日も絶好調のようだ。
 ふー、いや、このままではいかん、そうだ、亀さんの所へいこう。そう思った私は亀さんの下へ旅立った。するとそこは別世界。亀さんは右へ左へ休む暇なく声を出し、動き回っている。そこの空気は活気に満ちていた。げんきんな私は今までの沈鬱な気持はどこへやら、すっかり感化され張り切ってビラまきをした。
 すると、なんということでしょう(劇的ビフォー・アフター)。この私にも署名をしてくれる人が出現。亀の功績に預かったのである。
 そして、この日、富山さんに私は『小判鮫』と命名された。 (うり美)

大井町のYさんから

「明日の為の第四十歩目
秋分の日の目前の台風で気温は10度C以上の低下、冬の到来を思わせるような冷え込みです。」
というお便りとともに二千円いただきました。ありがとうございました。