タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.194(2004年11月15日発行)

◎法と心理学会・目撃証言ガイドライン
紹介『取調室の心理学』

大井町ビラまき報告


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あなたの署名が再審の扉を開きます 大山(鳥取県)

「法と心理学会・目撃証言ガイドライン」

 一〇月一六日から一七日にかけて、東京・日本大学において、「法と心理学会第五回大会」が開催された。
 第一日目のワークショップで「目撃供述ガイドラインの刑事実務現場への提唱」と題する企画があり、富山さんとともに参加した。

表紙 法と心理学会第五回大会プログラム この企画で、「目撃供述・識別手続に関するガイドライン(案)」が提起された。
 この「ガイドライン」の「はじめに」のところで、「『法と心理学会』では、刑事捜査・裁判においてしばしば問題となる目撃供述の聴取および犯人の識別手続に関して、科学的により正確で公正な方法を求めるべく、長年にわたって議論を重ねてきた。ここに提案する『目撃供述・識別手続に関するガイドライン』は、その一つの到達点である」とされているように、一九九九年一二月、慶応大学で開かれた「法と心理学会」設立準備委員会で最初のガイドライン案が提起されて以降、心理学者、法学者、弁護士をはじめとする裁判実務家、等々、多く人々の間で、内容の検討が積み重ねられてきたものである。富山再審弁護団も、ガイドライン検討会に出席し意見を述べてきた。
 これまで、日本では、この種の基準として判例等に引用されるのは、富山裁判の確定判決(東京高裁)で提示されている「写真面割りの正確性を担保するための基準」(「七つの基準」)しかなかった。しかし、この「七つの基準」は、あいまいかつ抽象的なものでおよそ科学的知見とはほど遠いものであり、現実の基準とはなり得ないものである。富山再審弁護団は、この基準を上告審、再審において痛烈に批判し続けてきた。しかし、残念ながらいくつかの目撃証言を証拠とする判決や論文の中で、この「七つの基準」が肯定的に引用されてきた。
 この「七つの基準」に代わるものとして、そして確定判決への批判として、「法と心理学会」が提起する「ガイドライン」の完成を、弁護団も私たちも、当初より待ち望んでいた。
 この「ガイドライン(案)」は、「法と心理学会」第五回大会のワークショップでの議論を踏まえたうえで、一二月か来年一月に発行される「法と心理学会」機関誌『法と心理』に掲載される。さらに来年には小冊子として公刊されるとのことである。

 「ガイドライン(案)」は、目撃供述・識別手続について、詳細かつ厳格に定義している。
 まず、最初に、「1 目撃供述・識別手続全般にかかわる基本姿勢」として、以下の点が提起されている。重要な箇所なので、長くなるが引用したい。

1 目撃供述・識別手続全般にかかわる基本姿勢

 目撃供述は、目撃者が「私は事件の現場(あるいはその周辺場面)で、○○の人が△△しているところを見た」というかたちで提示される。これはもちろん事件捜査(あるいは後の事実認定)においてきわめて重要な意味をもつ証拠となる。しかし一見どれほど明確で、疑いの余地ない目撃供述であるように見えても、それが提示するのは事実そのものではなく、あくまで事実についての一つの仮説であることを忘れてはならない。そこには種々の誤謬の可能性がひそむ。目撃供述が指し示す仮説を事実として認定するについては、考えうるその他のあらゆる仮説が明確に排除されるのでなくてはならない。つまり目撃供述についてあくまで仮説検証的な姿勢をとることを基本原則とするべきである。この仮説検証的な姿勢を堅持するために、次の諸点を守らなければならない。

1―1〈全手続過程の厳正化〉

 目撃供述が聴取される過程、また被疑者との同一性識別の手続過程はすべて、誘導・暗示の効果を排除すべく、できるかぎり厳正化されなければならない。供述という人的証拠は、物的証拠と違って、聴取者の質問の仕方、取り調べや手続の状況によって左右されやすい微妙な証拠である。とりわけ容疑者を絞り込んで後に、その容疑を固めるべく証拠集め(有罪を示唆する証拠を選択的に収集する)するというような発想はきわめて危険であることを心得ていなければならない。供述の聴取や識別手続という証拠収集の過程そのものが仮説検証であることを銘記するべきである。

1―2〈全手続過程の可視化〉

 目撃供述が聴取される過程、また被疑者との同一性識別の手続過程のすべてが、後に仮説検証的検討を受けるように可視化されなければならない。供述聴取や識別手続に入り込む誘導・暗示の効果は、微妙なものであるだけに、目に見えるかたちでの客観的記録が必須である。

1―3〈全手続過程の記録開示〉

 裁判において目撃にかかわる事実認定に争いが生じたときは、目撃供述が聴取された過程、また被疑者との同一性識別の手続過程にかかわる証拠がすべて開示され、検討の資料として当事者に提供されなければならない。

 この後、「ガイドライン(案)」は、以下の項目について詳細に規定している。

2 供述聴取手続
 2―1供述聴取手続の基本条件
 2―2供述聴取の手順
 2―3供述及び供述聴取過程の記録

3 識別手続=他の証拠によって被 疑者が特定されている場合
 3―1識別手続の方法
 3―2ライブラインアップ
 3―3ビデオラインアップ
 3―4写真ラインアップ

4 写真面割手続=被疑者が特定さ れていない場合
 4―1写真帳の作成
 4―2実施者
 4―3教示
 4―4実施者の態度
 4―5選別不能のとき
 4―6選別前の確信度
 4―7記録
 4―8ライブまたはビデオラインアップ手続への接続
 4―9写真ラインアップへの接続の禁止

5 供述聴取・識別手続の特則
 5―1目撃者が既知の人物を目撃したという場合
 5―2目撃者が複数存在する場合

6 目撃者の心理特性を考慮しなけ ればならない場合
 6―1目撃者が子ども、知的障害者である場合
 6―2目撃者が視力や聴力に障害をもつ場合
 6―3被害者による犯人目撃供述

 この「ガイドライン(案)」にも、「ここで私たちが提起するガイドラインのなかには、現在の捜査実務からは大きくかけ離れているものも少なくないが、いずれも科学的に根拠をもっており、諸外国ではその実務規範として現実化しているものである。その意味でわが国でもこのガイドラインが、文字どおりに今後の捜査の『指針』となることを望みたい」とあるように、「現在の捜査実務から大きくかけ離れている」点について、「このように厳格なガイドラインが果して日本の捜査において使われるかどうか」という議論は前からあった。富山再審弁護団でも、「現在の捜査とかけ離れている」「現実的でない。捜査側は使わないだろう。実際の捜査で使われなければ意味がない」という意見もあった。ガイドラインを作成する過程でも常に問題になったようである。
 こうした意見に「法と心理学会」のワークショップで、浜田寿美男先生は次のように説明されていた。
 「予防的にチェックをしようということで作成した。その結果として、捜査の実務から離れたものになることは否めない。今の日本の捜査に用いられないのではないか、用いられないようなものでは意味がないのではないかという批判もあった。しかし、今の捜査手続きが続いたとしても、これを打ち立てることによって、今の捜査のあり方を批判する基準ができる。一定のベースの上で議論ができる。このガイドラインを弁護士が裁判の場面とかでどんどん使ってほしい。それによって裁判所の認識も変わっていく」「捜査実務との乖離が言われるかもしれない。捜査実務にすぐに使われるとは思わない。公判で、ガイドラインに照らしてこういう問題があると指摘でき、それを裁判所が認識すれば、それによって捜査の実務も変わっていく可能性がある」「もちろん、捜査実務に携わっている人々にも売り込んでいきたい。」

 欧米、特にイギリスでは、犯人識別供述の取り扱いに関するルールは厳格に決められ、実際に捜査でも使われている。この点、日本は大きく遅れている。「司法改革」の議論の中で、捜査の可視化と証拠開示については、検察庁が強硬に反対している現実がある。捜査の可視化と証拠開示がなされれば、今あるえん罪の多くがなくなると言われているにも関わらずである。「法と心理学会」という学会の名前で公式に「ガイドライン」が提起されることは重要である。
 「今の日本の捜査に用いられないようなものでは意味がないのではないか」という意見も考慮しなければならないが、しかし、この「ガイドライン」は日本で最初の、科学的知見に基づいた総合的なガイドラインとなる。厳格で詳細なものになるのはやむを得ないのではないかと思う。浜田先生が言われるように、むしろ、実際の裁判の場などで、今ある現状をこのガイドラインの地平にいかに近づけていくかという課題に取り組んでいくことが重要なのだと思う。九月号のニュースで紹介した、目撃証言の信用性が争点となった事件での大阪地裁判決(4月19日付)を書くような裁判官を、裁判の場を通していかに増やしていくかだと思った。それがひいては捜査のあり方を変えることにもつながっていくのではないだろうか。「ガイドライン」ができたことは大きな一歩だと思う。(山村)

紹介『取調室の心理学』

(浜田寿美男著・平凡社新書・700円)

『取調室の心理学』浜田寿美男著・平凡社新書 富山再審事件で、発達心理学・法心理学の立場から目撃者の供述変遷につき鑑定書を提出している浜田寿美男先生が、このほど『取調室の心理学』(平凡社新書)という本を刊行した。以下、感想を交えながら紹介したいと思う。

 「なぜ被疑者・被告人はやってもいないことを『やった』と言ってしまうのだろうか。なぜ私たちはその『嘘』を見抜けないのだろうか」(まえがきより)。この率直な疑問に、本書は無罪をかちとった免田事件、現在も再審請求を続けている帝銀事件等を中心に、いかに被疑者・被告人が自白に追い込まれていくかを分析している。
 八海事件の被告とされた阿藤周平さんは、この自白に追い込まれていく過程を幾度となくこう語っている。「真実だったら、その真実を守って、警察の拷問にうち勝つ、それが一番いいんです。だけどそれができない。それは、実際に、この身に激しい拷問を受けた人じゃないとわからないんですよ。その時に誰も味方をする人がいないんですよ、壁の中で」
 そして、横浜事件の被告とされた青地晨さんも自身の著書で「生ま身の人間は、その息のつまる密室の中での拷問は耐えられない。私は拷問に崩れた自分を恥しいとは思うが、もう一度、同じ条件の下で拷問された場合、こんどは立派に耐えてみせるという確信を私はもっていない」
 味方が誰一人いない取調室という密室の中で、拷問ではなく精神的な圧力があるだけでも、かなりの圧迫感を感じるのだろう。これは経験したものにしかわからないのかも知れない。
 そして、浜田先生が本書で「平沢さんが、自白に落ちたのは、まさに取調室のなか」「目撃者たちの供述が取られたのも、また取調室のなか」だったと紹介している帝銀事件は、自白に追い込まれていく過程、目撃供述が変遷されていく過程を克明に分析している。その上でこう警告する。「自白に落ちていく過程も、目撃供述の形成のされ方も同じなのです。捜査官が抱いた『証拠なき確信』に引きずられて、断固として否認する被疑者もやがて自白に追い込まれ、当初は似ているかもわからなかった人物が、やがて『似ている』ということになっていく。あるいは似ていると思ったという程度の人が『同一人物』だと断定されていく。」
 富山事件に即して言えば、法廷に出廷した目撃者達は当初、富山さんと全く違う人物像を述べていた。にも関わらず、幾度となく調書を取られ面通しをされることによって、当初目撃した犯人像が徐々に富山さんの容貌に変遷していく。
 「記憶は写真のように像として頭に焼きついているわけでは」ないから、「『これが犯人の顔だ』というかたちで事後に報道されるものが、知らず知らずに元の記憶像の上に刷り込まれてしまうようなことがありはしないか。このことも問題」だと本書は指摘している。「取調べの場には目に見えない強力な磁場が働いていて、その磁場に引きずられるようにして自白調書が作られ、目撃供述調書が作られてい」る。「その取調室の謎を暴かないかぎり、冤罪がこれからもあちこちで起こりつづけることを防ぐことはでき」ないと。
 多くの冤罪事件は、密室で行われる取調室で起きている。もし、取調室の中にビデオが設置されていたなら、被疑者、被告人は、ここまで嘘の自白をすることがあるだろうか。目撃者供述がこうまで変遷することがあるだろうか。仮にあったとして、ビデオや録音テープがあるならば、取調室で作られる虚偽の自白調書、虚偽の目撃供述には一つの歯止めにならないだろうか。さらに後に検証することができるのならば、冤罪で苦しむ人が冤罪を晴らす一つのきっかけにならないだろうか。再審事件においても、これほどまで「開かずの扉」といわれることもないのではないか。
 今、刑事裁判の場では、捜査の可視化と証拠開示が強く求められている。すでにイギリスではえん罪をなくすため、ビデオ撮影や録音によって捜査を可視化することを行なっている。しかし、日本では1998年、国際人権規約委員会から証拠開示と捜査の可視化を行なうように勧告を受けているにもかかわらず未だ実現されていない。冤罪の温床を作り出す捜査のブラックボックスと警察・検察の証拠開示に対する非協力。冤罪が作り出される過程を考える時、これからの司法改革にも注目していかなければならない、と本書を読みながら思った。(うり美)

cat on the zabuton

大井町ビラまき報告

亀・・・・3
富山・・・1

 今日は、亀さんとの一騎打ちである。うり坊も山村も、いろいろあって、巌流島にたどりつけなかった。

 やせた武蔵と太った小次郎の対決が幕を切って落とした。下馬評は論じるまでもない。だが、勝負はやってみなければわからない。

 線路をまたぐ橋を挟み、時々、ちらちらと様子をうかがいながらビラを渡す。あいかわらず、ビラのはけ具合だけは圧倒的に私が優る。亀さんもまだ署名はとれていない。
 午後4時半開始、現在5時。亀さん1名(のようだ)、私ゼロ。いつもほど差は付いていない。緊迫の死闘戦である。と思っているのは私だけで、案外亀さんは悠然と構えているだけかもしれない。30メートルくらい(この距離があてにならない。なにしろ狭いところに20年弱閉じこめられていたので、距離感がおかしくなっている。運動部時代はタッチの差を競うとあって正確につかめたのだが、こうなってはおしまいだ。困ったものである。人間も「飼育可能な動物」を身をもって実感させられる)離れているので、表情までは窺えない。いずれにせよ僅差だ。
 ついに一人、私よりは若い、しかし明らかに中年の女性が立ち止まった。関西弁の快活そうな「おばちゃん」だ。説明開始。感じがいい人なので、つい話し込んでしまう。「全学連?知らんわ」「全共闘なら知っとるよ」「30年前やったら、まだこっちに来とらんわ。どういう事件なん」「10年も刑務所におったん、大変やったね」「なんで再審するん」率直な質問がつづく。こちらの説明ときちんとかみ合った会話になっている。結局、ビラを読んで、じっくり考え、納得したうえで署名することになった。もっともだ。多分、次に出会ったときは署名してもらえるだろう。この時間帯にまたやろう。
 亀さん、複数獲得の気配。まずい。ここで離されてなるものか。
 男性一人立ち止まる。見た顔だ。
 「オーッ、ひさしぶりだな、どうしてる」「11月7日の日比谷野音での労働者集会で会おう」
 結果は冒頭にあるとおりである。いつもの「比較の対象にあらず」に比べれば善戦を通り越してほとんど引き分けも同然と言えなくもないが、負けは負けだ。潔く敗北を認めよう。亀は強かった。(とみやま)

(ホームページ版調査)

●写真は、”宮本武蔵生誕の地大原町”のホームーページ内「2001武蔵まつり-- ”観光寸劇 決闘巌流島”の公演」 より

●「関門海峡に浮かぶ巌流島」に関する詳しいホームページです。大観光地になっているようです。

うり坊:いのししの子のことをそう言います。

(調査&ホームページ版アレンジ=tyo)

大井町のYさんから

休載

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