●ニュースNo152(2001年5月1日発行)◎「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して |
・富山保信さんは無実です
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□富山さんと「かちとる会」が東京高裁前でビラまき4月11日、富山さんの再審が審理されている東京高裁前で、富山さんと「かちとる会 」の坂本さん、うり美さん、山村の計四名で、再審開始・再審無罪を求めるビラをまきま した。 |
「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して 4月21日、広島で、「八海事件発生50周年記念のつどい」が「死刑と無罪の谷間で ・・・いまに活かす『八海』」と題して実行委員会の主催で開かれ、約200人の人々が参加しました。 |
シンポジウムの冒頭、阿藤さんが発言に立ち、 「さきほどの映画を見て拷問場面をどう思ったでしょう。あれは実際に行われたことです。いや、もっとひどかったんです。靴やスリッパで顔を殴った。私が自 白するまで、叩いて、叩いて、飯も睡眠もとらせない。三田尻、現在の防府駅で逮捕され、夕方に警察に着いたのですが、それから翌朝まで痛めつけられまし た。朝、鶏の鳴き声をぼんやり聞いていたのを覚えています。身も心もくたくたになって『やりました』と言ってしまった。とたんに刑事は手錠をはずし、椅子 に座らせ、うどんを出してくれた。しかし、うどんはのどを通りませんでした。 今でもその状況が目に迫ってきます。50年経ちますが、その情景は忘れられません。 どういう部屋で、椅子がどこにあったか、鮮明によみがえってくる。それは私のこの身が覚えていることだからです」 「警察は自白のみに頼り、証拠には見向きもしない。『やりました』という言葉がほしい。そのために暴力をふるう。そして私に嘘の自白をさせた」 「当時、私は軍隊から帰ってきて土工仕事などをしていました。平生の警察署は、常に私に目をつけていて、何かあったらしょっぴいてやろうとしていたわけで す。映画にもありますが、警察に逮捕された時、刑事が最初に言った『阿藤、とうとう来たのう』というのは実際に言ったことです」 「よく言われるんですけれども、本当にやっていないものがなぜ自白をするのかと。僕だったらどんなひどい目にあってもやっていないとがんばると詰めよってきた人もいる。 しかし、警察の密室での取り調べを受けたならば、いかなる人間でも落ちてしまうのではないでしょうか。これは実際に自分の身に受けてみないとわからないのではないでしょう か」 と自らが受けた拷問の実態を話された。 勾留尋問に来た裁判官に、後ろ手錠をかけられ手首が腫れているのや殴られて顔が腫れているのを見せて、拷問を受け嘘の自白をしたと訴えたが、裁判官は聞いているだけで声もかけなかったという。 裁判ではわかってもらえると思っていたが、一審、二審ともに判決は「死刑」。阿藤さんは語る。 「そこで、私は初めて、これはだめだ、このままにしたら、私は無罪なのに死刑にされてしまうと思った。私が居た広島拘置所には死刑確定囚が6~7人居た。 隣の房から『中央公論』とかいう本を借りた。そこに正木ひろし弁護士のことや正木弁護士が扱った『首なし事件』が出ていた。この先生なら、と正木さんに手 紙を書いた。自由法曹団にも手紙を出した。自由法曹団からは原田先生が来てくれて、この二人が上告審から弁護してくれた」 「(二度の死刑判決を受けて)私は外に向かって、自分の無実を知ってもらおうという強い気持ちが湧いてきました。高い塀の外へ、私は無実なのに死刑にされ ようとしていると手あたりしだいに手紙を書いた。字の勉強をして、便箋がないのでザラ紙を二つに切って便箋のように線を引いて、それを便箋にして手紙を出 したんです」 阿藤さんの訴えに、全国から支援運動が起きる。その中で、1957年10月、最高裁は「原判決破棄、差し戻し」の判決を出す。差し戻し審の広島高裁で無罪判決が出され、阿藤さんは翌年結婚する。 ところが検察官はさらに上告し、第二次上告審で、下飯坂裁判長は無罪判決を破棄し、 広島高裁に差し戻す判決を出す。そして、この第二次差し戻し審で阿藤さんはまたも「死刑」の判決を受ける。 この時のことを、阿藤さんは、 「第二次差し戻し審は三年くらい続いた。判決の日は、忘れもしない暑い八月の末、必ず無罪になると広島に来ました。この時は、子供も生まれていて、幼い子 供も連れて来ていたわけです。ところが判決は死刑。その日の夕方、身柄を拘束されました。これほど悔 しく忘れることのできないことはありません。3年後、最高裁で無罪が確定しますが、この3年間は前の8年よりも苦しかった。前の獄中は一人でしたが、この 3年間は外に乳飲み子がいたんですから」 と語り、最後に、 「今も権力への憤りは消えていません。今なお、私の知る範囲でも5本の指に入るえん罪事件があり、私はその支援をしていますが、これは恐ろしいことです。実際、この身がそれを受けているからこそそう思うのです」 「八海の無罪判決をかちとれたのは、みなさんの大きな支援の力があったからこそ。全国の人々の支援で勝利して、だからこそ今、他のえん罪事件を支援することで恩返ししたいと考えています」 「えん罪の恐ろしさは、死刑でも、1年でも、1ヵ月でも同じなんです。自分の真実を奪われた悔しさ、怒りは同じなんです」 「えん罪を作らないため、みなさんと一緒に努力したい。私は今、74歳です。この先、命が続くかぎり、八海の私として、えん罪を受けた生き証人として、えん罪をなくすたたかいをしていきたいと思っています」 と結んだ。次に九州大学の大出良知さんが発言し、 「阿藤さんの話を聞いて、えん罪の歴史が凝縮されていると思った。八海事件は日本におけるえん罪の構造をよく示している。見込み捜査によって事件がスター ト、それに合わせる形で自白を作っていく。自白の強要によって虚偽の自白が作られる。これを裁判官までもが過信する。そうやってえん罪が生み出されてき た。この自白偏重主義の連鎖をどう断ち切っていくか、自白の検討、それがどう虚偽であるかの検討が必要」 「(自白の信用性についての注意則が検討されるようになったが)逆にこういう自白なら信用できるという形で使われるようになった」「自白とは、論理とか理 性を越えた怖さを持っている」「『犯人でもないのになぜ自白したのか』と裁判官も思う。一度自白するとそれを理由に有罪になる。捜査官も裁判官も自白に頼 りきっている」 と、自白偏重主義が変わっていないことを指摘された。そして、 「虚偽の自白を生み出さないためにどうするか。浜田先生のように、心理学的立場からの貴重な研究がなされている。一方で代用監獄の廃止が絶対に必要です。 そもそも密室での取り調べに最大の問題があり、それを支えているのが代用監獄。しかも日本は23日 間という長期間の拘束を受ける」 「日本でも当番弁護士制の問題が取り組まれるようになったが、イギリスでは10年以上前から取り調べへの弁護士の立ち会い、すべての取り調べ過程の録音が 行われている。録音したテープの一本は封印して裁判所に保管され、もう一本は捜査や捜査の可視化のために使われる」 「現在行われている司法制度改革審議会でも記録化、捜査の可視化が問題になったが、取り調べ一覧表を出させて捜査当局に報告させる程度で終わっている」と日本の現状を批判した。 次に花園大学の浜田寿美男さんが発言した。浜田さんは、狭山事件を契機にえん罪事件に関わるようになり、甲山事件で目撃供述、「人が語った言葉」の問題に取り組み、特別弁護人という立場で法廷に立った経過を話され、 次に、元裁判官で現在弁護士をされている秋山賢三さんが発言。秋山さんは、徳島地裁の裁判官をしていた時「徳島ラジオ商事件」の再審開始決定に関わったとのことで、裁判官としての25年の経験、その後弁護士になってからの9年の経験などに踏まえて話された。 竹澤哲夫弁護士からも、誤判原因の調査の重要性を指摘された。 最後に阿藤さんが、 |
【中国新聞の記事】 : (新聞コピー画像省略) |
特集 その4世紀を越えて ・・・今、八海事件を考える 前号に続いて、今年三月、大阪で阿藤周平さんに伺ったお話を掲載する。 |
■一審も二審も死刑判決阿藤さんは、警察による激しい拷問のすえ、やってもいない罪を「自白」させられてしまう。それは阿藤さんにとって耐えがたい屈辱であった。だが、阿藤さん にはかすかな望みがあった。それは、警察官が自分の無実をわかってくれなくても、それより〈偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いな い、そう思っていたのだという。 ■闇に葬られた真実を語る上申書事件は吉岡一人による犯行だった。それを警察は「複数犯行説」をとり、吉岡に阿藤さんをはじめとする四人の「共犯者」の名前を言わせ、阿藤さんを「主犯」とした。 ■青天の霹靂・・・再収監一審、二審で死刑を宣告された阿藤さんは、最後の砦である最高裁判所へ上告した。ここでの判断は、原判決を破棄し、広島高等裁判所に差し戻すというもの だった。ここにきて、ようやく阿藤さんに一縷の望みが見え始めた。この時、最高裁が原判決を維持していたならと思うとゾッとする。 ■三度目の最高裁・・無罪への確信「三回目の最高裁の時には自信があったね。自信を裏づけるようなものが出てきたからね」 ■塀を越えて八海事件が発生してから無罪まで17年と9ヵ月。青春と言われる時代を阿藤さんは生と死の狭間でえん罪と闘い続けてきた。最高裁で無罪を宣告されるまで、 一時だって気の休まる時はなかったであろうと思う。その茨の道を必ず真実が通る時が来ると信じて、阿藤さんは生きてきたのだと思う。それは自分自身との闘 いでもあったに違いない。「自分でもよく耐えられたなあと思う」と話す阿藤さんだが、それを支えたものは一体何だったのだろうか。 ■誠実に生きる以前からどうしても阿藤さんに聞きたい質問があった。それは、今までの人生の中で、人間にとって、または阿藤さんにとって何が一番大切だと思うかという甚だ抽象的な質問であった。私はまるで人生の迷い人を導く救世主を見るかのような目で、阿藤さんの顔に見入った。 1968年10月25日。最高裁判所の無罪判決を受けて真実の扉は開かれた。阿藤さんの自宅の居間の壁には、広島拘置所から釈放された阿藤さんが満面の笑 顔で握手をしている白黒の写真が拡大されて飾られている。過去を忘れることなく、現在を見つめるかのように。 (うり美) |