タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.218(2006年11月15日発行)

◎異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会
『再審の現状と富山再審・異議審』の課題 (3)

  中川孝博先生

大井町ビラまき報告


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「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(3)

中川孝博(龍谷大学教授)

前回に続き七月八日の富山再審集会での中川孝博先生の講演を掲載します。

4.どう戦うか?

  といったわけで、なんかだんだん暗くなってきましたけれども、この現状において非常に困難な道を、今、富山事件は歩んでいて、それを今後どう戦うかというところです。じゃ、これから明るくなるかと言えば、別に明るくならないんです。申し訳ありません。あまりドラマチックではないんですけれども、一応、考えているところを述べさせて頂きたいと思います。
  ざっと、棄却決定書きを読ませ頂いたかぎりでは、もちろん、私はこの弁護団会議などに参加しているわけではないし、これまでどのようなご苦労が弁護団にあったのかというのはわからないわけですけれども、これは後で、黒田先生などにそんなことはなかったというふうに言って頂ければいいと思いますが、決定書きなどを読むかぎりにおいて、私の感想を述べさせて頂きます。

外在的批判のみでは危険

  まず、外在的批判が非常に多い。つまり、確定判決の判断の過程そのものを内在的に批判するというよりも、こういうふうに見たらこうじゃないかと、別の見方からすればこうじゃないかというような言い方をする新証拠が非常に多いというふうに、率直に言ってもいいと思います。そうしますと、そう思わない裁判官については、見解の相違に過ぎませんなんて言って終わる可能性が非常に強いんですよね。その意味で外在的批判のみでは非常に危険だというふうに私は思います。

証拠評価をめぐるコミュニケーションの分析

  もう少し、内在的にですね、証拠評価をめぐるコミュニケーションを、今一度、分析しなおして、これまでの捜査段階を含め、全過程を通じて、検察官、被告人、弁護人、そして裁判所というのが、一定の証拠、どのような証拠についてどういう主張の応酬をして、それに対して裁判所がどう応答したのか。例えば、この点については言及しているけど、この点については無視しているというのは必ずあるはずです。あるいは、弁護人が強く主張したものを論理としては否定せずに、しかし、こういうふうに見ればおかしくはないというふうに一刀両断している。つまり、他人の仮説を消去せずに、自分の意見をごり押ししている部分が必ずあるはずです。そういった点はどこか。あるいは論理的に対応しているところはどこか。細かく見ると論理則違反ですね、矛盾していたり、あるいはこのAという結論を出すためには、aとbを検討しないと出せないにも関わらず、aしか検討していないとかですね。そういう論理則違反というものが必ずあるはずです。

「つぼ」の抽出、「つぼ」をおさえた新証拠の作成

  こういったさまざまな問題点を洗い直したうえで、確定判決自身の弱点、確定判決自身の「つぼ」と言いますか、そこを押さえれば崩れるみたいな、その「つぼ」というものをもう一回抽出する必要があるのではないかと思います。その「つぼ」を押さえた新証拠というものを作る必要があるのではないかと私は考えているわけです。
  私自身は今、全記録を頂いているわけですけれども、なかなか、それを分析する時間がなくて、これは法科大学院のせいですけれども。ああいう制度は・・・、まあいいや。余談は省きますけれども、いつかきちんとやろうと思っていますが、今のところ、十分にはできていませんが、ちょっとだけ見たかぎりで試論的に言わせて頂きましょう。

O供述について

  0さんにしておきますけれども、0さんの供述についてちょっと見てみますと、一審判決は0供述は信用できないと言っているわけですが、確定判決は0供述を信用できると言っているわけです。確定判決が、一審判決が抱いている疑いをどういう理屈で排斥しているかを見てみますと、いくつかあるわけですが、目立つのはここに挙げたものです。

確定判決が一審判決の疑問を排斥している箇所

@警察官証言に依拠した部分

  ひとつは、0さんというのは捜査段階で、写真面割帳を見て、一番最初に富山さんの写真だけを挙げているわけじゃないんですね。他の人の写真も挙げていて計4人の写真を挙げているんですが、それを捉えて、一審判決は必ずしも自信があったのではない疑いがあると言うんですね。確定的に富山さんが犯人だとは思っていなかったのではないか、自信がなかったんじゃないかというふうに疑問を提示しているわけです。
  それに対して、確定判決は、4人の写真を選別したのは自信がなかったからではなくて、慎重に選んだ結果なんだというふうに言っているわけです。慎重に選んだ結果だと判断した自分の評価が正しいということを理屈づけるために、なにを持ってきているかというと、一審では取調べられていないのですが、有罪判決

を出した二審では、実際にその写真面割帳を呈示した警察官を呼んできて取り調べています。その警察官証言によれば、この4人の写真というのは、あやふやにこうかもしれないというふうに4人並列的に出したのではないと、まずは富山さんをバシッと選んで、その後、3人、もしかしたらこっちかもしれないという形で、後出ししているのが3人なんで、明確に選び方が違うんだというようなことを警察官が言っています。確定判決は、その警察官の証言は信用できると言って、先程のような判断になっているわけですね。となると、このOさんの写真選別過程を問題ないと判断した要は、警察官証言です。というと警察官証言を崩さなければならないというふうになりますね。
  第二、写真面割りの際に警察官が暗示・誘導をしたのではないかという疑いを一審は抱いているわけですが、その暗示・誘導はなかったというふうに、確定判決は言い切っています。なぜそう言えるのかというのははっきり書いていませんが、おそらく二審で取り調べた警察官が、暗示・誘導などはしておりませんと言ったので、それを信用しているのでありましょう。とすると、ここでも問題になるのは警察官証言だということになります。
  第三ですが、面割りの後に、日比谷公園で面通しをしているわけですけれども、面通しの際に、Oさんは自ら独力で富山さんを当てることができなかったんですね。警察官に「あの人ではないか」と言われて、ああ、あの人ですというふうに言ったわけであります。かつ、100%間違いないという言い方をしていなくて、80%くらいですというような言い方をしたりしています。こういった一連の経緯を見て、確信を持って自ら被告人を見出すことができなかったのはやはりおかしいじゃないかという言い方を一審はしています。
  それに対して、そういうふうには言えないと二審では言っています。二審で、ここでも登場するのは、二審で取り調べられた警察官の証言です。その警察官の証言によると、富山さんを見た瞬間に、体を、全身をわなわな震わせていたというんですね。そういったことを警察官は言っているわけです。それを確定判決は信用しています。わなわなと震えていたということはやはり確信していたんじゃないかと、こういうふうに言っているわけであります。となると、これも警察官証言が問題になってきます。何を見ても警察官証言が要だということがわかりますよね。

A「弁護人が悪い」/ O証人のコミュニケーション特性

  さらには、一審判決の疑問に答えて、証言に食い違いや変遷がOさんの場合多いんですけれども、やむを得ないというふうに二審判決は言っています。しょうがないんだと。なぜかというと、弁護人が悪いんだと端的に言っています。つまり、反対尋問でOさんに対して、弁護人は容赦なき追及をしているではないか、容赦なき追及をして、そしたら一般人は混乱するのがあたりまえだというふうに言うわけです。かつ、Oさんには問題があって、「表現が稚拙」だったり、要するにレトリック豊かな人間ではなくて表現が稚拙だったり、「固執的弁明的な供述態度」というのもあるんです。弁護人に対して反発して、怒っていたりするので、混乱するのはやむを得ないというふうに言っています。
  これは、ちょっと興味深いんですけれども、表現の稚拙さとか、固執的弁明的な証言態度というのは、一審判決でも同じ表現を使っているんですね。但し、それは正反対の意味で、だから信用できないというふうに言っていたんですけれども、だからやむを得ないというふうに逆転されているんです。これは、論理的に突っ込めるところではないかなという気がしますね。
  というふうに、弁護人が悪いんだというふうにされてしまいました。となると、弁護人が悪いのかどうか、これを問題にしなければいけないと、正面突破しなければいけないのではないかというふうに思います。

Bテキスト解釈(「変遷していないと理解できる」)

  さらには、今度は捜査段階の調書ですけれども、Oさんの場合にはかなり供述変遷があって、細面とか言っていたのが、エラが張っていて角張っているというふうに最終的に変わるわけですけれども、全然違っているじゃないかと言って、信用できないと言ったのが一審なんですけれども、それに対して二審は、おもしろいんですけれども、にわかには理解しがたいんで覚えられないんですけれども、「細面というのは長めの顔を意味して、角張った顔と両立できる」ではないか、わかります?
  あと、やせ型と言っていたんですが、それががっちりしていると変わっているんですけど、このやせ型というのは、いわゆるのっぽというふうに解すればいいんじゃないか、そうすると、がっちりと必ずしも矛盾しないではないかという言い方をしています。
  こういうふうに、そんなふうに読めるかどうかは置いておきましょう、そういうふうに読む人が現に存在するわけです。それは事実として受け止めなければなりません。そして、この確定判決は、矛盾しているように見えるが実は矛盾していないんだと、解することもできるというふうにして一審の疑問を排斥しているわけであります。

弾劾の「つぼ」

  こういったふうに、O供述を信用できるというためには、一審判決の疑問を次から次へと排斥しなければいけなかった。その排斥するために使われたのが、警察官証言であり、弁護人が悪いという主張であり、こうも読めるではないかというテキスト解釈ですね。この3本が「つぼ」だというふうに私は思います。
  そうしますと、こうした「つぼ」を押さえるためには、正面突破ですね。警察官証言は信用ならんという弾劾をしなくちゃいけないし、そして、Oさん自体のコミュニケーション特性を分析して、Oさん側にどういう特性があるかだけではなくて、弁護側の質問というのはOさんにどういう影響を与えたのか、要するに、弁護人が悪かったのかどうかを端的に問題にしなければいけないと思いますし、調書のテキスト解釈についても、およそそう読めるのかということに関して、なんらかの主張が必要ではないかと思うわけです。

この「つぼ」を新証拠はおさえていたか

  このような主張というのを、新証拠、請求審の最初の段階で出された数々の新証拠は押さえていたのかどうかということに注目しますと、どうも押さえていないように見えます。

@警察官証言の信用性

  まず、警察官証言の信用性そのものを弾劾するような新証拠というのは出ていません。ただ、浜田さんの鑑定の中には、公判調書の引用がされています。その中で、警察官がどういう反対尋問を受けているかというのは若干紹介されていますけれども、特に、このテーマに関して意味がある分析というのはされていない。
  こんなふうに述べられたりしています。今野、今野というのは警察官ですが、「そのように質問しておりません」とか、「意識して調べはしておりません」というふうに否定し続けるけれども、「事は論理の問題であって、いくら強く否定しても通るものではない。第二期のO、Yの年令供述自体が、それを引き出した尋問をはっきり含意している」のだというふうな言い方をされています。
  つまり、取調官は一貫して暗示・誘導などはしていないということを言い続けるわけですね。その言い続ける供述自体に信用できない要素があるのだ。これはおかしいという要素がある。本当に意識していないんだったら、こんな言い方はしないだろうということを浜田さんが指摘しているわけではないんですね。紹介はしているけれども、事は論理の問題であってと、別の要素から、つまり年齢供述に変遷があるという調書のテキスト解釈から、暗示・誘導していたに違いないという言い方をされています。つまり、公判調書の引用にあまり意味はないんですよ、心理学分析の場合にね。
  といった形で、警察官証言それ自体から警察官の言っていることは信用ならんという分析はされていません。これは当然でありまして、おそらく浜田さんの依頼された事項というのは、警察官証言の信用性ではないと思いますから、それ自身をテーマにしていないので、意識されていないのは当然だと思いますけれども、それに代わるような新証拠もないという状況なんですね。

AO証人のコミュニケーション・パターン(「弁護人が悪い」のか)

  第二の、弁護人が悪いのかという点でのOのコミュニケーションのパターン。Oさん自身は、どういう問いかけ、尋問者に対してどういう問いかけをするパターンにあるのか。つまり、迎合しやすい体質なのか、暗示・誘導を受けやすい体質なのか、こういったことをまさに浜田さんが分析されているわけですね。それは、最終的には調書の分析に行っているわけでけれども、その捜査段階の調書の分析にとって要となるのが、公判でのOさんの証言の分析なんですね。その証言パターンを裏付けしたうえで、こういうパターンを持っているOさんは、結局、捜査、取調べ段階でもこういうふうにやっていたという、推論過程をとられるわけですけれども、ここもざっと読んだところ、弁護人が悪いんだという確定判決の判断を内在的には批判していないし、それ自体、弁護人が悪いのかということを直接テーマにもされていないように思います。
  例えば、こういう表現をされています。まず、Oさんの反対尋問に対する対応が、公判調書から引用されています。これは、Oさんのタクシーに乗せていた人というのがいるんですが、そのタクシーに乗せていた人は何歳くらいの人かということを聞いているんですが、弁護人は、
「男の人は何才ぐらいの人ですか。」と聞いています。
(O)「四七才ぐらいかな。四七―四八ぐらいだと思います。」と答える。
「四七才から四八才ぐらいの感じですか。」と聞かれて、
(O)「から五〇までの間。四〇から五〇の間ぐらい。」と言う。
「大分幅が出てきたが、何歳ぐらいなの。」
(O)「それは、わからん。」
「最初四七か八ぐらいと言われた。その根拠は何ですか。」
(O)「大体そのぐらいに見えました。」
「ぼくが聞いているのは、最初何歳ぐらいかと尋ねた時に、四七か八ぐらいだと言われたでしょう。」
(O)「はい。」
「ところが、その後すぐに今度は、四〇か五〇歳ぐらいの間だと、幅を取られて、次には、はっきりしないんだと言われて、そして今度はまた四七か四八ぐらいだと言われたでしょう。何で、そんなに答えがクルクル変わるんですか。」
(O)「四七、八に見えたんだけど・・・・・わかんない。」

 こういった公判調書がまず引用されて、浜田さんはこう分析されているわけです。
  「ごく素朴な応答ではある。しかし、これが証言としてまぎらわしいものであることは間違いない。はっきりしないことははっきりしないで、最初からその点を考慮して幅をもたせればよいところ、印象でパッと答えて、あとでこれを修正していく。こういう応答をする供述者に対して、尋問者がある仮説を強く抱いていれば、これを誘導することは容易であろう。」
  つまり、思いつきでパッと言うのがOさんであって、一定の誘導にかければ、すぐそれに乗る人間なんだということを、このような尋問から分析されているわけです。そういうふうに見ることはもちろん可能だと思います。みなさんはどうでしょうか。いいかげんな人だなというふうに思われたでしょうか。
  が、実際に、裁判官はそう見ていないわけですよね。そして、浜田鑑定を推測の要素が入っている、推測に過ぎないんじゃないかというふうに言っているわけです。再審請求に勝つためには、裁判官は実際、どう考えたんだろうかというふうに、やっぱり裁判官の立場に立って考える必要があると思うんですね。そうすると、先程言いましたように、弁護人が悪いからだ、この仮説に立って、もう一回、このテキストを読み直してみましょう。Oさんというのはいいかげんで信用できない人というより、弁護人にいたぶられて慎重になっている人間、こういう仮説に立って読み直してみましょうね。そうすると、
「男の人は何才くらいですか。」
(また、なんか聞いて来たな。)   「四七才から八才ぐらいかな。」
「四七から八ぐらいの感じですか。」
(オウム返しに聞いてきたぞ。何かこれはひっかけようとしているのではないだろうか。やばいな。ちょっと幅を持たせなければならない。)
「から五〇までの間。」
(ちょっとそれじゃ足りないな)「四〇から五〇ぐらい」(と言っておこうか。)
「大分幅が出てきたが、何歳ぐらいなんですか。」
(そんなこと言われても、また    なんか聞く)「わからん。」
  こういうふうにですね、弁護人がいろいろ聞いてくるので、それをずっと耐えて来て大分怒っているので、何か聞いてきたら、また僕が答えようがさらに突っ込んでくるんだな、揚げ足を取って突っ込んでくるんだろうというふうに、慎重に答えなければならないという考えでこういう発言をしたと思ったら、おそらくこういう発言になる、そういう人も出てくるというふうにも見えるのではないでしょうか。どうでしょうか。そう思えばそういうふうに見えてくるような文章なんですね。
  そうしますと、浜田さんはここから浜田さんの仮説を出すだけではなくて、それだけでは足りなくて、確定判決が抱いているような、弁護人が悪いからこういう応答になるんだという仮説は成り立たないんだという分析までしてもらわなければならない。その仮説を消去して、初めて、浜田さんがここで言われているOさんはいいかげんなんだということを、暗示・誘導に乗りやすいんだということが説得力をもって出てくるわけです。つまり、浜田さんのようには読まない、考えの違う裁判官をも説得させる証拠に初めてなるわけであります。そこまでやってほしいわけなんですが、残念ながらそこまでは浜田さんの分析は及んでいないわけであります。

B調書のテキスト解釈

  最後の調書のテキスト解釈ですが、細面とかやせ型なんですけれども、浜田鑑定中に言及はありますけれども、これも内在的な批判はされていません。浜田鑑定は、確定判決の見方は「いかにも強引であって、素直に受け入れられるものではあるまい。とりわけ一〇月七日の一回目の供述では『細面、ヤセ型』となっていたのであるから、これを翌年一月一八日の検面供述での『全体的に角ばった顔、ガッチリ』と比べて、単なる表現の違いと言うのはまず無理なことだと言うべきである。」と言っているわけですね。「まず無理だ」という結論だけがあるんですね。
  しかし、まず無理ではない、と言っているわけですよ、確定判決は。そうすると、それに対して根拠を示さずに、「まず無理だ」というだけでは水掛け論になってしまうんですね。水掛け論で、残念ながら負けてしまうのは、再審請求をする人の方なんですよね。そうしますと、困難ではありますが、論理的に、あるいは心理学的に、このように読むことはおよそできないということを浜田さんは分析する必要があるのではないか、というふうに思っているわけです。

確定判決の「つぼ」を崩す

  こういったふうに、私自身は、ざっと見て「つぼ」だと思っているところは、新証拠に関しては全然ないんですよね。私自身は、この富山事件の展望というのをどうすればいいのかということに関しては、残念ながら展望は開けないんですけれども。開けないんですが、あえて、こういった点、今までの新証拠では、明示的に取り上げていない点というのを、これはごく一部の資料を見ただけですからね、実際にさまざまな公判記録等を精査したら、また別の問題点が浮かびあがってくるかもしれません。そこはまだ留保しておきますけれども、もう一度、こういった確定判決の「つぼ」を崩すという点から記録を精査しなおして、新証拠の主張を補強するという作業がこれから必要になってくるのではないか。
  本当は、こういうことは僕は言いたくないわけです。僕は、この弁護団が提出された新証拠で、本来、再審請求が開かれて当然だ、認められて当然だというふうに思います。浜田さんのも、裁判官が抱いた仮説を完全に消去するところまでは行っていないけれども、少なくとも裁判官の考え方と同等に、少なくとも同等に成り立ち得る仮説は提示しているわけです。それを論理的に消去できないのであれば、浜田鑑定を完全には否定できていないわけですから、否定できない以上、それを認めて、決着は再審公判で、裁判をやり直して認めろというのが筋だというふうに思うんですが、現状に鑑みると、まずは再審請求審で無罪心証を抱いてもらわなければならない。ここでは、請求人に対して、非常に厳しい状況の中ではそれなりの厳しい準備が必要になるのではないか、そのためにはどうすればいいのかということについて、私見を提示したと、こういうことであります。どうもありがとうございました。
  (龍谷大学・法学部教授)

 

大井町ビラまき報告

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休載

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