タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.216(2006年9月15日発行)

◎異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会
「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(1)

大井町ビラまき報告


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異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会

「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(1)

講演する中川孝博先生(龍谷大学教授)

 この富山事件の再審請求を棄却した裁判長というのは中川というのですけれども、ちょっとやりにくいですよね。自分と、この中川裁判長は何の関係もありません。
  今日与えられたテーマというのは、「再審の現状と富山再審・異議審の展望と課題」という課題を与えられたのですが、異議審というのを省略しました。
  というのは、異議審というのを具体的にどう捉えるのか、私自身、今のところ展望が見えにくいというか、それより先のことを、なんて言うと問題かもしれませんが、もうちょっと大きな目で見た方がいいのかなという気もしますので、そういった点から報告させて頂きたいと思います。

1.再審請求審における明白性審査の現状

  まず、レジュメの1番をご覧ください。「再審請求審における明白性審査の現状」ということです。富山事件の再審請求審自身の問題点それだけではなくて、今の再審請求審の判断の全体の流れ、他のさまざまな事件の中で、どのような特徴を持っているのかということを見るためには、再審請求審における明白性審査というのは、一般に、現在どのように行なわれているのかということをまず確認しなければいけないと思います。
  そのためには、今、争われているところが二つありまして、その二つについて触れなくちゃいけません。

再審請求審とは

  皆さん、ある程度、再審についてご存じでしょうか。明白性判断で、証拠構造と全面的再評価と言われて、ピンと来る方はお手をお上げください。
  わかりました。説明致しましょう。
  大雑把に言いますと、本来、再審請求審というのは、一定確定した有罪判決に対して、もう一回裁判を開く資格があるかどうかを問題にするんですね。ですから、裁判のやり直しではないのです。そこは押さえておいてください。裁判のやり直しは、再審請求が認められた後、裁判をもう一回やり直すのです。その意味では再審請求審というのは、裁判をやり直す資格があるかどうかです。ですから、有罪無罪を生の形で、有罪か無罪かをもう一回判断する場ではないのです。そのために従来問題とされてきたのが、無罪とすべき明らかな証拠があるかということで、ひとつの見方はこういう見方です。

証拠構造分析と全面的再評価説(白鳥決定、財田川決定の流れ)

 再審請求審で弾劾の対象になるのは、確定判決ですね。富山さんで言えば二審の有罪判決ですが、その有罪判決が、どのような証拠に支えられていたのか。多数の目撃者がいるわけですけど、これ(A、B、C、D)は便宜的に適当に書いているだけですが、多数の証人がいたと、その証人の目撃供述が信用できるというので有罪にされているわけですけど、じゃ、その証人が信用できるかどうかというのは当然争われるわけですね。で、その証言が信用できるというのは、結局、どういう証拠に支えられているのか。で、この証拠はまたどういう証拠に支えられているのか。こういう一連の、さまざまな証拠のつながりがあるわけですね。で、有罪判決に到ったこの証拠の構造というものが崩れるかどうかが問題になるわけです。
  例えば、このA証拠に関して、このA証拠というのが信用できるとされたこの証拠(a、b)、この一連の証拠に対して新証拠を投入して、こいつはもう信用ならんということになれば崩れるわけです。そうすると、これが崩れるわけですから、当然Aも崩れるわけです。そうすると、A、B、C、Dから成り立っていた有罪判決のうちAが崩れるわけですから、全体として有罪認定を支えていた証拠の一角が崩れるわけですから、確定判決の事実認定が動揺するわけですね。そこで、これはどうも無罪判決を得られる可能性がありそうだということで再審が開かれる。
  こういうことで、再審請求審では、確定判決はどういう証拠をどういう構造でもって有罪認定していたのかを問題にします。それを問題にするにあたっては、かつては、この新証拠だけを見て問題にすればいいんだということを言っていたりしましたが、それでは誤判、冤罪の救済には不十分だということで、新証拠と直接関連するここだけを検討するのではなくて、全体ですね、この証拠構造がどういうものを持っていて、本来AとかBとかC、D、強いとか言っているんだけれども、本当はこのBは弱いではないかとか、Cは弱いのではないか、Dは強い、もう一回すべての証拠を洗い直してどの程度の証明力、この有罪認定を支えた証拠というのは、どの程度の重みを持っているのかというのを、一から請求審が判断しなおすんだと、これを全面的再評価説と言います。
  と言いますのは、この二つのポイントから再審請求審は判断するんだということです。一番は、確定判決はどういう証拠構造を持っていたか。それは強かったのか弱かったのか。弱いということになれば、そこに大した意味のない新証拠を出して来たとしても、それだけでドバッと崩れるわけですね。これをかつては、麦わら一本でも再審は開かれる、というような言い方がなされたことがあります。こういったふうに、かつて再審の重い扉を開いた、開かずの門を開いたと言われた最高裁の白鳥決定および財田川決定でも、核心はこの証拠構造分析、および限られた部分だけじゃなくて全面的に証拠を見直すんだというこの二つを柱にしていたわけです。実際に有罪か無罪かを判断するのではない。この証拠構造が崩れるかどうかを見るんだということです。有罪か無罪かは再審を開いた後がんばってくれ、こういう話だったんですね。

名張第6次決定、マルヨ無線決定(限定的再評価説に移行?)

  このような判断方法が原則的に、求められているとおりに行なわれるのであれば、再審請求というのは、わりかし開かれやすいというふうに思うわけですけれども、現実は大分動いてきていまして、逆流とも言われるような状況、再び再審の門が閉じられようとしているとも表される状況になってきています。
  それを表したのが最高裁の最近の一連の決定でありまして、現在、再審請求が通りましたけれども、通ったのはまだ確定していませんが、名張の第7次のものがありますね。その前の前、第5次再審請求での決定で、三つの証拠群に分かれるのですが、そのうちのひとつについて、新証拠が証明力を減殺、崩したとしても、他に二つあるから、その二つを合わせれば依然として、確定判決の有罪認定は崩れないといった決定があったんですね。
  さらには、レジュメに書いてありますマルヨ無線決定、これは平成10年10月27日ですけれども、この場合にも、証拠等に有機的に関連するところだけ見ればいいんだと、すべての証拠について全面的に見直す必要はないというふうに解釈できるような表現をとった決定が出ました。
  名張第6次決定、これは平成14年ですけれども、この名張第6次決定においても、提出された新証拠に直接関わるところだけしか判断していないように見える決定が最高裁で出たんですね。
このように、新証拠と直接関わるところだけじゃなくて全面的に証拠を検討し直すというのじゃなくて、ここだけ、新証拠のここだけを、例えばさっき言ったこの事件ではOさんの証言を弾劾すると言ったら、Oさんの所だけ見て、YさんとかTさんは見ない、こういったやり方を限定的再評価と言います。新証拠はこの部分しか言っていないのだから、そこだけ見りゃいいじゃないかと、全部見直す必要はないということですね。
  こういった判断方法を取られてしまいますと、もともと新証拠を出すのは大変なことですね。大分前の事件で、当時のことを記憶している人もいなかったりしますね。痕跡なんかも新たに鑑定し直そうとしても、資料がもう残ってなかったりする。こういった中で必死に新証拠を出して来ても、ここだけというふうになれば、ここらへんは実は問題があったのに、ここらへんが無条件に確定判決が正しいと受け入れてしまうことになりますので、再審の門は狭まってしまうのですね。そういった問題が、今、生じて来ております。
  かつ、マルヨ無線決定というので、新たに問題になって来ていますが、証拠構造を崩せばいいというのではなくて、一旦崩れたとしても、例えば検察官側が再審請求審の間に出してきた新たな資料なんかを考慮して、やはり合理的な疑いを越えた証明があるというふうに判断すれば、再審を開かなくてもいいという言い方を最高裁はしたんですね。つまり、有罪認定の証拠構造が崩れるかではなくて、裸の事実判断と言いますけれども、要は有罪か無罪かなんだ、それを判断すればいいんだというふうに受け取られかねないような表現をマルヨ無線決定ではしたわけです。

全面的再評価説but not証拠構造論(裸の事実判断)

  つまり、再審請求審のポイントであった二つは、どちらも今、揺らいでいるわけです。証拠構造を崩せばいいと、有罪か無罪かじゃないと言っていたのにも関わらず、いや、要は合理的疑いを越えた証明があるかどうかだ、有罪無罪の判断をする。となるとこれは大変なことですね。従来、有罪か無罪かを争うというのは、公開の法廷で国民が監視する中で、いろんな証拠を出して、公開裁判の中で厳正に防御権を尽くして、攻撃、防御を尽す中で事実認定が争われるべきものなんですが、再審請求審となると、基本的には公開法廷などはなされないわけですね。何を考えているかわからない中で、かつ、証拠調権などは認められない中で、すべては裁判官の裁量に委ねられるところで判断されてしまう、要するに密室の中で判断されてしまうわけですね。
  そんなことをされちゃかなわんというので、今、最高裁の一連の動きはものすごく批判にさらされているわけです。この中で、最高裁の一連の決定をどう読むかということが議論されているわけですけれども、私自身は、基本的には、今、あまりよくない状況にあると言わざるを得ない。つまり、先程説明しましたように、証拠構造論というのは基本的にはとっていないと考えざるを得ない。そして、最終的には有罪か無罪かですね、再審請求審においてそれを問題にしていると言わざるを得ないということであります。
  第二に限定的再評価か否かということに関しては、一応、形式的に見るならば、すべての最高裁決定においては、「すべての全証拠を総合して判断しても」というフレーズは必ずついていますので、形式的には全面的再評価説を維持している。一部の実務家がねらっているような、限定的再評価説への移行があったというふうに必ずしも言えないというふうに考えています。
  その点はいいんですけれども、そのかわり有罪無罪の判断を生でやっているというところがやはり依然として問題になってくる。有罪無罪を、生の事実判断をやるということは、ある意味、全面的再評価をしないとできないことですから、これはある意味、この二つは当然のつながりだと思うわけであります。
  詳しくは、この分析については、興味ある方は、注の1(中川孝博「再審理論の再検討」法律時報75巻11号 22頁)に書いてあるものをご覧ください。この論文を書いた後に、最高裁では二つ出ています。ひとつは狭山で、もうひとつは大崎ですけれども、狭山事件の場合にも、新証拠を出して来た、その出して来た新証拠を個別個別に判断して、全体の証拠構造分析をしていません。限定的再評価のようにも見える判示はしていますけれども、一番最後を見ますと、「他の全証拠を総合的に評価しても」というふうに書いてあって、一応、全面的再評価説をとっているような書き方です。但し、確定判決の事実認定に疑いが生じるかという言い方は、白鳥、財田川が言っていた言い方はもう捨てています。「強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂の各犯行に及んだことに合理的な疑いが生じていないことは明らかである」、こう生の有罪無罪を問題にしていることを明確に表現している決定になっています。
  もうひとつの大崎事件については、三行半(みくだりはん)、これはものの例えでありまして、実際は6行だったそうですけれども、要するに高裁は正しいと言っているだけでして、理由を全然示していないので、どう考えていいかはわかりません。わかりませんが、大崎の高裁の決定というのは、限定的再評価説を明確にとるものだったので、それを受け入れるとはどういうことかというので議論にさらされているところです。ただ、結論において正しいと言っているだけなので、その高裁がとった方法自体が正しいかどうかは、最高裁は明言していないというふうに考えておくのが、今のところ無難ではないかなというふうに思います。
  というふうにまとめますと、今、最高裁は遠く下級審に対してどういうふうに再審請求審を判断せよと言っているかというと、すべての証拠を見直しなさいと言っているけれども、確定判決の一部でも揺らいだら、再審の請求を認めていいとは言っていなくて、とにかくあなた自身が無罪と考えるのであれば再審を開きなさいというふうに言っているわけですね。と、解釈しておきましょう。

下級審の傾向

  下級審についてはいろいろあって、私はまだすべて検討しきれていませんけれども、村岡さんという方の論文(村岡啓一「再審判例にみる明白性の判断方法」自由と正義56巻11号 11頁)を見るかぎりにおいては、同様の傾向にあるようであります。
  個別に見るともっとひどいというか、限定的再評価説に立っているような決定もありますけれども、全体としては同様の傾向にあるということになります。
         (以下、次号)

 

大井町ビラまき報告

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