タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.225(2007年6月17日発行)◎指宿信教授の意見書を提出
映画を観て

大井町ビラまき報告

日本の刑事裁判を真っ向から問う映画

  「それでもボクはやってない」

□弁護団、指宿信教授の意見書を提出

6月22日、富山再審弁護団は、東京高裁第4刑事部(門野博裁判長)に、指宿信先生(立命館大学法科大学院教授・法学博士)の意見書を提出した。
意見書は、富山事件に関して、「再審請求審における証拠開示問題」について、指宿先生の意見を述べたものである。33ページにわたり、内外の事例や学説を もとに再審請求審における証拠開示の重要性、とりわけ目撃証言=犯人識別供述を証拠とする事件における証拠開示の重要性について明らかにし、富山再審にお いて、「弁護団の要求する速やかな証拠開示が必要であり、裁判所においては開示が保障されるよう固有の訴訟指揮権を発揮すべきものと考える」としている。
裁判所が指宿先生の意見に真剣に耳を傾け、真正面から向き合い、一刻も早く検察官に対して証拠開示を命ずることを強く求めたい。

以下、指宿先生の意見書から主要な論点を抜粋する。

意見書は、冒頭で、「本意見書は、第一に、再審請求審の意義と証拠開示問題とのかかわりをどのように見るべきかを論じ、第二に、証 拠開示問題全般に関わりならびに証拠開示の目的や機能を論じ、その上で第一との関わりから基本的な視座を確定する。第三に、証拠開示に関するわが国の制定 法ならびに判例法につき、その適用ならびに準用可能性を検討し、更に、再審請求手続と証拠開示に関する諸外国における参考となる立法例を見る。最後に、本 件富山事件の特徴から、いわゆる犯人識別供述の信用性問題と証拠開示問題が極めて密接であることを論じ、識別供述に関して証拠の開示が十分でなかった点が 再審手続で問題となった例を諸外国の裁判例から参照する。最終的に、作成人の本問題に関する見解をまとめる」として、第一章「再審請求審の意義と証拠開示 論」、第二章「証拠開示制度の意義と目的」、第三章「再審請求審における証拠開示の法的枠組み」、第四章「犯人識別供述と証拠開示問題」、「結語」で構成 されている。

 第1章 「再審請求審の意義と証拠開示論」

指宿先生は、再審制度の目的について、「再審請求審では、再審請求人から提示された『新たな証拠』が確定判決にどの程度の打撃を与えうるかという『波及 効』の大小あるいは強弱にのみ着目すればよいという立場」=「確定判決動揺説」と、「『新証拠』を確定判決の証拠構造に組み込んだとすると、その全体構造 にどういった影響を及ぼし得て、そして、『合理的な疑わしさ』を生じさせたのかを見ようとする立場」=「誤判訂正機能説」という立場の対立が見られるとし ている。
そして、「確定判決動揺説」に立つとすれば、再審請求審の立場から観た確定判決における証拠開示問題は、「確定判決は確定審で提出された証拠に基づいて 『正しく』事実認定されており、かかる証拠は当事者である検察官の責任において収集され、そして有罪立証のために請求されたものであるから、裁判所として は、仮に捜査機関において、あるいは検察側において、偏頗な行動があったとしても、当事者主義構造を採用しているわが国の刑事訴訟制度にあっては、これを 監督したり審査するような仕組みは馴染まないものであり、上記『正しさ』について疑念を差し挟む余地は法律上ありえない」、従って、「形式的当事者主義 論+確定力によって確定判決の『正しさ』が絶対視されることになるので、再審請求審での証拠の開示の必要性は確定審のレベルで足りるという考え方」になる としている。
これに対し、「誤判訂正機能説」に立った場合、「確定判決における事実認定は、あくまで検察側が収集し、当事者としての判断を踏まえて有罪立証のために請 求された証拠に基づいておこなわれたものであるから、万が一、証拠の収集プロセスや判断プロセスに不適切あるいは偏頗な行動があったとするなら、事実認定 の基礎は揺らぎ、判断を誤らせた可能性が存在する。従って、確定判決はあくまで公判提出証拠に限って事実認定の基礎とされたものであって、その範囲でしか 『正しさ』の確証はなく、拘束力もその範囲でしか推認できないものとなる。今日の当事者主義構造を前提にすると、公判未提出証拠を総合的に勘案したならば 確定判決を見直さなければならない場合も起きうるであろうから、『正しさ』は相対的に捉えるべきである」、従って、「形式的当事者主義は常に公判未提出証 拠による新たな事実の発見の余地を残しており、確定力は相対的なものに止まるのだから、再審請求審では確定力を見直すためにもむしろ積極的に証拠開示を捉 えようとする考え方に結びつく」としている。
結論として、「真実発見こそ再審制度の目的であるという原則論に立つならば、誤判訂正機能説に立つべきことは言うまでもないのであるが、そもそも刑事再 審を許容する規定である刑事訴訟法435条6号が、『証拠をあらたに発見したとき』と規定している趣旨をよく考えれば、確定判決が常に『その判決時に裁判 所の前に提出された証拠』に基づいて判断されたものでしかなく、確定『判決時に存在していたあらゆる証拠』に依拠して判断されたものではないことは明らか であろう。そうであるならば、再審請求審においては、『新たな証拠』の可能性によって常に確定判決を是正しなければならない必然性に晒されていると言わな ければならない。かかる証拠開示問題との関わりから考えても、確定判決動揺説ではなく、誤判訂正機能説を採ることが、再審制度の意義・目的にもっとも適っ たものと捉えることができるであろう」としている。
そのうえで意見書は、「戦後のわが国の殺人事件に関する再審事例」(弘前事件、松山事件、免田事件、財田川事件、徳島事件、梅田事件)の分析を行い、いずれの事件でも証拠開示が再審開始決定の大きな要因になっていることを明らかにしている。

 第2章 「証拠開示制度の意義と目的」

第2章では、まず、「『証拠開示』は何のためにおこなわれるべきなのか」として、「検察官不提出証拠の中に被告人に有利な証拠が 眠ったままであっては本来無罪となるべき事案が誤って有罪となってしまう事態を防ぐという誤判の防止を目的とする」=「誤判防止論」と、「証拠を互いに開 示する機会を設ければ裁判が早く進行するという裁判の進行を円滑にすることを目的とする考え方」=「公判迅速化論」が紹介されている。
そして、第2節「再審請求審における証拠開示と開示弊害論の検討」のうえで、結論として、「再審請求審における証拠開示の目的は、『誤判防止』=『誤判 救済』ということになるのであり、結果、『誤判訂正機能説』―『誤判防止論』という組み合わせこそ、再審請求審における証拠開示(不提出証拠)問題に最も 相応しい理論構成と呼ぶべきものである」としている。

 第3章 「再審請求審における証拠開示の法的枠組み」

第3章では、第1節で、改正された刑事訴訟法における証拠開示手続きから、「公判前準備手続の証拠開示手続の準用可能性」について 述べられ、第2節で、「昭和年最高裁決定(個別開示命令)の適用可能性」について明らかにされている。第3節で、「海外における再審請求手続における証 拠開示がどのように扱われているのか、先駆的事例を検討」するとして、「イギリスにおける再審請求と証拠開示問題」が述べられている。
そして、小括として、「再審請求審における証拠開示の法的枠組みは我が国にも既に準用あるいは適用可能なかたちで存在しているというべきであろう」とし、 異議審における証拠開示についても「原裁判においてなされた証拠開示に関する裁判所の判断に瑕疵がある場合、これについて違法適法の判断をおこなうことは 勿論、異議審の権限において新事情あるいは新資料として特定の証拠を法廷に提示させるべく命令を発すること」も可能としている。

 第4章 「犯人識別供述と証拠開示問題」

第4章では、「犯人識別供述の危険性」について明らかにされている。「米国で誤って有罪とされてしまったことが資料的に認められて いる205件を収集し、それぞれ、何が最も大きな誤判原因であるかを分類した。そうすると205件の内100件が誤った目撃証言によって誤判となってい た」という研究や、62件の誤判とされた事件のうち52件で誤った目撃証言が何らかの形で関わっていたことが明らかになった研究が紹介されている。
そして、カナダやイギリスにおいて、犯人識別供述に関する証拠開示の重要性が指摘され、開示すべきであるとされているのに対し、日本では極めて不十分であ ることが指摘され、「適切な犯人識別供述の取扱いには、関連証拠の開示が不可欠である」としている。
そのうえで、「犯人識別供述を証拠の柱とした有罪事案において、証拠開示が十分でなかったために、後に再審や上訴審で有罪判決が破棄されたり、再審におい て無罪とされた」海外の具体例が紹介され、「犯人識別供述の信用性をめぐっては、前述したように主要な誤判原因となっていることは実証研究から明らかであ る。そのため、カナダやアメリカにおいては、公判手続で不開示情報が弁護側に開示されていたとすれば、目撃証言の信用性判断を争う際の防御権保障に影響を 与えたのかどうか、という観点から証拠の不開示を再審開始や確定判決の破棄の根拠とされているのも、そうした実証研究の結果に裏付けられていると言えるで あろう。また、イギリスのマッタン事件は、目撃証言の不開示のため死刑執行という結果を避け得なかった悲劇的ケースである。この事件でも、犯人識別供述中 被告人に有利な複数の証言や証拠が弁護側に開示されていなかったり、識別供述者の信用性に関する重大な情報が知らされていなかった。裁判所はこれを『危険 (unsafe)』だと判示したのである。すなわち、これらの情報が陪審の前で論じられたり、提出されたりしていれば、結論は全く変わったものになってい たに違いないと考えたからに他ならない」としている。

 結語

意見書の結語として、指宿先生は以下の5点を指摘している。
1.再審請求審においては、できる限り広い証拠の開示が必要であり、少なくとも証拠の標目について全面的な提示が正義の実現のために不可欠である。検察官 は、弁護側が相当の理由があることを明らかにした場合、関連する証拠の開示義務を負うべきである。また、裁判所は、再審制度の目的ならびに証拠開示の目的 に照らし、検察官がかかる開示を速やかにおこなうよう監督する義務を負うと解すべきである。
2.目撃証言については、全面的な証拠(情報、記録、資料)の点検が不可欠である。確定判決までにかかる手続を欠いているとき、再審請求審段階でこれは補完されるべきものと考える。
3.目撃証言の信用性判断を争うための防御権保障の観点が重要であり、再審段階においては当初証言が既に調書化されているのであるから証拠隠滅の虞れはな く、その重要性は「プライバシー保護」や「捜査関係情報」とは比較できないほど大きい。目撃証言の信用性を請求人が争う場合には、証拠開示の範囲は広けれ ば広いほどよい。
4.本来なら上記3については確定審での全面的な開示が必要だが、刑事訴訟法の改正により公判前整理手続によって開示の機会が法整備されたにもかかわら ず、わが国の法制では、警察からの全証拠送致を確認する術がなく、またこれを義務づけたり、罰則等によって間接的に強制したりする手段がない。とすれば、 再審請求審及び異議審でしかアクセスの機会は保障し得ない。
5.以上により、本件においては、弁護団の要求する速やかな証拠開示が必要であり、裁判所においては開示が保障されるよう固有の訴訟指揮権を発揮すべきものと考える。
(山村)

□映画を観て

 今年1月日に封切りされた周防正行監督作品、映画「それでもボクはやってない」(加瀬亮主演)は、2009年に始まる裁判員制度の影響もあるのだろうか、多くの人々の関心を集めた。
昨年末、この映画を試写会で観た富山さんは「私、心を入れ替えます」と絶賛していた。そこまで言わしめた映画とは一体どのようなものだろう。私も「冤 罪」と聞いては観ずにはいられなかった。主演が加瀬亮と聞いてはなおさらである。さっそく足を運んだ。
映画のストーリーは、加瀬亮扮するフリーター金子徹平が会社の面接に行く朝の通勤ラッシュで女子中学生に痴漢と間違われるという、いわゆる痴漢冤罪事件 である。彼は、駅事務室から警察官に引き渡され警察署で「ボクは何もやってないんだ」と真実を語るが、耳を貸してもらえない。そこから悲劇は始まる。
さらに留置場の中で当番弁護士制度を知り弁護士を呼ぶのだが「示談ですむような痴漢事件で、正直、裁判を闘ってもいいことなんか何もない」と言われ愕然 となる。「裁判の現実を伝えなくて無責任に『闘え』なんて言えない」というのがこの弁護士の意見で、彼もまた、日本の刑事裁判の現状にもがき苦しんでいた 一人だった。
そして彼の無実の主張は何度となく否定され、受け入れてもらえない状況が延々と続く。結局、判決は有罪。彼は淡々と判決文を読み上げる裁判官を凝視しながらこう言う。「それでもボクはやってない」と。
裁判長交代による裁判の流れの変化、検察官手持ち証拠の不開示、支援運動の大変さ等、司法の闇の部分と裁判をとりまく環境が余すことなく丹念に描かれていて、実にリアルな映画だった。
この映画を観た私の知人は「あんなに裁判が大変なら罰金払って出るかな」と言った。この意見、驚くだろうか。
私は何人かに映画の感想を聞いてみた。多少なりとも裁判に関わっていて今の司法の現状を知っている人は、富山さんのように絶賛派だ。一方、幸か不幸か裁 判ということに関心もなく、今まで関わらずにきた人達の意見は、「裁判って大変」ということに対する絶望に近い感想が多かった。先ほどの知人の「あんなに 裁判が大変なら罰金払って出るかな」は最たるものである。
日本の刑事裁判は病んでいる。そう思わせる事件が最近あった。富山県警に強姦などの容疑で逮捕されたが真犯人があらわれて無実とされた男性の再審事件 (いわゆる富山(とやま)事件)で、弁護団は「男性が犯人であるとの強い予断に基づき、虚偽の自白を強要して刑事被告人に仕立てた」と県警の取調官の証人 尋問を求めた。しかし、裁判長はこれを却下している。真犯人が出て、あなたは無実だからそんなのはいいでしょう、とでも言わんばかりの裁判所の対応だ。な ぜやってもいない人間が逮捕され「自白」までさせられるのか。何が原因なのかをはっきりさせない限り、冤罪はなくならないのではないか。これでは何の解決 にもならない。
また、戦時下最大の言論弾圧と言われる横浜事件の再審でも、2006年2月9日、無罪とも有罪ともはっきり判断しない免訴という判決が出されている。し かし、これでは事件がどうして起こったのか全く解明されない。それどころか治安維持法の廃止により事件は始めからなかったものにされている。これが裁判な のだろうか。
映画の冒頭、スクリーンに映し出される「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という言葉が真摯に生かされている刑事裁判であるなら、冤罪 は起こらないだろう。さらに「無辜を罰した場合は、すみやかに真実究明に努め過去の過ちを正すよう努めなけらばならない」と付け加えたいくらいだ。しかし 現実は絶望的状況にある。2009年から始まる裁判員制度がこの現状に拍車をかける形にならないことを祈りたいが裁判員制度の内容を知れば知るほど、そう 簡単にはいかないとしか思えない。
私はこの映画を観ていて、自分が冤罪で捕まったとしたら、「やっていないなら闘いましょう」と言ってくれる弁護士がどれだけいるだろう、知人や友達で私 の無実を信じてビラをまきながら支援してくれる人がどれだけいるだろうと思った。そして、金子徹平のように「それでも……それでもボクは(私は)やってな い」と最後まで言い続けられる人間が自分も含めてどれだけいるだろうかと考えてしまった。
この映画が私達に問うていることは、一体何だろう。誰だって冤罪で捕まりたくはない。しかし、ひとたび冤罪で捕まってしまったら、この映画のような厳し い条件下で無実を争わなければならない。その時、私達は「それでもボクは(私は)やってない」と最後まで言えるだろうか。この映画は「明日は我が身」なの である。何時、どこで、誰がこの映画の主人公のような目にあわないとも限らない。この映画が描いている司法の有様が、実際に、今の日本の刑事裁判の実情で あり、決して自分達とは無関係ではないということだけは肝に銘じなければならない。 (うり美)

 

 

大井町ビラまき報告

亀・・・・・11
うり美・・・1
山村・・・・2
富山・・・・0

なんということだ。絶不調なんてものではない。評価の対象外と言うべきだ。亀が留守中の連戦連勝は、いったいなんだったのだろう。
それでも、なぜかビラだけはしっかりはける。1時間やって、併せて100枚くらいうけとるうちの50~60枚は私からだ。どうやらまた「種蒔く人」に戻ってしまったようだ。
ビラまき開始後まもなく、若い女性が山村の前に立っている。ちらりと振り向いて、私と目があったので会釈したら、にこっと笑うではないか。結局、署名して自転車に乗って、私の前を通過。「ありがとうございました」とお礼を言ったら、またニッコリ。
 30分程して再び通りかかったので、「さっきはありがとう」と言ったら、またまたニッコリ。そして「がんばってください」。よい娘だ。次回は、ぜひ私に署名してください。
結局、とうとうこの日は署名者なし。困ったときのMさん(大学の先輩で、毎週この時間帯に駅前を通過する)も、なぜか現れなかった。とここまで書いてく ると、さんざんな一日のように見えるだろうが、そうでもない。何人かの人がビラをうけとりながら「がんばってください」と声をかけてくれる。私の名前も 知っている。着実に蒔いた「種」は芽を出しているのを実感できる。継続は力である。署名の数などでへこたれてはいられない。
とはいうものの、やはり勝たねばだめだ。ニュースは最後から読むという読者が少なくないが、どうやらみんな私がどういう負け方をしたかを楽しんでいるら しい。だから、癪なことに私が勝つと話題になる。勝ち続けても、負け続けてもダメらしい。意外性は私にありというわけだ。 次回は、なんとかして勝ちた い。 (とみやま)

大井町のYさんから

休載

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