●ニュースNo143(2000年8月1日発行)◎Kさんのご冥福をお祈り致します

大井町ビラまき報告

 

Kさんのご冥福をお祈り致します

 7月18日、東京の「かちとる会」のKさんが亡くなられました。享年七十七歳でした。ご冥福を心よりお祈り致します。

Kさんとご遺族の意思で、お葬式は「お別れする会」という形で行われました。多くの方が参列され、Kさんの温かい人柄とおつきあ いの広さを偲ばせるお葬式でした。「かちとる会」からは、7月20日のお通夜にはTさん、うり美さん、亀さん、山村が伺い、翌日の告別式には富山さんと山 村が参列し、最後のお別れをしました。

Kさんと「かちとる会」の出会いは大井町の駅前でした。1992年の8月、大井町の駅頭で富山さんの再審開始を求める署名を集め ていた佐藤齊一さんと私の前に、きれいな白髪の男性が立ち止まり署名をしてくださいました。その方がKさんで、ビラに載せていた阿藤周平さんの言葉を見て 「八海事件のことはよく知っていますよ」とおっしゃったのを覚えています。Kさんはその時のことをのちに「真剣に訴えているあなたたちをひと目みて、この 人たちの言っていることは真実だと直感しました。私はその人の目を見ればわかるんですよ」とおっしゃっていました。
その後、Kさんから手紙が届き、私とうり美さんがご自宅に招待されました。Kさんは、自らの戦争体験から、戦後ずっと二度と戦争を起こしてはならないと 訴えつづけてこられた方でした。大井町で署名された時も、自らの戦争体験を若い人たちに語る集いに向かう途中だったそうです。ご自宅では、戦争中の写真な ども見せて下さり、どのような社会状況の中で戦争に突き進んでいったか、戦争責任の問題、「加害者」としての痛恨の思いなどを話してくださいました。
Kさんは、1923年に熊本県で生まれ、子供の頃は豊かな自然の中で少年期を送られたそうです。「もともと私は軟派で、芸術とかそういう方面が好きだっ たんですよね」と言われていましたが、日本が侵略戦争に突き進む中、陸軍士官学校に入学、航空隊に所属し、卒業後は特攻隊の教官だったこともあるそうで、 「わずか二十歳になるかならないかの若造が、十五、六歳の少年に死ぬことを求めた。今思うとなぜあんなことが言えたのかと思う」と辛そうに話しておられま した。「戦争に負けたあと、特攻隊を考え出しそれを押し進めた責任者たちがのうのうと生きて帰ってきたことを知って、責任者たちを殺して自分も死のうと思 いつめたこともあった」とのことでした。敗戦時の1945年8月15日は、偵察飛行で沖縄上空にいたそうです。「下を見るといつもと違ってアメリカ軍の艦 船が港に集結し、潜水艦も浮上している。おかしいなと思っていると、司令部から無線が入り、通常は暗号のはずが生で『ただちに帰還せよ』と言ってきた。何 が起きたのかと急いで帰還し飛行機を下りるとみんな泣いていた。それが敗戦だった」そうです。
敗戦後、自分はなぜ生きているのかと気持ちの荒れた時期もあったとのことでした。その中で、あの戦争は間違いだった、自分も加害者の一人だったと考える ようになり、二度と侵略戦争に加担することがあってはならないと誓ったとおっしゃっていました。「天皇こそ最大の戦犯だ」と怒りを込めて語られ、日本が再 び「いつか来た道」を歩もうとしていると昨今の情勢に強い危機感を抱いていらっしゃいました。

その後、Kさんは「かちとる会」の集会に何度も参加され、定例会にも来てくださるようになりました。

富山さんがまだ獄中にいる時、富山さんの手紙を読んで、「国家権力と闘って弾圧を受けているんですね。獄に囚われても不屈に闘っ ている。こういう人は本物だと思う」と共感を寄せておられました。出獄後の富山さんとも意気投合したようで、「富山さんは笑顔がいい」「つきあってみれ ば、誰でも富山さんをいい人だと言うと思う。それをみなさんに伝えたい」とおっしゃっていました。
書道を得意とされ、みごとな毛筆でビラの表題や集会のタイトル、署名集めの時ののぼりなどを書いてくださいました。昨年二月の集会の会場に貼ったタイト ル「真実はひとつ―24年間の心からの叫び」、今年三月の集会のタイトル「20世紀のうちに私たちの手で再審開始を─真実を裏付ける証拠開示」はKさんが 書いてくださったものです。
また、牛乳パックに和紙を張って作ったきれいな小箱を「集会で売って再審のカンパにしてください」とたくさん持ってきてくださいました。
大井町での署名集めの苦闘を見かねてか、一昨年の10月から「お手伝いしましょう」と一緒に駅頭に立ってくださるようになりました。Kさんの温厚で篤実 な人柄は全体の雰囲気をなごやかなものにし、Kさんが参加されると多くの人が立ち止まりました。その中で、Kさんがいつも一番多くの署名を集めていまし た。そして、「ビラをまく時は積極的に話しかけることが大事です。黙ってわたすのではなく、ぜひお読みくださいとわたすことです。今度、自分の体験を書い てみましょう」とニュース(98年11月号)に署名集めの秘訣を書いてくださいました。(もう一度掲載します)毛筆で「私は無実です。再審開始のため御署名を」と書いたのぼりも持って来てくださって、それがあるのとないのとでは道行く人々の注目が違いました。
Kさんに「軍隊では、何時に待ち合わせるという場合、時間ちょうどに着くのではなく必ず五分前には着いているというのが原則です。私は十分前には大井町 に来ていますよ」と言われたにもかかわらず、いつも時間ぎりぎりに駆け込む私やうり美さんをいつも笑顔で迎えてくれました。
昨年の10月には現地調査の重要性を訴えられ、何度も事件現場に一緒に行ってくださいました。「現場に立ってみると目撃証人の供述がいかにでたらめかよくわかりますよ。富山さんの無実は間違いない」とおっしゃっていました。
Kさんは芸術面にも造詣が深く、書道や絵、写真など多彩な趣味をお持ちで、ある劇団の後援会長もなさっていました。「かちとる会」の運動を通じてのおつ き合いの他に、私やうり美さんは音楽会や演劇、踊りの公演などに誘って頂きました。裁判や運動という極めて現実的な問題に向き合っている中で、その時間は 心の休まるひとときでした。
最後に定例会に参加されたのは5月14日でした。日ごろ血圧が高く、時々体調を崩されているようで心配していたのですが、この時は体調がよかったのか定 例会の後の私たちが“本会議”と称している交流会(飲み会)にも出てくださり、ともに楽しいひとときを過ごしました。Kさんが生まれ育った熊本県の話にも なり、民謡「おてもやん」の熊本弁の意味を説明してくださったりしていました。
6月の定例会は他の用事で出席できないという連絡があり、6月30日の東京高裁への申入れの前に電話をしたところ、「体調があまりよくないので今回は遠 慮します。定例会には必ず行きますから」とおっしゃっていましたが、7月9日の定例会の前々日に電話があり、「体調を崩して入院してしまいまして」と言わ れ驚いていますと、「血圧が高く気分が悪くなって。三時間ほどいたら落ち着いたので帰ってきましたが、まだ本調子ではないので今回の定例会は残念ですが欠 席します」とおっしゃっていました。この後の7月14日に入院され、そのまま回復されることなく18日に亡くなられたとのことで、7月7日に電話でお話し たのが最後になりました。

告別式での献花の時、ご遺族の希望でKさんが好きだったという曲が流されました。ロシア民謡の『バイカル湖のほとり』でした。そ れは1825年、帝政ロシアに叛旗を翻しシベリアに流刑になったデカブリストの故郷への思いを歌ったもので、昨年、Kさんに誘われた音楽会で最も印象に 残った曲でした。その曲を聞いていたら、今年はもうロシア民謡を聞きに行くこともないのだ、ああ、もうKさんはいないのだとたまらなくなりました。 1997年に佐藤齊一さんが逝かれ、今度はKさんと、「かちとる会」にとって、そして私自身にとってかけがえのない人が相次いで亡くなられ、置いてきぼり にされたような淋しさです。
森首相の「神の国」発言や石原都知事による「第三国人」発言、9月3日の防災に名を借りた自衛隊による治安訓練等々、再び日本を「戦争のできる国」にし ようとする動きが激しくなっている今こそ、Kさんの遺志を引き継ぐたたかいが求められています。Kさんの平和への思いを引き継ぎ、そして、なによりも、K さんが心にかけてくれた富山再審を開始させ、再審無罪を必ず勝ちとりたいと思います。大井町のビラまき・署名集めも最後の勝利まで頑張ります。これからも 失敗や試行錯誤を繰り返すと思いますが、Kさん、どうかその優しい笑顔で見守っていてください。 (山村)

Kさん、ありがとうございました
 九州男児、陸軍士官学校、特攻隊教官という出自、経歴から世間的にイメージされるKさん像と、実際に酒を酌み交わし、語り合うな かからつかみ取れるKさんのありのままの姿とは、はたしてかけ違ったものだったのだろうか。そんなに長くはないKさんとの交流を振り返ってみて、違和感が なかったことに、あらためて驚かざるを得ない。
真摯にものごとと取り組み、信じることの実現のために誠実に努力するあり方、つまり生き方の根本をつらぬく価値観は、たしかに思想においては敗戦を経て 180度転換したのは厳然たる事実だが、その人格、人間性という領域では辛酸をなめつくすことによって一層磨かれ、豊かに深められることはあっても、損な われることはなかったに違いない。ご先祖は広島から弓の指南役として仕官した、私は元々は軟派なんです・・・愉快な語り口で興味をそそる話題は含蓄に富ん でおり、時のたつのを忘れるほどだった。「富山さんは笑顔が似合いますよ」とよく言われたが、ご自分こそ笑顔の可愛らしさと威厳を両立させて周囲の人々を 魅了してやまなかった。困難で大変なことほど楽しくやろうというのが私のスタイルだが、この点はKさんと一致していたようだ。違っていたのは、どうやらK さんは比較にならないくらい女性に人気があるということで、醸し出される雰囲気には雲泥の差があり、これには最敬礼するほかなかった。
それはともかく、まだまだ語り合いたかったことがあまりにも多すぎる。早すぎますよ、Kさん、話したいことだらけじゃないですか、と言いたい。「逆転有罪」あたりから一期一会を痛感することがふえたが、またしても・・・。
人間としての生き方、あり方を教えられる多くの人に恵まれたこと、これが私の財産にほかならない。まぎれもなくKさんもその一人である。Kさんが逝かれ たことを深く悲しみつつ、心から「ありがとうございました」とお礼を言いたい。そして、Kさんとともにめざした人間として当然のことである尊厳の回復=再 審無罪の実現を誓いたい。とびっきりの笑顔で「Kさん、やりましたよ」と報告できる日のために、Kさんと一致した流儀で進みたい。 (富山保信)

Kさんに教えられたこと
 7月20日、K氏のお通夜に行ってきました。Kさんとは大井町駅前で一緒にビラまきや署名集めをしました。Kさんの署名集めは気負いもなく自然体で、いつになったらああいう ふうになれるかなと思いました。私の署名集めはどちらかというと「あともう一人」とか「ビラは全部まききるぞ」と追いつめられた感じなのですが、Kさんは 相手との話を楽しんでいるところがあり、そうした雰囲気によるものかKさんの回りにはいつも人が立ち止まっていて、結果はいつも一番署名を集めていまし た。待ち合わせの時間には厳格な人で、いつも十分前に到着して待つのを信条としていました。私が大井町に早めに行っていると、Kさんも早く来ていていろい ろとお話することができました。
Kさんは、一見、いかにも好々爺という感じで、芥川龍之介の話に出て来る若者の願いをかなえてやる仙人といった感じの人でした。そして、戦中・戦後の激動を生きぬいた多くの経験を通して、人はどういうふうに感じるかを気づかう心温かい人でした。
私は、Kさんの生き方のほんの一部を垣間見ることができただけですが、それは私にとってかけがえのない財産になりました。ありがとうございました。
佐藤さんに続きKさんと、再審開始・無罪判決をかちとった時に美酒を酌み交わす人を失ったことは非常に残念です。最後まで富山さんの無実を信じ、勝利を 願って闘った人たちの思いを引き継ぎ、再審無罪を必ず実現させ、一日も早く吉報を報告できるように頑張っていきたいと思います。 (亀)

 

署名運動を成功させましょう

署名運動はなかなか大変な事ですし、私自身の経験から思ってもその御苦労は充分お察しします。

街頭に立ち、何にも御存知ない方々に署名を頂くことは大変なことです。そこで、少しでもこの行動にお役に立てばと思い、私自身の経験から常々心掛けていることを記して見ます。
まず、最も重要なことは、ビラの内容と、一見して理解できるテーマによる表現によると思います。少々目立つ字体や大きさによってハッキリと内容が如何な るものかを表現するいわゆるキャッチフレーズの選び方にあると思います。例えば、「無実の罪を被せられた私の訴えを!」というような表現をビラに一面に書 くことと、できれば富山さんの肖像等が幟やチラシにほしいものです。
それから、ビラ配り、署名運動の街頭行動の中で、留意すべき点について、いつも心掛けていることを記してみます。
全くこの事件を御存知ない方に声をかけることが多いし、そしてまた極めて無関心である方が多いのですから心して行動しなければなりますまい。

 一、かならず声をかけること。例えば、夕方ならば、「お仕事御苦労様でした」とか「お疲れ様でした」。昼間であれば、「どうぞお読みください」云々。

二、常に笑顔を絶やさぬこと。姿勢を正しくしながらもかならず頭を下げること。ビラを手渡す時は手先だけでなく、身体全体で表現すること。

要するに、身体全体でもって表現し、相手の心の琴線に触れることができるような努力をしてみたいと思います。即ち、挙措、動作、言語、そして真実の誠をもって未知の人に接すると言うことでありましょう。  (K)

 7月の大井町での署名集めは、みなさん仲良く、

 

うり美
1名
1名
富山
1名
山村
1名

でした。

 いつもの大井町のYさんから、 「第八歩目(? だめだー。暑さで覚えてない)。旅は始まったばかり、ポカリスエット飲んで、脱水症 状と熱射病に気をつけましょう。タオルとシャワーと睡眠も忘れずに」  という手紙とともに1000円のカンパを頂きました。因みに今回は「第九歩目」で す。ありがとうございました。