●ニュースNo141(2000年6月1日発行)◎今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味(前号に続いて)

大井町ビラまき報告

3・18集会 ― 浜田寿美男さんの講演

 今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味

(前号に続いて、3月18日の集会での浜田寿美男さんの講演を掲載します。)

99・9パーセントの有罪率
「日本の司法文化」
「有罪への確信と無罪可能性のチェック」
無罪判決は想定しない日本の裁判
一生無罪判決を書かない裁判官
一事不再理の逆をいく日本の裁判
富山事件における目撃証言の信用性
供述証拠の形成過程が問題
検察に都合のいい目撃者のみ選別

(以上前号)
(以下今号)
控訴審判決の「基準」
目撃条件は良好か?
写真面割りの過程はブラックボックスの中
空くじなし
写真面割りの後の面通しは無意味
捜査官の間で情報交換が行なわれている
富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述
どの犯人を見て選んだのか?
科学的な検証の姿勢がない日本の裁判
仮説検証型でなく仮説固執型
日本の刑事司法全体を考え直す時

 証拠が結果として法廷に提出されるのみで、その証拠収集の過程がまったくブラックボックスの中にある。そしてしばしば、裁判所に おいても、この過程へのチェック抜きに審理がなされてしまう。富山事件の確定判決はまさにその典型で、しかも、それがその後のひとつのモデルとして位置づ けられていくので問題の根は深いわけです。
実際、ある心理学者が最近刊行した『嘘をつく記憶』という本の中でも、この点が無批判に取り入れられています。これは『判例タイムズ』に載った控訴審判 決に基づいてのみ書いています。一審の判決とかに当たっていただいたら、こんなに簡単には言えないということはすぐにわかるはずなんですけれども、どうし ても表に出た判決しか見ないでそこで判断してしまう。この本の著者も心理学者ですけれども、菊野春雄さんという大阪教育大の方のようですけれども、『嘘を つく記憶』ということで 記憶の間違いやすさというのを指摘しているという意味では啓蒙書として意味のある本だと思いますが、一つ一つ挙げられている例で非常に困った例がある。
富山さんの事件も、東大井内ゲバ殺人事件ということで挙げられていますけれども、控訴審判決の中からの引用というか、『判例タイムズ』にまとめられたも のをそのまま引用している。いわゆる孫引きのような状態です。控訴審判決の「写真面割りの正確性を担保するための基準」、七つの判断基準と呼ばれているん ですが、これが富山事件の控訴審判決で出されて、その後の目撃に関わる裁判の中で、一つの理想的とまでは言わないにしても、基準として扱われてきているわ けなんですね。『判例タイムズ』の中でも「実務上極めて参考になる判断を示しており、意義も深いもの」だという形で評価しているのをこの本も引用して、控 訴審判決の基準を載せています。

控訴審判決の「基準」

この控訴審判決の基準は、表向きそれだけを見ますとなるほどそうじゃないかと思ってしまうようなことが書かれているわけです。例えば、判決では、次のように記されている。
一番目が、「写真識別者の目撃条件が良好であること見たとか、視力に問題があるということなら別だけれど、そうじゃないということが大事だと書かれています。当然、そういうふうに思いますよね、これだけ見ると。
二番目が、「早期に行われた写真面割りであること」。
三番目、「写真面割りの全過程が十分公正さを保持していると認められること」。そこにはいわゆる写真帳についても言及されていて、「捜査官が犯人らしき特定の者を指摘するなどの暗示、誘導など行ってはいないこと」、なども書かれています。
四番目に、「なるべく多数者の多数枚による写真が使用されていること。その場合、体格、身長等をもあらわすものも収められていれば最も望ましい」。
五番目に、「提示された写真の中に必ず犯人がいるというものではない旨の選択の自由が識別者に確保されていること」。
六番目に、「識別者に対し、後に必ず面通しを実施し、犯人の全体像に直面させたうえでの再度の同一性確認の事実があること」。
七番目に、「上の識別は可及的相互に」、可及的というのは出来るだけということですね、「相互に独立した複数人によってなされていること」。

これだけ読みますと問題ないじゃないかと見えるかと思います。ところが、実際には、これを富山事件に合わせてみますととんでもな いことが出て来ます。判決は、富山さんの事件についての写真面割り、面通しの手続きは少し問題を孕んでいるにせよ、おおよそこの基準を満たしているという ものなのですが、一つ一つ見ますととんでもないことになります。

目撃条件は良好か?

一番目、写真識別者の目撃条件が良好であることとなっていますけれども、確かに白昼行なわれた事件で、しかも、それは日常的出来事じゃなくて殺人行為ということですから、誰の目も引く、見逃すようなことじゃない、それだけ見ますと、目撃条件が良好であるように見えます。
しかし、目撃者一人一人を見ますと、一つは視力の問題があります。控訴審判決で最も重要な証人だと言われているIさんという方は、普段はメガネをかけて いるのにこの時はメガネをかけてなかったというわけで、視力が問題になります。Iさんについては、視力は良くても0・4で、しかも16・45メートル離れ た犯人を目撃したもので、同一性識別は不可能という鑑定証拠が再審で改めて弁護団から出されたと聞いています。
一番最初に写真面割りをしたと言われていますTkさん、車に乗っていて助手席から見たという人です。この人は当時から糖尿病で目が問題で、二審の時にはもう失明していたという人です。事件当時どの程度の視力があったのかものすごく問題ですね。
また、視力の問題だけじゃなくて、これは箱田さんという心理学者の方が鑑定でやりましたけれども、殺人事件なんかを目撃した時は、犯行者の顔を見るより は、むしろ現場のその凄惨な様子に目を取られてしまう、あるいは、凶器に目を取られてしまって、顔をちゃんと覚えることはむしろ難しいのではないかと言わ れています。凶器注目効果と言われていますけれども。
さらに、この事件の場合、目撃された犯人の側は四人いるということになっているわけです。その四人のうちの一人が指揮をしていて、その指揮者に似ている として富山さんの写真が選ばれたという話になっているんですが、四人も見るということは大変なことなんですね。一人の人間がやっているなら、間違いなくこ いつを見たと言えなくはないですけれども、四人を見ている場合には、どの人間を見たのかという話になります。しかも、この事件は、目撃供述をもとに四人と も容疑者が挙がっているのではなくて、指揮者だけしか特定できなかったというわけです。先ほど詳しく説明(注・うり美さんの現地調査報告/139号に掲 載)がありましたけれども、四人のうちの誰を見て、富山さんの写真を似ていると同定したのかということが非常にあいまいな形でなされているわけです。そう しますと、目撃の条件は良かったと単純に言えるかどうか、これはかなり慎重に検討しなければならないはずなんですね。
ところが、漠然と、白昼行なわれた殺人事件でたくさんの人が見ていて大丈夫じゃないかと、こういう非常な安易なところに流れているような状況なんですね。

写真面割りの過程はブラックボックスの中

二番目に、早期に行われた写真面割りであることとあります。確かにこれは事件の翌々日に写真面割りが始まるわけで早期なのかも知れません。
しかし、三番目に書かれている、写真面割りの全過程が十分公正さを保持していると認められること、つまりどういう形で写真が選ばれて、どういう手続き だったかということですが、富山事件ではこれが証拠としては明確に出されていないわけです。ブラックボックスの中ということなんです。
控訴審の裁判所は、大雑把に言えば、写真面割りをした時の取調べ警察官を連れてきて、ちゃんとやりましたか、ちゃんとやりました、ちゃんとやったんです ね、というだけで認定してしまっています。警察官は嘘を言わないという裁判所の考えがあるわけです。けれども、捜査官だってやっぱり立場がありますから、 誘導しましたと言えるわけがありません。法廷に出てきた時に、実際にあったことをしゃべるのではなくて、やはり欠点を突かれないような答え方をしますね。
そうすると、捜査官が法廷に出てきてしゃべったからといって、事実をそのとおり再現しているかというとそうはならないわけです。これは当たり前なんです けれども、裁判所はなかなかそういうふうに認定してくれません。形式上、法廷で警察官が、ちゃんとやりました、誘導はやってません、目撃者に写真を見せて それらしいと言ったことはありませんと言ったら、それは調書という形で文書に残りますから、証拠として利用できる、間違いない、これだということで、十分 公正さを保持していると認められるとこういう話になる。
結局、二番目、三番目については、それこそ、写真面割りの場面をビデオテープにでも撮ってもらわないと証明はできないですね。そこで、先ほど言いました ように、私たちは今、取調べに関するガイドラインということを考えています。その中で最大のものは、捜査過程を見えるようにすること、可視化と言っていま すけど、つまり、写真面割りをするのだったらビデオを撮りなさいよ、ということを言っているわけです。それをやりさえすれば、何がそこで起こったかという ことは歴然とするわけです。それくらいの装置は簡単ですから、できることなんですね。できることだからやってもらえればいいのですけれど、やらないです ね。二番目、三番目についてはまさにブラックボックスの中です。

空くじなし

四番目、なるべく多数者の多数枚による写真が使用されていること、これも大きな問題です。
この間、面通しとか面割りについて、いろいろ研究がなされてきています。これまでも目撃者の記憶というのは確かに危ないとよく言われている。だからちゃ んとチェックできるようにしましょうということなんです。心理学実験などを使いながらどういうチェックが必要なのかを研究しているんですが、その中で一番 重要な部分はここだと私は思っています。
例えば、目撃証言以外の他の証拠からこの人が犯人である可能性が高いということになった場合、目撃者が確かにその人物を見たのかどうかをチェックするた めに、面通しの場合であれば、一人の被疑者に対して、その被疑者と身長とか体格とか容貌が比較的似ている人達をあと八人ほど呼んで来て、その中に被疑者を 混ぜて、そのうえでちゃんとこの人だという特定ができるかどうかということをやらなければいけない。つまり、記憶のチェックなんですね。あとの八人は犯人 じゃないということがはっきりしている人達です。犯人じゃないことがはっきりしている人を混ぜて面通しをする。しかも、顔の特徴なんかも似ている人でなけ ればいけません。例えば、犯人は二十代だというふうに供述しているとすれば、二十代位の人をあと八人集めて来なければならない。被疑者一人だけが二十代 で、あとは四十代、五十代だったら、歴然と被疑者だとなってしまいますから。よく似た人で、しかもこの人は犯人じゃないということがわかっている人達を混 ぜて調べるということをやらなければいけない。ちゃんとそういう形で記憶を確かめるというのが、面通しの一番大事なところなんですね。
ところが、控訴審判決の基準の四番目で言われていることはどういうことかと言うと、いわゆる面割りというやつです。面割りというのは、犯人の可能性があ る人達を集めてきて、この中におらんかと言って調べる、これがいわゆる面割りです。先ほど、やっていないことがわかっている人を混ぜて記憶をチェックする というのと、犯人かもしれない可能性を持っている人達とかその写真を並べておいて、この中にいないかと言って調べるのとはまったく違うんですね。ところ が、控訴審判決があげている基準というのは、そのへんの区別を一切していないわけです。控訴審判決は、たくさんの人を集めてこの中に似た者はいないかと やって選んだということ、たくさんの中から選ぶことが大事だと書いてあるんです。
この事件は中核派が革マル派に対してやった事件ということになっていますから、中核派の人達でかつて逮捕された経験のある人達の二百枚近い写真で面割り をやっているわけです。全員、中核派と思われている人達の写真を並べ、この中にいるかと聞いているわけです。そしたら、誰を当ててもいいんです。私は鑑定 書の中で皮肉をこめて書いたんですけれども、“空くじなし”ということなんです。たまたま空くじがはっきりしたケースがあって、その人はその時捕まってい て犯行を起こしようがないのですが、後で、しまったというのではずしてしまう、そういうことをやってしまうんですね。
“空くじなし”の写真面割りというのは、ちょっと考えればおかしいとわかるわけですね。だけど控訴審判決はそれをすべきだと書いてある。しかし、犯人で はないとわかっている人を混ぜての写真帳でなければチェックという意味での機能は果たせないということです。警察官の写真を並べてその中に富山さんの写真 を一つ入れておけばいいですね。180センチの四角張った顔の人を並べておいて、その中から当てさせたら警察官を選んだということもありえる、ということ になればそれはちゃんとチェックしたことになるんですが、そういう、記憶をチェックするという発想が控訴審判決には全然ないわけです。こう見てきますと、 まったくおかしい基準なんですね。 五つ目もそうです。提示された写真の中に必ず犯人がいるというものではない旨の選択の自由が識別者に確保されているこ と。写真帳の中に犯人が入っていないかも知れないということをちゃんと言わなければいけないとなっているけど、これだって警察官が法廷に出て来てちゃんと 言いましたでお終いなんですね。弁護人の方は、チェックできないわけです。

写真面割りの後の面通しは無意味

六つ目、識別者に対し、後に必ず面通しを実施し、犯人の全体像に直面させたうえでの再度の同一性確認の事実があること。
つまり、写真面割りの後、実物を見て確認しろと、それは大事なことなんだと言っている。だけど、写真面割りで特定した者をもう一回実物で見せた時、やっ ぱり違いますと言うかというと言わないわけです。写真で間違った人を選んでしまったら、その写真の顔が記憶に残りますから、面通ししてもだめなんですね。 つまり、人の記憶というのは、重ねて見ていきますと歪んで来るわけです。この人だと言ってしまえば、後になってもともと見た時のイメージを取り出してきて チェックすることはできない。ビデオテープだったらできますよ。人間の記憶はそんなふうにできておらんということです。だから、控訴審判決は、写真面割り をした後ちゃんと面通しをしなさいと書いてあるんですけど、写真面割りをした後やる面通しは無意味だということです。
しかも、この場合、単独面通しです。先ほど言いましたように似た人を集めてきて、違うとわかっている人を混ぜてやった面通しならまだしも、捕まえて来た一人の人間を見せてこいつかと言うわけですから、そんなのは確認したことにはならないと言わざるを得ません。

捜査官の間で情報交換が行なわれている

最後に可及的相互に独立した複数人によってなされていること。
できるだけ相互に独立した形で取調べを、例えば目撃者が40人いたとすれば、40人別々に、お互いに情報交換しない形で調べなさい、そのうえで、それぞれが特定の人を指示したならそれをもって証拠になるんだと言うわけです。
これも理念としてはその通りであります。だけど、本当に相互に独立した取調べがなされ、事情聴取がなされたのかどうかのチェックがなされなければ、これ は空文句なんですね。結局、また捜査官が出てきて、相談するようなことはありませんでした、それでお終いということになるわけです。
実際に富山事件を見ますと、同じ捜査官が、二人のそれぞれ違う目撃者に事情聴取していることが明らかです。しかも、日本の場合は、捜査を進めていく過程 で捜査会議を必ず開いていきますから、捜査官の間で情報交換をやっているわけです。捜査官がチームでもって写真面割りをやっている中で、それぞれ独立した 形で事情聴取がなされていくなんてことになるかどうかというと、はっきり言ってならないわけです。
ですから、私達がガイドラインの中でも提言しようと思っているのは、これはなかなか難しいことかもしれませんが、実際の捜査担当者とは違う人間が写真面 割りの手続きをしなければいかん、事件のことを知らない人が写真面割りをしなさいということです。つまり、こいつじゃないかと思っている人が調べたら、ど うしてもそうなってしまうわけです。写真面割りくらい誰だってできるはずですから、写真面割りとか面通しについての一定の訓練を受けた捜査官が、どういう 事件であって、誰が犯人であるかの目星とか、一切情報として知らない状態で、目撃者に対して写真を見せて、この中にいたら教えてください、いないこともあ り得ますよ、とやらなければいけない。これは当然のことだと思うのですね。だけど、そういう手続きは一切踏んでいないわけです。
このように、基準として確定判決が挙げているものを、具体的に一つ一つ富山事件の目撃者に関して当てはめていきますと、完全にそれが筋違いのものになっていることがわかるだろうと思います。
このような控訴審判決の基準が、その後の目撃供述を軸にした事件で援用されているということがあるわけで、そういう意味では、富山事件の再審請求を勝ちとるということは、単に一事件にとどまらず類似の目撃事件にとっても大きな意味があると思います。

富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述

鑑定書でも書きましたけれども、富山事件の目撃供述に関して、歴然と変遷しているものがいくつもあります。例えば、一番典型的なのは年齢、身長ですね。時期を追って見ますと、明らかに富山さんの実際の年齢や身長に合わせてきれいに収束していくわけです。

記憶は変遷すると言っても、「正解」に向かって一様に変遷するというのはおかしいわけです。見たときの印象というのはその時のも のですから、バラついていて自然なんですね。私がもし捜査官だったらこんなことはしないですね。バラバラでいいと、人間の年齢についての記憶なんかええか げんなもんやと思いますけどね。この間の京都の日野の小学校の事件なんかでも、その前の神戸の事件なんかでも、ええかげんなわけです。
富山事件の目撃供述のように、こんなうまいこと富山さんの年齢の二十六、七歳に移っていくなんて、こんな不自然な供述取ったらあかんと、僕だったら言い ますね、最初のままでいいんやと。例えば、二十四、五歳と言った人がいて、その次の取調べの段階で、もう一つ位年取っていたように思いますなんて言うんで すね。人の年齢を、一つ位なんていう差で言うでしょうか。考えられないことをやっているわけです。まあ、警察官というのはお役人さんですから、正確さを求 めるというか、なんか厳格らしいのを求めるようですね。
僕なんか見ますと、二十五才位と言っていて、その後、一つぐらい年を取っているように思います、というのを読んだだけでこれはおかしいと思いますよ。これだけでも誘導の証拠だと、僕は言えると思うのですけれども。

どの犯人を見て選んだのか?

そういう中で、「七人の犯行場面供述の変遷」、これは取り繕うのが大変だっただろうと思います。

第一期、第二期、第三期とあげているのがちょっとわかりづらいと思います。第一期は事件直後の供述です。直後といっても10日ほ どありますけれども、その段階でのもの。第二期というのは、写真帳を作りなおしてもう一度調べ直した時のもの。第三期というのは富山さんが逮捕された後、 面通しが行なわれる検察官の取調べの段階。三つの時期に大きく分かれます。

その第一期の段階で、目撃者達は四人の犯人を見て、そのうちの一人として富山さんの写真を選んだわけです。四人の犯人のうちの誰かを見て、写真帳の中から富山さんの写真を似ているということで選んだということになっています。
ところが、第一期の段階で、どの犯人を見て、富山さんの写真を似ていると選んだのか見てみますと、バラバラなんですね。
第一期で、ガードレールの手前側の歩道上で指揮をしていた人物として、富山さんの写真を選んだのはOさんとIさんだけです。
Yさんは一応指揮をしていたということになっているんですが、車道上で殴っている犯人のすぐ横にいた人物として、富山さんの写真を選んでいるわけです。 Sさんは車道上で鉄パイプで殴っている人物ということで富山さんの写真を選んでいる。Kさんも車道上で殴っている人物として富山さんの写真を選んでいま す。Tkさんは殴っているところを見たうえで、逃げている所を見たとなっています。
殴っている所を見ているということになると、「歩道上の指揮者」を見ているのではないわけです。だけどみんな富山さんの写真を選んでいるわけです。これはどう考えても矛盾するわけです。これを検察官はどう思ったのだろうと、僕は思うのです。
員面調書の、一番最初の段階が明らかに矛盾するわけです。明らかに矛盾するのでどうしたかというと、結局、供述を動かすよりしょうがない。富山さんを逮 捕して、起訴に持ち込む過程で、検察官が証拠固めをするわけです。証拠固めをするためには、何が必要かというと、矛盾しちゃ困るということで、目撃供述を それぞれ動かすわけです。見た場面を動かす。
歩道上で指揮をしているところを見たという話になっていますOさんとIさんは、とりあえず、軸として動かさなくてもいいということになりました。
ところがそれ以外の人は全部動かさなければ困る。例えば、車道上で殴っている場面を見たというKさんは、追いかけてくる手前の所で見ていたということに なります。一人の男を四人の男が追っかけて、車道上で三人が殴って、一人が歩道上で指揮をしていた、その後、四人が一緒になって逃げた、こういう流れに なっている中で、殴っている人を見たというのでは困るので、追いかける前の所で見たんだという話になるわけです。前にずらしたわけです。
Yさんは、車道上で三人が殴っているすぐそばに指揮者がいたという話になっている。これも具合が悪いということで、段々とその指揮者の位置がずれてきて、最終段階では、ガードレールの内側まで変わっていく。
Sさんと、Tkさん、それからTgさんは、殴っている場面を見たという話になっている。これは具合が悪いということで、逃げていく所で見たという話に変わっていくわけです。

第一期では、犯人が四人いて、目撃者はそれぞれ違う人物を見ているのに、みんな同じ富山さんの写真を選んでいる。富山さんがいろんなことをしていることになる。それでは矛盾するというので、第三期で供述を今言ったような形で変えざるを得ないわけです。

科学的な検証の姿勢がない日本の裁判

こういう目撃供述をはたして信用していいのか。こういうのを信用してはあかんと言わなければいけないはずですが、なにしろ裁判所 では99・9%の有罪率ですから、それでもって突っ走りますと、こういう無理な証拠も有罪証拠として使われてしまうということになる。裁判の事実認定の過 程を見ますと、事実はどうだったのかということですから、まさに科学的な検証の姿勢、これが正しいのかどうなのかという検証の姿勢がなければいけないわけ ですが、日本の裁判の中にはそういう科学的な検証という姿勢が本当にないですね。

仮説検証型でなく仮説固執型

この人が犯人だというのは一種の仮説ですよね。誰も見てないわけですから、仮説なわけです。仮説が正しいかどうかを検証するとい うのが裁判の手続きであるはずなんですけれども、日本の刑事裁判には仮説検証という姿勢がまったく欠けている。検察官の方もそうですけれども、裁判所の方 も、仮説検証ではなくて仮説固執型だと、仮説にこだわって、こだわって、こだわりつくすというのが検察官の姿勢であり、裁判所の姿勢のように私には見えて しまう。
いかにしてそれを仮説検証的な手続きに変えていかなければならないのかということを、心理学をやっている人間としてこれからもやっていきたいと考えているところです。

日本の刑事司法全体を考え直す時

やはり、日本の刑事司法全体を考え直していくという作業をしなければいけない思います。
これまで日本の刑事司法はいっぱい間違いを犯してきている。ところが、いっぱい間違っているにも関わらず、日本の刑事司法は、間違った後、その間違いがなぜ起こったのかという調査を一切していない。
事情聴取の過程を録音テープに収めるとか、あるいは面通しを先ほど言ったような形で、やっていないことがわかっている人を入れてその中から選ぶようにし なければいけないということが、イギリスなんかで盛んに言われてきています。イギリスという国は、えん罪だということが明らかになれば、なぜ、こういうえ ん罪が、間違いが起こったのかということを国をあげて調査しているわけですね。どこがおかしいということがわかれば、そこを直していくということをしてい るわけです。
ところが、日本の刑事裁判、戦後五十数年の中で、たくさんのえん罪事件、表に出ていないものも含めればものすごい数だと思うんですけれども、どれ一つと して国のレベルでチェックするということをやっていない。最高裁が指揮を取って、なぜ間違ったのかチェックしなければいけないはずだと私は思うのですけれ ども、一度もやって来なかった。そのうえ、国家賠償請求の裁判が起こっても、松山事件のように、死刑が確定してしまった人が再審で無罪になったというもの についても、国家賠償を認めない。当時の捜査も裁判も違法はなかったと言う。違法がなかったのに間違ったというのなら、どうして間違ったのかのチェックを 当然やらなければいかんのに、やらん。全然変わって行かないですね。
そういう司法文化の一つの結果として、この富山事件もあると私は思います。ですから、富山さんの事件に限らず日本の刑事裁判全体、それこそ日本の司法文 化そのものを問うということをやっていかなければいけないんじゃないかと思っていますし、そのためにも、富山さんの再審請求が認められて、公判廷で改めて 議論され、無罪の判決が出されるようにならないといけないと思います。こんな歴然とした無罪事件で有罪が出るんですから。帝銀事件なんかも歴然とした無罪 事件だと私は思うのですけれども、帝銀事件の場合は、平沢さんは獄中で四十年死刑囚として生活して亡くなる。そのあと死後再審ということで第十九次再審、 第十九次ですよ。富山さんは何次でしたっけ。第一次ですね。十九次までやれということではありませんけれども、そういう事態だということを改めて認識しな ければいけないんじゃないかと私は思います。あまり十分なことがしゃべれなかったんですけれども、これで終わりたいと思います。

(小見出しは事務局の責任でつけさせていただきました)

 

 5月の大井町での署名集めは、

Kさん
6名
亀さん
6名
うり美さん
5名
山村
4名
富山さん
0名
合計21名

今回は、「疑わしきは罰せずですから」と署名してくれた人、「僕は思想的には『左』ではないけど、えん罪は許せないので」と署名して千円カンパしてくれた人、「ずいぶん前からやってらっしゃいますよね」と署名してくれた人、等々でした。
また、この日、うり美さんに某テレビ局のディレクターが「えん罪事件ということなら取材したい」と話しかけてきて、その後、富山さんから詳しく説明を聞 いていました。結局、その人が担当しているのはワイドショー的な番組で、こういう「政治性」のある事件を取り上げるのはむずかしいということだったようで すが、話を聞いてもらっただけでもよかったと思いますし、今後何かのきっかけにならないとも限りません。うり美さんは、「最初に私に話しかけて来たんです からね、私に!」と盛んに強調していました。確かにうり美さんのお手柄ではあります。 (山村)

  今回、私が署名を取った人達は、以前に署名してくれた人や、以前何度か私達の前を通りかかっていて、今回初めて署名してくれたという人だった。署名も何ヵ 月、何年と続けると、最初は「信用できない」と思っている人でも、「ここまでやるならどうやら本気だろう」と思うものらしい。考えてみれば、私が署名に参 加した頃に比べると、大井町の署名取りは非常にやりやすくなった。言い方を変えれば富山事件が認知されてきたという実感がある。
「ああ、富山さんの事件ね。まだ決着つかないの?」と声をかけていく人も何人もいるし、こちらが何も言わなくても、ビラなどで事件そのものは知っていてすぐ署名してくれる人が多くなった
今回、私が署名を取った人達は「この前も署名したわよ」と言って署名してくれた人、「以前にカンパ送ったんですよ。頑張ってね」と言って署名してくれた 人、「家族の分も署名していいんでしょ」と言って二人分署名をしてくれた人達でした。今までのビラまきが実を結んでいるような、そんな感触を得たビラまき でした。 (うり美)

 「第七歩目になりました。汗ばむ季節になりました。食事を取って体力をつけましょう」

(カンパ1000円を頂きました。いつもありがとうございます。) (山村)