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ニュースNo178(2003年7月1日発行

 

●ニュースNo178(2003年7月1日発行)◎【資料】 指宿さんの講演レジュメ
指宿信立命館大学教授の講演(1) 「『司法改革』と証拠開示問題」
たたかいを全力で繰り広げましょう 大槻泰生□大井町ビラまき報告

(証 拠開示の)ルール化をするのであれば、どのようなルールが望ましいルールなのかを社会に提示して、もし政府案とそれが違うのであればこれを国民の前に明ら かにして、その違いを世に問うてみたい。どちらがより望ましい証拠開示のルールなのかということを問うてみたいと思うのです。私は、証拠開示に多少なりと も関わりをもった研究者として、それをしなければならない社会的責任があると思っています。私は一体何を言いたいのかというと、まず第一点は証拠は誰のものかということ。それは検察官のものではないということです。これをまずもうしあげたい。そ して、第二点は、その証拠を一体何のために使うかということ。当事者主義の世界では検察官が被告人を有罪にするための証拠です。しかし、証拠はそのためだ けにあるのではない。検察官にとってはそうなんですけれども究極の目的は真実を明らかにし正義がなされることを確保するために使う。それが証拠というもの であるはずです。それが真理であることは世界各国の制度が物語っていると思います。

【資料】 指宿さんの講演で配布されたレジュメ

『司法改革』と証拠開示問題

2003年6月7日
指宿 信(立命館大学法学部)
MakotoIbusuki◎2003

「検察側は、ふつうの被告人であれば手に入れられないような資料を持っている。それゆえ、弁護にとって核心となるような 情報が検察側の手中にある場合、それを被告人にも利用できるようにすることば絶対に必要である。もし裁判が、真実を隠すための努力ではなく真実への探索で あるというのなら、全面的かつ公正な証拠開示は、訴追側の恐ろしい権力に対して被告人の権利を保護するために欠くべからざるものとなる。」ルービン・“ハ リケーン”・カーター事件におけるサロキン判事による判決文より

はじめに

1.司法制度改革における証拠開示の位置づけ

2.わが国における証拠開示の現状と課題
1)最高裁1969年判決:個別開示方式
 2)誤判原因と証拠開示問題

3.世界の証拠開示制度の動向
1)アメリカ:類型的アプローチ
① 連邦刑事訴訟規則
② プレディー事件最高裁判決(1963年)
2)カナダ:全面開示アプローチ
①ドナルド・マーシャル事件無罪判決(1983年)
② 王立委員会報告書(1989年)
③ スティンチコム事件最高裁判決(1991年)
3)イギリス:二段階アプローチ
① ウォード事件(1993年)
② 王立委員会報告書(1993年)
③ 刑事手続捜査法(1996年)
④ 批判
4)オーストラリア:関連性アプローチ

4.推進本部検討会による「たたき台」をめぐって
1)議論の推移

2)たたき台の概要
① A案=二段階開示方式の採用
② B案=類型的(限定的)アプローチ

おわりに

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【資料①】司法制度改革審議会 報告書 (2001年6月)より抜粋

「充実した争点整理が行われるには、証拠開示の拡充が必要である。そのために、証拠開示の時期・範囲に関するルールを法令により明確化するとともに、新た な準備手続の中で、必要に応じて、裁判所が開示の要否につき裁定することが可能となるような仕組みを整備すべきである。」

資料②】裁判長制度・刑事検討会 5月30日配布資料1「刑事裁判の充実・迅速化について(その1)」より抜粋 注:【 】はたたき台原文にはない

3 検察官による事件に関する主張と証拠の提示

(1)検束官主張事実の提示

ア 裁判所は、第一回公判期日前の準備手続をする旨の決定をしたときには、検察官及び被告人又は弁護人の意見を聴いた上で、検察官が証拠により証明しよう とする事実(検察官主張事実)を記載した書面(検察官主張事実陳述書)の提出及び被告人に対する証拠開示の期限を定めるものとする。
イ 検察官は、アにより裁判所の定めた期限内に、裁判所及び被告人又は弁護人に対し、検察官主張事実陳述書を送付しなければならないものとする。
ウ 検察官は、アにより裁判所の定めた期限内に、検察官主張事実の証明に用いる証拠の取調べを請求しなければならないものとする。

(2)取調べ請求証拠の開示

ア 検察官は、(1)アにより裁判所が定めた期限内に、検察官主張事実の証明に用いる証拠を被告人又は弁護人に開示しなければならないものとする。
イ アの開示の方法((3)【下記】及び5【争点に関する証拠開示】の開示の方法についても同じ。)は、証拠書類及び証拠物については閲覧をする機会を与 えること、証人についてはその氏名及び住所を知る機会を与え、その供述調書(検察官において、その証人が公判廷において証言するものと考える事実が記載さ れたものに限る。)の閲覧をする機会を与えることによるものとする。証人の供述調書が存在しない場合又はこれを開示することが相当でないと認める場合に は、供述要旨を記載した書面の閲覧をする機会を与えることによるものとする。

弁護人に対しては、謄写の機会も与えるものとする。

(3)取調べ請求証拠以外の証拠の開示

 A案  検察官は、(2)【取調べ請求証拠】による証拠の開示の際に、その保管する証拠の標目を記載した一覧表を被告人又は弁護人に開示しなければならないものとする。
検察官は、被告人又は弁護人から、上記一覧表記載の標目により証拠を特定して、開示の請求があった場合、開示により弊害が生じるおそれがあると認めるときを除き、当該証拠を開示しなければならないものとする。

 B案  検察官は、(2)で開示される証拠以外の証拠であって、次のアないしキの類型のいずれかに該当するものについて、被告人又は弁護人から、開示を求める証拠 の類型及びその範囲を特定し、かつ、事案の内容及び検察官請求証拠の構造等に照らし、特定の検察官請求証拠の証明力を判断するために当該類型及び範囲の証 拠を検討することが重要であることを明らかにして、開示の請求があった場合において、開示の必要性、開示によって生じるおそれのある弊害の有無、種類、程 度などを考慮して、相当と認めるときは、当該証拠を開示しなければならないものとする。

ア 証拠物
イ 鑑定書
り 検証調書、実況見分調書その他これに準ずる証拠
工 写真、ビデオテープ、録音テープ
オ 検察官が証人請求予定の者の供述調書
力 検察官主張事実に直接関係する参考人の供述調書
キ 被告人の供述調書

集会報告

6月7日の「証拠は誰のものか―真実究明は証拠開示から 6・7富山再審集会」での指宿信立命館大学教授の講演を掲載します。 【中見出しは編集者の責任でつけました】

「司法改革」と証拠開示問題

指宿 信

 立命館大学の指宿です。本日は、お招き頂きましてありがとうございます。

  皆さんのお手元に配られてあるプログラムの中に、昨年、私が読売新聞の論壇に投じたものが収録されていると思いますけれども、私はここ数年とりわけ証拠開 示の問題に力をいれてまいりました。最近は研究室で研究しているよりも、こうやって東京に出かけて皆さんの前でお話をしたり、先週は慣れない記者会見とい うものを東京地裁でやりました。どういうことかといいますと、現在進行中の司法制度改革の中で証拠開示について、こういうルール化をしてほしいというわれ われの提案を発表するためです。

今日は、タイトルは「『司法改革』と証拠開示問題」ということですので、一昨年の司法制度改革審議会の意見書で証拠開示の問題がどのように提起された か。これまでのわが国の証拠開示の現状や課題はどういったもので、それが諸外国と比べてどういう特徴があるのか。ちょうど5月30日に現在証拠開示の原案 を作っている推進本部というのがありますが、その中の検討会が「たたき台」というものを作りました。新聞報道でご覧になってると思いますけれども。その 「たたき台」の中で証拠開示の最も核心的な部分について私のレジュメの2枚目から掲載しておりますので、それについてのコメント、そして再審請求手続等の 証拠開示の問題について最後に触れたいと思います。

日本の刑事裁判における証拠開示の現状と課題

先週ですね弁護士のY先生から、ここにおられるんですけれども、お手紙を頂戴しまして、かつて証拠開示問題について座談会に出席 したと、そのコピーを送って頂きました。1979年9月。25年位前ですね、四半世紀前。『法の支配』すばらしいタイトルの雑誌ですけれども、日本法律家 協会というところからでています。タイトルは「刑事裁判の現状と問題点」となっており、第一審公判をテーマとした座談会で、内容は多岐にわたっているよう ですが、証拠開示のところを送って頂きました。一読しまして、弁護士の方々、検察官の方々、裁判官の方々が出られて議論されていることは一向にこの25年 間、わが国で進展していないということをつくづくと感じました。

当時、検察官である出席者が述べていることは今と全く同じです。繰り返すまでもありませんけれども、わが国は当事者主義なんだか ら、お互いに証拠を集めたらいいんではないか、自分たちが立証するのに必要な証拠だけを法廷に出すのが当事者主義なんだから、われわれは弁護人や被告人に 見せる必要はない。そういう訴訟の構造になっていない。もし見せるとすれば、弊害がいろいろある。関係者のプライバシー、証拠隠滅の恐れがある。この構造 論と弊害論。今でも証拠開示について検察側が言うことです。やはり、この座談会の中でも主張されておりました。Y先生は、職権主義の時代は、検察側から一 件記録がすべて裁判所に送られますので、弁護人は裁判所に行けば一件記録をすべて見ることができた、検察官が使おうと思っている証拠かそうでないかにかか わらず、すべてを閲覧することができた、と。それがどうして当事者主義になったらそれができないのか、ということを強くおっしゃっておられるんですけれど も、暖簾に腕押しといいますか議論は平行線。

もし、私がこの25年前に出席していたらですね、言いたかったのはこういう事だったと思うんです。じゃ、職権主義の時代は弁護人 は証拠隠滅してましたか、戦前には。弁護人が証人威迫をしてましたか。裁判所で弁護人は事件の一件記録を見ていたんですね、その当時。それで弁護をやって いたんです。プライバシーの侵害がありましたかと尋ねたい。そんなこと論じた検察官は戦前におそらくいなかったと思います。もし仮に、証人威迫や証拠隠滅 があれば、これはこれで立派な犯罪ですから処罰される。もしそのようなことがあれば検察官はそういうように対応したでしょう。プライバシー侵害があれば、 その当時はまだプライバシーという概念はありませんでしたけれでも、何らかの法益の侵害があれば不法行為として訴えることができたでしょう。いきなり当事 者主義になったがために弊害論を持ち出すことによって、いわば後から後知恵で弊害論を持ち出すことによって証拠開示ができないという理由にしていたのでは ないか。そう思えて仕方がありません。では、今度の司法制度改革で証拠開示制度を作ろうというときに、どのような視点にたって証拠制度をつくろうとしてい るのか、それから今日の話を始めさせて頂きたいと思います。

何のための証拠開示制度か

私のレジュメを めくって頂いて、2枚目の司法制度改革審議会の最終報告書、2001年6月にでた報告書の抜粋の所をご覧ください。ご存じかと思いますけれども、今回の司 法制度改革によって証拠開示を行うということは決まっております。証拠開示制度を作ることは決まっているのです。しかし、司法制度改革審議会では、何のた めに証拠開示制度を作るのかということは、目的はその抜粋の最初に書かれてますように、充実した争点整理が行われるためということです。充実した争点整理 のための証拠開示が出発点です。そのために、証拠開示の時期・範囲等に関するルールを法令により明確化するとともに、新たな準備手続の中で、必要に応じ て、裁判所が開示の要否につき裁定することが可能となるような仕組みを整理すべきである、としています。

つまり、裁判を迅速に充実して行うために証拠開示が必要だと言うのです。そのためには裁判が始まる前に争点、弁護側と検察側が争うポイントを絞っていき ましょう、整理していきましょうということです。これに対して、こうした発想では証拠開示を論じても仕方がない。誤判からの救済、無辜の不処罰のために証 拠開示をしなければならない、そもそも出発点が違うじゃないか、だからもう今回の証拠開示制度について議論しても意味がない、だいたい今回のようなかたち で司法制度改革を議論することに意味がない、そうおっしゃる方々もおられます。私は、そうおっしゃる方々、非常に近しい方が多いんです。気持ちは良くわか ります。私も同じ思いです。けれども、そう言っていてもその間に議論は進んでいきます。証拠開示のルールが作られようとしています。

私は、これ以降は私個人のスタンスですし私の考えに賛同して下さるかたもおられますけれども、ぜひここにおられる方も賛同して頂 きたいのですが、ルール化をするのであれば、どのようなルールが望ましいルールなのかを社会に提示して、もし政府案とそれが違うのであればこれを国民の前 に明らかにして、その違いを世に問うてみたい。どちらがより望ましい証拠開示のルールなのかということを問うてみたいと思うのです。私は、証拠開示に多少 なりとも関わりをもった研究者として、それをしなければならない社会的責任があると思っています。

証拠開示のルール無し、えん罪・誤判の温床

ルール化といいますけれど、わが国にルールはなかったのかということに話を移しましょう。法律上は、われわれが言っているような 証拠開示のルールはありません。刑事訴訟法にはそのようなルールはありません。単に第一回公判期日の後に検察官は自らが立証に使う証拠を法廷に出し、それ を弁護人が見ることができるというだけです。私たちが証拠開示という言葉を使う時は、検察官が手に持っているけれども、使わない証拠を見せること、これを 証拠開示というふうに呼んでいます。使うのを見せるのは当たり前なんでして、持ってるけれど使わない証拠を見せる。これが証拠開示です。しかし、現行法に はこれについての定めはありません。

じゃ検察官は使わない証拠を見せていないのかといいますと、実はそうではありません。見せています。どういう場合に見せるかとい いますと自白している事件では、かなり見せます。もう争わない、被告人、弁護人が争わないという姿勢を見せていれば、かなりの部分を検察官は任意で見せて くれます。任意の開示はルールがないまま、おこなわれているのです。しかし、問題なのは争っている事案です。有罪、無罪を完全に争っている事案もそうです し、事実は認めながらも責任について争っているケース、たとえば、故意か過失かについて。あるいは全部か一部かで争っているケースというように。あるいは 労働、公安事件などです。そうした特殊な例になりますと検察官はとたんに態度を変えてきます。つまり、場合によって検察官の裁量によって未提出証拠、自分 たちが使わない証拠を見せたり見せなかったりしている。それができるのはルールがないからです。

ルールがないままでは紛争が絶えません。それで日本の最高裁判所は、大変なのはわかったから、どうしてもの時は裁判所が検察官に 命じてあげましょう、この証拠を出しなさいというふうに。すべてを出しなさいではなく、一部だけを出すように命じましょう、と判例で決めました。これを個 別開示方式と呼んでいます。そのかわり弁護人はどういう証拠をだしてほしいか裁判所にまず特定してください。これこれこの証拠を出してくださいと、まず裁 判所に申し出なさい、とした。しかも、その証拠が必要な理由をどうしてそれを開示しなければいけないか、その理由を言いなさい、としました。ところが、こ こで一つ問題があります。どんな証拠があるかわからないのに、どうしてそれを特定するすることができるかという問題です。みなさんご存じのように松川事件 のアリバイ証拠であった諏訪メモ。有名なメモ帳があります。あれは後から存在が被告人、弁護人にわかったわけです。そういうメモ、被告人の現場不在証明す るメモをとっていたらしいと。そこで検察官に出してくれと要求することができた。しかし公判開始当初はそんなことはわからないわけです。特定のしようがな いのです。つまりこの個別方式の一番の難点は、まず特定できるかどうかというところにあります。

二番目の難点は、特定したら裁判所はすぐ命じてくれるかどうかです。よしわかったと言って、被告人、弁護人の立場にたって検察官に命令するかというと、 そうではなく直ちに命令しないのです。通常は、まず、検察官に対して意見を求める、どうですかって。非常に丁寧に。その次、どうしても必要な感じがすると 思いますと今度は「勧告」、出すべきであると裁判所は言う。その次が「命令」で、出しなさいと言う、これが開示命令です。ここまでで、すごい山の頂の上な んですね。勧告までは比較的いきやすいのですが命令にまではなかなかいかない。しかもたまに太っ腹の裁判長がいて、命令だすぞというふうになりますと、今 度検察官は命令されて出すのは嫌だから命令がでる前に出してしまう。というわけで、開示命令というのは、わが国ではあまり出されません。裁判官も検察庁と 波風たてるの嫌だから勧告ぐらいでなんとか出してほしい。

このように、個別開示方式は何が証拠としてあるかわからない、なかなか裁判所から命令がでない、二つの大きな欠点をもっています。多くの研究者や弁護人 はこれに対して「全面開示」を求めてきました。全面開示というのは、検察官の裁量や裁判官の命令に依存せず、公判開始前にすべての検察官の手持ちの証拠を 弁護側に開示する、というものです。しかし、実務判例は1969年に最高裁が出した判例の方式で進んでいます。もっとも、検察官が任意で、すべての証拠を 出してくれば問題ないんです。そうでないから法的に義務づけなければならない。ルールを定めなければならないということになるのです。実際にそのすべての 開示が行われないために様々な誤判が起きているということは、皆さんも御存じだろうと思います。

今日のプログラムの中にも入ってますが、免田、財田川、松山、徳島ラジオ商殺し、松川といった証拠開示がようやく行われた結果、 被告人、再審請求人の無罪を明らかにできる証拠がでてきたというケースが紹介されています。財田川については犯行方法について、松山事件については被害者 の血液鑑定について、徳島ラジオ商殺しで目撃したという少年二人の偽証について、松川ではアリバイ証拠諏訪メモ。そういった例は数限りがありません。もし これらの証拠が公判開始前、あるいは公判開始後、直ちに弁護側の手元にあれば開示されていれば、もっと早くに裁判は終了したであろうとおもわれます。ある いはそのような開示をしなければならないことを前提としたら、そもそもそのような起訴はできなかったのではないか、と思われます。

ここで先程、なぜ検察側が証拠を開示する義務がないかということの大きな理由として構造論、弊害論があると申しましたけれども、 その構造論について、当事者主義だという説明があります。たとえば、Y先生から送って頂いた『法の支配』の中でも松尾浩也先生、刑法学会の理事長で東大教 授、この座談会でこうように言っておられた。「当事者主義から証拠開示を全面的に認めるべしという議論は成り立ちにくい」と。確かに、この当時は成り立ち にくいという見方が学会でもなくはなかった。職権主義をとってるドイツやフランスでは一件記録が裁判所にありますから、それで弁護人は見られる。しかし当 時者主義をとっているアメリカ、イギリス等々の国では、確かに弁護人が見ることは難しかった。しかし、この座談会は1979年ですが、すでにアメリカでは ルール化が行われていたことを忘れてはなりません。以下では、当事者主義をとる国の刑事訴訟法と証拠の開示がまったく矛盾することなく存在していることを お話ししたいと思います。

世界の証拠開示制度の動向

アメリカ

レジュメで いいますと世界の証拠開示の流れの項に入ってまいりますが、まず、アメリカ合衆国。今日はアメリカといっても広いですので、合衆国の連邦の例だけをとりま すけれども、すでに1966年と75年に連邦の刑事訴訟規則は改正され、被告人の全供述調書、被告人の前科、前歴、訴追側の手持ちのすべての書面と証拠物 が開示対象になっていました。訴追側が知っている範囲で防御に重要なすべての資料や鑑定の結果、そして、すべての専門家証人の供述の開示が、公判前に弁護 側に請求に基づいて行われることになっていました。これを「類型的アプローチ」というふうに呼んでいます。それと同時にもう一つ大事なことですが合衆国最 高裁はブレディ事件の判決の中で、検察官は被告人を無罪とする方向の証拠を開示する憲法上の義務をもっていると言明しました。これがブレディ・ルールとい われるものです。このレジュメのうえの四角囲みのところでハリケーン・カーター事件の判決文を引用いたしました。皆さんご存知の映画『ハリケーン』、デン ゼル・ワシントンがボクサーの役をやった映画です。1985年に彼はようやく連邦裁判所によっていわゆる再審無罪となるのですが、この無罪理由はブレ ディ・ルールどおりにカーター氏の無実を証明する可能性があるポリグラフ検査の結果が、最初の裁判当時に開示されていなかったことなのです。

これを根拠に無罪判決がでたのです。裁判長であるサロキン判事は判決文で述べています。『検察側は普通の被告人であれば手にいれ られないような資料をもっている。それゆえ弁護人にとって確信となるような情報が検察側の手中にある場合、それを被告人にも利用できるようにすることは絶 対に必要である』、と。『もし裁判が真実を隠すための努力ではなく、真実への探索であるというのなら全面的かつ公正な証拠開示は訴追側の恐ろしい権力に対 して被告人の権利を保護するために欠くべからざるものとなる』、と。このような考え方は映画でみると、すばらしい裁判長だなと皆さん感動するでしょう。し かし、これはアメリカで当たり前の考え方でした。当たり前のことがカーター事件で行われなかったから再審無罪になったわけですね。つまり、当事者主義の母 国、わが国の刑事訴訟法、憲法というのはアメリカの占領軍によって作られたものですから、わが国の当事者主義の母国であるアメリカで、このような考え方が きちんと成立していたわけです。もう一度繰り返しますけれども、連邦刑事訴訟規則は66年と75年。ブレディ事件の最高裁判決は1963年であります。

ところが、アメリカでも問題はあります。なにが問題なのかといいますと二つあります。一つは、カーター事件と同じように検察側が持っている証拠をこのブ レディ・ルールのとおりに開示しないことがあるわけですね。それをどうやって発見するかということ。そして、発見した場合にどのような制裁を科すかという ことです。
もう一つの問題は、警察が検察にすべての証拠を送っていない可能性があるということです。映画『ハリケーン』をご覧になったかたはご存知だと思います が、彼の無罪証拠を集めたのはカナダの若い青年達でありました。1994年ルービン・カーター氏がカリフォルニアのSanta Clara School で講演をされているのですが、この中でこのように述べています。「証拠開示のルールがあるにもかかわらず、検察側はあなたに知らせたくないと思うものを知 らせようとはしない」、と。ルールはあっても、「そうなるとあなた自身でそれを見つけなくてはならなくなる」、と訴えています。ルール化できたといって も、やはりこうした問題は残ってしまうことです。

カナダ

では、別の国の話をさせてもらいましょう。次はカナダです。カナダでは非常に劇的な誤判事件があったんです。ドナルド・マーシャ ル事件と呼ばれています。1983年に無罪判決がでました。これは真犯人が現れた事例です。ドナルド・マーシャルというのはカナダの少数民族、カナディア ンインディアンの青年です。この事件はノヴァ・スコシア州という、太平洋側の小さな州で起きた殺人事件です。幸いカナダは死刑がないので無期懲役になった のですが、有罪判決を受けた。その後、再審請求中に真犯人を特定する証拠を発見することができて無罪となりました。このような誤判事件というのは、洋の東 西を問わないわけです。が、いったいどうしてドナルド・マーシャルがそのような有罪判決を受けてしまったかについて、原因究明のための調査委員会を置きま した。これが王立委員会です。イギリス連邦の国は刑事事件に限らず何か調査をするときは王立委員会、ロイヤルコミッションというのを置くんですが、この事 件について1989年にその報告書がまとまりました。全6巻1500頁ですね。日本の司法制度改革審議会もこれぐらいの調査をやってほしかったです。

大変な時間と労力とコストです。カナダ全土で100回近い公聴会が開かれました。この報告書は、もちろん日本のどこにもありませ んから、原本を見たくてカナダの、日本でいう国会図書館みたいな所に手紙を書いて全部6冊、全部コピーしたみたいですが送ってもらいました。見てみます と、ありとあらゆる刑事司法についての調査をしている。最終的に80数項目にわたる勧告をしているんですが、途中で、委員会は魔女狩りだという批判が司法 界からでる位、徹底してやってる。ノヴァ・スコシア州の人がやると公正さを欠くということで、委員長は別の州から選んでいますし、意見のある人は誰でも意 見を言えるようになっていて、そういう人たちからも公聴会をしている。さて、その報告書の中で誤判のひとつの大きな原因と指摘されたのは、証拠が隠されて いた点です。カナダも当時は証拠開示のルールがないということで、このようにルールをつくるべきだという提案をしました。しかし、カナダの連邦政府はノ ヴァ・スコシア州がそんなことを言っているけれども、われわれの制度はうまくいっているということですぐにルールをつくらなかった。ところが、これに答え たのがカナダの最高裁判所です。スティンチコムという事件で判決がでます。1991年です。カナダの判例の中ではじめて検察官は被告人に対して全面的に証 拠を開示する義務があるということをいいました。それは当事者主義とは矛盾しない。

今日の集会のタイトル「証拠は誰のものか」ですね。僕はこれ大変気にいりました。証拠は誰のものか。このスティンチコム判決の中 で、この疑問への回答が書かれているのです。その部分を読ませていただきます。「検察の手中にある捜査の成果は、有罪を確保するための検察の財産ではな く、正義がなされることを確保するために用いられる公共の財産である」、と。公共の財産とは英語ではパブリック・インタレスト(Public  Interest)と言います。これは非常に新しい視点だと思います。今日の「証拠は誰のものか」、証拠というのは検察のものではない。たまたま検察が もっているけれども、それは社会全体のものである。当事者主義の最高裁判所でそういうふうに言ってるんです。この判決を私が読んだのは1994年くらいで すが、脳天を割られるといいますか、目から鱗といいますか、大変な衝撃を受けたのを今でも覚えております。これまでは検察官が持ってるものを出しなさいと いう、何で隠しているのか、あなたの持っているものを出しなさいよという形で考えてきた。それは検察の持ってるものを「出させる」という発想でした。確か に民事裁判であれば同じような問題がおきますと、当事者どうしが持ってる証拠をどういうふうに開示するかという問題になりますが、刑事裁判はそうではな い。検察がもってるのは、国民の税金を使って集めたものである。ある事件を解明するために集めている資料です。さまざまな情報が集められている。もし仮に 被告人が真犯人でないなら、その場合、検察官は証拠や情報に対する判断を誤ったということになります。では、残りの証拠は一体どういう可能性を指し示して いるのだろうか。これを誰も吟味できないことになります。

当事者主義というのは確かに立証する側と反論する側がいるわけですが、同じ土俵でも違う角度から証拠を見たとき別の見方ができる でしょう。わが国の刑事司法機関の特徴としては、この別の見方を検討する機会がなく、検討しようとする気持ちが非常に乏しい。むしろそれを次々と潰してい くんです。たとえば、徳島ラジオ商殺し事件です。内部犯行説か外部犯行説かを捜査本部で投票しているんです。つまり警察官の中でもこれは外部犯行だと考え る人達は少なくなかった。しかも検察側と警察側で見方が違った。ところが、いったんどっちかでいくということになると、もうこれを変えることは許されない わけです。内部犯行となったら、たとえ別の証拠が外部犯行を示しているような証拠があっても、それは出さなくていい、ないことにしようということになって しまう。内部犯行の資料だけに基づいて、公訴事実、犯罪のストーリーをつくる。さらに証拠が検察の手に渡って、それが法的に着色されまして公判廷に出てい くわけです。その中に別の見方を示すような証拠があっても、落とされて証拠開示がなされなければ被告人、弁護側が見ることもない。まさに、捜査と訴追、そ して公判の過程を通して事実の隠蔽が行われていっている。しかし、アメリカ、カナダのように相手に証拠を見せなければいけないという、手続きができます と、アナザーストーリー(別の見方)も考えておかないといけないなということになるわけです。検察官は証拠の評価を誤っているのではないかというような指 摘をされるわけにはいかない。ですので、もっと慎重な起訴になるでしょう。無罪方向の証拠が強く存在するような事件であれば起訴をしないということになる でしょう。
(つづく)

 

「東京高裁第三刑事部は検察官に証拠開示を命令せよ」の

たたかいを全力で繰り広げましょう

大槻泰生

 富山さんが再審請求を行って9年目を迎えました。しかし依然として裁判所は再審請求に応じようとはしていません。

これまで何回となく証拠開示の要求をしてきましたが、前向きの回答をしていません。それは〈証拠開示に応じたら富山さんがやっていないということが明らかになる〉ということの証明ではないでしょうか。

1998年国連・国際人権自由規約委員会は、日本政府にたいして「すべての関係資料に弁護側が意見表明できるように、法律を制定し実務が制度化されるよう」求めています。

私は、これまでのえん罪・再審事件で証拠開示が真相解明、再審実現の大きな力になったことを考えたとき、いまだにこれに本気で取り組まない権力に怒りを感じています。

34人分の目撃者といわれる人たちの調書のうち7人分しか明らかにされていない、他の証拠は眠っている。その眠っている証拠を全部出さなければ不公平で はないでしょうか。検察官は私たちの税金で仕事をしているのだから、その結果は私たち国民のために使わなくてはなりません。国の機関で集めた資料を被告や 弁護士だって使う権利があると思います。集めた資料は検察官や被告・弁護士がそれぞれ選んで、法廷で対等にやるべきである。それを「法廷戦術」として開示 しないのは税金の不当な使用と考えるのは私の言い過ぎでしょうか。

2002年の「司法制度改革審議会」の答申をうけて、政府は司法制度改革推進本部を設置して具体的な立法化作業を進めているといわれています。しかし、 多くのえん罪・誤判が現にあり、あったことをどう教訓化するのかという考え方・視点が十分に生かされているのか考えざるをえません。

私は、司法改革は、人権を守る運動とえん罪・誤判防止という考え方とを結びつけて取り組まなければならないと思います。権力の言うことを聞かない人たちならやるだろう、やったにちがいないというマスコミの世論操作に惑わされるのはもうごめんです。

すべてのえん罪事件を生み出す背景には人権軽視が根深くあるのです。それは戦争への道に結びついています。きな臭い軍靴の足音が近くに聞こえています。 このような情勢下、私はみなさんとともに「富山さんはやっていない。やっているというのならすべての証拠を開示せよ」のたたかいを全力で全国に広げるよう に呼びかけます。

私は、1945年、一発の原子爆弾によって、家を失い、肉親の行方、骨の行方もわからない状態のまま私自身ガンによって右の耳をなくして闘病生活をつづ けています。だから、富山再審は私にとって大切なたたかいなのです。〈戦争に反対し権力の言に従わない者はみせしめとして獄に閉じこめる〉こんなことを許 して置くならば、1945年3月10日の東京大空襲や全国いたる所で被った戦争被害が再現される情勢になることは間違いありません。

みなさん、証拠開示・再審実現のために、ともにたたかいましょう。

(おおつきやすお・反戦被爆者の会会長・「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる広島の会」会員)


2003年6月7日「証拠は誰のものか真実究明は証拠開示から」富山再審集会のあとでの交流会のスナップです。(高名な日本酒の栓が“開かれようとする”瞬間です。再審の扉も必ず開こう!)

大井町ビラまき報告

休載

大井町のYさんから

   「明日の為の第三十七歩、梅雨の季節です。最高気温の温度差が10度Cも違うこともあります。風邪を引きやすいので服や寝具の変更が大変ですが、乗り切りましょう。
追伸、6月7日の集会にきゅりあんに行きました。参加料500円が必要といわれ、財布がないことに気づき、家に帰ってみると財布は空だった。銀行のATMは閉まっていました。私は間抜けです!」

というお便りとともに二千円いただきました。ありがとうございます。
「参加料」は気にしないで会場に入っていただければよかったのですが・・・。大変失礼いたしました。これからは、まずご入場ください。今回に懲りないで、よろしくお願いいたします。