タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース

●ニュースNo.236(2008年5月25日発行)

浜田寿美男先生の講演(その2)

大井町ビラまき報告


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3・22 富山集会 浜田寿美男先生の講演(その2)

福岡事件と富山事件

なぜ冤罪は繰り返されるのか         3・22 富山集会

―福岡事件(1947年)と富山事件(1974年)―

1「証拠から人を求める」べきところ「人から証拠を求める」事実認定がのさばっている
   刑事訴訟法第317条には「事実の認定は、証拠による」と定められている。しかし現実には、「証拠は事実の認定による」という側面がそこに入り込んでいる。とりわけ供述証拠は、人の口をついて出てくる言葉であるがゆえに、物的証拠と 違って、状況に引きずられて動く。
2 福岡事件の場合
   1947年5月20日、福岡市内の路上で、2人の闇ブローカーが拳銃で射殺され、1週間ほどして、西武雄、石井健治郎ほか5人が逮捕された。西、石井は、 冤罪を訴えたが、旧刑訴事件であったこともあり、捜査段階での自白を唯一の証拠として死刑が言い渡された。
   1948年 2月27日 福岡地裁 西、石井に死刑判決
   1951年11月27日 福岡高裁 西、石井の控訴棄却
   1956年 4月17日 最高裁  上告棄却 二人の死刑確定
   第一次再審請求(石井1956年)、第二次再審請求(石井1957年)、第三次再審請求(石井・西1964年)、第四次再審請求(西1965年)、第五次再審請求(石井1965年)
   1975年6月17日 石井恩赦で「無期懲役」に減刑
           同日 西は死刑を執行される
   現在、再度の再審請求を行っている。
3 福岡事件の事実認定
   この事件の裁判では、「共犯者」とされた7人の供述証拠の全体から事実の認定が行われたのではなく、逆に、ある事実を認定したうえで、その認定に合致するごく一部の供述だけを選び出し摘示して、これを証拠とし、その他の供述はすべて 「無きが如きもの」と して完全に無視された。(図1参照)
   「証拠から人」ではなく「人から証拠」というこの事実認定の仕方は、まことに驚くべきものである。旧刑訴だからこんなことになるのだと思いたいところだが、よく考えてみると、たったいまの現在にもまったく同じことが起こっている。
4 富山事件の事実認定と証拠採用
   富山事件で法廷に提出された供述証拠は、捜査過程で聴取された供述証拠全体のなかのごく一部である。そして法廷に提出されなかった供述はすべて「無きが如きもの」として完全に無視された。(図2参照)
   さらには法廷に提出された供述証拠のなかから、裁判所が結論的に事実として認定した供述部分だけを、事実上、有罪証拠として取り出して、それで有罪認定をやってしまっている。(図3、図4参照)
   このような事実認定が冤罪を生み出し続けている。厳密な意味で「事実の認定は、証拠による」と言える事実認定を、私たちはどのようにして取り戻していけばよいのか。

 福岡事件と富山事件。共通点はなにがあるだろう・・・・・。

なぜ冤罪は繰り返されるのか--福岡事件と富山事件(その2)

 三月二二日に行われた富山再審集会での浜田寿美男先生の講演を三回に分けて掲載します。見出しは編集者の責任でつけさせて頂きました。

 福岡事件

 「なぜ冤罪は繰り返されるのか」ということでレジュメを用意させて頂きました。これまでの三回では富山事件をテーマに話をして来ました。合わせてなぜ冤罪は繰り返されるのかというテーマを頂きましたので、他の事件と絡めてお話をしたい。同じような構図があるんだということを、ここではメインのテーマにしてお話したいと思っています。
  何を持って来ようかと思ったのですが、福岡事件という事件を持ってきました。福岡事件も再審請求をしていて、鑑定書を書いてほしいということで、つい一週間前、三月一六日に弁護人に渡して、四月一日付で福岡高裁に提出することになっています。これが一番、僕にとって新鮮なものですから、その話を少し重ねてお話しようかなと思っております。
  福岡事件は一九四七年、富山事件は一九七四年の事件で、三〇年近く間があるのですが、一九七四年から今日までさらに三〇年経っています。一九四五年が敗戦の年ですから、その時代は大変だっただろうと思います。いわゆる治安維持法、横浜事件の問題も報告されていましたけれども、あの延長線上で、新しい刑事訴訟法ができる以前の事件ですから、とんでもない取調べをしていたに違いない。

 一九四七年〜一九七四年  - 変わらない構図

 一九四七年から一九七四年の事件まで、これだけ時間が経った後だとそんなことはなかろうと思われるかもしれませんが、全く同じ構図だなと私は思っております。そういう目で見た時に、一九七四年から今日までもほとんど変わっていないですね。
  最近引き受けた一番新しい事件は痴漢冤罪事件で、電車内の痴漢事件の被害者供述の鑑定依頼を受けました。今日もこのきゅりあんで弁護士さんとお会いしていました。電車内の痴漢事件の再審請求です。痴漢事件の再審請求というのはとんでもなく大変です。電車内の痴漢で捕まって、ずっと否認を通したために、裁判をひきずって、ひきずって、身柄も一五〇日取られまして、保釈になった後も裁判は継続して、結局、最高裁まで行って、負けた。有罪判決がそのまま維持されて、否認をしているから情状酌量の余地なしということで実刑一年六ヶ月。出所した後に、それでもやっぱりがまんならないということで、ご本人が再審請求をしたいということなんです。
  その事件の被害者供述、それから請求人つまり被疑者被告人の供述をどう見るか、心理学的な視点から何か言えないかということで相談を受けて、これも鑑定書を書くことになると思うんですが。
  この事件は六年か七年前の事件ですが、去年起こった痴漢事件などに関与してみますと全く同じ構図だなと思うんですね。日本の刑事裁判は恐ろしいぐらい変わっていない。そのへんの話を、福岡事件と富山事件と重ねてお話したいと思います。
  数の因縁ということで言いますと、一九七四年というのは先程の甲山事件の起きた年です。もうひとつ私にとって印象的なのは、一九七四年というと狭山事件の控訴審判決が出た年です。狭山事件でも私は鑑定書を書いていて、これも裁判所は全く無視して棄却してしまいました。
  一九四七年が福岡事件なのですが、これも数字の因縁で言いますと私の生まれた年なんですね。一九四七年の五月二〇日に事件が起きているんですが、私が生後四ヶ月の時の事件です。それが還暦を過ぎているわけですね。これだけ時間が経って、なおかつ、日本の刑事裁判というのは同じことを繰り返していると思うわけです。

 福岡事件と古川泰龍さんの取り組み

 福岡事件についてはあまりご存知ないと思うので、ご存じの方、いらっしゃいます? 一九四七年に起きた福岡事件というのを聞いたことがある人。何人かいらっしゃいますね。
  これは、古川泰龍さんというお坊さんがいらっしゃるんですが、熊本県の玉名市、玉名温泉という温泉がある、そこで、もともとは真言宗のお坊さんでした。しかし、葬式仏教はいやだということで、本当に宗教者として生きるということで、檀家さんを持たずに宗教活動をしていた。飯は食えんわけですけれども。教戒師をご存じだと思うのですが、死刑囚が中心になるのですが、受刑者達に対して宗教的な活動をする。刑務所、拘置所の立場からすると、改心をしてちゃんと死刑台に登る、あるいは更生するようにと、こういう趣旨で教戒師さんという人がいる。キリスト教も仏教もあります。この方は福岡刑務所所属で教戒師をされて、死刑が確定してしまった人達に対して宗教活動というか、説教をされるわけです。
  その中で話していると、実は自分達はやっていないと主張する人がいる。古川さんの前に二人の死刑確定囚が登場するわけです。石井健治郎さんという方と西武雄さんという人が自分達は死刑が確定しているけれども、実はやっていないという主張をする。最初はそんなことがあるものだろうかと思っていて、あまりちゃんと聞いていなかったわけですが、あまり熱心に言うものだから調べてみようと思って、調べ始めたところ、本人達の言っていることが本当じゃないかと思えてきたんですね。もし、本当だとするととんでもないことが起こっているということで、そこから彼は必死に救援活動にのめり込み始めるわけです。
  そういう経緯があって、一九六〇年代にけっこう有名になっていたわけです。古川泰龍さんの救援活動をマスコミでもけっこう取り上げていた。

 事件の経緯

 レジュメに事件の経緯を書いてありますけれども、一九四七年の五月二〇日に福岡市で、事件は起こっています。一九四七年の五月と言いますと、これは敗戦からまだ二年経っていないわけです。中国あるいは東南アジアから兵隊さんが帰って来て、中国で相当いろんなことをやってきた兵隊さんが帰ってきて、そういう雰囲気が残っている中です。お互い、それぞれ飯を食わなければならんわけですから、ブローカーの仕事、いろいろな闇の取り引きですね。この事件の場合は軍服の取り引きということです。着る服にも困った時代ですから。当時、服らしい服でりっぱな服というのは、兵隊さんが着る服なんです。敗戦後、そういう服がたくさん残っていて、それを闇で売るということです。軍服を持っている人とそれを買いたいという人とで、一千着の軍服を七〇万円で売るという取り引きがなされます。その取り引きの過程で、日本人と中国人両方いたんですが、一〇人近くの人がそれに絡んで契約をしているんですが、売り手側と買い手側の間に立った西さんという人が後に捕まっています。
  七〇万円というのは今でいうとどのくらいなんでしょうね。すごい額だと、何千万という単位のお金だと思います。そういう取り引きで、実態はよくわからないのですが、結果的に言いますと、千着の現物を見ないとお金を払うわけにはいかないと、当然そうでしょうね、そういういろいろなやりとりがあった中で、二人の人物が銃殺されるんですね。
  闇の取り引きですから、お互いけっこう背景を持っている人たちがいるんですね。今で言うと暴力団と思われてしまうような形のことがあった。戦後の状況ですから、兵隊さんとして持っていた銃とか全部回収するというわけにはいかなくて、持ったまま日本に帰ってきて、それを隠し持っている人達がいたわけですね。
  西さんは取引にあたって護身用としてピストルを調達したいということで、ちょうど取り引きをする五月二〇日の日に、ピストルを持っている人を紹介してもらった。石井健治郎さんという人がピストルを持っていたわけです。石井さん、この人も死刑確定囚です。彼は中国でずいぶんピストルを実際に撃ってきたんだろうと思うんですが、上手だということで自慢だった人で、今でもご存命で自分がピストルが上手だったということを自慢されています。もう九十何歳で、ご老体なんですけれども。
  たまたまこの事件の日に、取り引きをする日に、ようやくピストルを貸してくれる人がみつかった。西さんは、石井さんという人を紹介された。石井さんはピストルをただで貸すわけにはいかんと、金を当然もらわなければいかんと言う。西さんは、取り引きが終わらなければ金が入らない、金が入れば渡すからと言うんですが、口約束で初対面の人間に貸すわけにはいかん、金をもらうまではピストルは貸さないということで、結局、取り引きの現場まで石井さんも行ってしまうわけです。そこで実際に金をもらえるんだったら貸そうという話になっていたわけです。
  ところが、軍服千着を先に見せなければ金を払えないとか言っている取り引きの現場に石井さんも来ていて、そこで、何かの行き違いで、石井さんが二人の人物を銃殺してしまったんです。売り手側のAさんという人と、買い手側の一人であるBさんという中国人の人、二人を石井さんが間違って殺してしまった。 相手もピストルを持っているのではないかと思っている中で、いろいろ駆け引きがあって、結局、二人を殺してしまう。これは、石井さんが間違って殺してしまったということに結果的にはなるんですが。そういう形で二人の人物が銃殺されてしまいました。
  遺体が翌日の朝、発見される。軍服の取り引きをしていて、二人が軍服を置いている倉庫の所で殺されている。西さんは現場には行っていないんです。飯屋さんで、取り引きの話をしている所にいたわけです。ところが、石井さんが殺した後やってきて、実は殺したんだということをぼそぼそと言って、結局、これではやばいということで、西さんもその現場を去るんです。ですから、買い手側からすると、売り手側の西さんと取り引きの話をしていて、その人物がいなくなった。二人の人物が翌朝死体でみつかった。手付金みたいな形で十万円を先に払っていたんですね。その金も奪われているということで、これは西が仕組んだ事件に間違いないという話になるんです。死体が発見された日のお昼前までに、西が首謀者で殺して金をだましとった強盗殺人という形で警察の捜査が進んでいることは記録上残っているんです。二一日の夕刊には、西が首謀者で、こういう形で、七〇万円の金の取り引きで一〇万円だけ取って逃げたという話になっている。そういう構図で捜査が進む。殺された翌日から、そういう方向で捜査が進んでいってしまうわけです。
  西さんの連れが二人いたんですね。だから西さんの仲間三人。それから、ピストルを貸してくれるといった石井健治郎さんも自分一人ではなくて若い衆を連れてきているわけです。石井さんの方も二一、二の若い衆を連れてきていて、石井さんのグループは四人ですね。一応、そういう形で、三人のグループと四人のグループがたまたま拳銃を調達するというところで出会っているんですね。石井さんは当時三三歳、西さんが三五歳くらいです。

 取調べと拷問

 ということで、西さんにターゲットが絞られた形で捜査が進んでいきまして、七人が容疑の線上にあがりました。七人が一週間後にどんどん捕まっていった。石井さん達の話ですと、本当に拷問が行われた。石井さんが言っていた西さんに対して警察がやった拷問というのは、逆さづりにしたうえで水をバケツにいっぱい入れて、逆さづりにした西さんの顔を水の中につけるんだそうです。とてもこんなことは許されないことですが、当時はそういう拷問も行われていたですね。但し、法廷ではそういう主張をしても、警察側は全くそんなことはしておりませんと主張したんですね。拷問については、裁判では一切認められていません。
  さすがにそういう拷問は今はなくなりました。そういう意味では変わりました。しかし、構図そのものは変わらないんですね。いわゆる肉体的な拷問、暴力をふるって自白をしぼりとるということは、その当時はまだありましたけれども、今はさすがになくなりました。しかし、取調べにかけられる圧力そのものは変わらないわけです。人間というのは、暴力を受けなくても、言葉の暴力だけでも十分落ちますし、身柄を取られて出られない状況を作りますと本当に自白してしまいます。これは今日のテーマではないのでお話できませんですけれども。
  いずれにせよ、そういう形で七人の取調べが進んでいって、西さんは否認を通しているんですね。すごいなと思うんですが、自白をしていないんです。

 確定判決

 ところがあと六人ですね、西さんが首謀者として計画をして、謀議をめぐらせて、あとの六人を巻き込んでこういう事件を起こしたという想定になっている。結果的に西さんと石井さんが一審で死刑になるわけです。石井さんは実際にピストルを撃ったという形で実行犯です。それ以外の人は懲役十何年とか、その人の「役割」に応じて量刑が違いますけれども。本人達は法廷でずっと無罪を主張したんですが認められなくて、最高裁まで行って死刑が確定しました。一九四八年に死刑判決が出て、一九五一年に控訴棄却の判決が出て、一九五六年に最高裁が上告を棄却し、二人の死刑が確定しました。

 再審請求

 その後、先程言いました古川泰龍さんが教戒師として福岡刑務所でこの二人と話をしまして、二人の無罪の主張を聞くわけです。石井さんは、自分はピストルを撃ったことは認めているんです。最初から、捕まった時から自分がやりましたと認めているんです。但し、相手がピストルを撃ちそうに思ったのでということで、それは間違いだということは後で確認されますけれども、正当防衛のような状態だったと言うんです。少なくとも本人はそう思っていた。ただ、西さんはやっていないと、関係ないというふうに彼は主張しているわけです。そのことがあって、石井さんは再審ということを考えた。自分がやったことは間違いない、これはもう自分で罪を償う以外ないということで、一貫してそのことは認めている。だけど西さんは事件の日に出会ったばかりで、およそ謀議をめぐらせて共犯をするような関係ではなかったということで再審請求をする。一九五六年、一九五七年と石井さんが再審請求をして、一九六四年になってようやく西さんも再審を請求することになる。それは古川泰龍さんの関わりがあって再審請求をするんですが。
  第四次再審請求、第五次まで行きまして、だけど再審というのは本当に難しいのですね、この富山事件でもそうですが。比喩でよく言われますけれども、針の穴にらくだを通すほど難しいという、これは聖書の言葉を引用したものだと思いますけれども、それくらい難しいわけです。自分達はやっていないという主張をしながら、だけど再審は簡単に開かないということを突きつけられている現実の中で、古川泰龍さんも共鳴して救援活動をするのですが、このままでいくと死刑が執行されるかもしれないという中で、「恩赦を」という話になっていくんですね。

 「恩赦」と死刑執行

 いっぺん国会で、戦後、新刑事訴訟法が出てくる以前の刑事取調べは相当拷問が行われた可能性があって、冤罪の危険性が高いということで、いくつかの事件、例えば一九四八年の免田栄さんの事件、帝銀事件これはまだ再審請求中ですけれども、そういう事件いくつかを合わせて、戦後のその時代の裁判についてはもう一度再審をしてやり直すべきではないかということが国会で議論された。
  だけど、国家というものはそういうところで簡単に認めるもんじゃないんですね。結局、その再審の話については国会で議論されましたけれどもだめで、法務大臣はその時、確かに拷問はあったかもしれないが、再審というわけにはいかないと、けれども恩赦は認めてもいいという形で動き始める。恩赦ということは、事件を起こした人物がいて、裁判そのものは認める、だけど恩赦で許すということですから、実際はその有罪を認めたうえで恩赦という、本来なら許せない、恩赦の運動など受け入れられないということになるわけですけれども、古川さんは、とにかく命は救わなければいけないということで恩赦の運動も同時に、ある時点から進めていくことになる。現実に恩赦は実現するかもしれないということが伝えられていくわけです。いよいよ期待して、恩赦が出るのではないかと。一九七五年に石井さんに対して恩赦が下りる。古川泰龍さんは大喜びしたわけです。ところが、恩赦が出たということを聞いた直後に、実は西さんが死刑を執行されたという報道を聞くわけです。古川さんの本は今はもう手に入らないかもしれませんが、いくつか本があって、そこにはどうしようもなくめげてしまうということが書かれていました。
  石井さんは恩赦で無期懲役になる。西さんはその時、同じ日に死刑が執行される。一九七五年の六月一七日に死刑が執行される。死刑執行をされてしまった事件です。その後も古川さんは思い直して救援活動を続けるわけですけれども、九十何年ですかね、亡くなりました。

 第六次再審請求と鑑定書

 息子さんの古川龍樹さんという人が後を引き継いで、再審をなんとか開いてほしいということで、五〜六人の福岡の弁護士さんがついて再審請求をしました。それで鑑定をしてくれないかということで、私、鑑定依頼を受けたわけです。
  ところが、当時の共犯とされた七人の人の供述調書が全部墨で書いてあるんですね。達筆というか。その時代、今とはずいぶん違います。今の調書、パソコンとか多くなって読みやすくはなったんですけど、あれもやばいんでね。そのままコピーしてバッと貼り付けたら、警察官の調書から検察官の調書にスッと移しとれるようなもので、これも困った問題だと思うんですが。ま、読めるのは読めるんですな。
  ところが、福岡事件の供述調書は読めないわけですよ。読めるのは読めますけど、とってもじゃないけど能率が悪いわけです。ちょっとこれは無理ですねという話をしていて、とにかくパソコンの方に移し直してもらわないとちょっと対応しきれませんよと言ったら、弁護士さんが頑張って、九州大学の法学部の学生さんとか、久留米大学の学生さんとかですね、西南学院大学の学生さんとかに頼んでくれました。法学部の先生に言って、学生さんを集めて、とにかく起こせと。学生さん達も最初はちょっと、けっこうちゃらんぽらんだなと弁護士さんも言っていましたけど、そのうちはまり始めます。合宿などして大量の調書を全部パソコンに打ち直してくれたんです。それを送って頂いて、ようやく私も事件の全体を通して見ることができて、共犯者と言われた七人の供述調書の分析をしていくわけです。
  七人の調書をいろんな観点からまとめています。そのひとつの資料をレジュメに載せています(11頁に掲載)。これは、三人のグループと四人のグループ、それまで全然面識のなかった二つのグループがあって、両方知っている人が一人だけいたんですね。この人を介して、ピストルを借りたいと言っている人がいるということで、その西グループと石井グループが福岡旅館という旅館で出会う。そこから出かけて行って、軍服の取り引きの現場に行く。西さんは取り引き相手と浜口食堂という食堂で話をしている。石井さんは倉庫の方に行っているわけです。食堂からAさんという人とBさんという人が現場の方に行って、そこで間違って殺されてしまうということなんです。西グループの三人、石井グループの四人、その七人は初めて出会っているわけです。
  西さんの下にCという若い衆がいたんですが、彼は事件直後に逃げているんですね。二人が殺されてしまった後、彼だけ逃げて、後の六人は西さんも含めて逃げてはいないんですね。近くでうろうろしていたんです。それからすぐ捕まっているわけです。まずかったなとは思っているんですけれども、思いながらも逃げもしないんですね。Cだけが逃げて、彼だけが一番遅く捕まっている。他の連中は捕まってすでに取調べを受けて、事件の直後に捜査側は、事件の構図はおおよそわかっている、そういうふうに思い込んでしまっている状態です。
  Cさんという人は西さんの手下みたいな状態で、石井さんがピストルを撃った時にも現場にいて、取り引き相手も知っていたんですね。実際には現場で指揮をしたのはCではないかと見ざるを得ない状況だった。そうしますと、Cさんは遅く捕まったのですが、西さんは否認して、やってないと主張している。Cさんは、ひょっとしたら自分が重い刑にかけられるかもしれないという状態になるんですね。そういう中で、実は西さんは計画をしていたんだということを自白してしまうわけです。計画はひと月ほど前に聞いていたんだと、どういうやり方をするかということも一週間ほど前に聞いていたんだと。
  だけど謀議の方は四人のグループ、三人のグループとも初めて事件の当日出会っていますから、本当に強盗殺人でやるんだったら、石井さんと打ち合わせを当然しておかなければならないんですね。それは福岡旅館でやったんだと。初対面の人間を強盗殺人ということで巻き込むということがそもそもできるかということが素朴な疑問なんですが、Cさんは計画はあったという話で、謀議をした福岡旅館に自分もいたと言うんですね。だけど謀議に加わったというと自分の刑が重くなりますから、謀議は自分は聞いていないと。計画は聞いたけれども、謀議は、なにかしゃべっていたとしか言わない。現場では、実は自分は間を取り持っただけで何もしていないんだということを弁明する。Cさんは捕まった日から自白をしております。 (次号に続く)

図 西による「計画」の認知についての変遷図(全体図)

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   富山裁判の経過

・ 1974年10月3日
東京品川区で事件発生
・ 1975年1月13日
富山さんデッチあげ逮捕される
・ 1981年3月5日
東京地裁 無罪判決
・ 1985年6月26日
東京高裁 有罪判決 懲役10年
・ 1987年11月10日
最高裁 上告棄却
富山さん 大阪刑務所服役
・ 1994年6月20日
再審請求書を提出
・ 1995年12月19日
満期で出獄
・ 2004年3月30日
東京高裁 再審請求棄却
・ 2004年4月5日
異議申立書提出

 ※ 現在、高裁第4刑事部に係属中

 

大井町ビラまき報告

・亀   ………休み
・富 山 ……… 2
・山 村 ……… 0
・うり美 ……… 0

大井町のYさんから

休載

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