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ニュースNo152(2001年5月1日発行)

●ニュースNo152(2001年5月1日発行)◎「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して

大井町Yさんから

集会にご参加ください 

再審の扉を打ち破ろう ― 来て、見て、納得 ・・・ 富山事件

・富山保信さんは無実です
・裁判所はただちに事実審理を!
・検察官は隠し持っている証拠を開示せよ!

とき  30日(土)午後6時30分開始
ところ 「きゅりあん」第二講習室(5階)
(品川区総合区民会館)(京浜東北線大井町駅前)
《講演》   阿藤周平さん(八海事件元被告)、 原田史緒弁護士(富山再審弁護団)

30日 富山再審集会
再審の扉を打ち破ろう
来て、見て、納得 ・・・ 富山事件 ぜひ来てください

  6月30日(土)午後6時30分から、大井町の『きゅりあん』第二講習室で、「かちとる会」は富山保信さんの再審の開始・再審無罪を求めて集会を開きま す。ぜひ、多くの方々のご参加をお願い致します。集会では、八海事件の元被告で、富山さんの再審をずっと支援してくださっている阿藤周平さんと、昨年4月 に弁護士になり、富山再審弁護団に参加された原田史緒弁護士に講演をお願いしています。
1994年6月の再審請求申立てから丸七年が経過しようとしています。この間、4人も裁判長が代わり、この4月に新たに着任した中川武隆裁判長で5人目 となります。これまで、いずれの裁判長も具体的に審理に着手することなく交代していきました。無罪が争われているにもかかわらず富山さんの再審は放置され たままです。
確かに富山さん自身は1995年12月に満期で出獄し、現在、獄中ではなく“外”で生活しています。しかし、「無実でありながら有罪を宣告された人間に とって、罪名や刑期の長短、さらに身柄がどうなっているのかが問題なのではありません。有罪を宣告され たこと自体が、無実の訴えを拒否されたことをもって無実を訴える私の人格が否定されたことが、耐えがたいのです」という富山さんの訴えのとおり、真実は踏 みにじられたままです。
富山さんが出獄したのは、富山さんが、不当きわまりない、そして本人にしかわからないであろう憤懣やるかたない「懲役」の日々を不屈の意志でたたかいぬき、「満期」出獄 をかちとったのであり、決して「再審無罪」で取り戻したのではないのです。富山さんの無実は晴らされていません。富山さんはいまだに「自由」ではないのです。
二審確定判決の「有罪」はいまも「生きて」おり、「判例」とされています。無実を承知のうえで「富山を有罪にせよ」とする権力の意志はいまだ貫かれている のです。このことを一時も忘れることはできません。こんな暴虐を許しておいていいわけがありません。
一日も早く再審を開始させ、再審無罪をかちとり、富山さんに本当の自由を!いまこそ再審の扉を打ち破ろう!
今回の集会は、初めて参加した人にも富山さんの無実を「来て、見て、納得」できる集会、そして、富山さんの再審開始・再審無罪をかちとり、さらにはえん罪のない世の中にするためともに歩んでいけるような集会にしたいと思います。
ぜひ、多くの方々の参加をお願い致します。  (山村)

□富山さんと「かちとる会」が東京高裁前でビラまき

4月11日、富山さんの再審が審理されている東京高裁前で、富山さんと「かちとる会 」の坂本さん、うり美さん、山村の計四名で、再審開始・再審無罪を求めるビラをまきま した。
ビラは富山さんが書いたもので、「私は無実です。一刻も早い再審開始・無罪実現を」 「検察官は私の無実を証明する証拠を隠すな」「東京高裁第三刑事部の裁判官は、私の無実を証明する証拠を隠し持っている検察官に、証拠開示を命令してくだ さい」と訴えるものです。裁判所に向かう職員や弁護士、司法研修生、市民の多くが受け取り、約一時間で 1000枚のビラをまきました。この四月に新たに着任した中川武隆裁判長にぜひ読んでほしいと思います。裁判所はただちに再審開始を!

「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して

 4月21日、広島で、「八海事件発生50周年記念のつどい」が「死刑と無罪の谷間で ・・・いまに活かす『八海』」と題して実行委員会の主催で開かれ、約200人の人々が参加しました。
阿藤周平さんも発言されるということで、東京の「かちとる会」も富山さんを先頭に、 坂本さん、うり美さん、亀さん、山村が参加、「広島かちとる会」からも大槻泰生さんはじめ富山さんの再審を支援する人々が駆けつけてくれました。会場入り 口では、「私は無実です。ただちに再審開始を」「人間の尊厳の回復と冤罪の根絶を」と訴える富山さんのビラや資料を参加者に配り、富山さんの無実を訴えま した。
集会では、最初に映画『真昼の暗黒』が上映され、元日弁連人権擁護委員長の竹澤哲夫弁護士が「『真昼の暗黒』は絶ちきれたのか」と題する講演を行い、その 後、阿藤さんをはじめとする方々によるシンポジウムが行われました。シンポジウムでは、元裁判官の方や富山再審で鑑定書を提出してくださった浜田寿美男さ んも発言されました。以下、発言の要旨を報告します。 (山村)

シンポジウムの冒頭、阿藤さんが発言に立ち
「さきほどの映画を見て拷問場面をどう思ったでしょう。あれは実際に行われたことです。いや、もっとひどかったんです。靴やスリッパで顔を殴った。私が自 白するまで、叩いて、叩いて、飯も睡眠もとらせない。三田尻、現在の防府駅で逮捕され、夕方に警察に着いたのですが、それから翌朝まで痛めつけられまし た。朝、鶏の鳴き声をぼんやり聞いていたのを覚えています。身も心もくたくたになって『やりました』と言ってしまった。とたんに刑事は手錠をはずし、椅子 に座らせ、うどんを出してくれた。しかし、うどんはのどを通りませんでした。
今でもその状況が目に迫ってきます。50年経ちますが、その情景は忘れられません。 どういう部屋で、椅子がどこにあったか、鮮明によみがえってくる。それは私のこの身が覚えていることだからです」
「警察は自白のみに頼り、証拠には見向きもしない。『やりました』という言葉がほしい。そのために暴力をふるう。そして私に嘘の自白をさせた」
「当時、私は軍隊から帰ってきて土工仕事などをしていました。平生の警察署は、常に私に目をつけていて、何かあったらしょっぴいてやろうとしていたわけで す。映画にもありますが、警察に逮捕された時、刑事が最初に言った『阿藤、とうとう来たのう』というのは実際に言ったことです」
「よく言われるんですけれども、本当にやっていないものがなぜ自白をするのかと。僕だったらどんなひどい目にあってもやっていないとがんばると詰めよってきた人もいる。 しかし、警察の密室での取り調べを受けたならば、いかなる人間でも落ちてしまうのではないでしょうか。これは実際に自分の身に受けてみないとわからないのではないでしょう か」 と自らが受けた拷問の実態を話された。
勾留尋問に来た裁判官に、後ろ手錠をかけられ手首が腫れているのや殴られて顔が腫れているのを見せて、拷問を受け嘘の自白をしたと訴えたが、裁判官は聞いているだけで声もかけなかったという。
裁判ではわかってもらえると思っていたが、一審、二審ともに判決は「死刑」。阿藤さんは語る。
「そこで、私は初めて、これはだめだ、このままにしたら、私は無罪なのに死刑にされてしまうと思った。私が居た広島拘置所には死刑確定囚が6~7人居た。 隣の房から『中央公論』とかいう本を借りた。そこに正木ひろし弁護士のことや正木弁護士が扱った『首なし事件』が出ていた。この先生なら、と正木さんに手 紙を書いた。自由法曹団にも手紙を出した。自由法曹団からは原田先生が来てくれて、この二人が上告審から弁護してくれた」
「(二度の死刑判決を受けて)私は外に向かって、自分の無実を知ってもらおうという強い気持ちが湧いてきました。高い塀の外へ、私は無実なのに死刑にされ ようとしていると手あたりしだいに手紙を書いた。字の勉強をして、便箋がないのでザラ紙を二つに切って便箋のように線を引いて、それを便箋にして手紙を出 したんです」
阿藤さんの訴えに、全国から支援運動が起きる。その中で、1957年10月、最高裁は「原判決破棄、差し戻し」の判決を出す。差し戻し審の広島高裁で無罪判決が出され、阿藤さんは翌年結婚する。
ところが検察官はさらに上告し、第二次上告審で、下飯坂裁判長は無罪判決を破棄し、 広島高裁に差し戻す判決を出す。そして、この第二次差し戻し審で阿藤さんはまたも「死刑」の判決を受ける。
この時のことを、阿藤さんは、
「第二次差し戻し審は三年くらい続いた。判決の日は、忘れもしない暑い八月の末、必ず無罪になると広島に来ました。この時は、子供も生まれていて、幼い子 供も連れて来ていたわけです。ところが判決は死刑。その日の夕方、身柄を拘束されました。これほど悔 しく忘れることのできないことはありません。3年後、最高裁で無罪が確定しますが、この3年間は前の8年よりも苦しかった。前の獄中は一人でしたが、この 3年間は外に乳飲み子がいたんですから」
と語り、最後に、
「今も権力への憤りは消えていません。今なお、私の知る範囲でも5本の指に入るえん罪事件があり、私はその支援をしていますが、これは恐ろしいことです。実際、この身がそれを受けているからこそそう思うのです」
「八海の無罪判決をかちとれたのは、みなさんの大きな支援の力があったからこそ。全国の人々の支援で勝利して、だからこそ今、他のえん罪事件を支援することで恩返ししたいと考えています」
「えん罪の恐ろしさは、死刑でも、1年でも、1ヵ月でも同じなんです。自分の真実を奪われた悔しさ、怒りは同じなんです」
「えん罪を作らないため、みなさんと一緒に努力したい。私は今、74歳です。この先、命が続くかぎり、八海の私として、えん罪を受けた生き証人として、えん罪をなくすたたかいをしていきたいと思っています」
と結んだ。次に九州大学の大出良知さんが発言し
「阿藤さんの話を聞いて、えん罪の歴史が凝縮されていると思った。八海事件は日本におけるえん罪の構造をよく示している。見込み捜査によって事件がスター ト、それに合わせる形で自白を作っていく。自白の強要によって虚偽の自白が作られる。これを裁判官までもが過信する。そうやってえん罪が生み出されてき た。この自白偏重主義の連鎖をどう断ち切っていくか、自白の検討、それがどう虚偽であるかの検討が必要」
「(自白の信用性についての注意則が検討されるようになったが)逆にこういう自白なら信用できるという形で使われるようになった」「自白とは、論理とか理 性を越えた怖さを持っている」「『犯人でもないのになぜ自白したのか』と裁判官も思う。一度自白するとそれを理由に有罪になる。捜査官も裁判官も自白に頼 りきっている」
と、自白偏重主義が変わっていないことを指摘された。そして、
「虚偽の自白を生み出さないためにどうするか。浜田先生のように、心理学的立場からの貴重な研究がなされている。一方で代用監獄の廃止が絶対に必要です。 そもそも密室での取り調べに最大の問題があり、それを支えているのが代用監獄。しかも日本は23日 間という長期間の拘束を受ける」
「日本でも当番弁護士制の問題が取り組まれるようになったが、イギリスでは10年以上前から取り調べへの弁護士の立ち会い、すべての取り調べ過程の録音が 行われている。録音したテープの一本は封印して裁判所に保管され、もう一本は捜査や捜査の可視化のために使われる」
「現在行われている司法制度改革審議会でも記録化、捜査の可視化が問題になったが、取り調べ一覧表を出させて捜査当局に報告させる程度で終わっている」と日本の現状を批判した。

次に花園大学の浜田寿美男さんが発言した。浜田さんは、狭山事件を契機にえん罪事件に関わるようになり、甲山事件で目撃供述、「人が語った言葉」の問題に取り組み、特別弁護人という立場で法廷に立った経過を話され、
八海事件は、1951年に事件発生、阿藤さんたちの逮捕から1968年に無罪が確定するまで約18年間という大変な年月が費やされている。甲山事件は 1974年に事件発生、1975年に最初の逮捕がなされ、1978年に裁判が始まるがようやく無罪が確 定したのが1999年。事件から25年、裁判だけでも21年かかっており、八海の18年を塗りかえた。えん罪の構造は、いまだに八海と変わっていないのを 甲山で痛感し た」
「甲山事件では、肉体的、身体的な拷問はなかった。警察は拷問に慎重になってきている。しかし、虚偽自白は減っていない。拷問があるかないかではない。逮 捕されると人格的な支配下に置かれ、おまえがやったんだろうと罵倒され続ける。みじめな思いをする。 言葉の暴力は、肉体への暴力と同じ。無実の人は、ほとんどの場合が黙秘権を行使しない 。むしろ、無実だから相手にわかってほしいと思い弁解する。しかし、聞いてもらえない 。耐えられない気持ちになる。こうした状況がいつ終わるかわからない。いつ終わるかわからない、見通しがないというのは大変辛いことだ。しかも警察は、刑 が重くなる、身内 を連れてくるなど、否認していることの不利を言う。拷問がなくても、こうした孤立無援の中で『私がやりました』と言う心境になる」
「取調官は予断、証拠無き確信によって取調べをする。現在、イギリスの取調べは情報収集に徹しようとしており、インタビューと言われている。ところが、日本の場合は尋問 。おまえがやったのだろう、謝れという謝罪追及になる。これは『やっている』ことが前提。警察官は『やっている』と思いこんでいる。そういう取調べがあるかぎり状況は変わらない。
『犯罪捜査101問』という本に、頑強に否認する被疑者に対しては、『断固として取調べよ。もしかしたらシロかと思って取り調べてはいけない』と書いてある」 と今も本質的に変わっていない警察の捜査のあり方を批判した。そして、
「司法改革が言われているが、戦後、これだけのえん罪事件が起き、死刑再審事件で無罪になった事件だけでも四件もあるのに、これまで公の機関としてなぜこ れだけのえん罪が起きたのかという調査はやられていない。こうした検討を抜きにして司法改革は考えられないのではないだろうか。そういうことを踏まえてい ない司法改革は不十分なものにならざるを得ないのではないか」 と指摘した。

次に、元裁判官で現在弁護士をされている秋山賢三さんが発言。秋山さんは、徳島地裁の裁判官をしていた時「徳島ラジオ商事件」の再審開始決定に関わったとのことで、裁判官としての25年の経験、その後弁護士になってからの9年の経験などに踏まえて話された。
「裁判官と弁護士とではえん罪についての風景が違う」
「えん罪が起きるのは、裁判官の時は個別的な問題と思ったが、弁護士になってシステムの問題だと思うようになった」
「調書は本人が書くものではなく、取調官による作文。警察官は物証を知っており、『 自白』は物証と矛盾しないように確信的に書かれている。裁判官はこの調書を信用する」「裁判官は、裁判官になった当初から判断者としている。下積み時代が ない。拷問を受けたり、留置場にいる人の気持ちはわからない。被疑者と同じ目の高さに立つことなく、 法壇から見ている」
「事実認定については陪審制度を採用すべき。えん罪をなくすためには、事実認定につ いては一般大衆の知恵を借りるしかない」

竹澤哲夫弁護士からも、誤判原因の調査の重要性を指摘された。

最後に阿藤さんが
「私の事件で、もし死刑が確定していたら、私は処刑されたか、そうでなければ獄中から再審を何回もしていたはず。それを思うと身の毛がよだつ思いがする」
「(八海事件で起きたことは)今も形を変えて残っていることを知って頂きたい」
「公正な司法が行われるようになってほしい。そうなれば、そのために、『八海18年 』は無駄ではなかったと思える」
と訴えられた。

【中国新聞の記事】 : (新聞コピー画像省略)

特集 その4

世紀を越えて    ・・・今、八海事件を考える

前号に続いて、今年三月、大阪で阿藤周平さんに伺ったお話を掲載する。

■一審も二審も死刑判決

阿藤さんは、警察による激しい拷問のすえ、やってもいない罪を「自白」させられてしまう。それは阿藤さんにとって耐えがたい屈辱であった。だが、阿藤さん にはかすかな望みがあった。それは、警察官が自分の無実をわかってくれなくても、それより〈偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いな い、そう思っていたのだという。
1952年6月2日、そう信じていた裁判所の下した判断は、阿藤さんに死刑、他四名に対しては無期懲役であった。
阿藤さんは、「一審の時はあんまりショックがなかったと言ったらなんやけどね、一審ではね、そんなにショックはなかった。それだけ裁判所を信じてたのかもわからんね」と死刑判決を聞かされた時の心情を語る。
阿藤さんは、その時、このうえの広島高等裁判所の〈もっと偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いない、そう信じて二審判決を待っていた。しかし、1953年9月18日、ここでも阿藤さんに対する判決は死刑。
「二審(判決)では、今度は嘆きましたわな。もう、ガックリ来ました。(食事も)の どを通らんかったね。僕は、死刑囚のおる独房へ入れられてるんですから」
二度の死刑判決で阿藤さんは厳しい現実を目の当たりにする。もう、こうしてはいられない。阿藤さんは藁にもすがる思いで、雑誌を見て知ったえん罪事件で活 躍していた正木ひろし弁護士や、自由法曹団の岡林辰男弁護士、また人権協会等にも自分が無実であることを訴える手紙を書いたという。

■闇に葬られた真実を語る上申書

事件は吉岡一人による犯行だった。それを警察は「複数犯行説」をとり、吉岡に阿藤さんをはじめとする四人の「共犯者」の名前を言わせ、阿藤さんを「主犯」とした。
二審の広島高等裁判所は、阿藤さんに死刑、吉岡には無期懲役を言い渡している。吉岡は上告することなく服役。
阿藤さんは、吉岡に対して、今は特に憎いとも思わないと言う。もう過ぎてしまったことをとやかく言ってもしかたがない、そう阿藤さんは思うらしい。しかし、吉岡も自分たちと同じ拷問を受けて、八海事件の犠牲者であるという点に関しては強く否定した。
「同じ犠牲者でも次元が違う。あれ(吉岡)は、助かりたい、自分は罪を逃れたい、自分は罪を軽くしたい、それで友だちを引きずり込んだ。警察から責められ て責められてやったけども、結局、警察と合作して、自分はそれだけ利益を得てるわけですよね。確かに、吉岡も厳しい取り調べを受けたと思いますよ。単独犯 行を、罪のない者を引きずり込んで共犯説に変えるんですから、その変わる間にね、警察からずいぶん責められたと思いますよ。だけども、それにはね、並々な らぬ代償があるわけ。命という代償があるわけですよね、やっぱりね」
その一方で、検察官が吉岡を最後の最後まで自分たちの支配下において、法廷で真実を語らせようとしなかったのには、「吉岡もね、苦しかったんだと思いますわ」と語った。
吉岡は良心の呵責からか、阿藤さんたちは一切この事件に関係ないことを服役していた広島刑務所から、阿藤さんたちや弁護人、検察庁、裁判所へと「上申 書」として出している。だが、この上申書は無残にも葬り去られていた。この上申書が日の目を見ることになるのは1965年、広島刑務所を出所する三名に吉 岡が口頭で伝言した内容がそのうちの一人から原田香留男弁護士に、もう一人によって朝日新聞社に伝達されて初めて明らかになったのだった。これらの上申書 が公になったことにより、吉岡が上申書を書いては保安課に呼び出されてひどい目にあっていたことや懲罰房に入れられていたことも、後に明らかになった。
「吉岡、だいぶ証言台に立ってますわ。それでついに自分の良心には勝てんかったんで しょうな、やっぱり。今度、本当のこと言います、今度、本当のこと言います・・・その都度、証言に立つその前日か二日前には検事に呼び出されて、またひっ くり返って。また 、本当のこと言いますって言って、また検事に呼び出されて。もうイタチごっこみたいになってた。だから、検事の方では吉岡をとにかく捕まえておった。それ に加担したのが刑務所ですからね。吉岡、結局、しびれ切らして、出獄する人に口頭で伝言しましたわね。それだけは刑務所は防ぐことは、止めることはできま せんですわね。釈放になった受刑者が(弁護士の)原田さんの所へ吉岡の伝言を伝えに行って、それで上申書が公になった。それまで闇に葬られていた」

■青天の霹靂・・・再収監

一審、二審で死刑を宣告された阿藤さんは、最後の砦である最高裁判所へ上告した。ここでの判断は、原判決を破棄し、広島高等裁判所に差し戻すというもの だった。ここにきて、ようやく阿藤さんに一縷の望みが見え始めた。この時、最高裁が原判決を維持していたならと思うとゾッとする。
阿藤さんは、広島高等裁判所に差し戻された第一次差し戻し審で、結審のあと、判決を待たずに保釈されている(他の三名は結審前に保釈)。これで阿藤さんは「無罪判決」を確信した。
1959年9月23日、広島高等裁判所・村木裁判長は、阿藤さんたち四名全員に対 し無罪を言い渡した。
これで家族とともに今まで一緒に過ごせなかった時間を埋めることができる。これからは家族のために一生懸命働いてがんばろう。そう阿藤さんは思っていたに 違いない。せめてこれで裁判が終わってくれれば、一度無罪判決が出た以上、検察官が上訴できるという日本の裁判システムさえなければ、この後の裁判で人生 を無駄にすることはなかったのに、私はそう思わずにはいられない。
「このあとからの裁判は、今、思えば無駄だった」と、阿藤さんは言う。
検察官が再上告したことにより、再度の悪夢が阿藤さんに襲いかかることになる。
1962年5月19日、二度目の最高裁判所(第二次上告審)は、今度は無罪判決を破棄し、広島高等裁判所へ差し戻したのだった。
広島高裁での審理(第二次差し戻し審)には、阿藤さんは運送会社の運転手をして働きながら公判に通っていた。判決には、その運送会社の社長も息子さんも、 そして支援してくれた人々もみんな来てくれたという。もちろん阿藤さんは無罪判決を聞くだけだと思っていた。
ところが、1965年8月30日、夏の暑い日。一度は無罪判決を出した広島高裁は、今度は阿藤さんに対し死刑を言い渡した(他の三名には12年から15年の懲役刑)。
「(判決を)裁判所で聞いて、それですぐ後、報道陣のテント村で僕らは会見した。会見して、事務官が収監するというのを、若い弁護人たちが阻止して、僕 ら、泊まっていた旅館まで一旦帰った。それを事務官が追っかけてきて、収監するとか揉めてね、結局、夕方、僕らは拘置所に入った」
この死刑判決は、阿藤さんは予期していなかったという。その時の衝撃をこう語る。
「もう無罪だと思ってた。子供やら何やらまだ小さかったけど連れて行っていたし、(勤めていた)運送屋の社長も、社長の息子もね、全部、判決の日に来てくれたんですから 。夢にも思わんもんね。しかし、報道陣はね、七・三くらいで有罪やと思っとったん違いますかな。やっぱり、有罪にせいという差し戻しやからね。無罪にせいという差し戻しと違ってね。僕らはもう、えらいことするなあ思ってね」
その日の夕方、阿藤さんたちは、せっかく取り戻した家族との平穏な生活から、また塀の中の生活へ引き戻された。

■三度目の最高裁・・無罪への確信

「三回目の最高裁の時には自信があったね。自信を裏づけるようなものが出てきたからね」
阿藤さんはうれしそうに語った。
その「裏づけるようなもの」というのは、拘留を更新する書類だった。第二次差し戻し審の有罪判決で阿藤さんが収監されたのが8月30日。それから、毎月、1ヵ月前には次の月の拘留更新の書類が裁判所から来ていたのだという。
「僕のは毎月えらい早く来よった、3年間。今月で言えば3月の末までには、次(4月 )の拘留更新が来てたわけ。ずーっと欠かさずに、事務的に。看守が持ってくる拘留更新に拇印ついて。これが必ず来とったんです。それがね、判決が10月 25日ですねん、三度目の最高裁は。それがその前に来んのですよ、拘留更新が」
いつもなら9月の段階で来る拘留更新の書類が10月になっても、判決直前になっても来なかった。
「(弁護士の)佐々木さんがね、前の日にね、飛行機で僕の所に面会して、それから東京に行かれたんやけどね。だから、2日前ですわな。それでも拘留更新が 来ないから佐々木さんに言ったんです。『先生、これ、おかしいんやけど、毎月1ヵ月前に必ず拘留更新がね、来てるんですけれども全然来ませんよ』。僕はな んで来るもんが来んのやろうと思いますわね。そしたらやっぱりそうやった。拘留更新する必要がなかった、無罪やから。 更新期日までに無罪判決が出るんですから、次の拘留更新をする必要がなかったわけ、最高裁は」
獄中の阿藤さんは、無罪判決を確信していた。しかし、今までの裁判の経過を見る限り においては、この目で、耳で確認するまではまだ手放しで喜べない状態であったと思う。判決当日、午前10時30分。最高裁判所第二小法廷・奥野健一裁判長は原判決を破棄し 、阿藤さんらに無罪を言い渡した。最高裁自らが判断した破棄自判。この報はいち早く広島拘置所の阿藤さんのもとへ届いた。
「東京から拘置所に電話があったんでしょうね。無罪判決が下りたから支度しておくようにと、すぐさまドアを開放してくれたんです。ただ、まだ正式な書面が来ないから、それまで整理しておくようにと言われて」(1998年9月5日、阿藤さん談)

■塀を越えて

八海事件が発生してから無罪まで17年と9ヵ月。青春と言われる時代を阿藤さんは生と死の狭間でえん罪と闘い続けてきた。最高裁で無罪を宣告されるまで、 一時だって気の休まる時はなかったであろうと思う。その茨の道を必ず真実が通る時が来ると信じて、阿藤さんは生きてきたのだと思う。それは自分自身との闘 いでもあったに違いない。「自分でもよく耐えられたなあと思う」と話す阿藤さんだが、それを支えたものは一体何だったのだろうか。
「やっぱり自分の信念と、みんなの支援やね」
阿藤さんはきっぱりこう語った。阿藤さんの口から何度も聞いた言葉、「信念」。言葉で言ってしまえば簡単なのだが、私自身を含めて、信念を貫き通すことができる人間はどれほどいるのだろうか。
「壁を隔てた独房の中にいるでしょ。その中で大切なのは自分の信念と、それを支えてくれた多くの支援者。それが直接声にならなくても伝わって来ます、塀を 越えて。形こそいろいろ違うけれども、支援者、理解者が一番心強いね、無実で闘う人にとってね。孤独は耐えられるったってね、僕らの独房での生活を助けて くれる、支えてくれる支援者がね 、僕に限らずえん罪と闘ってる人には共通の強みだと思いますね」

■誠実に生きる

以前からどうしても阿藤さんに聞きたい質問があった。それは、今までの人生の中で、人間にとって、または阿藤さんにとって何が一番大切だと思うかという甚だ抽象的な質問であった。私はまるで人生の迷い人を導く救世主を見るかのような目で、阿藤さんの顔に見入った。
阿藤さんは少し考えたあとで、「自分に誠実に生きることかな」と言った。「あとを振り返ってみることも必要やけども、あとを振り返った時に、それを糧にして活かすようなもんがないといかんですよね。自分に誠実に生きることが一番ええんかな」
そして、また少し考えて、「思い残すこともあるし、悔いもあると思うんですよ。それをね、糧にするような生き方がいいなあって思ってね。自分の良心という より、持ってる良心を活かすか殺すかは自分の判断次第ですから。人に対してもそうですけれども、自分自身に対して誠実に強く生きることでしょうな。年を重 ねるにしたがってなおさら大切だと思いますわ。なかなかね、生きられるものではないんですよ、人間というのはなかなか複雑ですからね。口で言うほどそう簡 単と違うし。醜いこと多いもんね、自分の身近の周りを見たって、大きくは政治を見たって、社会を見たって。新聞を見たって暗いニュースが多いですよ。政治 に対して魅力ないもん。魅力ないようにしたのはわれわれ個々の人が魅力ないような政治にしてるんだから。一人政治家が悪い言ったってね、自分自身がちゃん としないと。だけどなかなかできんでしょうなあ、やっぱり。人間、欲が深いからね、ほんま」と笑った。

1968年10月25日。最高裁判所の無罪判決を受けて真実の扉は開かれた。阿藤さんの自宅の居間の壁には、広島拘置所から釈放された阿藤さんが満面の笑 顔で握手をしている白黒の写真が拡大されて飾られている。過去を忘れることなく、現在を見つめるかのように。 (うり美)

「明日のために第十四歩目。五月になって暖かくなるのは良いことです」というお便りとともに二千円のカンパを頂きました。ありがとうございます。