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ニュースNo.188(2004年5月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.188(2004年5月15日発行)◎真実はひとつ、私は無実です。

大井町ビラまき報告

真実はひとつ、私は無実です。
大山(だいせん)と梨の花
大山(だいせん)と梨の花

真実はひとつ、私は無実です。
勝つまでがんばります。

ご存知の通り、3月30日、東京高裁第三刑事部(裁判長・中川武隆)は私の再審請求を棄却しました。それに対して弁護団と事務局 は不眠不休の奮闘で4月5日の異議申立書提出期限までに異議申立書を書き上げ、提出し、現在、審理は東京高裁第四刑事部(仙波厚裁判長、嶋原文雄、秋山敬 裁判官)に係属しています。

2004年 藤の花房
(2004年 藤の花房)

○まったく不当な再審請求棄却決定

再審請求棄却決定は、まったく不当なものです。ゆるせません。怒り心頭に発しています。

①真実に反する棄却決定

私は無実です。事件には、まったく関与していません。真実はひとつ、私は無実です。
品川区大井町で事件が発生した1974年10月3日午後1時すぎ、私は豊島区千早町にある前進社にいました。指揮するなど不可能です。
確定判決は誤判であり、訂正されなければなりません。再審請求棄却決定は間違っています。正しい決定は再審開始でなければならないのです。

②責務を放棄した棄却決定

棄却決定は、再審請求に対してまともに応えていません。裁判所としての職責を放棄する不当なものです。
周知のとおり、私の裁判では一審無罪・二審有罪であるにもかかわらず、最高裁は「(上告理由は)単なる事実誤認の主張」と称して具体的判断を回避しまし た。無辜(むこ)が事実誤認を主張する、これほどの上告理由が他にあるでしょうか。最高裁の上告棄却理由は職責放棄であり、自ら「裁判の死」を宣告したも 同然です。
だから私たちは確定判決の誤判である所以を具体的、科学的に指摘して再審請求を行いました。そして、多くの学者、弁護士の方々が「慎重かつ公正な審理の うえで、後生の批判に耐えうるような決定を出されるよう望みます」という要請を東京高裁第三刑事部に対して行われたのです。
東京高裁第三刑事部は、再審請求書、鑑定書や新証言をはじめとする新証拠および意見書、そして学者、弁護士の方々の要請書に正面から応えるべきでした。 それが職責というものです。そして、それこそが「無辜の救済」という再審の本来の目的を実現することになるはずです。
しかし、棄却決定はまともに見据えることもしなければ、論じてもいません。論点をはぐらかし、誤魔化しているだけです。事実認定に科学的知見を導入する という世界の刑事裁判の趨勢に背を向け、目撃証言の信用性を論じるにあたっても鑑定・鑑定書の内容を歪曲して論難しています。卑劣なやり方です。証拠開示 問題にも答えていません。これが「慎重かつ公正な審理」の結論といえるでしょうか。「後生の批判に耐えうるような決定」でしょうか。今後の日本の刑事裁判 の行方を左右しかねない審理を担当している歴史的責務に背き、職責を放棄するものと言わざるをえません。恥を知るべきです。
卑劣漢ぶりを示す証左を指摘しておきます。ひとつは、私は犯人ではないとする新聞記者・K氏の証言の信用性を、事実調べも行わないで否定したことです。 ふたつめは、決定を行った3月30日という日付です。いずれも悪辣な魂胆が透けて見えます。本当にゆるせません。

③再審請求を9年9ヶ月も放置

再審請求を行ったのは1994年6月20日です。それから9年9ヶ月もたっています。9年9ヶ月も放置したあげく、やっと行ったのがこの決定です。
こんな決定のために9年9ヶ月が空費されました。
9年9ヶ月という短くない歳月は、後でも触れますが、重大な意味を持っています。えん罪によって10年間投獄しただけでは飽き足りないで、さらに9年 9ヶ月もの貴重な歳月を私の人生から奪ったのです。確定判決に劣らぬ悪辣なものと断罪せざるをえません。「法匪」とは、こういう所業をいうのではないで しょうか。

○意気軒昂と異議審に臨む

私、弁護団、「かちとる会」をはじめとする人たちは、再審請求棄却決定にもかかわらず、意気軒昂としています。ますますなんとしても再審開始決定をかちとろうと闘志を燃え立たせています。
たしかに棄却決定は残念なことでした。しかし、それによって闘志はそがれていません。

①攻勢的に攻撃を迎え撃った

私たちは、昨年(2003年)10月8日の「求意見書」が再審請求棄却策動だと見抜きました。すでに再審請求から9年4ヶ月近くたち、追いつめられていたのは裁判所だったのです。
私の無実はあまりにも明らかでした。そして、確定判決・有罪判決にはあまりにも無理があり、説得力を持ちませんでした。したがって、時がたてばたつほ ど、同種の事例が増せばますほど確定判決の誤判であることが浮き彫りになってきました。なによりも再審請求人である私が確信を持って訴え続けることによっ て「富山は無実。少なくとも、確定判決には無理があり、確定判決維持は不当」が斯界の常識として定着し始めたのです。裁判所は一刻も早く棄却決定を出して 再審闘争を叩きつぶす必要に駆られましたが、私たちの着実なたたかいの前進によって阻まれてきました。あえて言えば、この9年余は、裁判所にとって棄却決 定を出したくても出せない9年余だったのです。私たちにとっては着実に裁判所に迫ってきた9年余でもありました。主導権を私たちが確立しつつあるという事 態に、ついに耐えきれなくなって蛮勇を奮う役割を担うことになったのが中川裁判長だったのです。
私たちは、この対決構造をしっかり把握しました。だから、一瞬も油断しないで身構え続け、攻勢的に暴挙を迎え撃ったのです。
学者、弁護士の方たちに広く富山再審の現状と高裁第三刑事部の再審請求棄却策動を訴え、「慎重かつ公正な審理のうえで、後世の批判に耐えうるような決定 を出されるよう」要請をしていただきました。私たちの真実に基づく真剣な訴えに多くの方が耳を傾け、お願いに応じてくださり(91名の方に賛同いただきま した)、いまも賛同の通知が届いているほどです。
3月30日の決定に対しても、ただちに翌日、翌々日と再審請求棄却決定弾劾のビラをまき、同時に異議申し立てのたたかいをやり抜きました。

②弁護団、鑑定人、「かちとる会」とともに

再審請求棄却攻撃とのたたかいの過程は、弁護団、鑑定人、「かちとる会」の真価を遺憾なく発揮しました。
不眠不休で異議申立書作成に取り組み、素晴らしい異議申立書を書き上げた弁護団と事務局は、異議審勝利に向けて活性化しています。鑑定人の方にも科学者 の良心にかけて協力を約束していただいています。「かちとる会」のみなさんのご支援には感謝あるのみです。今後ともいっそうのご支援、ご協力を、心からお 願いいたします。

③真実ほど強いものはない

私たちは、究極の勝利を確信しています。なぜなら私たちの訴えは真実にもとづくものだからです。この訴えは必ず人々の心をと らえます。東京高裁第三刑事部への要請のお願いに多くの学者、弁護士の方が応じてくださったことが、それを証明しています。倦まず、弛まず、粘り強く、 もっと多くの人に、富山再審、私の無実を訴え、知ってもらえれば、確実に再審無罪に至ります。阿藤周平さん(八海事件元被告)が言われるとおり「真実ほど 強いものはない」のです。

大山と水田
(大山と水田)

○勝つまでがんばります

再審闘争は異議審、原審にたとえれば控訴審の段階にうつりました。事件発生から29年7ヶ月、不当逮捕から29年4ヶ月、一 審無罪判決から23年2ヶ月、二審逆転有罪から18年11ヶ月、再審請求から9年11ヶ月、あらためて原点・出発点にたちかえりながら獲得目標を確認した いと思います。
いうまでもなく獲得目標は再審無罪です。これ以外にありません。そのうえで、たたかいの前進とともに獲得目標の内容がいっそう豊かになっていることが明確になってきました。

①誤った裁判を放置できない

私は無実です。それにも関わらず、私を有罪とするような間違った裁判など承伏できません。嫌なものは嫌、我慢できないことは我慢できないのです。無実の者はあくまでも無罪でなければなりません。
無実の者が無罪を要求する、これは当然のことです。ましてや無実の者が雪冤に必死になるのは、あまりにも当然のことではないでしょうか。
1980年代に相次いだ死刑確定囚の再審無罪は氷山の一角であり、その陰には多くのえん罪者の血の涙が流れています。帝銀事件の平沢さんや波崎事件の冨 山さんのように獄死を強いられた人も少なくありません。これまで多くのえん罪者が雪冤のために苦闘を重ねてきました。困難に挫けないでたたかいぬいてきた 人たちが今日のえん罪とのたたかいの地平を築いてきたのです。
こうしたたたかいに連なり、先人のたたかいの教訓と成果を学び、受け継いで、たたかいの前進と勝利をなんとしてもかちとらねばなりません。嫌なものは嫌 だけで終わらせるのではなく、嫌なもの、間違ったものはきちんと改めさせる、すなわち再審無罪として結実・定着させてこそ人間社会の進歩にとって意味があ るのです。
再審闘争は単に誤判を改めさせるだけに終わることはなく、えん罪とのたたかいをとおしてえん罪を根絶するために刑事裁判の発展とあり方、社会のあり方を 根底から問いかけずにはおきません。たたかいは人を鍛え、成長させます。請求人をはじめたたかいにかかわるすべての人々を豊かに成長させずにはおきませ ん。人間が個々に分断・対立させられて、共同性が破壊されつつあるなかで、再審闘争は再審という具体的獲得目標の達成をめざす苦闘をとおして「万人は一人 のために、一人は万人のために」という連帯と団結を学ぶ契機となり、人間性を回復し、培っていく揺籃となるのです。
じっさい、私たちは、再審請求から9年9ヶ月も放置されたあげく再審請求も棄却されたにもかかわらず、意気軒昂と異議審闘争に立ち向かおうとしているではありませんか。

②富山再審は日本の刑事裁判のバロメーター

富山再審に具体的に即して論じましょう。
富山再審の最大の争点は目撃証言の信用性です。さらに、いまひとつ重要な問題として証拠開示問題があります。
まず、目撃証言の信用性をめぐって。
私たちは、事実認定にあたって科学的知見を導入するよう主張してきました。そして、確定判決の有罪の根拠をなす目撃証言の信用性を科学的手法・分析を駆 使した鑑定によって粉砕しました。例えば、写真面割りに使用された写真が不適切であることを実証的に証明する鑑定書、確定判決が「本件目撃証人中最も良質 の証人」とするI証人の視力では16・45メートル離れた目撃地点から犯人の人相を識別することはできないことを実証的に証明する鑑定書、目撃証言の科学 的分析によって暗示・誘導の存在を証明する鑑定書という具合にです。
ところが、決定はこれらの鑑定の内容を正確に論じることなく鑑定結果を否定しました。私がその誤り、不当性を論じるよりも弁護団が異議申立書のなかで鋭く指摘していますので、紹介します。
「これら(鑑定書)は、いずれも認知心理学の専門家が、その専門領域で、専門的知見に基づき、実験を経て、特定の結論を提示したものである。
このような証拠について、裁判所は、どのような姿勢で臨むべきか。
認知心理学の専門家は何年もかけて内外の文献を検討し、実験を繰り返し、論文を発表し、学会で意見を開陳し、専門家の批判を受け、さらに研究を進め、専門領域を究めている。
かりに、このような専門家の提示する結論や推論過程に素人が幾ばくかの疑問を感じたとしても、そのような疑問は、認知心理学の初学者がその未熟さゆえに 覚えた疑問でしかない可能性が高い。法律学の世界でもそうであろう。経験ある学者の結論に対する初学者の疑問は、ごく稀に多少あたっていることもないとは 言えないが、多くは専門家の間では議論済みのことで、大体が勉強不足に起因する疑問である。勉学の過程なら、それでよい。初学者は勉強不足に基づく疑問を 専門家に提示し、これに答えてもらうことで、自分の足りないところを思い知り、納得する。これが勉強するということである。
しかるに、そもそも、認知心理学の専門家でないものが、専門家に質問を発することもなく、したがってその答えを得ることもなく、たまたま頭に浮かんだ疑 問をもとに、経験ある専門家の出した結論を信用できないとか、間違いであるなどとして否定することは、大胆かつ愚かな誤りというしかない。身のほどを知ら ない行いであり、一言でいって、まことに恥ずかしい行為なのである」という指摘・弾劾に裁判所は答えることばをもっているのでしょうか。一事が万事この調 子なのです。
証拠開示問題にいたっては、触れてさえいません。
これが日本の刑事裁判の現状なのです。この現状に風穴をあけ、この現状を変えていかねばなりません。そのたたかいを推進するにあたって重要な確認点は、 富山再審はきわめてわかりやすい裁判、つまりきちんとやればたたかえる裁判だということです。したがって、ここで勝たなかったら、勝てなかったら、他のた たかいはもっと困難ということであり、なんとしても勝って現状に風穴をあけなければならないということを意味します。富山再審はそういう位置を与えられて いるのです。そして、実際にそうした責務に着実に応えつつあると自負してよいのではないでしょうか。多くの学者、弁護士の方々に賛同していただけたのは認 知されつつあるあらわれではないでしょうか。
最後にもう一度確認します。私たちは勝利に向かって確実に前進しています。たしかに局面、局面ではたいへんな困難の連続です。けっして平坦な道を進んで いるわけではありません。しかし、私たちは、勝利への道を堂々と進んでいるのです。営々とたたかいつづけている人々との大合流のときが近づいています。究 極的勝利のときを展望しつつ、足下の一歩一歩を踏み固めながら、不屈にがんばりましょう。これからもよろしくお願いいたします。

(富山保信)

 

大井町ビラまき報告

うり美・・・・・1
山村・・・・・・0
富山・・・・・・0

ビラまき報告にもの申す

 かちとる会ニュースの読者は、最後のこのビラまき報告から読むという人が圧倒的に多いようだ。ところが、このビラまき報告が存続の危機に陥っている。それは、なぜか。
誰が決めたか定かではないが、ビラまき報告は署名が一番取れた人の「勝者の弁」が圧倒的となっている。しかし、一生懸命頑張って署名を一番とったあげ く、ビラまき報告を書くというのはやる気が削がれはしないだろうか。実際、なんで勝った人が書くんだという意見が勃発。勝った人が書くのではビラまき、署 名取りに力がはいらないではないか。かえって逆効果になっている気がしてならない。
そこで私が「今度からは負けた人が書くようにしましょうよ。負けた人が勝った人からコメントを聞いて書くというのは?」と提案。すると「それをビラまき 報告で書いてください」と富山さん。わたしは返り討ちにあった気分である。ちなみに今回は、私が勝っているのに、である。
さて、次回は誰が書くことになるのでしょうか。私の意見が通るとしたら、かちとる会の署名取りハルウララ(負け続ける競走馬)は、一体誰に?次号、好御期待。(うり美)

ハルウララ 本家「ハルウララ号」です。

大井町のYさんから

休載

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