タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.228(2007年9月25日発行)

阿藤周平さんからのメッセージ
『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』の感想

大井町ビラまき報告


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□阿藤周平さんからのメッセージ

 9月2日、富山さんが大阪で阿藤周平さんとお会いしました。左の写真は、その際、東京の事務局と電話で話している写真です。元気そうな声がきけて事務局も安心いたしました。

 阿藤さんから、メッセージを頂きましたので掲載します。

メッセージ ☆☆☆

 

 かちとる会の皆さん、久しく御無沙汰いたしていますが、お変わりありませんか。
  今年の夏は猛烈な暑さでしたが、ようやく秋のきざしが見えて来ました。
  私は毎日元気にしていますが、何分にも体力が弱り毎日が大変でした。わたしも今年83歳になりました。
  富山再審もすでに10年を過ぎた現在、みなさんの懸命なる闘いに頭が下がります。何としても真実は真実として、闘いを勝ち抜かねばなりません。
  今、裁判は大きく変わろうとしていますが、真実が必ず勝利するときはやって来ます。権力に負けることなく一人でも多くのみなさんの力を結集して闘いましょう。もう一度、みなさんと共に裁判に対して考えてみる機会をつくりたいと心しています。
  真実は真実としてひるむことなく闘い続けることによって必ず勝利あることを信じています。
  共にがんばりましょう。  阿藤 周平

□『極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』

スコット・トゥロー著 指宿信・岩川直子訳(岩波書店)の感想

 富山再審の証拠開示について「意見書」を提出してくださった指宿先生から、「私が訳した本です。ぜひ読んでください」と、この本を紹介された。ちょうど「光市母子殺害事件」の裁判をめぐって安田弁護士たちへの非難が集中していた時でもあった。早速買って来た。読み始めてすぐに座り直した。そして、付箋とペン、メモ用紙を手元に用意した。こういう本は久しぶりだ。
 原作者スコット・トゥローは、『推定無罪』、『立証責任』等、数々の有名な著作で知られるだけでなく、現役の弁護士としても活躍しており、一旦は死刑が言い渡された冤罪事件に取り組み、死刑判決を覆し無罪をかちとっている。
 実を言うと、死刑問題については、ずっと避けてきたところがある。もちろん、死刑には反対だった。八海事件の阿藤周平さんがよく言われるように、もし裁判が誤った場合取り返しがつかない、私もそう考えてきた。しかし、それ以上深く考えずに来た。この本は、私が考えるのを避けてきた「死刑とは何か」ということについて、改めて考えさせた。指宿先生が「あとがき」で「『死刑制度はあったほうがよいのか』という問いに向き合うときに、どのような筋道でこの問題を考えなければいけないかを示す、思索の道案内として読まれるべき書であろう」と書かれているが、私もこの「筋道」を辿ったのである。
 冤罪であるにもかかわらず死刑を執行される悲劇を目の当たりにし、また、無実の証拠があるにもかかわらず、有罪立証に執着する警察官、検察官や裁判官を見て、著者は死刑制度に疑問を抱く。しかし、そのたびに言いようもない悲惨な事件が起き、心は揺れ戻る。
スコット・トゥローは、「死刑制度に警告を促す多くの事例を経験」するが、死刑制度については次のように考えていたと書いている。
 「私は問われれば、自分のことを死刑不可知論者であると答えていた。今こそ自分の立場をはっきり示すことができると思うたびに、私を反対の方向に引き戻すような事例が現れた。1994年に、ヘルナンデスの代理人を務め、死刑がどれほど間違った事態を引き起こすかを目にした際、ジョン・ウェイン・ゲイシィの死刑執行が予定された。」
 このゲイシィの事件とは、33名の若い男性をレイプし、残虐な方法で殺害したという事例である。著者は「この処刑を不当な処置と呼ぶことはできなかった」としている。
 その著者が、イリノイ州の「死刑諮問委員会」のメンバーに任命される。
 死刑制度支持者だったジョージ・ライアンは、知事就任後、「イリノイ州で、三分の一以上の裁判で、罪のない者、あるいはもう一度考え直してみればより軽い刑が適当とされた者に、死刑を科していた」という事実に、「この制度の度重なる誤りを次第に認識するように」なる。
 2000年1月、イリノイ州知事ジョージ・ライアンは、死刑執行の一時停止を宣言し、その後、「イリノイ州の死刑制度改革に関して知事に助言を与えるための、一四名の『最も優れた』メンバーからなる委員会を任命」した。著者もその委員の一人だった。
 委員会に参加することは、スコット・トゥローにとって、死刑問題について「決断しなければならない」時がくることだった。
 この本は、イリノイ州の「死刑諮問委員会」に招聘され、その委員会での調査、討論を通して、それまでどちらかと言えば死刑容認論者だった著者が死刑廃止論に行き着くまでの「心の軌跡」を記したものである。

 「無実の者に対する有罪判決」、「被害者」、「抑止」、「道徳的なバランス―究極の悪に対する究極刑」、「贖罪」等の項で、著者は死刑についてひとつひとつ丹念に検証していく。
 「無実の者に対する有罪判決」の項では、著者自身の経験を通して、「私は、(実際は無実だった)アレックスとローランドの事件に対するこの有罪判決を説明するときは、被告人席に座っていればマザー・テレサでさえも有罪の危険にさらされていたかもしれない、と言ったものだ。陪審は極悪非道な人物をわれわれの社会に野放しにする危険は冒したくないため、常に合理的な疑いの余地のない証拠を求めるとは限らないのである」とし、「死刑判決で特に誤判が生まれる傾向があるという事実は、我々が未だ制度化も、あるいは、考案もできていないセーフガードを作るのか、それとも、そもそも死刑制度を存続させるかどうかを再考するかの、どちらかを選択するよう求めているのである」としている。
 「被害者の権利」や遺族の感情については、「たとえ殺人犯の処刑を求める遺族の願いが、一般に正義とは何であるかという視点を反映したものであっても、それらの願いを現実に実施するのは公正とはいえないだろう」、「死刑判決を受けるかどうかが遺族の感情しだいである、というのは、同様の犯罪では同様の判決を受ける、という基本的な観念に反することになる」、「民主主義においては、どのような少数派も、たとえその人々の悲劇が我々の心を捉えて離さないような場合でも、彼らが我々全員を代弁するような権限をもってはいけないのである」としている。
 死刑の抑止力という点では、「(統計上は)死刑を採用している州での殺人率の方が高かったのである。実際、テキサス州では1976年以来、合衆国内における死刑執行の三分の一以上が行われているが、この州では全国平均をはるかに上回る殺人率が記録されている。一方、過去年間では、死刑制度のない州での殺人率を合算したものは、死刑制度を持つ州よりも常に低かっただけでなく、この二つの差は広がり続けている」と疑問を呈している。
 「道徳的なバランス―究極の悪に対する究極刑」という課題については、「道徳的なバランスを議論する以上、正確さという重大な責任が裁判制度には求められるのである。執行されるすべての死刑は正しいものでなければならない」とし、「なにが究極の悪であるかを正確に判断する機能を備えていなければならず、また誰がその犯罪をおこなったのかを間違いなく判断できなければならない」にもかかわらず、実際は、著者が弁護した事件を含む多くの事件で、誤った死刑判決が言い渡されている点を指摘している。また、人種問題が死刑判決に大きな影響を及ぼしている事実も指摘されている。「白人を殺害した犯人は、黒人を殺害した場合よりも、三・五倍の確率で死刑判決を受ける可能性が高くなる。」
 「贖罪」という観点については、「『極悪』を罰することの象徴性ということになれば、必然的に、更生と贖罪といった事柄が考慮の対象とならざるをえない」、「唯一、確かなことは、死刑はその改心の機会を奪ってしまう」ことだとしている。

 こうした検討の過程を通して、2002年4月、委員会は知事に報告書を提出した。その中では、「死刑適用を可能とする事由を減らす」等、改革のためのの勧告意見が述べられている。
 「中でも我々は、無実の者に有罪判決を下してしまうリスクを低くするための改革を、強く主張した。」
「死刑適用の可能性がある事件に関しては、警察署における容疑者のすべての取調べを、終始、ビデオに収録するよう勧告した。また、目撃者による容疑者確認の信頼性をもっと高めるために、容疑者を並べて行なう面通しの方法を変更するよう提案した。」等々。
 「死刑制度は、未だにイリノイ州の政治的多数派を支配しているという認識から、死刑が存続するという前提で委員会は進められ、我々の正式な勧告は、期待される改革に限定された」が、当初は死刑反対派と宣言することをためらっていた委員会のメンバーも含めて、二年間をかけてこの問題を検討してきた委員の大多数が死刑に反対を表明した。著者もその一人である。
 委員会が提出したこの改革案は、州議会のいろいろな思惑の中、制定されるまでには至っていないが、ライアン知事は、知事を辞職する直前の2003年1月、無罪を理由に四名の死刑囚に恩赦を与え、残る死刑囚全員を一括で減刑した。
 著者は本書の最後で、「私が委員会に在籍した期間にひとつ学んだことがあるとすれば、それは、私は死刑制度の問題点に対して、間違ったアプローチで臨んでいたということである。今後も、常に極刑の必要性を大いに叫ぶケースが現れることだろう。しかしそれは、本当の問題ではないのだ。それに代わる重要な問題とは、無実の者や死刑に値しない者に刑を科してしまうことなく、非常にまれな死刑にふさわしいケースを適正に取り扱う司法制度を構築することが可能であろうか、ということである」と述べている。そして、「私はやっとこの問題に終止符を打つことができたように思える」として、死刑制度について、「否」とする。
詳しくは、ぜひ本書に直接あたって、著者のたどった過程を読んで頂きたい。

 近しい人が亡くなることの喪失感。それが見ず知らずの者による理不尽な殺人などの場合、残された遺族に計り知れない苦悩をもたらすだろう。実際に自分の近しい人を殺されたら、その時、私はどう思うのだろう。死刑反対だと言えるのだろうか。殺した相手をわが手で殺してやりたい、同じような苦しみを味合わせてやりたいと願うのではないだろうか。
 しかし、この本を読んで、「死刑」という問題はそうした個別の、個人の感情とは違う次元で考えなければならないのではないかと思った。死刑という問題は、この本にもあるように「国家に国民を殺す権利を付与するのか否か」という問題なのだ。国家という絶大な権力を持った機関に、そうした権限を与えていいのか、その時、国家というシステムは誤らないという保証があるのか、いや、誤らないと言えるシステムは果して可能なのか。
 「国家」を前提とするスコット・トゥローとは考え方が違うが、この本を読んで、私は改めて、死刑制度には反対だと思った。国家というシステムは、誤らないという保証を本質的に持ち得ないシステムである。
スコット・トゥローという人は、アメリカの良心的な部分なのだろう。そのうえで、指宿先生が、「訳者あとがき」で、「米国の『ポスト・セプテンバー・イレブン』の状況についてだが、米国内ではひとたびテロ支援の容疑を受けると、司法審査を経ない長期の拘束が可能であり、これに対する批判は、残念ながら本書では取り上げられていない。また、イラン、中国、そしてベトナムと並ぶ死刑大国である米国が、高い殺人事件の発生率を根拠に死刑制度を正当化できるのかについて、十分な説明が欠けている点も、指摘されよう。つまり、米国社会を内省する力の足りなさを感じざるを得ない」としている点は鋭い指摘である。アフガニスタンから連れ去られ、まともな裁判さえ受けることなく、キューバにあるアメリカ軍基地に囚われているアフガニスタンの人々はどうなったのかと、死刑問題をめぐっての緻密かつ真摯な議論の過程を追いながら、私も思った。
 死刑問題については、私自身の中に、まだまだ掘り下げていくべき問題があると思っている。今回はこれで本書への感想を終えるが、引き続き、この問題について考えていきたいと思う。本書は、そう思わせる、避けて来た問題に向かわせる力を持った本だった。   (山村)

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□著者 スコット・トゥロー

 1949年、アメリカ・シカゴ生まれ。スタンフォード大学大学院で創作を学んだ後、ハーヴァード・ロースクールに入学、法曹界を目指した。シカゴ地区連邦検察局検事補の職にあった年に発表した『推定無罪』がベストセラーとなり、ハリウッドで映画化され世界的ヒットとなる。創作活動を行うかたわら現役の弁護士としても活躍。著書に『立証責任』『有罪答弁』『われらが父たちの掟』『死刑判決』『囮弁護士』などがある。

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□訳者 指宿信先生

 立命館大学法科大学院教授。法学博士。著書等として、『刑事手続打切りの研究―ポスト公訴権濫用論の展望』(日本評論社、1995年)、(編著)『サイバースペース法』(日本評論社、2000年)(監訳)ムミア・アブ・ジャマール著今井恭平役『死の影の谷間から』(現代人文社、2001年)、(監修)いしかわ・村井・藤井著『リーガル・リサーチ』(日本評論社、2003年)、(編著)『インターネット法情報ガイド』(日本評論社、2004年など)

※以上、『極刑 死刑をめぐる一法律家の 思索』の紹介文より

大井町ビラまき報告

亀さん・・・・・4名
富山さん・・・・3名
山村さん・・・・1名
うり美・・・・・0名

 今日のビラまきは、残暑厳しいなか始まった。ときおり吹き抜ける生暖かい風。まだ風があるだけでも救われた思いだ。
 夏バテなのか体調不良の富山さん。それでもちゃっかり大井町の救世主Mさんから署名をもらい、御満悦。そのMさんと、なにやら楽しげに話こんでいる。
 あとで聞いた話によるとMさんが、「もっと目新しいことをやったらどうか。僕だったらこうやる」と言って『上海帰りのリル』を替え歌にして披露していたのだそうだ。
 その話を聞いた山村さんは、富山さんならどのようになるだろうと考え『刑務所帰りのトミー』かな、と想像し一人笑っていたそうだ。その山村さんにも、突然署名者があらわれ一名獲得。
 私は「何の努力もしないで取れたじゃん」と毒付いた。
 気が付くと亀さんはいつの間にか4名も獲得していた。
 帰りの電車で「なぜ亀さんは署名がとれるのか」で、ひとしきり話が盛り上がった。
「その場の風景に溶け込んでいる」「亀さんだとなんか署名したくなる」等々意見が出たのだが、どうやら署名をしたくなるオーラがでてるらしい。どんなオーラだろ…。 (うり美)

大井町のYさんから

休載

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