東京高裁第4刑事部(大野市太郎裁判長)は検察官に証拠開示を命令してください再審請求棄却決定を取り消して、再審開始決定を出してください |
□素晴らしい才能の持ち主ひさしぶりに映画を観に行きました。それも見応えのある映画を。 周防さんが新しい映画を作っているのは知っていました。95年暮れに出獄して最初に観た映画が『Shall We ダンス?』で、感想はニュースに載せました。その監督とある勉強会で出会い、取材というよりは猛烈に勉強に励む姿勢に感心するとともに、痴漢冤罪をとりあげるというのでどういう切り口にするのか興味津々で期待していました。 そして、10月に「ボクつくりました。観てください」とあっては、試写会に足を運ばないわけにはいきません。 期待は裏切られませんでした。今号のゲストライターである十亀(そがめ)さんも触れていますが、この作品は監督自身が「日本の刑事司法の間違ったあり方への怒りから出発したから正攻法で描かざるを得なかった」と言うとおりの手法で、しかし一瞬も飽きさせないものに仕上がっています。 じつは、今年の前半だったと思いますが、NHKのある番組で草苅民代さん(監督の配偶者)が『Shall We ダンス?』のアメリカリメイク版の発表会に招かれた時のことを語っているのを聞きました。テレビの音声だけを聞いたのですが、そのなかで彼女は「試写会で私が涙を流しているのを見て、作品に感動していると勘違いしたようだがそうではない。このリメイク版より私の夫の作品の方がはるかに優れている。私の夫はなんと素晴らしい才能の持ち主だろうとあらためて実感した感動の涙だったのだ」と誇らしく述べていました。まったく同感です。判決投票用紙の感想コーナーには「周防さん、やはりあなたは『素晴らしい才能の持ち主』だと思います」と書いてきました。 映画そのものについては亀さん(そうです十亀さんも「亀さん」なのです。ただし、うちの亀さんと違って「瀬戸内育ちの海の亀さん」なのですが)にゆずります。この作品は日本の刑事裁判の現実をリアルに描き出しています。裁判官の異動による有罪への誘導という司法行政のやり方は、私の原審・東京高裁での逆転有罪がそうでした(一審・無罪の維持が動かしがたいとみるや、裁判長以下3名の裁判官全員を更迭しました)。 とにかく一人でも多くの人に観ていただきたい、そして日本の刑事裁判の実態を知っていただきたいと切に願ってやみません。(富山保信) |
□周防監督の新作『それでもボクはやってない』を観ました十亀弘史 ひどい風邪をひいていました。咳がとまらない。体温の調節がうまく行かず、ふいに38度の熱が出たりする。身体がだるい。背中がゾクゾクする。しかし、なのです。無料で観られる映画があるとなると、どうしたって出掛けずにいられません。しかも、周防正行監督の新作。11月26日に、『それでもボクはやってない』の最初の試写会があったのです。寝てなどいられませんでした。 冤罪についての映画だとは聞いていましたが、それ以上の予備知識は持っていませんでした。周防監督といえば、『シコふんじゃった。』と『Shall We ダンス?』を観ています(どちらも私の獄中時代に封切られていますので、ビデオでなのですが)。両作ともに、温かく解放的な笑いに満ちた、とても楽しい映画でした。だから今回もどこかで大いに笑わせる作品なのかな、と考えていました。しかし、ちがいました。怒りの映画なのです。上映の前に登壇した監督が言いました。「この作品は、日本の刑事司法の間違ったあり方への怒りから出発して作ったものです」。 この映画を作るために監督は、3年間、冤罪事件についての取材を重ねたということです。冤罪被告の支援集会やさらに弁護団会議にも同席したりしています。日本の刑事裁判の99・9%という異様に高い有罪率や、建前とは逆に立証責任が検察官から被告と弁護人に転嫁され、被告の側が無罪を証明しなければならない裁判構造などに強い疑問を抱いたのです。「日本の裁判は、ひどくまちがっている。これからも、ライフワークのような形で、引き続き裁判をテーマにした映画を作って行きたい」。刑事司法を糾す周防監督の真摯さと真剣さに、私は思わず座り直して背筋を正しました。 監督は、作品そのものについては、「怒りを露わにすると、観る人が退いてしまうこともあるので、客観的に作るようにした。また、わざと面白くするようなことはしなかった」と述べました。周防作品にはおなじみの竹中直人がちょっと笑わせる場面などもありますが、大変リアルに作られています。 × × × リアルというのは「描きたいものをありのままに描く」というのとは少し違うと思っています。一貫した立場を持して、常にその立場から対象の本質を掴みとろうとする姿勢から生み出されるものではないでしょうか。この映画の冒頭には、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という字幕が出てきます。冤罪ほど許し難い犯罪はない、というその立場、それが『それでもボクはやってない』が拠って立つ「一貫した立場」です。そして、そのような、現状の司法権力と鋭く対決する姿勢が貫かれているからこそ、平気で不公正を犯してしまう日本の刑事法廷が、見事な臨場感と迫真力をもって、スクリーンにしっかりと定着させられているのです。持続する強い批判の力が、「迎賓館・横田爆取でっち上げ弾圧事件」の「被告」として20年間法廷に立ってきた私にも、少しも違和感を感じさせない法廷シーンのリアルさを生み出しています。 『それでも−』の直接の題材は痴漢冤罪事件です。電車の中で痴漢に間違われた青年が、被害者の証言だけによって、有罪判決を受けてしまうという粗筋です(ただし、青年の有罪・無罪は、最終的には映画を観終えた観客が決めるもの、という構成になっています)。 青年は、初めは、実際にはめったにいない良い裁判長に当たって救われそうに見えます。その裁判長は、高校生のインタビューに対して、「裁判官にとって一番大事なことは無実の人を罰しないことです」といった答えを返して、周囲から浮く勇気のある判事です(ちなみに、元裁判官の秋山賢三氏は、岩波新書の『裁判官はなぜ誤るのか』に「刑事裁判の最大の使命は、冤罪を生まないことである」と書いています)。ところが、裁判長が交替してしまいます。新しい判事は、典型的な日本の刑事裁判官。頭から「被告は有罪」と決め込み、事実についての想像力を一切働かせようとせず、弁護側の証拠調べ請求を次々に却下します。日常業務として坦々と不公正を貫くところが本当に卑劣です。腐りきっているのに、表情も崩さず特に昂ぶることもないのが、一層気味悪く、さらに卑劣です。そしてそれが、日本の刑事裁判の現状の構造そのものなのです。 × × × 私の咳は映画を観ている間も止まりませんでした。ただ、どういう訳か、左隣には度々鼻を啜り上げる男性、右隣にはやはり時々咳をする男性が坐って両側が風邪の人となり、気遣いの必要がやや薄れたのは助かりました。それでも、出来るだけ、映画が大きな音楽や効果音を発しているタイミングに合わせて咳をしよう、とは思っていたのです。しかし、『それでも―』は、極めて音楽の少ない映画で、しかも緊迫した静かなシーンが連続します。咳の出し辛い映画なのです。ただ、一個所、大変印象深い強い音が発せられる場面があります。 被告の青年は、無実を訴えて苦闘を続けます。母親や友人、瀬戸朝香と役所広司が演じる弁護人が青年と共にたたかいます。そして弁護側立証を前にして、被害者の証言どおりの再現実験を行い、被害者証言の矛盾を発見しようとします。 その実験の中で「ドンッ」という強い音が発せられるのです。青年の肘と電車のドアがぶつかる音なのですが、その音がどういう意味を持つのかについては観てのお楽しみとして、ここでは書きません。ただ、その「ドンッ」は、まさに真実を明らかにする音なのです。刑事や検察官や裁判官の(そして被害者の認識の)誤りを、鋭く突き崩す音なのです。その「ドンッ」は裁判の誤りを、事実の力をもって、真っ向から弾劾し、映画の中で何度か響かされています。私には周防監督の強い怒りをも伝える音だと感じられました。 × × × 現在の日本の刑事司法の誤りを、これほど見事に「客観的に」描き出した劇映画を外に知りません。警察や検察が、職業としてどれほど危険で悪辣な犯罪を犯し、裁判所がどれほど無反省にその犯罪に加担して行くのか、その経緯と構造をつぶさに知ることができます。いつでも、誰でもが、突然に「容疑者」にされ、さらに「被告」にもされてしまうのです。そして、大抵の場合裁判所は、その被告を救ったりはせず、それどころか一層の暗闇へと突き落とします。被告とされた者が最後の勝利を手にするまでに、どれほどの屈辱と口惜しさを味わい、マイナスから出発してどれほどの苦闘を重ねなければならないか、映画はよく伝えています。 (12月10日・そがめひろふみ) |
【十亀さんは「爆発物取締罰則違反」でデッチあげ逮捕・起訴され、16年もの違法・不当な未決勾留とたたかって一審無罪判決をかちとりましたが、東京高裁・中川裁判長(私の再審請求を棄却した、あの中川です)によって「差し戻し」とされ、現在上告中です。真実=無罪確定めざして、ともにたたかいましょう】 |
うり美・・・・・1 今日は、寒い。やはり冬なのだと感じる。 67歳の男性が富山さんの前に立ち止まり何やら話しこんでいる。そのかたの奥様の旧姓が「富山(とみやま)」らしく、しかもそのかたのご子息は富山さんと同じ大学出身だというので二人は盛り上がっている。 そうだ、映画を観に行こう。(うり美)
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