■富山保信さんの意見書
昨年(2003年)12月26日、富山さんと弁護団は東京高裁第三刑事部に意見書を提出しました。いよいよこれで「待ったなし」の状態です。なんとしても事実審理開始、証拠開示をかちとり、再審開始の展望をきりひらきましょう。
富山さんの意見書を掲載します。
私は無実です。事件には全く関与していません。やっていないものはやっていないのです。ごまかしは通用しません。事実はあくまでも事実であり、たとえ何年経とうが、どこにいようがかわらないのです。
何度でも強調します。真実はひとつ、私は無実なのです。
再審請求書をよく読んでください。そして、一審判決と二審判決(確定判決)を比較・検討してください。そうすれば確定判決が誤判であることがわかります。
私は、裁判所が真実を探求し、誤判の訂正を真摯に審理するものと思えばこそ再審請求に全力を注いできました。真剣に応えてください。
1994年6月20日の再審請求から9年半がたちました。はたして私の訴えは真摯に検討されているのでしょうか。提示されればたちどころ に私の無実=真実が誰の目にも明らかになる証拠を隠し持ったままの検察官にたいして、いまだに証拠開示の命令が出されていないのは何故ですか。確定判決の 成否を検証しようとすれば、避けて通れない問題ではありませんか。
1975年1月13日の不当逮捕から、すでに29年がたとうとしています。私は、何度も申し入れで述べたとおり、身に覚えのない「殺人犯」という汚名を すすぐにあたって「当たり前のことが当たり前のこととして実現される裁判、正しいことが正しいこととして通用する裁判であれば、私の無実は判明すると信じ て審理に臨みました。近代刑事裁判が到達した地平と成果をそのまま適用すれば可能なはずなのです」と正々堂々と裁判に臨みました。至極当然の要望ではない でしょうか。ところが、これが裏切られたのです。
29年という歳月はけっして短いものではありません。生まれたばかりの子どもが29歳となり、子どもがいてもおかしくない年齢になります。不当逮捕時に 27歳になったばかりであった私は、まもなく56歳です(1月5日)。孫がいてもおかしくない年齢であり、まもなく定年を迎えようという年齢でもありま す。
なぜこんなにも長期に渡って苦しまねばならないのでしょうか。はたして救済される機会はなかったのでしょうか。
ありました。あったのです。一審判決は刑事裁判の原則に忠実に則った事実認定=無罪宣告を行いました。これで終わっていれば、私は無駄に苦しむことはなかったのです。
二審判決(確定判決)がこれを阻みました。確定判決は、予断と偏見を押し通して「逆転有罪」を宣告するために近代刑事裁判が到達した地平と成果をあえて踏みにじったのです。
近代刑事裁判が到達した地平から見るとき、一審・無罪判決と確定判決・有罪判決のどちらが説得力を持っているかは歴然としています。
一審判決は、特別に変わったことを行ったわけではありません。刑事裁判の原則に忠実であっただけです。それが誤判を防ぎました。
確定判決は、近代刑事裁判が到達した地平に立ち、近代刑事裁判が達成した成果を踏まえたものといえるのでしょうか。無実を叫ぶ当事者という私の立場を離 れても、近代刑事裁判が到達した地平を踏み外し、近代刑事裁判が達成した成果を拒否していると断ぜざるを得ません。その結果、無実という厳然たる事実=真 実を見誤り、私の人権を踏みにじっているのです。
そして最高裁までが職責を放棄して確定判決=誤判を容認し、自ら日本の刑事裁判を刑事裁判の名に値しない存在へとおとしめてしまいました。
今日にいたるも、過ちは改められてはいません。矛盾は全て私に押しつけられたままです。無実という真実が否定されて無実を訴えている私の人格も否定されていること、そして誤判の被告として刑事裁判史に汚名をさらし続けていること、これほどの苦痛はありません。
私は、1995年12月19日に「満期釈放」で出獄しました。けれども、一日として苦しみから解放されたことはありません。一日も早く、私をこの苦しみ から解放してください。それができるのは貴裁判所だけであり、それは裁判官としての良心と職責に忠実に従えば可能なのです。
私は無理な注文をしているのでしょうか。そうではありません。ふつうの市民がふつうの感覚で当たり前の裁判と考える裁判、すなわち近代刑事裁判が到達し た地平に立って確定判決を吟味して欲しいと望んでいるのです。そうすれば、たちどころに確定判決の誤りに気づかれると確信しています。
検察官に証拠開示を命じてください。確定判決は単に誤判であるにとどまらず、内容においても日本の刑事裁判の名を辱める水準であり、論理学的にも破綻し ています。なぜそんな恥ずべき事になっているのでしょうか。それは無理矢理、白を黒と言いくるめようとしているからです。確定判決の誤判は明らかですが、 万人を納得させる審理を行うためにも、証拠開示命令を出してください。検察官が隠匿している27人分の目撃供述調書が開示されれば、私の無実はいっそう明 らかになります。そうすれば貴裁判所は、近代刑事裁判の原則・鉄則に照らして有罪を言いわたすことはできない=無罪とすべきだったという段階から一歩進ん で、歴然たる無実だから無罪であると確信をもって言いわたすことができるようになるのです。
裁判官諸氏に私の苦しみを理解する想像力を持っていただきたい、そして自ら原審に臨み、原判決を書くつもりで虚心坦懐に審理していただきたい、そうすればかならず検察官に証拠開示を命令されるに違いないと確信しています。
無辜を罰せず―これが刑事裁判の使命ではないですか。人権の擁護については、貴裁判所は断固としてこれを支持されると思います。しかし、 人権の擁護は抽象的にこれを論じるのではなく具体的に、貴裁判所の立場に即するならば審理の場において実現されるべきでしょう。それではじめて人権は守ら れ、確立され、発展させられるのではないですか。貴裁判所の責任を果たしてください。
誤判の訂正は、ひとり私のみならず同時代と次代を生きる人々の人権の擁護を意味します。それこそ裁判官の使命ではないでしょうか。誤りを率直に誤りと認 めて改める裁判所のあり方こそが日本の刑事裁判を血の通った信頼できるものにし、その前提があってはじめて、「法の安定性」はその名にふさわしいものにな ります。ぜひこの願いに応えてください。
すみやかな証拠開示命令と事実審理の開始、再審無罪を願ってやみません。 |