タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.212(2006年5月15日発行)◎なぜ再審か 富山保信
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□休載

今、あらためて訴える

 東京高裁第4刑事部は
検察官に証拠開示を命令せよ
再審請求棄却決定を取り消し、 再審を開始せよ

 富山さんが逆転有罪によって獄中に奪われてまもなく、1985年10月に「富山さんの無罪をかちとる会」によってつくられたパンフレット『富山さんは無罪だ』。

多くの友人、知人が上告審で富山さんの無実=真実を認定させるべくたちあがった。しかし、最高裁は門前払いで真実の訴えを踏みにじった。

□なぜ再審か

「再審なんかやっても無駄ですよ」「どうせ勝てっこない」
「(裁判所が)相手にするわけない」等々・・・再審を請求していると言うと、少なからぬ人々からこういう意見が返ってきます。それも司法の実情を知っていればいるほど「悪いことは言わないから」と善意で忠告してくれる人が少なくないのが現状です。
たしかに現実は甘くありません。甘くないどころか、「先祖帰り」してもっと悪くなりつつあると言いたいほどです。80年代に相次いだ死刑囚の再審無罪を 検察も裁判所も反省してはおらず、人民の側も裁き返してはいません。死刑囚の再審無罪という驚愕すべき事例が4例も続いたというのに、なぜそんなことが起 こったのかを究明するための機関の設置すら試みられてはいないのです。えん罪を生み出した側、つまり検察と裁判所はどうやったら起訴事件を100パーセン ト有罪にしたうえで再審でえん罪がばれることのないようにできるかに腐心するのみで、つつかれて「ボロ」が出るような裁判をやってしまったために再審無罪 にせざるをえなかったのだから、これからはそういうことのない様な狡猾で、もっと悪辣なやり方にしようと裁判の抜本的な改悪にとりくみはじめました。こん な後ろ向きで、間違った、反動的な総括にもとづいて「再審の逆流化」が押し進められてきたのです。そして、こうした日本の刑事裁判の現実をも促進要因とし ながら「司法改革」というまやかしの司法大改悪が強行されつつあります。
いまこそ、こういう逆境のなかで、なぜあえて再審なのか、勝てると思っているのかを真剣に考察し、論じる必要があるではないでしょうか。

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再審ということばが身近なものになり、えん罪が他人事ではなく誰でも明日にでも問われかねないと認識を新たにさせたのが死刑囚の再審無罪4例連続の衝撃 でした。大逆事件や横浜事件などによってえん罪の存在は公知の事実としてあったものの、死刑囚の再審無罪が公式に認定されることの社会的衝撃は次元を異に します。ちょうど戦前、特高による拷問が周知の事実であるにもかかわらず、公式には戦後の国会質問によって確認されるまで「拷問など無い」という政府回答 がまかり通っていたのに匹敵するどころか、それ以上と言っても過言ではないでしょう。有罪にされてはいけない人達が死刑囚とされ、日々死刑執行の恐怖にさ らされながら必死でたたかいつづけて20年後、30年後にやっと生還するという不条理極まりない事例が4例も続いたのだから、司法の実態、裁判制度とその 現実が根底から問い直されて当然です。そもそも日本の刑事裁判における99・8パーセントとか99・9パーセントという有罪率に疑問をもたないこと自体に 疑問を感じなければなりません。ある法律家は「判決の3分の1は誤判だ」と喝破しましたが、諸外国の6割~7割という有罪率との比較からみてもそうです し、私の投獄体験だけでも取り調べや留置場勾留時の刑事達の「面倒見」への期待とおもねり、裁判時の情状酌量対策として微罪だったら引っ被って心証をよく しようという事例が枚挙にいとまがない有様に唖然とした記憶があります。そのうえに、法廷の現実の姿は、たいへん失礼な表現ですが「絶滅希少種」ともいう べき曲がりなりにも刑事裁判の原則、鉄則を適用し、貫こうとする一握りに満たない裁判官に当たるかどうかに一喜一憂せざるをえない有様です。いまや日本の 刑事裁判において刑事裁判の名に値する裁判をうけられる可能性は「宝くじ」に等しい、否、「宝くじ」以下というべきでしょう。検挙率の高さや有罪率の高さ はこうした現実のうえに成り立っていたのであり、その頂点に再審無罪とされるべき死刑囚の存在があったのです。
この現実に光が当てられ、根本的に論じられ、改められるべきでした。しかし、そうはならずに先述の事態が進行しつつあります。座視するわけにはいきませ ん。富山再審はひとり私のみならず、全ての人民の未来とかたく一体のたたかいです。逆流に楔を打ち込み、転換をかちとっていく橋頭堡の位置を占め、力を生 み出していく役割を担い、着実に前進してきたと自負しています。その歴史的位置と使命をあらためて明確にさせ、いっそう強力に取り組んで行かねばなりませ ん。

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さて、再審ですが、原審と違って、非公開の書面審理に終始します。裁判所と折衝できるのは弁護人だけであり、請求人は言いっぱなし、聞きっぱなしの一方 通行の状態におかれたままで、実質的には当事者ですらないというのが実状です。しかも再審開始のためには新証拠の「新規性」と「明白性」が要求されるうえ に、なにをもって「新規性」「明白性」の判断根拠とされるのかの基準すら不明確というのだからたまったものではありません。
では、勝ち目はないのでしょうか。そんなことはありません。なぜか。①私は無実だからです。これは、どんな暴虐によっても覆せない真実です。真実ほど強いものはありません。
②そして、私はこの真実が認められるまで絶対にたたかいをやめない、あきらめないからです。
③さらに、この真実を訴える相手は人間だからです。真実の訴えは、かならず人の心をとらえます。
私は1975年1月の逮捕以来、そして95年12月に出獄してからも無実を訴えつづけてきました。その結果、原審は再検討すべきという認識が学会、法曹 界で定着しつつありますし、私の主張に耳を傾けてくれる人たちが着実に増えています。しかし、あらためて「目の黒いうちに再審無罪をかちとる」という目的 からいま何をなすべきかをとらえかえして、全力でことに臨む必要がある、そのことが私に突きつけられていると考えますので、なぜ再審に執着するのかを率直 に訴えて、いっそうのご支援、ご協力をお願いする次第です。
再審を訴えていて、よく「刑務所にいるときだけでなく、出てからも訴えつづけているので無実だという主張は理解できる。納得できる」と言われます。たし かに再審をしない、あるいは再審の困難さから途中で絶望して止めてしまうという例がなくはありませんが、私にはそんな選択はできないし、やめるつもりもな いということです。
何度でもくり返しますが、私は無実であり、事件には関与していません。この事実・真実をありのままに訴えたことに対して、おまえは嘘つきだと断罪された のです。これが黙っていられるでしょうか。真実を認めろ、嘘つき呼ばわりを撤回しろということです。単純明快きわまりないことですが、これが出発点であり 帰結点というものではないでしょうか。こちらから望んだ喧嘩ではないが、アイデンティティーにかかわることだから、売られた喧嘩はきちんと買って勝たなけ ればなりません。さもなければ、自ら尊厳を否定してしまうというものです。だから、再審無罪の日までたたかいをやめるわけにはいきません。あなただってそ うではないでしょうか。
たしかに、「ラクダが針の穴を通るに等しい」ほど再審が困難であることは否定しません。でも、避けようがないのです。たとえその気がなくても、当事者に されてしまったらいくら泣き言を言っても無駄であり、たたかって勝つほかに道はありません。だったら、がんばって勝とうじゃないですかと言うと、「あなた は強い」とか「誰もがあなたほど強いわけではない」と言われることがあります。しかし、誰だってはじめから強いわけではありません。人間は弱くもなれば、 強くもなれます。要は、初心を忘れないでたたかいつづければたたかいが自らを勁くしてくれるし、働きかける相手の心を獲得することもできるということで す。たたかいのなかで、怒りの発散に終始するだけではなく、自己とたたかいの歴史的社会的位置と役割を自覚し、それに応える力を培っていく例をいくつも学 んでいるではありませんか。その気にさえなれば、誰だってできます。肝心なのは、たたかいを包む広範な人民の団結と連帯です。人民の団結と連帯が広範かつ 強固に形成される度合いに応じて、たたかいの主体も成長を促されます。無実の死刑囚をはじめ幾多の先人が獄中から必死で呼びかけ、これに呼応する声が強烈 に鼓舞したことを異口同音に語っているのは、故ないことではないのです。
その観点から、再審に取り組む姿勢をただすべきではないかと反省するにいたりました。あからさまに言えば、初心に帰って、もっとなりふりかまわずがんばるべきだということです。
じつは最近、1985年6月の逆転有罪判決で収監された直後に刊行された(同年10月)パンフレットを目にする機会がありました。初心を想起し、わが身に活を入れる意味も込めて紹介します。

◇   ◇   ◇

なぜ無実の人間が獄につながれなければならないのか! 獄中にあってかけがえのない人生を奪われていくくやしさを想像してください。たとえ一日であろうと無実の人間を投獄して心痛まぬとしたら、腐敗はここに極まれりと言うべきでしょう。
私は声を大にして訴えます。私にかけられたデッチあげ弾圧を容認することは、自己の主体性を放棄して未来を暴虐きわまる暗黒支配にゆだねることを意味するのであり、人類史上に一大汚点を残すことになるのだ、と。
ある日突然身に覚えのない殺人罪で逮捕される、そして法廷でどんなに無実を証明しても白を黒といいくるめる裁判官によって「有罪」を宣告され、投獄される―魔女狩りともいうべき事態の出来です。
一九八五年六月二六日、東京高裁・萩原太郎は、無辜を罰せぬために人類がつみ重ねてきた知的営みを冒とくし、知的遺産を平然と踏みにじる蛮行をはたらき ました。法匪ともよぶべき所業です。危殆に瀕する法治国家とは、こういう事態をこそ称すべきなのです。
いまこそ、広範な人民の怒りにもえた「デッチあげをゆるすな!」の叫びがあげられなければなりません。無知蒙昧の産物ではなく、明確な階級意思にもとづ いてデッチあげ弾圧が強行されているのです。支配階級が裁判の名をもって裁判を否定し、統治の規範をなげすてて暗黒支配を宣言したというのに、なんで唯々 諾々とこれに服せるでしょうか。不正はただちにその場でただされなければならず、そのために正義は力をもたなければなりません。極悪無比の治安維持法弾圧 の跋扈のはてに数千万アジア人民の殺りくと自らの被爆がまちうけていたように、一九八〇年代を生きるわれわれがデッチあげ弾圧を洪手傍観するならば反動と 暗黒の時代の再来にとどまらず人類史の終焉にさえいたりかねないのです。
いまや審理の場は最高裁に移っており、時間はそれほど多く与えられてはいません。ことは急を要します。無実の人間がまったく当然のこととして無罪をかち とるために、すべての心ある人々が明確な意思表示と行動に起ちあがられるようもとめてやみません。

◇   ◇   ◇

そうなのです。「支配階級が統治の規範をなげすてた」のだから、いまこそ私たちが私たち自身の規範をうち立てるために努力すべき ときを迎えているのではないでしょうか。もはやこれ以上、こんな卑怯・卑劣な輩に権力を委ねたままではいられません。再審実現のたたかいは、道理が道理と して通用する世の中を築くための、その一歩だと思います。初心に帰って、おおいに叫び、おおいに汗を流しますので、これまでにもましてご支援、ご協力をよ ろしくお願いします。
(富山保信)

□あなたもぜひ会員になってください

「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会」(「かちとる会」)では、富山さんの無実を訴え、再審無罪をかちとるため、ともにたたかってくださる方を 求めています。再審に勝利するためには多くの人々の力が必要です。また、再審弁護団のたたかいを支えるための裁判費用等、多くの資金を必要としています。
あなたもぜひ会員になって富山さんの再審を支えてください。
▼会費は月額一口千円です。
▼あなたの会費は、再審にむけた運動づくり、再審の裁判費用等に役立てられます。
▼会員には、月一回、「無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース」をお送りします。
▼「かちとる会」では月一回、定例会を開き、再審をかちとるための話し合いを行っています。また、集会や学習会、現地調査を行い、富山さんの無実と再審無罪を訴えています。これらの集まりにもぜひご参加ください

 

大井町ビラまき報告

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大井町のYさんから

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