●ニュースNo182(2003年11月15日発行)

集会参加のお願い

「法と心理学会」参加報告

大井町ビラまき報告


 

集会を行います  ご参加ください

2・7 富山再審集会

富山さんは無実だ! 再審棄却策動をゆるすな
東京高裁第三刑事部は検察官に証拠開示を命令せよ
事実審理を行え 再審を開始せよ

《発言》

富山保信さん(再審請求人)
阿藤周平さん(八海事件元被告)
葉山岳夫弁護士(再審弁護団)

とき 2月7日(土)午後6時30分開始

ところ きゅりあん(5階)第2講習室(JR京浜東北線・東急大井町線/大井町駅下車) 地図

 ■集会にご参加ください

 前号で既報のとおり、東京高裁第三刑事部から「求意見書」が届きました。再審請求棄却のためのものとしか考えられません。明らかに、中川裁判長は棄却を狙っています。けっして一般的な形式的手続きを整えるというものではなく、棄却決定をするための手順を踏んだということです。意見書提出をもっていつでも切り捨るという意思表示にほかならず、一瞬の油断もならない緊迫した決戦局面の到来を意味します。

 裁判所は真摯に審理を行え

 ご存知のとおり、富山再審は1994年6月に再審請求書を提出してから9年半がたちます。再審請求申し立てで再審請求書とともに浜田寿美男さんの鑑定書をはじめとする31点の新証拠を提出しました。その後も弁護団は追加の証拠や鑑定書を提出するとともに、足繁く裁判所に通い、再審開始を訴えてきました。なかでも検察官が隠し持っている「27人分の目撃者の供述調書」の開示は富山さんの無実をいっそう明らかにするうえで決定的位置を占めており、検察官に対して開示命令を出すよう強く求めてきました。「かちとる会」も請求人本人の富山さんを先頭に、署名を集め、裁判所への申し入れを繰り返し、再審開始を求めて運動を展開してきました。その間に、裁判長は4人も交代し、裁判長が交代するたびに審理は振り出しに戻るということを繰り返してきました。
 そして、昨年10月8日付けで中川裁判長は「12月26日までに意見書を提出せよ」と言ってきたのです。弁護団の証拠開示を求める折衝においては木で鼻をくくるような対応を繰り返してきた裁判所がこの時期に意見書の提出を求めてきたということは、再審請求棄却を前提にしているというほかありません。
 富山さんと弁護団の真剣な訴えに誠実に対応するというのならば、まず証拠開示問題に回答すべきではないでしょうか。さらに、きちんと事実審理を行うべきです。それが真摯な審理というものではないでしょうか。

 富山さんの無実は明白
 再審開始・無罪が正しい決定

 中川裁判長が再審請求棄却策動に出たのには明白な理由があります。 それは、富山さんの無実は明らかであり、正しい決定は再審開始・無罪以外にはありえないことが何人にも否定できないからです。本来ならば、富山裁判は一審無罪の確定で終わるべきでした。確定判決・二審逆転有罪は強権行使によってのみ成り立つ何の説得力も持たないものであり、自ら刑事裁判の死を宣告し、日本刑事裁判史に恥をさらし続けるものなのです(最高裁の上告棄却はこれを追認)。したがって、真摯に富山再審に取り組むならば、再審開始決定を出さざるを得ず、だからこそ歴代の裁判長は決定を回避・放置したまま異動して行かざるをえませんでした。けれども、いつまでもそれではすまなくなったのです。10年という歳月のもつ重みは無視できるものではなく、何らかの反応を示さざるを得ないところに裁判所は立たされたということを意味します。弁護団と「かちとる会」を先頭とする粘り強いたたかいが裁判所を追いつめたのです。営々たる、倦まず弛まぬたたかいは、富山裁判・富山再審の本質、その歴史的位置、役割りへの認識を着実に定着させ、広めて、もはやこのまま放置するならば裁判への信頼を堀り崩されてしまうという危機感を裁判所に抱かせるところにまで追いつめた、前進したことを確認できます。人民を裁判・裁判所への信頼の下に繋ぎ止めることが揺るがされてしまうという恐怖が現実のものになり始めたのです。もちろん、このたたかいの前進が富山再審単独の力ではなく、多くのえん罪とたたかう人々との連帯したたたかいのたまものであることはいうまでもありません。

 しかし、それではまだことがらの半面でしかなく、メダルの裏側には国家権力(裁判所こそ「最後の砦」)は国家権力であって、簡単に引き下がりはしないということがあるのです。「求意見書」・再審請求棄却策動は、追いつめられた裁判所が強権行使をもってたたかいを叩き潰し、敗北感と無力感のなかに不正義を憎み、正義の実現のために尽力しようという心と実践を霧散させようという悪辣な開き直りにほかなりません。そして、それはけっして中川裁判長一個人の策謀というにとどまらず、「司法改革」という名の司法大改悪と軌を一つにしていることを見抜く必要があります。

 今日、私たちの眼前で進行している事態は日本を戦争の出来る国にしようとする国家大改造攻撃です。「司法改革」は、その最後の仕上げを意味します。司法の現実を知るものにとってその改革は急務ですが、それを逆手にとって現行憲法体系を根本から転覆しようとしているのです。

 例えば、「裁判迅速化法」。闇雲にどんな裁判も2年以内に判決を出せとしていますが、裁判が無用に長引くのはほとんどがデッチあげや無用な起訴を行ったあげくに証拠開示を拒む(ありていに言えば、証拠を隠す)から長引くのであって、事実のねじ曲げと責任転嫁の典型というものです。その結果もたらされるのは拙速裁判の横行とえん罪・誤判の乱発であり、被害に泣かされるのは人民にほかなりません。

 例えば、裁判員制度。「司法改革」の目玉の一つとされていますが、これを子細に検討すればするほど「司法改革」がいかに悪辣なものかが浮き彫りになります。まず、裁判員の数と職業裁判官の数をみれば陪審制でないどころか、日本の現実に照らせば参審制にすら及ばない代物であることは明白です。結論的に言えば、裁判の死に人民自身がお墨付きを与える役割を担わされる制度にほかなりません。えん罪・誤判の共犯者を演じることになるのです。「裁判員の確保」「裁判員に無用の負担を負わせない」と称して、集中審理(これこそ裁判迅速化=拙速裁判=えん罪・誤判の横行)のために「争点整理」を行いますが、その前提をなすべき証拠の全面開示が否定されているのですから、まともな審理などできるはずがありません。証拠開示拒否とならんで「捜査過程の可視化」も実現されないとあっては、審理どころか捜査当局にフリーハンドを与えた上に判決の名をもって承認の判子をついてやるだけの儀式というものです。それでもなんとか争おうとする被告、そのために全力を尽くそうとする弁護人(これが本来の弁護人の使命だ)は制裁を受けるのだから、被告・弁護人は裁判の当事者ですらなくなってしまいます。さらに事態はもっと深刻で、これからは再審すらできなくなるのです(本件に即した指摘は、一昨年の集会での富山さんの講演の反訳をお読みください。「かちとる会」ニュース167号参照)。要するに、裁判らしい裁判は姿を消す、正確に言えば消滅させる、そのために「お白州裁判」をやるから「国民」はその片棒を積極的に担いで共犯者になれということを意味しています。「統治の主体たれ」(司法制度審議会答申)とは、そういうことなのです。

 例えば、ロースクール。金のない者、あるいは主体的にものごとに立ち向かおうとする者や批判精神の旺盛な者は法曹界から排除しようとする魂胆がますますはっきりしてきました。日弁連を骨抜きにして御用機関化してしまおうという意図が見え透いています。

 以上、簡単に見ただけでも司法を「行政権力の侍女」どころか金棒引きにしてしまおうという「司法改革」の狙いは何人にも否定しがたいものになりつつあります。

 戦争国家にむかってどしどし進められる反動攻撃に抵抗するものはゆるさない、ゆきつくところは傍観することもゆるされないで積極的な担い手にならないかぎり弾圧されるという暴虐に承認のお墨付きを与える装置に裁判と裁判所という名が冠せられることになるのです。この方向に沿ったものとして、今回の中川裁判長の再審請求棄却策動はあります。日本の軍隊が戦争を始めようというのに再審など云々しているときか、「城内平和」つまり国を挙げて戦争体制を支えるべきときにお上に逆らうなどもってのほかだ、一掃するという本音の大音声が聞こえてくるようです。戦争に向かう熱病のまえには理性や知性など入り込む余地など消し飛んでしまいますが、そして知性や理性と遠い人間ほどその熱病に囚われやすいものですが、まさにその熱病への渦中から再審請求棄却策動が襲いかかってきたと見るべきでしょう。「司法改革」の先取りとして、そして「司法改革」の地均しとして富山再審の再審請求棄却と再審自体の叩き潰しが目論まれているのです。こんなことを見過ごしていいのでしょうか。

 富山さんの人権は私たち一人一人の人権

 アリの一穴から堤防も崩れます。第二次大戦直後のドイツのニーメラー牧師の有名な反省の述懐「最初は共産主義者にナチスの攻撃が襲いかかった。次は社会民主主義者に襲いかかった。自分は宗教家だから傍観していた。今度は教会に襲いかかってきた。抵抗しようとしたが、もう手遅れだった」を想起すべきではないでしょうか。一人の人権が踏みにじられるとき戦争への道が始まるのです。

 富山さんの置かれている現状はけっして私たちと無縁ではありません。普段えん罪や裁判など他人事と思って生活している私たち一人一人も、いつ何時青天の霹靂に襲われるかわからない、ましてや有事法制、「司法改革」、共謀罪、憲法改悪、・・・の中で一億二千万人総弾圧対象化と総監視下に置かれるとき、基本的人権は風前の灯火ですらないというべきです。それこそ「手遅れ」にならない瀬戸際に来ていると言っても過言ではないと思います。昨今の私たちを取り巻く世の中の動きは、そう告げているのではないでしょうか。

 いまこそ正しいものは正しい、間違っているものは間違っていると主張すべきときです。声を上げなければ現状は追認・承認されたものとされてしまいます。歴史の教訓を生かすべきときは今をおいて他にありません。

 富山さんは無実。東京高裁第三刑事部は、検察官に証拠開示を命令せよ。事実審理を行え。再審を開始せよ。これらの訴えを広範な人民の間に持ち込み、再審開始・無罪への道を切り開きましょう。

 2月7日の集会は、その突破口です。皆さんご自身の参加はもちろん、多くの友人、知人にも呼びかけていただくことを心からお願いいたします。 会場に溢れんばかりの参加をかちとり、再審開始への共同の決意をうちかためましょう。

■「法と心理学会」第4回大会参加報告

  「法と心理学会」も早いもので、今年で4回目の大会を迎えました。今年の会場は東北大学。期間は10月11日・12日。山村と富山が参加。仙台は、まだ一審の時に東京拘置所から手錠・腰縄つきで「ひばり(たしかこんな名だった)」(新幹線開通のはるか前)に乗って出張尋問に出かけて以来。「ひたすらだだっ広いところだなあ」という印象から「杜の都と自称してもおかしくないくらい緑が残っているぞ」に変化するのもうなずける観光メインルートをたどってキャンパスに到着。

 一日目、9時半から12時まで特別シンポジウム「作家・広津和郎の松川裁判批判を今日いかに継承するか―『法と心理学会』の発展のために」。

 午後のメインは、「ワークショップ」第一部会の「目撃証言ガイドラインと司法改革の行方」。私の再審と直接かかわる問題だけに「目撃証言ガイドライン」がどこまで仕上がっているのか、どう実効性をもたせられるのか、は最大の関心事なのですが、苦闘中というのが討論の中から出てきた回答でした。ポスター発表や討論・発言をとおして明らかになったのは、目撃証言の信用性の評価への科学的知見の導入の必要性に対する認識は広まったが、まだまだ具体的事例への認識は圧倒的に不足していること、啓蒙活動の必要性は増大する一方であること、現実の裁判において採用・活用される以前に裁判官に(必要性への)正しい認識を持たせるに至っていない現実をどう克服していくかが乗り越えるべき障害として立ちふさがっているという共通の確認を再確認することとなりました。どこかでひとつ典型的な事例がぶち抜くことによって事態が動くのではないかというのが結論ということになります。やはり典型的な事例といえば私の再審事件ですから、ここで勝たずして進展はありません。口幅ったい言い方をすれば、私の再審が勝てなければ、他の事例が簡単に勝てるわけがないということになります。やっぱりやるしかないなというのが、正直な感想です。 鬼に笑われてもいいから、しゃかりきになって頑張って事態を打開して、来年のワークショップでは明るい話題で全体をリードするくらいになろうと思ってしまいました。

 ワークショップ終了後は、懇親会。「学内の食堂で」ということなのであまり期待はしてなかったのですが、うれしい意味で「期待外れ」。指宿先生など「この牛タンは外の店よりおいしい」と大喜びでしたが、まったく同感(といっても、本当に実感したのは外で二軒食べてから。私には塩とレモンが合いました)。 「求意見書」が届いた直後だったので、このときとばかりに「お知恵拝借」を乱発しましたが、結論はワークショップの中で持った決意に優るものはないということで、私が必死になってもがくことによってのみ周りも動くと確信してやりきるということにつきます。これを再確認したということでは意義ある一日、そして大会参加でした。

 二日目は、9時半から「口頭発表」。今回は「富山再審」関連はなし。昼休みに「タテカン(立て看板)」見物をして、今回の大会参加はお終い。

 東京に比べるとしっかりキャンパスらしい雰囲気を堪能できた楽しい大会参加でした。  (富山)

 意見書提出が入ったので、パソコン教室が延期になったまま。2・7集会終了までお預けです。でも、必ず腕を磨いて見参します。乞うご期待。

大井町ビラまき報告

 亀・・・・・5
 うり美・・・1
 山村・・・・0
 富山・・・・0

 ビラまきをしていると色んな人と触れあうことになる。必ずしも好意を抱いてくれている人ばかりではない。この日はいつものごとく快調に飛ばしている亀さんにくっついて小判鮫と化していた私は、小春日和の天気に気分も爽快だった。ただし、ある一点だけを除いて。
 そのある一点とは、ビラを巻いていると六〜七〇才の女性がビラに見入って足を止めた。私は、富山事件を説明し始めたのだった。ところが、私が二審判決で懲役一〇年まで説明し終えるか終わらないかの所で、私の言葉に覆い被さるように、
「それって運命っていうんだよ」と、吐き捨てて立ち去って行ったのである。突然のことに私は唖然としていたが、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。
 「運命?」「運命なわけないじゃないか。明らかに、この事件は人的犯罪なのであって、運命なんかじゃない」そう叫びたい気持で一杯であった。ここで彼女を呼び止めてこの気持をぶつけることは出来たが、今後もここで毎月ビラを巻かなくてはいけないのだからと、気持を抑えた。それにしても、何でそんな言い方で人を傷付けなくてはいけないのか。やっぱり、解せないのである。
 この女性は、きっと「運命」という言葉をかみしめて日々の生活を生きているに違いないと思うことによって、この怒りをなんとか静めた。
 この日、亀さんも受け取ったビラを道路に投げ捨てられ、ビラは道路で無惨にも車の車輪に次々と轢かれていた。
 こんな日もありますね。また、がんばろう。(うり美)

大井町のYさんから

「明日の為の第四十一歩目
季節はすっかり秋になりました。風が冷たくなりますので、コートが必要になりますね」

  というお便りとともに二千円いただきました。ありがとうございます。
風邪をひかないで、元気に頑張りましょう。