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ニュースNo.220(2007年1月25日発行)

 

□ なれることの戒め―心新たに

新年になると「心新たに」と始め、「がんばります」と続けて、すっかりその気になったつもりで安心してしまい、つい実践をおろそ かにしてしまう。実体が伴わない言葉だけが華々しくとびかうことになる。これを積み重ねていると、知らず知らずのうちに実行力は毒されて行く。大言壮語の 徒というか、食言であり、言葉を弄ぶというよりは言葉に弄ばれてしまっている愚かな形骸だけが残されることになる。
ことあるごとに「初心忘れるべからず」とか「臥薪嘗胆」「継続は力」とが叫ばれるのは、ものごとをきちんとやりとげることが大切であるとともに、それがけっして生やさしくないことをものがたっている。
  たしかに生やさしくないのだ。このことを目をそらさずに、しっかり見据えて建て直さなければならない。
不正に憤る、これはあたりまえのことである。不正をただすために起ち上がる、これもあたりまえのことである。しかし、これを最後までやりとげることは容易ではないことを自覚してかからねばならない。
敵は権力を握っており、しかも狡猾なのだ。自ら非を認めることなどなく、絶体絶命で逃げきれなくなったときにはじめて非を認めたふりをするのだ。したがっ て、攻めて攻めて攻め続けて、けっして攻撃の手をゆるめてはならないのだ。しかも、攻撃者の側は人、カネ、もの、時間など余裕がないどころかほとんど徒手 空拳に等しい状態から始めるのだ。一時の激情にかられた決起ではなく、倦まず弛まぬたたかいそれも着実に強力・強大に発展するたたかいとしてやり抜かなく てはならない。そうでなくては、持続的に人の心をとらえることはできない。ましてや勝つことなどできない。
やはり、獄中にいたときの気持ちを忘れないこと、外にいてしかも時間の経過に飼い慣らされているのではないかと厳しく自戒してかからなければならない。何 度でも初心に帰って、いや呼びかけられて起ち上がった人にとってはたとえ一度でも初心を忘れてもらっては困るのだということを肝に銘じてやり抜かねばなら ない。
現状は、これが問われているのだ。
ひとつひとつコツコツと実行することを心がけたい。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「道は邇(ちか)しといえども行かざれば至らず、事は少なりといえども為さざれば成らず」(孫子)

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

(とみやまやすのぶ)

 □  あなたもぜひ会員になってください

 「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会」(「かちとる会」)では、富山さんの無実を訴え、再審無罪をかちとるため、ともにたたかってくださる方を求めています。
再審に勝利するためには多くの人々の力が必要です。また、再審弁護団のたたかいを支えるための裁判費用等、多くの資金を必要としています。
あなたもぜひ会員になって富山さんの再審を支えてください。

▼ 会費は月額一口千円です。

▼ あなたの会費は、再審にむけた運動づくり、再審の裁判費用等に 役立てられます。
▼ 会員には、月一回、「無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュー ス」をお送りします。

▼ 「かちとる会」では月一回、定例会を開き、再審をかちとるため の話し合いを行っています。また、集会や学習会、現地調 査を行 い、富山さんの無実と再審無罪を訴えています。これらの集まりに もぜひご参加ください。

▼ カンパのみの送金も大歓迎です。

□ 会費・カンパの振込先

▼ 郵便振込口座番号 00140-1-1506 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会

▼ 銀行振込
みずほ銀行 神保町支店 普通口座 1346188 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会

—————————————

   富山裁判の経過

・ 1974年10月3日
東京品川区で事件発生
・ 1975年1月13日
富山さんデッチあげ逮捕される
・ 1981年3月5日
東京地裁 無罪判決
・ 1985年6月26日
東京高裁 有罪判決 懲役10年
・ 1987年11月10日
最高裁 上告棄却
富山さん 大阪刑務所服役
・ 1994年6月20日
再審請求書を提出
・ 1995年12月19日
満期で出獄
・ 2004年3月30日
東京高裁 再審請求棄却
・ 2004年4月5日
異議申立書提出

※ 現在、高裁第4刑事部に係属中

 

大井町ビラまき報告

 亀………(出張中)
富山……5
山村……0
うり美…0

★ 2006年ビラまき結果 ★

23
富山
24
山村
6
うり美
4

2006年は、出張がちな亀さんにかわって富山さん大奮闘!なんと僅差で1位でした。
今年こそがんばるぞ! うり美

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.219(2006年12月15日発行)

 

東京高裁第4刑事部(大野市太郎裁判長)は

検察官に証拠開示を命令してください

再審請求棄却決定を取り消して、再審開始決定を出してください

□素晴らしい才能の持ち主

ひさしぶりに映画を観に行きました。それも見応えのある映画を。

  周防さんが新しい映画を作っているのは知っていました。95年暮れに出獄して最初に観た映画が『Shall We ダンス?』で、感想はニュースに載せま した。その監督とある勉強会で出会い、取材というよりは猛烈に勉強に励む姿勢に感心するとともに、痴漢冤罪をとりあげるというのでどういう切り口にするの か興味津々で期待していました。

そして、10月に「ボクつくりました。観てください」とあっては、試写会に足を運ばないわけにはいきません。

期待は裏切られませんでした。今号のゲストライターである十亀(そがめ)さんも触れていますが、この作品は監督自身が「日本の刑事司法の間違ったあり方 への怒りから出発したから正攻法で描かざるを得なかった」と言うとおりの手法で、しかし一瞬も飽きさせないものに仕上がっています。

じつは、今年の前半だったと思いますが、NHKのある番組で草苅民代さん(監督の配偶者)が『Shall We ダンス?』のアメリカリメイク版の発表 会に招かれた時のことを語っているのを聞きました。テレビの音声だけを聞いたのですが、そのなかで彼女は「試写会で私が涙を流しているのを見て、作品に感 動していると勘違いしたようだがそうではない。このリメイク版より私の夫の作品の方がはるかに優れている。私の夫はなんと素晴らしい才能の持ち主だろうと あらためて実感した感動の涙だったのだ」と誇らしく述べていました。まったく同感です。判決投票用紙の感想コーナーには「周防さん、やはりあなたは『素晴 らしい才能の持ち主』だと思います」と書いてきました。

映画そのものについては亀さん(そうです十亀さんも「亀さん」なのです。ただし、うちの亀さんと違って「瀬戸内育ちの海の亀さん」なのですが)にゆずり ます。この作品は日本の刑事裁判の現実をリアルに描き出しています。裁判官の異動による有罪への誘導という司法行政のやり方は、私の原審・東京高裁での逆 転有罪がそうでした(一審・無罪の維持が動かしがたいとみるや、裁判長以下3名の裁判官全員を更迭しました)。

とにかく一人でも多くの人に観ていただきたい、そして日本の刑事裁判の実態を知っていただきたいと切に願ってやみません。(富山保信)

□周防監督の新作『それでもボクはやってない』を観ました

十亀弘史

 ひどい風邪をひいていました。咳がとまらない。体温の調節がうまく行かず、ふいに38度の熱が出たりする。身体がだるい。背中がゾクゾクす る。しかし、なのです。無料で観られる映画があるとなると、どうしたって出掛けずにいられません。しかも、周防正行監督の新作。11月26日に、『それで もボクはやってない』の最初の試写会があったのです。寝てなどいられませんでした。

  冤罪についての映画だとは聞いていましたが、それ以上の予備知識は持っていませんでした。周防監督といえば、『シコふんじゃった。』と『Shall We  ダンス?』を観ています(どちらも私の獄中時代に封切られていますので、ビデオでなのですが)。両作ともに、温かく解放的な笑いに満ちた、とても楽しい 映画でした。だから今回もどこかで大いに笑わせる作品なのかな、と考えていました。しかし、ちがいました。怒りの映画なのです。上映の前に登壇した監督が 言いました。「この作品は、日本の刑事司法の間違ったあり方への怒りから出発して作ったものです」。

この映画を作るために監督は、3年間、冤罪事件についての取材を重ねたということです。冤罪被告の支援集会やさらに弁護団会議にも同席したりしていま す。日本の刑事裁判の99・9%という異様に高い有罪率や、建前とは逆に立証責任が検察官から被告と弁護人に転嫁され、被告の側が無罪を証明しなければな らない裁判構造などに強い疑問を抱いたのです。「日本の裁判は、ひどくまちがっている。これからも、ライフワークのような形で、引き続き裁判をテーマにし た映画を作って行きたい」。刑事司法を糾す周防監督の真摯さと真剣さに、私は思わず座り直して背筋を正しました。

監督は、作品そのものについては、「怒りを露わにすると、観る人が退いてしまうこともあるので、客観的に作るようにした。また、わざと面白くするような ことはしなかった」と述べました。周防作品にはおなじみの竹中直人がちょっと笑わせる場面などもありますが、大変リアルに作られています。

×  ×  ×

リアルというのは「描きたいものをありのままに描く」というのとは少し違うと思っています。一貫した立場を持して、常にその立場から対象の本質を掴みと ろうとする姿勢から生み出されるものではないでしょうか。この映画の冒頭には、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という字幕が出てきま す。冤罪ほど許し難い犯罪はない、というその立場、それが『それでもボクはやってない』が拠って立つ「一貫した立場」です。そして、そのような、現状の司 法権力と鋭く対決する姿勢が貫かれているからこそ、平気で不公正を犯してしまう日本の刑事法廷が、見事な臨場感と迫真力をもって、スクリーンにしっかりと 定着させられているのです。持続する強い批判の力が、「迎賓館・横田爆取でっち上げ弾圧事件」の「被告」として20年間法廷に立ってきた私にも、少しも違 和感を感じさせない法廷シーンのリアルさを生み出しています。

『それでも-』の直接の題材は痴漢冤罪事件です。電車の中で痴漢に間違われた青年が、被害者の証言だけによって、有罪判決を受けてしまうという粗筋です(ただし、青年の有罪・無罪は、最終的には映画を観終えた観客が決めるもの、という構成になっています)。

青年は、初めは、実際にはめったにいない良い裁判長に当たって救われそうに見えます。その裁判長は、高校生のインタビューに対して、「裁判官にとって一 番大事なことは無実の人を罰しないことです」といった答えを返して、周囲から浮く勇気のある判事です(ちなみに、元裁判官の秋山賢三氏は、岩波新書の『裁 判官はなぜ誤るのか』に「刑事裁判の最大の使命は、冤罪を生まないことである」と書いています)。ところが、裁判長が交替してしまいます。新しい判事は、 典型的な日本の刑事裁判官。頭から「被告は有罪」と決め込み、事実についての想像力を一切働かせようとせず、弁護側の証拠調べ請求を次々に却下します。日 常業務として坦々と不公正を貫くところが本当に卑劣です。腐りきっているのに、表情も崩さず特に昂ぶることもないのが、一層気味悪く、さらに卑劣です。そ してそれが、日本の刑事裁判の現状の構造そのものなのです。

×  ×  ×

私の咳は映画を観ている間も止まりませんでした。ただ、どういう訳か、左隣には度々鼻を啜り上げる男性、右隣にはやはり時々咳をする男性が坐って両側が 風邪の人となり、気遣いの必要がやや薄れたのは助かりました。それでも、出来るだけ、映画が大きな音楽や効果音を発しているタイミングに合わせて咳をしよ う、とは思っていたのです。しかし、『それでも―』は、極めて音楽の少ない映画で、しかも緊迫した静かなシーンが連続します。咳の出し辛い映画なのです。 ただ、一個所、大変印象深い強い音が発せられる場面があります。

被告の青年は、無実を訴えて苦闘を続けます。母親や友人、瀬戸朝香と役所広司が演じる弁護人が青年と共にたたかいます。そして弁護側立証を前にして、被害者の証言どおりの再現実験を行い、被害者証言の矛盾を発見しようとします。

その実験の中で「ドンッ」という強い音が発せられるのです。青年の肘と電車のドアがぶつかる音なのですが、その音がどういう意味を持つのかについては観 てのお楽しみとして、ここでは書きません。ただ、その「ドンッ」は、まさに真実を明らかにする音なのです。刑事や検察官や裁判官の(そして被害者の認識 の)誤りを、鋭く突き崩す音なのです。その「ドンッ」は裁判の誤りを、事実の力をもって、真っ向から弾劾し、映画の中で何度か響かされています。私には周 防監督の強い怒りをも伝える音だと感じられました。

×  ×  ×

現在の日本の刑事司法の誤りを、これほど見事に「客観的に」描き出した劇映画を外に知りません。警察や検察が、職業としてどれほど危険で悪辣な犯罪を犯 し、裁判所がどれほど無反省にその犯罪に加担して行くのか、その経緯と構造をつぶさに知ることができます。いつでも、誰でもが、突然に「容疑者」にされ、 さらに「被告」にもされてしまうのです。そして、大抵の場合裁判所は、その被告を救ったりはせず、それどころか一層の暗闇へと突き落とします。被告とされ た者が最後の勝利を手にするまでに、どれほどの屈辱と口惜しさを味わい、マイナスから出発してどれほどの苦闘を重ねなければならないか、映画はよく伝えて います。
情緒に訴えて感動させるという作品ではありません。しかし、一瞬も退屈させられることなく、なにより、このあってはならない刑事司法がどのような構造を 持っていて、それとどうたたかい、どうやってそれを変えて行くべきかについて深く考えさせられる、しっかりとした手応えを持っています。すなわち、考察と 意思を共有出来る映画、といっていいかもしれません。
07年1月20日に封切り上映となるそうです。ぜひ、ご覧になって下さい。
蛇足です。試写会に行った時をピークにして、私の風邪は徐々に快方へと向かいました。風邪には、よい映画が一番です。

(12月10日・そがめひろふみ)

【十 亀さんは「爆発物取締罰則違反」でデッチあげ逮捕・起訴され、16年もの違法・不当な未決勾留とたたかって一審無罪判決をかちとりましたが、東京高裁・中 川裁判長(私の再審請求を棄却した、あの中川です)によって「差し戻し」とされ、現在上告中です。真実=無罪確定めざして、ともにたたかいましょう】

 

 

大井町ビラまき報告

 うり美・・・・・1
山村・・・・・・1
富山・・・・・・1

今日は、寒い。やはり冬なのだと感じる。
ビラまき開始前、試写会「それでもボクはやってない」(周防監督作品)を観に行っていた富山さんは、心を打たれたとしきりに感嘆していた。「私、心をいれかえます」と宣言しながら始まったビラまき。その成果は、すぐに現れた。

67歳の男性が富山さんの前に立ち止まり何やら話しこんでいる。そのかたの奥様の旧姓が「富山(とみやま)」らしく、しかもそのかたのご子息は富山さんと同じ大学出身だというので二人は盛り上がっている。
更に「あなたはとても殺人をやるような顔には見えない」とまで言われていた。富山事件の写真選別では、いかにも「犯人」らしい顔つきだと言われている写真が使われているだけに、富山さんとしては嬉しそうだ。
「そんなことはじめて言われました」と私達に報告する富山さん。私達も、初耳である。
それから暫くすると「えー、富山さーん!?」と黄色い声が聞こえてきた。声の方向へ顔を向けてみると、富山さんが女子中学生に囲まれていた。彼女達は、 まさか本人がここにいるとは思ってなかったらしく、しばし興味をしめしていた。結局、署名までは至らなかったものの、心をいれかえた富山さんは嘘のように 絶好調だった。
心をいれかえた富山さんが凄いのか、心をいれかえさせた映画が凄いのか。

そうだ、映画を観に行こう。(うり美)

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.218(2006年11月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.218(2006年11月15日発行)◎異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会
『再審の現状と富山再審・異議審』の課題 (3)

中川孝博先生

大井町ビラまき報告

「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(3)

中川孝博(龍谷大学教授)

前回に続き七月八日の富山再審集会での中川孝博先生の講演を掲載します。

4.どう戦うか?

といったわけで、なんかだんだん暗くなってきましたけれども、この現状において非常に困難な道を、今、富山事件は歩んでいて、それを今後どう戦うかという ところです。じゃ、これから明るくなるかと言えば、別に明るくならないんです。申し訳ありません。あまりドラマチックではないんですけれども、一応、考え ているところを述べさせて頂きたいと思います。
ざっと、棄却決定書きを読ませ頂いたかぎりでは、もちろん、私はこの弁護団会議などに参加しているわけではないし、これまでどのようなご苦労が弁護団に あったのかというのはわからないわけですけれども、これは後で、黒田先生などにそんなことはなかったというふうに言って頂ければいいと思いますが、決定書 きなどを読むかぎりにおいて、私の感想を述べさせて頂きます。

外在的批判のみでは危険

まず、外在的批判が非常に多い。つまり、確定判決の判断の過程そのものを内在的に批判するというよりも、こういうふうに見たらこうじゃないかと、別の見方 からすればこうじゃないかというような言い方をする新証拠が非常に多いというふうに、率直に言ってもいいと思います。そうしますと、そう思わない裁判官に ついては、見解の相違に過ぎませんなんて言って終わる可能性が非常に強いんですよね。その意味で外在的批判のみでは非常に危険だというふうに私は思いま す。

証拠評価をめぐるコミュニケーションの分析

もう少し、内在的にですね、証拠評価をめぐるコミュニケーションを、今一度、分析しなおして、これまでの捜査段階を含め、全過程を通じて、検察官、被告 人、弁護人、そして裁判所というのが、一定の証拠、どのような証拠についてどういう主張の応酬をして、それに対して裁判所がどう応答したのか。例えば、こ の点については言及しているけど、この点については無視しているというのは必ずあるはずです。あるいは、弁護人が強く主張したものを論理としては否定せず に、しかし、こういうふうに見ればおかしくはないというふうに一刀両断している。つまり、他人の仮説を消去せずに、自分の意見をごり押ししている部分が必 ずあるはずです。そういった点はどこか。あるいは論理的に対応しているところはどこか。細かく見ると論理則違反ですね、矛盾していたり、あるいはこのAと いう結論を出すためには、aとbを検討しないと出せないにも関わらず、aしか検討していないとかですね。そういう論理則違反というものが必ずあるはずで す。

「つぼ」の抽出、「つぼ」をおさえた新証拠の作成

こういったさまざまな問題点を洗い直したうえで、確定判決自身の弱点、確定判決自身の「つぼ」と言いますか、そこを押さえれば崩れるみたいな、その「つ ぼ」というものをもう一回抽出する必要があるのではないかと思います。その「つぼ」を押さえた新証拠というものを作る必要があるのではないかと私は考えて いるわけです。
私自身は今、全記録を頂いているわけですけれども、なかなか、それを分析する時間がなくて、これは法科大学院のせいですけれども。ああいう制度は・・・、 まあいいや。余談は省きますけれども、いつかきちんとやろうと思っていますが、今のところ、十分にはできていませんが、ちょっとだけ見たかぎりで試論的に 言わせて頂きましょう。

O供述について

0さんにしておきますけれども、0さんの供述についてちょっと見てみますと、一審判決は0供述は信用できないと言っているわけですが、確定判決は0供述を 信用できると言っているわけです。確定判決が、一審判決が抱いている疑いをどういう理屈で排斥しているかを見てみますと、いくつかあるわけですが、目立つ のはここに挙げたものです。

確定判決が一審判決の疑問を排斥している箇所

①警察官証言に依拠した部分

ひとつは、0さんというのは捜査段階で、写真面割帳を見て、一番最初に富山さんの写真だけを挙げているわけじゃないんですね。他の人の写真も挙げていて計 4人の写真を挙げているんですが、それを捉えて、一審判決は必ずしも自信があったのではない疑いがあると言うんですね。確定的に富山さんが犯人だとは思っ ていなかったのではないか、自信がなかったんじゃないかというふうに疑問を提示しているわけです。
それに対して、確定判決は、4人の写真を選別したのは自信がなかったからではなくて、慎重に選んだ結果なんだというふうに言っているわけです。慎重に選ん だ結果だと判断した自分の評価が正しいということを理屈づけるために、なにを持ってきているかというと、一審では取調べられていないのですが、有罪判決

を出した二審では、実際にその写真面割帳を呈示した警察官を呼んできて取り調べています。その警察官証言によれば、この4人の写真 というのは、あやふやにこうかもしれないというふうに4人並列的に出したのではないと、まずは富山さんをバシッと選んで、その後、3人、もしかしたらこっ ちかもしれないという形で、後出ししているのが3人なんで、明確に選び方が違うんだというようなことを警察官が言っています。確定判決は、その警察官の証 言は信用できると言って、先程のような判断になっているわけですね。となると、このOさんの写真選別過程を問題ないと判断した要は、警察官証言です。とい うと警察官証言を崩さなければならないというふうになりますね。
第二、写真面割りの際に警察官が暗示・誘導をしたのではないかという疑いを一審は抱いているわけですが、その暗示・誘導はなかったというふうに、確定判決 は言い切っています。なぜそう言えるのかというのははっきり書いていませんが、おそらく二審で取り調べた警察官が、暗示・誘導などはしておりませんと言っ たので、それを信用しているのでありましょう。とすると、ここでも問題になるのは警察官証言だということになります。
第三ですが、面割りの後に、日比谷公園で面通しをしているわけですけれども、面通しの際に、Oさんは自ら独力で富山さんを当てることができなかったんです ね。警察官に「あの人ではないか」と言われて、ああ、あの人ですというふうに言ったわけであります。かつ、100%間違いないという言い方をしていなく て、80%くらいですというような言い方をしたりしています。こういった一連の経緯を見て、確信を持って自ら被告人を見出すことができなかったのはやはり おかしいじゃないかという言い方を一審はしています。
それに対して、そういうふうには言えないと二審では言っています。二審で、ここでも登場するのは、二審で取り調べられた警察官の証言です。その警察官の証 言によると、富山さんを見た瞬間に、体を、全身をわなわな震わせていたというんですね。そういったことを警察官は言っているわけです。それを確定判決は信 用しています。わなわなと震えていたということはやはり確信していたんじゃないかと、こういうふうに言っているわけであります。となると、これも警察官証 言が問題になってきます。何を見ても警察官証言が要だということがわかりますよね。

②「弁護人が悪い」/ O証人のコミュニケーション特性

さらには、一審判決の疑問に答えて、証言に食い違いや変遷がOさんの場合多いんですけれども、やむを得ないというふうに二審判決は言っています。しょうが ないんだと。なぜかというと、弁護人が悪いんだと端的に言っています。つまり、反対尋問でOさんに対して、弁護人は容赦なき追及をしているではないか、容 赦なき追及をして、そしたら一般人は混乱するのがあたりまえだというふうに言うわけです。かつ、Oさんには問題があって、「表現が稚拙」だったり、要する にレトリック豊かな人間ではなくて表現が稚拙だったり、「固執的弁明的な供述態度」というのもあるんです。弁護人に対して反発して、怒っていたりするの で、混乱するのはやむを得ないというふうに言っています。
これは、ちょっと興味深いんですけれども、表現の稚拙さとか、固執的弁明的な証言態度というのは、一審判決でも同じ表現を使っているんですね。但し、それ は正反対の意味で、だから信用できないというふうに言っていたんですけれども、だからやむを得ないというふうに逆転されているんです。これは、論理的に 突っ込めるところではないかなという気がしますね。
というふうに、弁護人が悪いんだというふうにされてしまいました。となると、弁護人が悪いのかどうか、これを問題にしなければいけないと、正面突破しなければいけないのではないかというふうに思います。

③テキスト解釈(「変遷していないと理解できる」)

さらには、今度は捜査段階の調書ですけれども、Oさんの場合にはかなり供述変遷があって、細面とか言っていたのが、エラが張っていて角張っているというふ うに最終的に変わるわけですけれども、全然違っているじゃないかと言って、信用できないと言ったのが一審なんですけれども、それに対して二審は、おもしろ いんですけれども、にわかには理解しがたいんで覚えられないんですけれども、「細面というのは長めの顔を意味して、角張った顔と両立できる」ではないか、 わかります?
あと、やせ型と言っていたんですが、それががっちりしていると変わっているんですけど、このやせ型というのは、いわゆるのっぽというふうに解すればいいんじゃないか、そうすると、がっちりと必ずしも矛盾しないではないかという言い方をしています。
こういうふうに、そんなふうに読めるかどうかは置いておきましょう、そういうふうに読む人が現に存在するわけです。それは事実として受け止めなければなり ません。そして、この確定判決は、矛盾しているように見えるが実は矛盾していないんだと、解することもできるというふうにして一審の疑問を排斥しているわ けであります。

弾劾の「つぼ」

こういったふうに、O供述を信用できるというためには、一審判決の疑問を次から次へと排斥しなければいけなかった。その排斥するために使われたのが、警察 官証言であり、弁護人が悪いという主張であり、こうも読めるではないかというテキスト解釈ですね。この3本が「つぼ」だというふうに私は思います。
そうしますと、こうした「つぼ」を押さえるためには、正面突破ですね。警察官証言は信用ならんという弾劾をしなくちゃいけないし、そして、Oさん自体のコ ミュニケーション特性を分析して、Oさん側にどういう特性があるかだけではなくて、弁護側の質問というのはOさんにどういう影響を与えたのか、要するに、 弁護人が悪かったのかどうかを端的に問題にしなければいけないと思いますし、調書のテキスト解釈についても、およそそう読めるのかということに関して、な んらかの主張が必要ではないかと思うわけです。

この「つぼ」を新証拠はおさえていたか

このような主張というのを、新証拠、請求審の最初の段階で出された数々の新証拠は押さえていたのかどうかということに注目しますと、どうも押さえていないように見えます。

①警察官証言の信用性

まず、警察官証言の信用性そのものを弾劾するような新証拠というのは出ていません。ただ、浜田さんの鑑定の中には、公判調書の引用がされています。その中 で、警察官がどういう反対尋問を受けているかというのは若干紹介されていますけれども、特に、このテーマに関して意味がある分析というのはされていない。
こんなふうに述べられたりしています。今野、今野というのは警察官ですが、「そのように質問しておりません」とか、「意識して調べはしておりません」とい うふうに否定し続けるけれども、「事は論理の問題であって、いくら強く否定しても通るものではない。第二期のO、Yの年令供述自体が、それを引き出した尋 問をはっきり含意している」のだというふうな言い方をされています。
つまり、取調官は一貫して暗示・誘導などはしていないということを言い続けるわけですね。その言い続ける供述自体に信用できない要素があるのだ。これはお かしいという要素がある。本当に意識していないんだったら、こんな言い方はしないだろうということを浜田さんが指摘しているわけではないんですね。紹介は しているけれども、事は論理の問題であってと、別の要素から、つまり年齢供述に変遷があるという調書のテキスト解釈から、暗示・誘導していたに違いないと いう言い方をされています。つまり、公判調書の引用にあまり意味はないんですよ、心理学分析の場合にね。
といった形で、警察官証言それ自体から警察官の言っていることは信用ならんという分析はされていません。これは当然でありまして、おそらく浜田さんの依頼 された事項というのは、警察官証言の信用性ではないと思いますから、それ自身をテーマにしていないので、意識されていないのは当然だと思いますけれども、 それに代わるような新証拠もないという状況なんですね。

②O証人のコミュニケーション・パターン(「弁護人が悪い」のか)

第二の、弁護人が悪いのかという点でのOのコミュニケーションのパターン。Oさん自身は、どういう問いかけ、尋問者に対してどういう問いかけをするパター ンにあるのか。つまり、迎合しやすい体質なのか、暗示・誘導を受けやすい体質なのか、こういったことをまさに浜田さんが分析されているわけですね。それ は、最終的には調書の分析に行っているわけでけれども、その捜査段階の調書の分析にとって要となるのが、公判でのOさんの証言の分析なんですね。その証言 パターンを裏付けしたうえで、こういうパターンを持っているOさんは、結局、捜査、取調べ段階でもこういうふうにやっていたという、推論過程をとられるわ けですけれども、ここもざっと読んだところ、弁護人が悪いんだという確定判決の判断を内在的には批判していないし、それ自体、弁護人が悪いのかということ を直接テーマにもされていないように思います。
例えば、こういう表現をされています。まず、Oさんの反対尋問に対する対応が、公判調書から引用されています。これは、Oさんのタクシーに乗せていた人と いうのがいるんですが、そのタクシーに乗せていた人は何歳くらいの人かということを聞いているんですが、弁護人は、
「男の人は何才ぐらいの人ですか。」と聞いています。
(O)「四七才ぐらいかな。四七―四八ぐらいだと思います。」と答える。
「四七才から四八才ぐらいの感じですか。」と聞かれて、
(O)「から五〇までの間。四〇から五〇の間ぐらい。」と言う。
「大分幅が出てきたが、何歳ぐらいなの。」
(O)「それは、わからん。」
「最初四七か八ぐらいと言われた。その根拠は何ですか。」
(O)「大体そのぐらいに見えました。」
「ぼくが聞いているのは、最初何歳ぐらいかと尋ねた時に、四七か八ぐらいだと言われたでしょう。」
(O)「はい。」
「ところが、その後すぐに今度は、四〇か五〇歳ぐらいの間だと、幅を取られて、次には、はっきりしないんだと言われて、そして今度はまた四七か四八ぐらいだと言われたでしょう。何で、そんなに答えがクルクル変わるんですか。」
(O)「四七、八に見えたんだけど・・・・・わかんない。」

こういった公判調書がまず引用されて、浜田さんはこう分析されているわけです。
「ごく素朴な応答ではある。しかし、これが証言としてまぎらわしいものであることは間違いない。はっきりしないことははっきりしないで、最初からその点を 考慮して幅をもたせればよいところ、印象でパッと答えて、あとでこれを修正していく。こういう応答をする供述者に対して、尋問者がある仮説を強く抱いてい れば、これを誘導することは容易であろう。」
つまり、思いつきでパッと言うのがOさんであって、一定の誘導にかければ、すぐそれに乗る人間なんだということを、このような尋問から分析されているわけ です。そういうふうに見ることはもちろん可能だと思います。みなさんはどうでしょうか。いいかげんな人だなというふうに思われたでしょうか。
が、実際に、裁判官はそう見ていないわけですよね。そして、浜田鑑定を推測の要素が入っている、推測に過ぎないんじゃないかというふうに言っているわけで す。再審請求に勝つためには、裁判官は実際、どう考えたんだろうかというふうに、やっぱり裁判官の立場に立って考える必要があると思うんですね。そうする と、先程言いましたように、弁護人が悪いからだ、この仮説に立って、もう一回、このテキストを読み直してみましょう。Oさんというのはいいかげんで信用で きない人というより、弁護人にいたぶられて慎重になっている人間、こういう仮説に立って読み直してみましょうね。そうすると、
「男の人は何才くらいですか。」
(また、なんか聞いて来たな。)   「四七才から八才ぐらいかな。」
「四七から八ぐらいの感じですか。」
(オウム返しに聞いてきたぞ。何かこれはひっかけようとしているのではないだろうか。やばいな。ちょっと幅を持たせなければならない。)
「から五〇までの間。」
(ちょっとそれじゃ足りないな)「四〇から五〇ぐらい」(と言っておこうか。)
「大分幅が出てきたが、何歳ぐらいなんですか。」
(そんなこと言われても、また    なんか聞く)「わからん。」
こういうふうにですね、弁護人がいろいろ聞いてくるので、それをずっと耐えて来て大分怒っているので、何か聞いてきたら、また僕が答えようがさらに突っ込 んでくるんだな、揚げ足を取って突っ込んでくるんだろうというふうに、慎重に答えなければならないという考えでこういう発言をしたと思ったら、おそらくこ ういう発言になる、そういう人も出てくるというふうにも見えるのではないでしょうか。どうでしょうか。そう思えばそういうふうに見えてくるような文章なん ですね。
そうしますと、浜田さんはここから浜田さんの仮説を出すだけではなくて、それだけでは足りなくて、確定判決が抱いているような、弁護人が悪いからこういう 応答になるんだという仮説は成り立たないんだという分析までしてもらわなければならない。その仮説を消去して、初めて、浜田さんがここで言われているOさ んはいいかげんなんだということを、暗示・誘導に乗りやすいんだということが説得力をもって出てくるわけです。つまり、浜田さんのようには読まない、考え の違う裁判官をも説得させる証拠に初めてなるわけであります。そこまでやってほしいわけなんですが、残念ながらそこまでは浜田さんの分析は及んでいないわ けであります。

③調書のテキスト解釈

最後の調書のテキスト解釈ですが、細面とかやせ型なんですけれども、浜田鑑定中に言及はありますけれども、これも内在的な批判はされていません。浜田鑑定 は、確定判決の見方は「いかにも強引であって、素直に受け入れられるものではあるまい。とりわけ一〇月七日の一回目の供述では『細面、ヤセ型』となってい たのであるから、これを翌年一月一八日の検面供述での『全体的に角ばった顔、ガッチリ』と比べて、単なる表現の違いと言うのはまず無理なことだと言うべき である。」と言っているわけですね。「まず無理だ」という結論だけがあるんですね。
しかし、まず無理ではない、と言っているわけですよ、確定判決は。そうすると、それに対して根拠を示さずに、「まず無理だ」というだけでは水掛け論になっ てしまうんですね。水掛け論で、残念ながら負けてしまうのは、再審請求をする人の方なんですよね。そうしますと、困難ではありますが、論理的に、あるいは 心理学的に、このように読むことはおよそできないということを浜田さんは分析する必要があるのではないか、というふうに思っているわけです。

確定判決の「つぼ」を崩す

こういったふうに、私自身は、ざっと見て「つぼ」だと思っているところは、新証拠に関しては全然ないんですよね。私自身は、この富山事件の展望というのを どうすればいいのかということに関しては、残念ながら展望は開けないんですけれども。開けないんですが、あえて、こういった点、今までの新証拠では、明示 的に取り上げていない点というのを、これはごく一部の資料を見ただけですからね、実際にさまざまな公判記録等を精査したら、また別の問題点が浮かびあがっ てくるかもしれません。そこはまだ留保しておきますけれども、もう一度、こういった確定判決の「つぼ」を崩すという点から記録を精査しなおして、新証拠の 主張を補強するという作業がこれから必要になってくるのではないか。
本当は、こういうことは僕は言いたくないわけです。僕は、この弁護団が提出された新証拠で、本来、再審請求が開かれて当然だ、認められて当然だというふう に思います。浜田さんのも、裁判官が抱いた仮説を完全に消去するところまでは行っていないけれども、少なくとも裁判官の考え方と同等に、少なくとも同等に 成り立ち得る仮説は提示しているわけです。それを論理的に消去できないのであれば、浜田鑑定を完全には否定できていないわけですから、否定できない以上、 それを認めて、決着は再審公判で、裁判をやり直して認めろというのが筋だというふうに思うんですが、現状に鑑みると、まずは再審請求審で無罪心証を抱いて もらわなければならない。ここでは、請求人に対して、非常に厳しい状況の中ではそれなりの厳しい準備が必要になるのではないか、そのためにはどうすればい いのかということについて、私見を提示したと、こういうことであります。どうもありがとうございました。
(龍谷大学・法学部教授)

 

 

大井町ビラまき報告

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ニュースNo.217(2006年10月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.217(2006年10月15日発行)◎『異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会
「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(2)
中川孝博(龍谷大学教授)

大井町ビラまき報告

『異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会

「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(2)

   中川孝博(龍谷大学教授)

 前回に続き七月八日の富山再審集会での中川孝博先生の講演を掲載します。

2.富山事件再審請求棄却決定における明白性審査

①限定的再評価説or心証引継説の採用

この流れを踏まえたうえで、富山事件では、どういう判断方法がとられたかということを見ておきましょう。これもなかなか難しいです。一応、二つの仮説が成 り立つように思います。ひとつは、限定的再評価説、あるいは、さらに悪いですが心証引継説というのがかつてあったんですけれども、そのような考え方に基づ いて判断しているというふうに解釈できる可能性があります。
証拠構造分析なし、新証拠の証拠価値検討から入っている
と言いますのも、この富山事件の再審棄却決定というのは、まず、証拠構造分析もありません。形式的には確定判決というのはどういう証拠に基づいて有罪認定 をしているかということを最初に書いているんですけれども、そのひとつひとつの証拠がどう関連していて、そのひとつひとつの証拠がどれが重要で、どれが重 要でないか、といったようなことは全く書いてないですね。こういう証拠に基づいて有罪認定をしたとしか書いていない。その意味で非常に形式的なもので、あ まり意味がないものになっておりますので、証拠構造分析をしていない。
そして、その全体の証拠がどうなっているかを具体的に分析することなく、請求人が提出して来た一連の新証拠を直ちに取り上げて、その新証拠一つ一つを分断 して、一つ一つの新証拠について価値がどれぐらいあるかどうかというのを個別個別に判断しているわけであります。それの当然の帰結ということになりますけ れども、確定判決の事実認定というものを新たに見直そうというところがあまり見られなくて、実際に確定判決の事実認定を所与の前提、それを無条件に受け入 れるんだと考えているのではないかと受け取られかねないような表現を用いたりしています。

確定判決の事実認定を所与の前提に

例えば、浜田寿美男という、この集会でも講演されたんですか、その浜田寿美男さんが心理学鑑定を作っておられるわけです。その証拠について明白性を否定し ているわけですが、そこに、「確定判決が採用した証拠の信用性判断を揺るがす明白性があるとまではいえない。」、こういうふうに結論しています。自分自身 は、これは信用できないという言い方をしていないんですね。「確定判決が採用した証拠の信用性判断を揺るがす明白性があるとまではいえない。」、こういう ふうに言っています。つまり、確定判決の信用性判断を前提に、無条件に自分が受け入れたうえで、そのような判断が覆るかどうかを問題にしているようにも受 け取れる表現をしています。
このように考えますと、限定的再評価説で、今の最高裁の立場に立ったとしてもかなり狭い、再審をなかなか開かせようとしない方法をとっているというふうに解釈することもできるかもしれません。

②全面的再評価説の採用か?

ただ、一方、はっきり限定的再評価説に立つぞとは言っていないんですね。先程ちょっと紹介した大崎事件の高裁では、はっきりそう言っているんですが、この 事件でははっきり言っていません。その意味で、もしかしたら、全面的再評価説を維持しているのかもしれないなと思わせる、そういう目で見るとそういう書き 方もしていないことはないんです。例えば、30ページの最後の結論のところで、「新証拠と旧証拠を総合的に評価しても」というような言い方をしたりしてい ます。
そして、改めて考えてみますと、この証拠構造、形式的に見ますとこの事件の証拠構造自体はシンプルですよね。さまざまな客観的証拠が多数並んでいて、血液 鑑定とかですね、そんなさまざまなものがあるわけではなくて、基本的には6人の目撃証言ですね。それと現場に落ちていた鉄パイプの臭いですね。犬の臭気選 別の結果。この二つだけれども、その意味で証拠構造はシンプルで、ある程度分析しようにもそれほど分析的に書く必要がないと言えばないかもしれません。ま た、裸の事実判断を行なって、結果的に確定判決と同じ事実認定、やっぱり富山氏は犯人だという事実認定に到ったとするならば、結局、このような書き方をす るのが通常なんだろうな、今の実務の慣行に従いますとそういうふうにも思われるんです。
通常審の一審とか二審でも、有罪認定をする時には、まず初めに自分で心証を、有罪の心証を形成した過程を書いたうえで、その後、弁護人や被告人はこう言っ ているけれども、妥当でないんだとかなんたらかんたらと言ってですね、すべて切っていくというような書き方をする人がけっこう多いんですけれども、そのよ うな書き方に非常に近い形式になっているというふうにも思われるわけです。

いずれの仮説を採用すべきか?(異議審でどう戦うべきか)

さて、どっちなのかということなんですけれども、なんとも言えません。この決定書きの解釈というのは、手がかりがそれほど与えられていないわけですので、 どっちに立つかというのは、はっきりとは言えないと言えます。ただ、異議審でどう戦うべきかという点から考えますと、まずは、限定的再評価説的な方法を とって、なるべく再審の門を狭めようと考えているというふうに解釈できる余地はあるわけですから、その点においては全面的に批判しなければいけないだろう なと思います。これは白鳥・財田川決定に対する判例違反だというふうに主張しなければならないと思います。その必要性が高いと思います。
この事件だけではなくて、高裁、一定の下級審がこういった判断をとっている、それが結論において最高裁で受け入れられるというようなことが続きますと、後 続の事件に影響を与えたりしますので、この場は必ず叩いておかなければならないというふうに思います。
ただ、じゃあ、全面的再評価説に立てと言って立ったら、それですべては解決するかというと、やはりそれはそう簡単にはいかないということであります。仮 に、この再審棄却決定が全面的再評価説に立ったとしても、これは有罪という心証を形成したわけですから、実際に。かつ、そうじゃなかったとしても、じゃあ 全面的再評価でやり直せと言った場合に、次に担当する裁判官が、これは全面的に再評価したら無罪だというふうに思うかというと、必ずしもその保証はないわ けでありまして、単に方法論ですね、再審請求審の方法論、どういう判断方法をとるかについてだけ争うのではなくて、当然、全面的再評価説に立ったとすれ ば、どのような証拠評価を裁判官にさせるべきか、そこまで戦略を練らなければならないということになると思います。
本来は、有罪、無罪、裸の事実判断をするのは、繰り返しますがおかしいんですよ。これは再審請求審でありまして、裁判のやり直しをしていいかどうかの問題 なんです。やり直しそのものではないのです。で、私など学者の立場からはそもそも一連の最高裁決定自体を批判していますけれども、実務の中で、現に最高裁 がそういう判断方法をとっているという中で戦うためには、そのような判断方法に則っても、なお勝利しなければならないという重い負担が請求人には課せられ ているということであります。

3.争点に関する実務の現状

目撃証言を「証拠」とする再審の困難性

では、この富山事件が有罪、無罪の全面戦争にどうやって勝つかということなんですが、これは、非常に、率直に言って大変な思いをされるのではないかなと思 います。と言いますのも、これまでのさまざまな再審を開いてきた、死刑確定判決に対する再審が開かれて無罪になったような事例というのとはかなり違うんで すよね。つまり、客観的証拠がほとんどなくて、目撃証言一発なんです。先程言いました犬の臭気選別についても、確定判決自体は決定的な証拠と見ていないこ とは明らかで、各目撃証言の信用性を補強するようなものだというふうにしか捉えていない。と考えますと、鉄パイプの臭いだけを崩せたとしても、いや、決定 的な証拠は目撃証言であって、目撃証言が信用できる以上、確定判決は維持だというふうに言われる可能性が高い。となると、この目撃証言をつぶさなければな らないということになります。ところが、目撃証言について、客観的な証拠は残っていないんですよね。目撃証言について残っているのは、基本的には供述で す。公判段階の証言と捜査段階で作成された調書類、そして、それと関連する実況見分調書等ですね。それだけしかないわけです。それらのテキストが信用でき るかどうかがすべての問題になってくる。そうすると、このような人の供述が信用できるかどうかというのは、往々にして主観的な評価をされがちでありまし て、迫真性に富むとか、具体的じゃないかとか、実際に見ているからこんなふうに言えるんだとかですね、印象論で語られてしまうことが多いんですね。実際 に、それで有罪が維持されている事件が多いわけです。その現状に鑑みますと、その中で、要するに、あいまいな、主観的な印象を優先されてしまって、どんな にロジックで攻めても、一概にはそうは言えないという、いわゆる可能性の論理と言いますが、その可能性がないとは言えないというふうにすり抜けられてしま う可能性が非常に高い証拠しか、この富山事件は残っていないんですね。その中で戦うのは大変であるということを、改めて繰り返す必要もないのかもしれませ んが思います。

写真面割帳に関する判断等の現状(甘い判断に変化なし)

かつ、目撃供述に関しての判断は、必ずしも自白調書の信用性の分析などと比べると、自白調書の信用性分析も甘いところがかなりあるんですが、目撃供述の信用性判断となるとさらに甘くなるのが、現在の実務の現状と言わざるを得ない。
例えば、この富山事件では写真面割帳、一部、空白になっているんですね、空白になった最後のページあたりに富山さんの写真だけが多数、バッバッバッバッと 貼られてたりして、なんか富山さんを選んでくださいと言っているような写真面割帳になっていたりする。そのような写真面割帳というのは、人を暗示・誘導に かける可能性が高いので、そんなものによって、これが犯人ですと選んだって意味がないじゃないかというふうにも思われるんですが、そのような写真面割帳で も特に問題はないとされるのが実務の標準的レベルだと判断されるのが、今の実務なんですね。現に、こういった写真面割帳はちょっと問題があったけれども、 それほど問題とは言えないというふうに、富山事件の確定判決は言っています。その表現が、目撃供述の信用性判断のポイントとして例に引かれることも多いん ですね。この確定判決は、一種の先例になっているというところがあります。
そういった点に鑑みて、写真面割帳に関して、他の事件では現在どう判断されているのか。昭和50年代はともかく、現在はもうちょっと認識が改められている のではないかと思って、最近争われた事件などを七つ、八つ調べてみますと、やっぱり似たような写真面割帳が作成されていて、やっぱりそれほど問題がないと いうふうに多く裁判官が言っているわけです。その意味で、今の裁判官は、こういう写真面割帳が問題だとは思っていないということを前提に戦わなければいけ ないわけであります。
さらには、この事件の確定判決でも言われていることなんですが、写真面割帳が暗示・誘導の可能性がある、非常に問題のあるものだということが、仮に認めら れていたとしても、その写真面割帳に基づいて、富山さんの写真を犯人だと言ったその人自身に、実際に暗示・誘導効果が与えたのかどうかという、そこまで判 断を裁判官はしてきます。ですから、写真面割帳に問題があると仮に判断されたとしても、でも、この証人達は、はっきりとこうこうこういう理由でこれを選ん だと丁寧に説明していて、暗示・誘導の影響はなかったと言わざるを得ないというふうに判断されてしまうわけですね。そこで、写真面割帳に問題があるという だけでは裁判官は合理的疑いを抱かなくて、かつ、その暗示・誘導の効果がその一人一人の証人、一人一人にすべて影響を与えたんだということまで、こちらが 言わないと、説得しないと、認めてくれないという可能性が高いわけであります。その意味で甘い判断、現在、写真面割りに関する甘い判断に変化はないし、非 常に困難な状況にあるということです。

浜田鑑定に対する判断の現状

もうひとつなんですが、先程も触れましたけれども、浜田寿美男さんによる心理学鑑定、供述心理鑑定が、この事件でも新証拠として提出されています。この証 拠に関しては、ただでさえ、基本的には薄い決定書きなんですけれども、31ページしかありませんが、その中でも3~4ページ使ってですね、分厚く、浜田鑑 定がいかに使えないかということを力説しておられる。その意味でも、逆説的ですが重要視されているわけなんですが、この浜田鑑定に対する判断の現状、これ も見ておく必要があるように思います。
浜田さんは非常に有名な方でありまして、いろんな事件に関わって、いろんな鑑定をしていらっしゃいます。もちろん、浜田鑑定が通った、浜田鑑定に説得を受 けた裁判というのもあるわけです。甲山事件とかですね。が、再審に関わって提出されているものに関しては、ほとんどが浜田鑑定に抵抗を示すものばかりで す。これらの裁判官は供述心理学に対する抵抗が非常に強いと言わざるを得ません。
例えば、狭山事件におきましては、狭山事件においても浜田鑑定が出されたわけですけれども、これは引用したところの最後の2行ですが、「右は心理学の立場 からの一個の見解であるに止ま」って、「事実認定に影響を及ぼすに足る証拠であるとは認め難い。」というふうに言っています。
この富山事件では、これも最後の2行ですけれども、「鑑定経過に多分に推測の要素が入っていることなどに照らし、確定判決が採用した証拠の信用性判断を揺るがす明白性があるとまではいえない。」というふうに蹴られています。
袴田事件、これも蹴られているわけですけれども、この袴田事件においても、「浜田鑑定は、本来、裁判官の自由な判断に委ねられるべき領域に正面から立ち入 るものであって、およそ刑事裁判において、裁判所がこのような鑑定を命じるとは考えられないのである。その意味で浜田鑑定については、そもそもその『証 拠』性にも疑問があるといわざるを得ない。」とまで言われているわけです。非常に抵抗を示されているんですね、浜田さんは。浜田さんという人というより、 浜田さんの提出された分析結果に対する抵抗が強いですね。
このような一連の決定では、そもそも浜田鑑定が証拠と言えるのかどうかというふうに言っているわけですけれども、ただ、一応、証拠性を認めています。一 応、証拠性を認めていますし、実際に浜田鑑定にこういう問題があるということを簡単になんですが評価していますので、この証拠性について、富山事件につい ての完璧な論理を、武装の用意をしておく必要は必ずしもないのではないかというふうに思います。証拠性に疑問がある云々というのは、結局、簡単に手っとり 早く、浜田鑑定を採用しないというふうに書くためのレトリックに過ぎないと私は考えています。
いずれにしても、この浜田鑑定というのは、その方法に問題があると言われているわけですから、そのような方法に問題はないということを再審請求する側は説 得的に、補強的に主張しておかないと、簡単に蹴られてしまう可能性が非常に高いわけです。現に、富山事件でも請求棄却決定では簡単に蹴られてしまっている わけです。その意味で、蹴られない説得性というのをどうやって求めるか、これがひとつの大事な点です。

フィールド実験に基づく鑑定に対して

レジュメには書いてありませんが、他にも多数の心理学鑑定が、この富山事件では出されています。これらは浜田さんの供述心理学、公判調書や取調べ段階での 調書を分析したわけではなくて、実際に証人達が見たような状況で、果たして見えるのかどうか、そういったことを実験などをしたうえで検討されているものが 多いわけですが、これらもことごとく蹴られています。これらのフィールド実験と言いますけれども、フィールド実験に基づくものも、結局、一般的にはそうか もしれんが、この事件に関してはそうは言えないとか、実験しているようだけれども、その実験に到ったその状況というのは、実際の本件と違うじゃないかと言 うわけですね。あるいは、実験したらほとんどの人が犯人を当てられなかったというけれども、少しの人は犯人と当てているじゃないか。本件の証人もその中の 少数の一人なんだというわけですね。こういう言い方をバンバンされて、全部切られているわけですね。こういったふうにフィールド実験というのは、切ろうと 思えば、状況が違うとかですね、当てている人もいるじゃないかというので、簡単に切られる可能性というのは非常に高いので、簡単に切られないような準備と いうのを合わせてしておく必要があるようにも思われます。

 

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ニュースNo.216(2006年9月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.216(2006年9月15日発行)◎異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会
「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(1)

大井町ビラまき報告

異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会

「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(1)

講演する中川孝博先生(龍谷大学教授)

 この富山事件の再審請求を棄却した裁判長というのは中川というのですけれども、ちょっとやりにくいですよね。自分と、この中川裁判長は何の関係もありません。
今日与えられたテーマというのは、「再審の現状と富山再審・異議審の展望と課題」という課題を与えられたのですが、異議審というのを省略しました。
というのは、異議審というのを具体的にどう捉えるのか、私自身、今のところ展望が見えにくいというか、それより先のことを、なんて言うと問題かもしれませ んが、もうちょっと大きな目で見た方がいいのかなという気もしますので、そういった点から報告させて頂きたいと思います。

1.再審請求審における明白性審査の現状

まず、レジュメの1番をご覧ください。「再審請求審における明白性審査の現状」ということです。富山事件の再審請求審自身の問題点それだけではなくて、今 の再審請求審の判断の全体の流れ、他のさまざまな事件の中で、どのような特徴を持っているのかということを見るためには、再審請求審における明白性審査と いうのは、一般に、現在どのように行なわれているのかということをまず確認しなければいけないと思います。
そのためには、今、争われているところが二つありまして、その二つについて触れなくちゃいけません。

再審請求審とは

皆さん、ある程度、再審についてご存じでしょうか。明白性判断で、証拠構造と全面的再評価と言われて、ピンと来る方はお手をお上げください。
わかりました。説明致しましょう。
大雑把に言いますと、本来、再審請求審というのは、一定確定した有罪判決に対して、もう一回裁判を開く資格があるかどうかを問題にするんですね。ですか ら、裁判のやり直しではないのです。そこは押さえておいてください。裁判のやり直しは、再審請求が認められた後、裁判をもう一回やり直すのです。その意味 では再審請求審というのは、裁判をやり直す資格があるかどうかです。ですから、有罪無罪を生の形で、有罪か無罪かをもう一回判断する場ではないのです。そ のために従来問題とされてきたのが、無罪とすべき明らかな証拠があるかということで、ひとつの見方はこういう見方です。

証拠構造分析と全面的再評価説(白鳥決定、財田川決定の流れ)

再審請求審で弾劾の対象になるのは、確定判決ですね。富山さんで言えば二審の有罪判決ですが、その有罪判決が、どのような証拠に 支えられていたのか。多数の目撃者がいるわけですけど、これ(A、B、C、D)は便宜的に適当に書いているだけですが、多数の証人がいたと、その証人の目 撃供述が信用できるというので有罪にされているわけですけど、じゃ、その証人が信用できるかどうかというのは当然争われるわけですね。で、その証言が信用 できるというのは、結局、どういう証拠に支えられているのか。で、この証拠はまたどういう証拠に支えられているのか。こういう一連の、さまざまな証拠のつ ながりがあるわけですね。で、有罪判決に到ったこの証拠の構造というものが崩れるかどうかが問題になるわけです。
例えば、このA証拠に関して、このA証拠というのが信用できるとされたこの証拠(a、b)、この一連の証拠に対して新証拠を投入して、こいつはもう信用な らんということになれば崩れるわけです。そうすると、これが崩れるわけですから、当然Aも崩れるわけです。そうすると、A、B、C、Dから成り立っていた 有罪判決のうちAが崩れるわけですから、全体として有罪認定を支えていた証拠の一角が崩れるわけですから、確定判決の事実認定が動揺するわけですね。そこ で、これはどうも無罪判決を得られる可能性がありそうだということで再審が開かれる。
こういうことで、再審請求審では、確定判決はどういう証拠をどういう構造でもって有罪認定していたのかを問題にします。それを問題にするにあたっては、か つては、この新証拠だけを見て問題にすればいいんだということを言っていたりしましたが、それでは誤判、冤罪の救済には不十分だということで、新証拠と直 接関連するここだけを検討するのではなくて、全体ですね、この証拠構造がどういうものを持っていて、本来AとかBとかC、D、強いとか言っているんだけれ ども、本当はこのBは弱いではないかとか、Cは弱いのではないか、Dは強い、もう一回すべての証拠を洗い直してどの程度の証明力、この有罪認定を支えた証 拠というのは、どの程度の重みを持っているのかというのを、一から請求審が判断しなおすんだと、これを全面的再評価説と言います。
と言いますのは、この二つのポイントから再審請求審は判断するんだということです。一番は、確定判決はどういう証拠構造を持っていたか。それは強かったの か弱かったのか。弱いということになれば、そこに大した意味のない新証拠を出して来たとしても、それだけでドバッと崩れるわけですね。これをかつては、麦 わら一本でも再審は開かれる、というような言い方がなされたことがあります。こういったふうに、かつて再審の重い扉を開いた、開かずの門を開いたと言われ た最高裁の白鳥決定および財田川決定でも、核心はこの証拠構造分析、および限られた部分だけじゃなくて全面的に証拠を見直すんだというこの二つを柱にして いたわけです。実際に有罪か無罪かを判断するのではない。この証拠構造が崩れるかどうかを見るんだということです。有罪か無罪かは再審を開いた後がんばっ てくれ、こういう話だったんですね。

名張第6次決定、マルヨ無線決定(限定的再評価説に移行?)

このような判断方法が原則的に、求められているとおりに行なわれるのであれば、再審請求というのは、わりかし開かれやすいというふうに思うわけですけれど も、現実は大分動いてきていまして、逆流とも言われるような状況、再び再審の門が閉じられようとしているとも表される状況になってきています。
それを表したのが最高裁の最近の一連の決定でありまして、現在、再審請求が通りましたけれども、通ったのはまだ確定していませんが、名張の第7次のものが ありますね。その前の前、第5次再審請求での決定で、三つの証拠群に分かれるのですが、そのうちのひとつについて、新証拠が証明力を減殺、崩したとして も、他に二つあるから、その二つを合わせれば依然として、確定判決の有罪認定は崩れないといった決定があったんですね。
さらには、レジュメに書いてありますマルヨ無線決定、これは平成10年10月27日ですけれども、この場合にも、証拠等に有機的に関連するところだけ見れ ばいいんだと、すべての証拠について全面的に見直す必要はないというふうに解釈できるような表現をとった決定が出ました。
名張第6次決定、これは平成14年ですけれども、この名張第6次決定においても、提出された新証拠に直接関わるところだけしか判断していないように見える決定が最高裁で出たんですね。
このように、新証拠と直接関わるところだけじゃなくて全面的に証拠を検討し直すというのじゃなくて、ここだけ、新証拠のここだけを、例えばさっき言ったこ の事件ではOさんの証言を弾劾すると言ったら、Oさんの所だけ見て、YさんとかTさんは見ない、こういったやり方を限定的再評価と言います。新証拠はこの 部分しか言っていないのだから、そこだけ見りゃいいじゃないかと、全部見直す必要はないということですね。
こういった判断方法を取られてしまいますと、もともと新証拠を出すのは大変なことですね。大分前の事件で、当時のことを記憶している人もいなかったりしま すね。痕跡なんかも新たに鑑定し直そうとしても、資料がもう残ってなかったりする。こういった中で必死に新証拠を出して来ても、ここだけというふうになれ ば、ここらへんは実は問題があったのに、ここらへんが無条件に確定判決が正しいと受け入れてしまうことになりますので、再審の門は狭まってしまうのです ね。そういった問題が、今、生じて来ております。
かつ、マルヨ無線決定というので、新たに問題になって来ていますが、証拠構造を崩せばいいというのではなくて、一旦崩れたとしても、例えば検察官側が再審 請求審の間に出してきた新たな資料なんかを考慮して、やはり合理的な疑いを越えた証明があるというふうに判断すれば、再審を開かなくてもいいという言い方 を最高裁はしたんですね。つまり、有罪認定の証拠構造が崩れるかではなくて、裸の事実判断と言いますけれども、要は有罪か無罪かなんだ、それを判断すれば いいんだというふうに受け取られかねないような表現をマルヨ無線決定ではしたわけです。

全面的再評価説but not証拠構造論(裸の事実判断)

つまり、再審請求審のポイントであった二つは、どちらも今、揺らいでいるわけです。証拠構造を崩せばいいと、有罪か無罪かじゃないと言っていたのにも関わ らず、いや、要は合理的疑いを越えた証明があるかどうかだ、有罪無罪の判断をする。となるとこれは大変なことですね。従来、有罪か無罪かを争うというの は、公開の法廷で国民が監視する中で、いろんな証拠を出して、公開裁判の中で厳正に防御権を尽くして、攻撃、防御を尽す中で事実認定が争われるべきものな んですが、再審請求審となると、基本的には公開法廷などはなされないわけですね。何を考えているかわからない中で、かつ、証拠調権などは認められない中 で、すべては裁判官の裁量に委ねられるところで判断されてしまう、要するに密室の中で判断されてしまうわけですね。
そんなことをされちゃかなわんというので、今、最高裁の一連の動きはものすごく批判にさらされているわけです。この中で、最高裁の一連の決定をどう読むか ということが議論されているわけですけれども、私自身は、基本的には、今、あまりよくない状況にあると言わざるを得ない。つまり、先程説明しましたよう に、証拠構造論というのは基本的にはとっていないと考えざるを得ない。そして、最終的には有罪か無罪かですね、再審請求審においてそれを問題にしていると 言わざるを得ないということであります。
第二に限定的再評価か否かということに関しては、一応、形式的に見るならば、すべての最高裁決定においては、「すべての全証拠を総合して判断しても」とい うフレーズは必ずついていますので、形式的には全面的再評価説を維持している。一部の実務家がねらっているような、限定的再評価説への移行があったという ふうに必ずしも言えないというふうに考えています。
その点はいいんですけれども、そのかわり有罪無罪の判断を生でやっているというところがやはり依然として問題になってくる。有罪無罪を、生の事実判断をや るということは、ある意味、全面的再評価をしないとできないことですから、これはある意味、この二つは当然のつながりだと思うわけであります。
詳しくは、この分析については、興味ある方は、注の1(中川孝博「再審理論の再検討」法律時報75巻11号 22頁)に書いてあるものをご覧ください。こ の論文を書いた後に、最高裁では二つ出ています。ひとつは狭山で、もうひとつは大崎ですけれども、狭山事件の場合にも、新証拠を出して来た、その出して来 た新証拠を個別個別に判断して、全体の証拠構造分析をしていません。限定的再評価のようにも見える判示はしていますけれども、一番最後を見ますと、「他の 全証拠を総合的に評価しても」というふうに書いてあって、一応、全面的再評価説をとっているような書き方です。但し、確定判決の事実認定に疑いが生じるか という言い方は、白鳥、財田川が言っていた言い方はもう捨てています。「強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂の各犯行に及んだことに合理的な疑いが生 じていないことは明らかである」、こう生の有罪無罪を問題にしていることを明確に表現している決定になっています。
もうひとつの大崎事件については、三行半(みくだりはん)、これはものの例えでありまして、実際は6行だったそうですけれども、要するに高裁は正しいと 言っているだけでして、理由を全然示していないので、どう考えていいかはわかりません。わかりませんが、大崎の高裁の決定というのは、限定的再評価説を明 確にとるものだったので、それを受け入れるとはどういうことかというので議論にさらされているところです。ただ、結論において正しいと言っているだけなの で、その高裁がとった方法自体が正しいかどうかは、最高裁は明言していないというふうに考えておくのが、今のところ無難ではないかなというふうに思いま す。
というふうにまとめますと、今、最高裁は遠く下級審に対してどういうふうに再審請求審を判断せよと言っているかというと、すべての証拠を見直しなさいと 言っているけれども、確定判決の一部でも揺らいだら、再審の請求を認めていいとは言っていなくて、とにかくあなた自身が無罪と考えるのであれば再審を開き なさいというふうに言っているわけですね。と、解釈しておきましょう。

下級審の傾向

下級審についてはいろいろあって、私はまだすべて検討しきれていませんけれども、村岡さんという方の論文(村岡啓一「再審判例にみる明白性の判断方法」自由と正義56巻11号 11頁)を見るかぎりにおいては、同様の傾向にあるようであります。
個別に見るともっとひどいというか、限定的再評価説に立っているような決定もありますけれども、全体としては同様の傾向にあるということになります。
(以下、次号)

 

 

大井町ビラまき報告

富山・・・・6名
うり美・・・1名
山村・・・・0名
亀さん・・・休み

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.215(2006年8月15日発行)

 

『異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定』富山再審集会」は、初めての方多数を含む65名の参加で成功しました。
みなさん、ありがとうございました。

【会場から事件現場が見下ろせます】

【椅子が足りずに、床に座りこむ方も。たいへん申し訳ありませんでした。】

□集会報告

七月八日、「異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定」富山再審集会が行われた。
はじめに、龍谷大学法学部中川孝博先生から「再審の現状と富山再審・異議審の課題」と題して講演が行われた。この講演をお願いしたのは、かちとる会として異議審における指針を得たいと考えての事だった。
冒頭、中川先生は「再審についてみなさんご存知でしょうか。証拠構造と全面的再評価と言われてピンとくる方はお手を」と会場に語りかけた。誰も手をあげる ひとはおらずみな苦笑い。「わかりました。説明いたしましょう」と、いきなりホワイトボードを引き寄せ図を書きながらの説明だった。
先生は、再審と再審請求審との違いを説明し、再審請求審では、一体何が求められているのかきちんとおさえておく必要があると強調した。その上で、富山再審・異議審での闘いを次のように語った。
「異議審でどうたたかうべきかという点から考えますと、棄却決定がどういう立場をとってるかというと限定的再評価説的方法をとってなるべく再審の門を狭め ようと解釈できる余地がある。白鳥・財田川決定に対する判例違反であると主張する必要性があるだろう」。しかし仮に「全面的再評価説にたったとしても、無 罪かというと必ずしもその保証はない。全面的再評価説にたったとすれば、どのように証拠評価を裁判官にさせるべきか、そこまで戦略を練ならければならな い」。
また「外在的批判のみでは危険だと思う。もう少し内在的に証拠評価をめぐるコミュニケーションを分析し直して、確定判決自身の弱点を抽出する必要があるのではないか。ツボを押さえた新証拠をつくる必要性がある」とした。
富山事件における証拠構造分析については目撃証人Oの例をあげ、確定判決が証人の供述を信用できるとした根拠に、「1警察官証言、2弁護人の尋問の仕方に 問題がある、3テキスト解釈がある」と指摘した。この「確定判決のツボを崩すという点から記録を精査し直して、新証拠の主張を補強する作業が必要になって くる」のではないかとした。先生は「弁護団が提出された新証拠で本来再審請求が認められて当然だと思う」としながらも「現状に鑑みると、まずは再審請求審 で無罪心証を抱いてもらわなければならない。請求人に対して厳しい状況の中では厳しい準備が必要になるのではないか」と指摘した(次号で講演の反訳を掲載 します)。
これを受けて富山再審弁護団から黒田純吉先生は、「札幌の渡部先生の所に伺ってディスカッションした帰りに考えていた」が「我々ももう一度考え直さなければならない点がある」として「捜査官の供述あるいは捜査の経過に関する分析」をあげた。
さらに今後の闘いについて「闘いは二つある。一つはすでに出された証拠。一審では無罪と判断し二審では有罪とした。なにゆえ反対の判断を受けなくてはなら なかったのか。二つめに、でていない証拠をどのようにださせるか、が重要」だと証拠開示の重要性について強調された。
次に、阿藤周平さんからのメッセージをビデオ上映した。八海事件の主犯とされ死刑、無罪を行き来しながらも無罪を勝ちとった阿藤さんは、司法が二度と同じ 過ちを犯し、冤罪で苦しむ人があってはならないと一九八九年一一月の富山集会以来、支援してくださっている。今回は主治医の判断もあり大事をとって頂き、 ビデオによるメッセージとなった。スクリーンから発せられる「裁判というのは、待つものではなく自分で勝つものなんです」の言葉に身が引き締まる思いがし た。
次にかちとる会の報告で、最初に阿藤さんからのメッセージを読みあげ、前日の申し入れ行動の報告と更なる支援を訴えた。
カンパアピールは、いつもアピールをしてくれる坂本さんに変わって、国賠ネットワークの土屋さんが「私の目の黒い限り富山再審をがんばりたい」と訴えた。会場からのカンパは一六六一〇円だった。ありがとうございました。
最後に、富山さんから「この闘いは展望があるし、勝てると思ってますし、絶対勝ちたい。勝つまでやめるつもりもありません。必ず勝てると信じてます」と最後まで闘い抜く決意を表明し、集会は終わった。
この集会で感じたのは、再審に限らず裁判は相手の土俵で闘わざるを得ないということだ。そんな中、運動は手探り状態でも諦めることなく、継続していかなけ ればならない。何もしなければ、何も始まらないし道は開かない。厳しい現実を前に、私達には更なる揺るぎない信念が要求されている気がした。 (うり美)

□アンケートから

私が生きてきた年数だけ無罪を訴え続けているということは、本当に私にとっては信じられないことで、核マル(ママ)、中核なども全くわからないことで、それでもこの事件と関われたことはよかったと思います。(学生/女性/20歳)

今までゼミで裁判資料だけを見て事件を検討してきましたが、今回集会に参加し、いろいろな方のお話を聞くことかできました。資料の上だけでは分からない、みなさんの気持ちや考え、志を知ることができて良かったです。(学生/女性/20歳)

まだまだ私自身、事実など勉強不足なので頑張ってこれからも新たな事実をさがしていきたいと、今日の集会を聞いて思いました。(学生/女性/21歳)

初めて参加しましたが、参加者の多さに驚きました。今回の講演を聴いて証拠開示を求める思いが強くなりました。これからもがんばってください。(学生/女性/21歳)

研究者からの視点、実務家からの視点としてテーマをかぶらせて事前に打合せて、議論したらおもしろいと思います。(大学院生/男性/25歳)

中川先生、黒田先生のお話、とても示唆に富んだ重要な御指摘だったと思います。中川先生のお話は、最初はちょっとむずかしい印象でしたが(専門的すぎて、すぐには理解できなかった)、黒田先生のフォローで重要さがわかりました。
阿藤さんのビデオアピール、よかったです。(65歳)

中川教授の話がきわめてよかった。(男性)

①中川先生の講演は専門的で難解でしたが、今後の戦いのツボを示唆して下さり大変勉強になりました。
②地道にコツコツとした「かちとる会」のこの間の活動に敬意を表しますと共に富山氏の完全無罪まで、私も微力ながら共に闘いたいと強く感じました。(女性/58歳)

よかった。内容があった。(会社員/男性/56歳)

多くの人が一生懸命に闘って来たことが伝わる、とても感動的でした。正義が勝てる社会を! 本当にそのとおりです。がんばりましょう。(学生/男性/25歳)

講演がおもしろかったです。勉強になりました。(会社員/女性/53歳)

毎度の感想ですが、多勢の参加で心強く、感銘。富山さんのお人柄と無実の強さと、権力の横暴に対する心ある市民の方々の良識によ るものと存じます。運動を中止することは負けること。継続が生命、成田三里塚も40年、大阪生コン労組も40年です。(市民運動/男性/81歳)

国家権力、検察、警察官による無実無罪の圧殺に憤りを覚えます。再審開始まで応援しますので、無罪を勝ちとるまで頑張って下さい。(無職/男性/57歳)

この事件の大筋がようやくわかったように思います。しかし、それにしても推移が希薄な事を思いました。もっともっと肉迫しなけれ ばダメではないか、そして私はそれは充分出来る事だし、・・・この世に大口を開いてねらっている犯罪者の手口は平和の市民社会の中に善人として笑んで居 る。つまり皆が犯人にされる種子を持って生きている・・・という事を思うと、今日お聞きしたたような事ではまだまだ発想たくましく論理を固める必要がある のでは・・・。  (会社員/男性/54歳)

中川孝博氏の講演での提起は検討に十分値すると思います。重要な指摘です。黒田弁護士の証拠開示請求に関する提起からは、これま での開示請求が実現しなかった壁をどうやって突き崩すのかについて運動面と弁護活動の両面で具体的に検討する必要性を感じました。阿藤さんのビデオとメッ セージには勇気づけられました。阿藤さんの病状について大変心配しています。山村さん、うり美さん、ご苦労さま。富山君の話は説得力がありました。内容の あるいい集会でした。頑張りましょう! (男性/69歳)

中川先生のお話はとても刺激的で、勉強になりました。若い学者が富山さんへの弾圧に真剣にとりくんで、どうしたら勝てるかを考え てくれていることは力強い援軍であり、勇気づけられます。不屈にがんばって勝利への突破口をこじ開けなければいけないと誓いを新たにしました。 (編集者 /男性/62歳)

□ヒロシマ大行動に参加しました

今年も「8・6ヒロシマ大行動」に参加しました。 一生懸命ビラまき。それにしても暑い。

3000人が参加。若い力の台頭が感じ取れる熱気に満ちあふれた集会とデモでした。

大槻さんとガッチリ握手

 

大井町ビラまき報告

 □ビラまき報告
今回の大井町署名は、集会のビラまきのため報告はお休み。

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.214(2006年7月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.214(2006年7月15日発行)◎東京高裁に申し入れ
申入書

大井町ビラまき報告

7月7日、東京高裁第四刑事部に申し入れを行いました。

私たちの訴えに誠実に応えてください。

検察官に証拠開示を命令してください。

再審請求棄却決定を取り消し、開始決定を出してください。

□東京高裁に申し入れ

7月7日、富山保信さんと「かちとる会」は、東京高裁に対して、再審開始を求めて申入れを行なった。申し入れには、足立昌勝関東学院大学教授、国賠ネットワークの土屋さんも駆けつけてくださった。「かちとる会」からはうり美さん、山村が参加した。
高裁からは、訟廷管理官の猪浦氏、総務課の林氏、長岡氏らが出席した。
まず、富山保信さんが「申入書」(別掲)を読み上げ、「74年に事件が起き、翌年の1月に逮捕されて以来32年になる。その間、一貫して無実を訴え続けて きたが、私の主張をきちんと検討してくれたのは一審のみ。二審も最高裁も、きちんとした審理もせずに私の訴えを退けた。きちんと審理をすれば、私の無実は 明らか。ぜひ、事実調べを行い、確定判決を改めてほしい」と訴えた。
続いて、足立先生が「要請文」を読み上げ、「この事件について公正な審理を求めるという要請文に、多くの学者や弁護士が名前を連ねている。法と心理学会で も、参加する法学者や心理学者、実務家の多くがこの事件は無実だと思っている。支援の輪も広がっている。こうした人々の声を受けて、裁判所はぜひ真剣に検 討してほしい」「目撃供述の信用性が揺らいでいる。この事件の目撃供述は信用できないという心理学者の鑑定書も提出されている。本件は、目撃供述の信用性 が争われている事件として真っ先に取り上げられる事件で、多くの人々が注目している。裁判所として、無実の人間を有罪にしたままというのは大きな汚点にな る。ぜひ、再審開始をお願いしたい」と訴えてくださった。
次にうり美さんが、「もう十数年にわたって富山事件を支援してきた。普通に考えると、無実の人間が27歳から30代、40代の後半まで刑務所の中に置かれ るということは考えられないことだ。自分の人生に置き換えた時、とても耐えられないことだと思う。無実の人間が有罪にされるなど、あってはならないことだ と思う。無実なら、なおさら司法の名のもとに正されなければならない。ずっと汚名を着せられている富山さんのことを思うと、再審を求め続ける気持ちがよく わかる。もし、私が富山さんの立場に置かれたら、私も同じことをするだろうと思う。最後まで闘って無罪をかちとるだろう。やっていない人を有罪にするの は、司法犯罪だと思う。この事件は誰が見ても無罪だとわかる事件。素人の私が見てもそう思う。きちんと調べれば必然的に無罪となる。公正な裁判で再審を開 始してほしい」と訴えた。
土屋さんは、「国賠ネットワークをやっている土屋です。土・日・Pの冤罪事件の人たちの国賠をはじめ、国賠に取り組んでいる。僕は、今の裁判所は三菱自動 車状態、あるいはシンドラーのエレベーター状態だと思う。欠陥商品を放置している状態だ。ぜひ、誤りを認めて、改めるべきは改めてほしい」と訴えた。
山村は、「再審制度は無辜(むこ)の救済のためにある。請求人に有利な証拠、無実を明らかにする証拠があるのに、検察官はそれを隠し続けている。裁判所が それを開示させ調べることもせず、再審請求を棄却するのは再審の本来の考え方からしても許されることではない。一審の時からずっと裁判を傍聴してきた。目 撃証人の証言をじかに聞いて、こんないいかげんな証言で起訴したのかと思った。一審で無罪判決が出た時、当然のことと思った。二審でも、検察官の立証は無 罪判決を覆すようなものではなかった。むしろ、目撃証言が警察官の暗示・誘導で作られたものであることが明らかになったと思った。しかし、信じられないこ とに二審で逆転有罪判決が出された。目の前で真実が踏みにじられたと思った。これが日本の裁判所かと絶望した。富山さんが言うように、きちんと事実を事実 として調べれば、無罪になるのは明らか。今こそ、裁判所は事実審理を行い、再審を開始してほしい」と述べた。
再度、富山さんが、「私は逮捕された時、何が起きたのかわからなかった。警察で殺人事件の犯人だと言われたが、何がなんだかわからなかった。全く身に覚え のない事件だった。やっていないものはやっていない。一審の裁判所は私の無実の訴えに応えてくれた。そして、目撃供述の変遷を問題にし、信用できないと判 断した。ところが、二審の裁判所は変遷してもかまわないとした。二審で捜査責任者の警察官が証言したが、事件を目撃した人は約40人いて、そのうち34人 の調書があるということだ。しかし、明らかにされたのは7人のみで、他の目撃者を検察官は隠し続けている。弁護団の努力によって捜し出した目撃者は、法廷 に立った証人とは全く違ったことを言っている。私の写真を見て、『こんな男ではない』と証言した人もいる。こうした目撃者の調書を検察官は隠し続けてい る。それで有罪だというのは到底納得できない。証拠を開示して、すべてを調べて納得できる形で裁判をやってほしい。裁判所は検察官に対して証拠開示を命じ てほしい。そうすれば、私の無実は明らかになる」と訴え、証拠開示についての「かちとる会」のパンフレットを「ぜひ裁判官に読んで頂きたい」と手渡した。
富山さんは、さらに、「刑事裁判に科学的知見を導入するのが世界の趨勢となっている。日本は遅れている。弁護団からも提出されたと思うが、法と心理学会か ら、目撃供述についてのガイドラインが出された。第4刑事部の裁判官にこれをきちんと読んでもらい、刑事裁判のあり方に先鞭をつけてもらいたい」「あらか じめ無罪の前提に立って無罪を出してほしいとは主張していない。公正に調べてほしいと言っている。そうすれば私の無実が明らかになることは間違いない。ぜ ひ、再審を開始し、きちんと事実審理を行なってほしい」と訴えて申入れを締めくくった。
私たちの訴えを、訟廷管理官の猪浦氏たちはメモを取りながら一応真剣そうに聞いており、最後に「必ず裁判官にお伝えします」と約束した。しかし、毎年、申 入れを行なっているが、私たちの声が裁判官に届いているとは思えず、虚しい気持ちになる。富山さんにすれば、虚しいどころではなく怒り心頭に発する思いだ ろう。
再審請求申立以来、「かちとる会」は毎年、6月26日の二審逆転有罪判決の日に合わせて、この時期に申入れを行なってきた。富山さんが満期で出獄し、一緒 に参加するようになってから今年で11回目である。参加する人の顔ぶれも年々変わる中、昨年に続き今年も、足立先生、土屋さんが参加してくださったことは 大変心強くうれしかった。足立先生は、富山さんが勝手に「大学の先輩」と慕っているが、とても頼りになる「先輩」である。土屋さんからは、ご自宅の庭で採 れた杏のジャムと梅漬けを頂いた。「運動をやっていて、一番うれしいことは新しい人が参加してくれることだけど、こういうことがあるというのもいいで しょ」と渡されたジャムと梅漬けはかわいいタオルで包んであり、作った日付が丁寧に書かれていた。うり美さんは最初の申入れからずっと参加してくれてい る。再審は大変な道のりだが、こうした方々がいるから頑張っていけるのだと思う。みなさん、ありがとうございました。  (山村)

 申入書

1975年1月13日の不当逮捕から31年半、1985年6月26日の不当判決から21年、このけっして短くはない期間、私はひたすら雪冤の思いで無実 を訴え続けてきました。不当逮捕当時27歳になったばかりであった私は、いまでは58歳です。まもなく還暦を迎えようとしています。無実の私が、なぜ身に 覚えのない「殺人犯」という汚名を背負わされ、苦しみつづけなければならないのでしょうか。
あらためて私は裁判官諸氏に声を大にして呼びかけたいし、率直に問いたいと思います。一人の人間の人生をかけた訴えに耳を傾けていただきたい、想像力を 働かせて、真剣に検討していただきたい、と。あなたの裁判官としての、そして人間としての良心と見識に照らして、近代刑事裁判の到達した地平からみると き、原々審・無罪判決と原審・有罪判決のどちらが説得力を持っているのか、さらに高裁第3刑事部による再審請求棄却決定は真摯に事案に立ち向かい、虚心坦 懐に審理を遂げたといえるのか、を。
確定審裁判官と上告審裁判官、そして再審請求を受理後放置し続けたのみか棄却決定すら行った高裁第3刑事部の裁判官は、良心と誇りを投げ捨てた不見識の 極みと弾劾せざるを得ません。一例を挙げましょう。原々審において、検察官は大井証人運転のタクシー乗客であるサンケイ新聞K記者の存在を、詳細は不明で あると隠し続けました。しかし、員面調書が開示されて、当初からK記者の存在も氏名も知悉していたことが露呈したことに明白なように、検察官は少なくとも 本件においては平気で嘘をつくこと、したがってこの一事をとっても証拠の真の意味での吟味のためには他の証拠開示が不可欠であることが実例をもって証明さ れています。しかるに、前述の裁判官たちは、とりわけ再審請求棄却決定は、この事実にも証拠開示問題にも正対しようとはしていません。これでは一人私のみ でなく、誰をも納得させることはできないでしょう。
確定判決と再審請求棄却決定は、日本刑事裁判の汚点です。一刻も早くただされることによって、私が苦しみから解放され、救済されるだけでなく、日本の刑 事裁判が冤罪の根絶に向かって大きく前進する展望が開かれます。私は無理を言っているわけではありません。私と弁護団が一貫して要請しているように、科学 的知見を正しく導入することと証拠開示を実現すれば、私の無実はたちどころに判明します。科学的知見の導入と取調の可視化と証拠開示は、世界の刑事裁判の 趨勢であり常識です。けっして不当な要求でもなければ過大で困難な負担を強いるものでもありません。人類の知的営みの成果を正しく導入・活用して誤りなき を期するのは私たち共通の願いであり、冤罪の根絶という見地からも賞賛されこそすれ非難される余地はないと思います。
刑事裁判の使命は無辜の救済です。人権の擁護―これを審理の場において実現してください。すなわち、貴裁判所の立場に即せば、検察官に証拠開示を命じる こと、そして謙虚に科学的知見を尊重することによって、再審請求棄却決定を訂正し、再審開始という正しい結論に到達するということにほかなりません。
私は無実です。いまこそ真実が認定されることを期待・確信してやみません。
2006年7月7日   富山保信
東京高等裁判所第四刑事部御中

 

大井町ビラまき報告

 Mさん・・・・・0
うり美・・・・・0
山村・・・・・・0
富山・・・・・・0

「梅雨入り宣言」となった関東地方。今日も朝から雨が降り続いていた。どうやらこのまま、止みそうで止まない雨と暫し付き合わなくてはならなそうだ。午後4時半、ビラまき開始。
しかし、雨の中でのビラまきは、なかなか捗らない。傘をもち、署名板をもちながら、瞬時にビラを渡す。モタモタしていると、ビラが濡れてしまうのだ。こん な日は、行き交う人々も両手が塞がっている人が殆どで、ビラすら受けとってもらえない。というよりも渡すタイミングさえ計れない。
それでも「署名をお願いしまーす」と叫んではみるものの、目の前の濡れた路面を走り抜ける車の音に、私達の声はかき消されていく。
そんな中でも、足を止め関心を持ってくれた人が、山村さん一人、Mさんが三人、私も一人いた。残念ながら皆「良く(ビラを)読んでから」と言って、署名までには至らなかった。
雨だから、はなっから期待はしていなかったのものの、亀さんならきっと署名を取ったんだろうなと、ふと思う。
結局、またまたジャンケンで「ビラまき報告者」を選出することに。またもや嫌な予感。ジャンケンでは「私、ジャンケン弱いですから」と豪語していたMさんにも私は負けて、またもや報告を書くはめになった。
それにしても、ジャンケンというのは公平なのか。私には、不公平に思えてならない。 (うり美)

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.213(2006年6月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.213(2006年6月15日発行)◎司法改革」―裁判員制度の正体

大井町ビラまき報告

司法改革」―裁判員制度の正体

開始された人民のたたかいとともに―富山再審勝利へ

○人間の尊厳をかけた人民の反撃が始まった

人民に「統治の客体」から「統治の主体」に転換せよと要求したのは司法制度改革審議会だった。わかりやすく言えば被支配者から支 配者になれということだが、ここには大きなペテンがある。被支配者から支配者への転換と言うが、革命を前提にはしていない、つまり権力は移行していないの だから、実体は被支配者のままで意識だけは支配者になったつもりで支配者の意向に忠実に従えということである。何のことはない身も心も捧げろということし か意味しないのだ。
このからくりが見えると、前世紀末から一気に進行した次元を越える反動攻撃の狙いが浮き彫りとなる。国家のあり方を変える、すなわちじっさいに戦争ができ る国家にする攻撃を血眼になって始めたのだが、そのために、小泉政権にいたってはファシスト然たる手法を駆使するまでになった。「自民党をぶっ壊す」「平 和を誓うために靖国参拝」等々、すべて嘘とペテンのオンパレードであり、「構造改革」と左翼用語まで動員する有様だ。それほど戦争国家への転換は容易では なく、しかし体制の死活がかかっているから形振(なりふ)り構っていられないのだ。それだけに攻撃は卑劣で凶暴だが、同時に冷静に眺めれば初めから正体は 明らかであり本質的には勝負ありなのだ。勝利の要諦は攻撃の凶暴性、暴力性、悪辣さに毅然と対峙し、団結、結束を強化・拡大していくことである。
その展望はあるのか。ある。確固としてある。支配者どもよ、人民をなめるなと言いたい。すでにアメリカで、ヨーロッパで、全世界で10 万人、100万人規模で人民の決起が始まっている。この日本だけが例外ではありえない。現に、従来のあり方、やり方ではやっていけなくなったと自認する 「統治の主体」に対して、若者達の「生きさせろ」という反乱が開始されているではないか。何人(なんぴと)も社会のたがが外れてしまったことを否定できな いところまで事態はきている。人間の尊厳、矜持にかけてたたかいぬき、勝利しよう。ともに生きるに値する社会を築き、次代に引き継ごう。

○憲法改悪の先取りする「司法改革」

前置きが長くなったが、再審を語るのになぜこんなに社会情勢を論じるのか。それは「社会の最後の砦」である監獄にいたる司法処理 過程ほど社会情勢・階級的力関係を反映するものはないからである。じっさい「司法が変わる」と鳴り物入りで騒ぎ立て、すさまじい勢いとテンポで推進されつ つある「司法改革」という名の大改悪攻撃が襲いかかった経緯を振り返れば一目瞭然である。
これまで司法改革は日本の刑事裁判の実態を知るものにとっては悲願であった。1980年代に4例も続いた死刑囚の再審無罪は、国家権力に対して司法改革を 迫る人たちのたたかいの正当性と切迫性を実証して余りある。しかし、その後の現実は司法改革が実現するどころか再審への逆流と刑事裁判へのいっそうの反動 が押し寄せることとなった。
ところが、一転して権力の側から司法改革が叫ばれ始めるのである。司法―刑事裁判の現状を反省したからだろうか。まったく逆である。直接の契機は財界の要 請であることが、「司法改革」の真の狙いを物語って余りある。「グローバルスタンダード」とは戦後世界・戦後体制が行きづまり、否応なく強制されるむきだ しの弱肉強食戦に勝ち抜くためのスローガンにほかならない。司法審自体が、「司法改革」とは一連の構造改革の「最後の要」と白状しているではないか。繰り 広げられる構造改革の総仕上げである憲法改悪が登場するときには、すでに憲法の内実は奪い去られ、形骸化した廃墟のうえに新憲法が君臨するのである。憲法 改悪を待たずして、「司法改革」そのものが憲法破壊の推進であり、憲法改悪を先取りするのだ。その証拠に、司法審最終意見では人権は否定・抹殺され、人民 の義務は語られても人民の権利は唾棄される存在でしかない。基本的人権など歯牙にもかけないのだ。

○重罰化・迅速化―戦時司法への転換狙う「司法改革」

詐欺師の作品としか言えない裁判員制度だが、まだまだ重大問題だらけだ。
「司法改革」―裁判員制度の前提として、重罰化と迅速化の地ならしが行われている。
まず重罰化。「体感治安」と言う言葉が乱発・乱用されて、治安が悪化していると喧伝されている。本当に治安は悪化しているのだろうか。現実は逆で、数字の 操作によるトリックであると荒木伸怡(のぶよし)立教大教授が論証している。少年犯罪も増大したとマスコミは囃し立てるが、戦前・戦中の方が多いという説 もある。何をもって犯罪事案とするか、数字の操作によってどうにでもなるのだ。犯罪とは何か、その根絶・克服の真剣な考察をぬきに根拠のない「体感治安」 の異常な強調による重罰化の追求は、解決にならないどころか人民にとっていっそうの治安悪化をもたらすだけだ。なぜなら戦争こそは究極の犯罪であり、いま や衣食足りても礼節を知らない2世・3世政治家、高級官僚、資本家たちの犯罪の露見は枚挙に暇がないように、戦争によって延命を追求する魑魅魍魎(ちみも うりょう)の跋扈(ばっこ)こそは治安悪化の極致であるからだ。今日の日本社会は転換期にある社会の典型であり、侵略と改憲、民営化と失業の攻撃の激化の なかで、たがが外れてしまったのだ。戦後社会・現存体制は完全にいきづまり、矛盾は極点に達しつつある。その爆発としての戦争はすでに始まっており(アフ ガニスタン―イラク侵略戦争は始まった。自衛隊は派兵されている)、システムを根本的に改めない限り全社会・全階級をのみつくすのは不可避である。「戦争 できる国」への国家改造攻撃は、労働者人民の生活と権利を破壊し、奪い尽くすのみか、侵略の先兵とならなければ生存すらゆるさないものである。したがって 労働者人民の反乱を鎮圧し、「城内平和」実現を不可欠とするのであり、司法改革とは戦時司法への転換攻撃にほかならないのだ。
つぎに迅速化。すでに裁判迅速化法が強行成立させられている。遅々として進まぬ裁判、長期化する一方の裁判というキャンペーンが張られたが、これも大嘘。 そうではないことはすでに具体的数字をあげて粉砕されている。そして長期裁判の実例として指摘された横田・迎賓館爆取裁判もでっち上げとこれを追認する裁 判所に100パーセント責任がある。そもそも公判開始の段階で検察官自身が「証拠はない」と明言したではないか。この厳然たる事実、真実を転倒させ、迅速 を口実に裁判を受ける権利、裁判で争う権利すら否定・抹殺するものである。
さらに、これらのうえに、労働法制の改悪、組織犯罪対策法、共謀罪などが重層的に襲いかかっていることを確認して「司法改革」―裁判員制度にもどろう。

○冤罪を生み出し、再審もできない裁判員制度

裁判員裁判は裁判ではない。より正確にいうならば本当の意味での公開裁判ではなく、実質的な密室裁判であり、公開法廷で有罪・無罪を争う場ではないということだ。
なによりも軽視できないのは、弁護士に猛烈な縛りがかかっているということだ。公判段階からではなく、被疑者段階から弁護士による弁護活動が始まるという 建前はともかく「日本司法センター」(通称・法テラス)は法務省管理下にある弁護士自治否定の御用機関である。こんな御用機関に属する御用弁護士に十全の 弁護活動が期待できるだろうか。御用弁護士でなかったとしても縛りから自由ではない。
公判前整理手続き、これが曲者である。ここで公判廷に提出される「証拠」、裁判の争点と審理の内容つまり公判のシナリオが決められ、大きくはこのシナリオ からの逸脱は制限されることになる。弁護のために裁判官の掣肘(せいちゅう)を蹴ってシナリオからの逸脱をあえて辞せぬ弁護士は懲戒の対象とされるのであ る。これがどれほど決定的な意味を持つかは、私の裁判における第1審を想起すれば明快である。私が不当逮捕・でっち上げ起訴されて、移送された東京拘置所 で目にした起訴状と目撃証人の検察官面前調書はその限りでは非常によくできたものであり、正直なところこれをどうやって粉砕するか当初は頭を抱えた。それ でも挫けないで、無実という真実はかならず勝つという確信のみを頼りに公判廷での反対尋問を重ねたら次々に矛盾点が出てきて、ついに司法警察員面前調書の 開示をかちとることによって1審無罪を実現できたのである。そして2審では、この1審無罪に強制されて「捜査責任者」が公判廷で「目撃者はほぼ40名い て、そのうち34名の調書があり、開示されたのは7名分で残る27名分は未開示」と手の内をあかさざるをえなかったのである。検察官は捜査責任者に右のよ うな証言などさせたくなかったし、証拠リストどころか存在・不存在すら隠し通すのが通常の刑事裁判の姿である。司法改革によって「取り調べの可視化」の幻 想を根拠に司法改革に迎合した日弁連執行部であるが、「取り調べの可視化」も証拠開示もなにひとつ保証・担保されてはいない。それどころか証拠の目的外使 用の禁止によって従来にも増して反証活動は制限されることになる。マスコミの取材活動、学者の研究活動、裁判支援活動、新たな証拠収集活動等々、ことごと く制限、禁止の対象となるのは必至である。このままでは、私の1審におけるたたかいもその成果である無罪もありえなくなる。それどころか再審請求のとっか かりすら奪われてしまうのだ。まさしく冤罪を生み出すための裁判員制度である。公判廷で繰り広げられるのは「当事者同士の攻防」ではなく、あらかじめ決め られた結論にいたるセレモニーである。刑事裁判の最後的な死がもたらされるのである。

○拒絶されつづける裁判員制度

重圧は被告だけではなく、裁判員にも同様に襲いかかる。厳重な守秘義務が課せられ、破ると罰則が待っている。評決を検証する道は あらかじめ閉ざされたうえで、被告にとどまらず自分自身の身も心もズタズタ、ボロボロにされるために駆り出されるのである。しかも裁判員として選定される にあたっては事前のチェックが行われ、プライバシーは丸裸にされてしまう。死刑反対の人物はあらかじめ排除されるそうだから何をかいわんやである。
これらのことは従前も「かちとる会ニュース」で言及してきた。その後、2009年の実施が迫るにつれて法務省、最高裁はキャンペーンを重ね、マスコミはア ンケート調査を行うが、裁判員になるのはイヤだという人が70パーセントとか80パーセントという比率を下回ることはない。圧倒的に拒絶されつづけてい る。この健全な「庶民感覚」は何に由来するのだろう。そうだ、拒否反応の幅は、滔々と論じる人から「いやなものはいや」「わからない」と理由を明言しない 人まで多岐にわたるが、健全なのである。なぜかははっきりしている。法律とは支配者の支配の武器であり、裁判とは支配者の土俵におけるたたかいだからであ る。もとより被支配者は支配者の武器であろうとこれをも駆使して不当な支配・抑圧とたたかうのであるが、やはり敵の武器、敵の土俵であることにかわりはな い。裁判員制度への動員とは、この被支配者の魂を忘れ、投げ捨てて敵の懐に取り込まれてしまえという狙いがあからさまであり、厳然と貫かれていることは否 定しがたいから、明確な拒絶から違和感にいたるまで広範な拒否回答が減少することはないのだ。
くり返すが、「隣人に裁かれたくない」「人を裁くのはいやだ。ましてや死刑などという判決に荷担するのはいやだ」という拒否理由は、むしろ健全な社会の反 応なのだ。「不利益を被るから裁判員になるのはイヤだと拒否しているのは、冤罪が生み出されかねないのに拱手傍観しているに等しい怠惰な行為だ」と非難す るのは御門違いであり、裁判員制度の強制をこそ批判し、この撤廃のためにともにたたうことこそとるべき態度であろう。そうでなければ、結局はたたかう陣営 の団結を破壊し、敗北をもたらす役割をはたすだけだ。

○撤廃あるのみの裁判員制度

ここまで縷々論じてきた。「問題があるのはわかった。だったら対案を出せ」という声がそろそろ返ってくる頃だ。これまで裁判の現 場で苦闘してきた人のなかに「どうすればいいのだ」と「司法改革」に一縷の望みを託そうとする人が少なくない。そういう人ほど「対案」を求めがちだ。そう した善意の人たちに尋ねたい。自分が裁判員になったら守秘義務に囚われないで口を開く、情報公開すると主張する人物が裁判員に選定されるだろうか。裁判官 の意向に裁判員が従うというのは穿ちすぎだと言うが、はたしてそうだろうか。証拠開示、「取り調べの可視化」の保証がないところで裁判員には裁判官を説得 しなければ勝てないというハンディキャップを課せられて、なんのハンディキャップも課せられていないプロの裁判官に対しなければならない評決とは、八百長 も同然である。それでも市民が参加することによって一石が投じられ空気が変わる、風穴があくと期待するのは、何重にもそうならないような装置が施されてい る事実に目をつぶるものだ。根本的に日本の裁判とりわけ刑事裁判を改革・改善するどころか本質的にも現実的にも死を刻印するものであり、手直ししたり運用 に手心を加えてどうにかなるものではない。したがって撤廃以外に選択はありえず、日本の司法の現実、刑事裁判の改革は、真正面からそういうものとして取り 組まれるべきなのだ。裁判現場での勝利を人民への粘り強いたたかいへの決起の訴えと実現を通して積み重ねていくことがもっとも現実的な道である。一見した ところ困難であるが、じつはいまいちばん勝利の展望に満ちたたたかい方なのである。

○倦まず、弛まず再審勝利へ前進しよう

逆説的ではあるが、国民投票法がこれを敵の側から裏打ちしている。憲法改悪のためにのみ存在するこの悪法はこれまた詐欺師の作品 であり、そうであるが故に幼稚園から大学にいたるまで教職員の改憲攻撃への論及を禁じている。つまり圧倒的少数派を自認しているが故にオーソドックスな多 数派への訴えと組織化をもっとも恐怖・憎悪しているということだ。そして、いまや多数派に対する決起と現実の根底からの変革への呼びかけが現実性を持ち始 めたときはない。そういう時代、情勢が始まっているのだ。このことに確信を持ち、真正面から倦まず、弛まず働きかけること、これが「司法改革」にまだ幻想 を抱いている人たちへの対案である。ぜひ検討していただきたい。そして、勝利までともにたたかいたいと切望する次第である。ともに前進し、ともに勝利しよ う。

  (富山保信)

 

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ニュースNo.212(2006年5月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.212(2006年5月15日発行)◎なぜ再審か 富山保信
あなたも会員になってください

□休載

今、あらためて訴える

 東京高裁第4刑事部は
検察官に証拠開示を命令せよ
再審請求棄却決定を取り消し、 再審を開始せよ

 富山さんが逆転有罪によって獄中に奪われてまもなく、1985年10月に「富山さんの無罪をかちとる会」によってつくられたパンフレット『富山さんは無罪だ』。

多くの友人、知人が上告審で富山さんの無実=真実を認定させるべくたちあがった。しかし、最高裁は門前払いで真実の訴えを踏みにじった。

□なぜ再審か

「再審なんかやっても無駄ですよ」「どうせ勝てっこない」
「(裁判所が)相手にするわけない」等々・・・再審を請求していると言うと、少なからぬ人々からこういう意見が返ってきます。それも司法の実情を知っていればいるほど「悪いことは言わないから」と善意で忠告してくれる人が少なくないのが現状です。
たしかに現実は甘くありません。甘くないどころか、「先祖帰り」してもっと悪くなりつつあると言いたいほどです。80年代に相次いだ死刑囚の再審無罪を 検察も裁判所も反省してはおらず、人民の側も裁き返してはいません。死刑囚の再審無罪という驚愕すべき事例が4例も続いたというのに、なぜそんなことが起 こったのかを究明するための機関の設置すら試みられてはいないのです。えん罪を生み出した側、つまり検察と裁判所はどうやったら起訴事件を100パーセン ト有罪にしたうえで再審でえん罪がばれることのないようにできるかに腐心するのみで、つつかれて「ボロ」が出るような裁判をやってしまったために再審無罪 にせざるをえなかったのだから、これからはそういうことのない様な狡猾で、もっと悪辣なやり方にしようと裁判の抜本的な改悪にとりくみはじめました。こん な後ろ向きで、間違った、反動的な総括にもとづいて「再審の逆流化」が押し進められてきたのです。そして、こうした日本の刑事裁判の現実をも促進要因とし ながら「司法改革」というまやかしの司法大改悪が強行されつつあります。
いまこそ、こういう逆境のなかで、なぜあえて再審なのか、勝てると思っているのかを真剣に考察し、論じる必要があるではないでしょうか。

▽  ▽  ▽

再審ということばが身近なものになり、えん罪が他人事ではなく誰でも明日にでも問われかねないと認識を新たにさせたのが死刑囚の再審無罪4例連続の衝撃 でした。大逆事件や横浜事件などによってえん罪の存在は公知の事実としてあったものの、死刑囚の再審無罪が公式に認定されることの社会的衝撃は次元を異に します。ちょうど戦前、特高による拷問が周知の事実であるにもかかわらず、公式には戦後の国会質問によって確認されるまで「拷問など無い」という政府回答 がまかり通っていたのに匹敵するどころか、それ以上と言っても過言ではないでしょう。有罪にされてはいけない人達が死刑囚とされ、日々死刑執行の恐怖にさ らされながら必死でたたかいつづけて20年後、30年後にやっと生還するという不条理極まりない事例が4例も続いたのだから、司法の実態、裁判制度とその 現実が根底から問い直されて当然です。そもそも日本の刑事裁判における99・8パーセントとか99・9パーセントという有罪率に疑問をもたないこと自体に 疑問を感じなければなりません。ある法律家は「判決の3分の1は誤判だ」と喝破しましたが、諸外国の6割~7割という有罪率との比較からみてもそうです し、私の投獄体験だけでも取り調べや留置場勾留時の刑事達の「面倒見」への期待とおもねり、裁判時の情状酌量対策として微罪だったら引っ被って心証をよく しようという事例が枚挙にいとまがない有様に唖然とした記憶があります。そのうえに、法廷の現実の姿は、たいへん失礼な表現ですが「絶滅希少種」ともいう べき曲がりなりにも刑事裁判の原則、鉄則を適用し、貫こうとする一握りに満たない裁判官に当たるかどうかに一喜一憂せざるをえない有様です。いまや日本の 刑事裁判において刑事裁判の名に値する裁判をうけられる可能性は「宝くじ」に等しい、否、「宝くじ」以下というべきでしょう。検挙率の高さや有罪率の高さ はこうした現実のうえに成り立っていたのであり、その頂点に再審無罪とされるべき死刑囚の存在があったのです。
この現実に光が当てられ、根本的に論じられ、改められるべきでした。しかし、そうはならずに先述の事態が進行しつつあります。座視するわけにはいきませ ん。富山再審はひとり私のみならず、全ての人民の未来とかたく一体のたたかいです。逆流に楔を打ち込み、転換をかちとっていく橋頭堡の位置を占め、力を生 み出していく役割を担い、着実に前進してきたと自負しています。その歴史的位置と使命をあらためて明確にさせ、いっそう強力に取り組んで行かねばなりませ ん。

▽  ▽  ▽

さて、再審ですが、原審と違って、非公開の書面審理に終始します。裁判所と折衝できるのは弁護人だけであり、請求人は言いっぱなし、聞きっぱなしの一方 通行の状態におかれたままで、実質的には当事者ですらないというのが実状です。しかも再審開始のためには新証拠の「新規性」と「明白性」が要求されるうえ に、なにをもって「新規性」「明白性」の判断根拠とされるのかの基準すら不明確というのだからたまったものではありません。
では、勝ち目はないのでしょうか。そんなことはありません。なぜか。①私は無実だからです。これは、どんな暴虐によっても覆せない真実です。真実ほど強いものはありません。
②そして、私はこの真実が認められるまで絶対にたたかいをやめない、あきらめないからです。
③さらに、この真実を訴える相手は人間だからです。真実の訴えは、かならず人の心をとらえます。
私は1975年1月の逮捕以来、そして95年12月に出獄してからも無実を訴えつづけてきました。その結果、原審は再検討すべきという認識が学会、法曹 界で定着しつつありますし、私の主張に耳を傾けてくれる人たちが着実に増えています。しかし、あらためて「目の黒いうちに再審無罪をかちとる」という目的 からいま何をなすべきかをとらえかえして、全力でことに臨む必要がある、そのことが私に突きつけられていると考えますので、なぜ再審に執着するのかを率直 に訴えて、いっそうのご支援、ご協力をお願いする次第です。
再審を訴えていて、よく「刑務所にいるときだけでなく、出てからも訴えつづけているので無実だという主張は理解できる。納得できる」と言われます。たし かに再審をしない、あるいは再審の困難さから途中で絶望して止めてしまうという例がなくはありませんが、私にはそんな選択はできないし、やめるつもりもな いということです。
何度でもくり返しますが、私は無実であり、事件には関与していません。この事実・真実をありのままに訴えたことに対して、おまえは嘘つきだと断罪された のです。これが黙っていられるでしょうか。真実を認めろ、嘘つき呼ばわりを撤回しろということです。単純明快きわまりないことですが、これが出発点であり 帰結点というものではないでしょうか。こちらから望んだ喧嘩ではないが、アイデンティティーにかかわることだから、売られた喧嘩はきちんと買って勝たなけ ればなりません。さもなければ、自ら尊厳を否定してしまうというものです。だから、再審無罪の日までたたかいをやめるわけにはいきません。あなただってそ うではないでしょうか。
たしかに、「ラクダが針の穴を通るに等しい」ほど再審が困難であることは否定しません。でも、避けようがないのです。たとえその気がなくても、当事者に されてしまったらいくら泣き言を言っても無駄であり、たたかって勝つほかに道はありません。だったら、がんばって勝とうじゃないですかと言うと、「あなた は強い」とか「誰もがあなたほど強いわけではない」と言われることがあります。しかし、誰だってはじめから強いわけではありません。人間は弱くもなれば、 強くもなれます。要は、初心を忘れないでたたかいつづければたたかいが自らを勁くしてくれるし、働きかける相手の心を獲得することもできるということで す。たたかいのなかで、怒りの発散に終始するだけではなく、自己とたたかいの歴史的社会的位置と役割を自覚し、それに応える力を培っていく例をいくつも学 んでいるではありませんか。その気にさえなれば、誰だってできます。肝心なのは、たたかいを包む広範な人民の団結と連帯です。人民の団結と連帯が広範かつ 強固に形成される度合いに応じて、たたかいの主体も成長を促されます。無実の死刑囚をはじめ幾多の先人が獄中から必死で呼びかけ、これに呼応する声が強烈 に鼓舞したことを異口同音に語っているのは、故ないことではないのです。
その観点から、再審に取り組む姿勢をただすべきではないかと反省するにいたりました。あからさまに言えば、初心に帰って、もっとなりふりかまわずがんばるべきだということです。
じつは最近、1985年6月の逆転有罪判決で収監された直後に刊行された(同年10月)パンフレットを目にする機会がありました。初心を想起し、わが身に活を入れる意味も込めて紹介します。

◇   ◇   ◇

なぜ無実の人間が獄につながれなければならないのか! 獄中にあってかけがえのない人生を奪われていくくやしさを想像してください。たとえ一日であろうと無実の人間を投獄して心痛まぬとしたら、腐敗はここに極まれりと言うべきでしょう。
私は声を大にして訴えます。私にかけられたデッチあげ弾圧を容認することは、自己の主体性を放棄して未来を暴虐きわまる暗黒支配にゆだねることを意味するのであり、人類史上に一大汚点を残すことになるのだ、と。
ある日突然身に覚えのない殺人罪で逮捕される、そして法廷でどんなに無実を証明しても白を黒といいくるめる裁判官によって「有罪」を宣告され、投獄される―魔女狩りともいうべき事態の出来です。
一九八五年六月二六日、東京高裁・萩原太郎は、無辜を罰せぬために人類がつみ重ねてきた知的営みを冒とくし、知的遺産を平然と踏みにじる蛮行をはたらき ました。法匪ともよぶべき所業です。危殆に瀕する法治国家とは、こういう事態をこそ称すべきなのです。
いまこそ、広範な人民の怒りにもえた「デッチあげをゆるすな!」の叫びがあげられなければなりません。無知蒙昧の産物ではなく、明確な階級意思にもとづ いてデッチあげ弾圧が強行されているのです。支配階級が裁判の名をもって裁判を否定し、統治の規範をなげすてて暗黒支配を宣言したというのに、なんで唯々 諾々とこれに服せるでしょうか。不正はただちにその場でただされなければならず、そのために正義は力をもたなければなりません。極悪無比の治安維持法弾圧 の跋扈のはてに数千万アジア人民の殺りくと自らの被爆がまちうけていたように、一九八〇年代を生きるわれわれがデッチあげ弾圧を洪手傍観するならば反動と 暗黒の時代の再来にとどまらず人類史の終焉にさえいたりかねないのです。
いまや審理の場は最高裁に移っており、時間はそれほど多く与えられてはいません。ことは急を要します。無実の人間がまったく当然のこととして無罪をかち とるために、すべての心ある人々が明確な意思表示と行動に起ちあがられるようもとめてやみません。

◇   ◇   ◇

そうなのです。「支配階級が統治の規範をなげすてた」のだから、いまこそ私たちが私たち自身の規範をうち立てるために努力すべき ときを迎えているのではないでしょうか。もはやこれ以上、こんな卑怯・卑劣な輩に権力を委ねたままではいられません。再審実現のたたかいは、道理が道理と して通用する世の中を築くための、その一歩だと思います。初心に帰って、おおいに叫び、おおいに汗を流しますので、これまでにもましてご支援、ご協力をよ ろしくお願いします。
(富山保信)

□あなたもぜひ会員になってください

「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会」(「かちとる会」)では、富山さんの無実を訴え、再審無罪をかちとるため、ともにたたかってくださる方を 求めています。再審に勝利するためには多くの人々の力が必要です。また、再審弁護団のたたかいを支えるための裁判費用等、多くの資金を必要としています。
あなたもぜひ会員になって富山さんの再審を支えてください。
▼会費は月額一口千円です。
▼あなたの会費は、再審にむけた運動づくり、再審の裁判費用等に役立てられます。
▼会員には、月一回、「無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース」をお送りします。
▼「かちとる会」では月一回、定例会を開き、再審をかちとるための話し合いを行っています。また、集会や学習会、現地調査を行い、富山さんの無実と再審無罪を訴えています。これらの集まりにもぜひご参加ください

 

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ニュースNo.211(2006年4月15日発行)

 

7月8日に集会を行います。ご参加ください。

□集会を行います

7月8日(土)に「きゅりあん」において「異議あり!真実を踏みにじった再審請求棄却決定 異議審勝利7・8富山再審集会」を行 います。講師は中川孝博さん。「再審の現状と富山再審・異議審の課題」(仮題)と題して、初めて講演していただきます。中川さんの紹介は中川さん自身の自 己紹介がたいへん楽しいので、中川さんの許可を得て、ホームページ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakagawa1015/0001main.htm
から転載します。

プロフィール

管理人の自己紹介です。

歴・職歴・生育暦などがのってます。
基本情報
氏名: 中川 孝博(なかがわ・たか    ひろ)
生まれ: 1969年10月 富山県 生まれ
血液型: A型
肩書き: 龍谷大学法学部教授(刑 事法)
仕事: 刑事法研究(メインは刑事 訴訟法学)
趣味: 音楽を作り、弾き、聴くこ と。

学歴

1982年3月 立山中央小学校卒 業
1985年3月 富山大学教育学部 附属中学校卒業
1988年3月 富山中部高校卒業
1988年4月 一橋大学法学部入 学
1993年3月 一橋大学法学部修 了
1993年4月 一橋大学大学院法 学研究科修士課程 入学
1995年3月 一橋大学大学院法 学研究科修士課程 修了
1995年4月 一橋大学大学院法 学研究科博士後期 課程進学
1999年3月 一橋大学大学院法 学研究科博士後期 課程修了、博士(法 学)

職歴

2000年4月 大阪経済法科大学 法学部助教授
2004年4月 龍谷大学法学部助 教授
2006年4月 龍谷大学法学部教 授

生育暦

【幼年期】

茨城県、福井県と流浪し、6歳のときに富山県に戻る。立山町で育つ。
幼稚園生のころのフェイバリットは、「1本でもにんじん」。「およげたいやきくん」は悲しくなるので嫌いだった。

【小学生期】

7歳のころ、「小学生のためのクラシック」なるLPを両親からプレゼントされ、毎日毎日きいていた。
8歳のときにピアノをはじめる。クラシック音楽家になることを夢見る。
11歳のころ、ピアノソナタの作曲を試みているが、どうしても転調ができず、頓挫する。
小学校の卒業文集には、「将来、音楽評論家になりたい」と書いている。

【中学生期】

それでも作曲への想いは断ちがたく、こつこつと独学で勉強。
15歳のときにHEAVY METALと出会い、突如「俺はメタルをやるために生まれてきたんだ!」と思いこむ。

【高校生期】

17歳のときにエレキ・ギターを始める。「やはり俺はメタルだ!!」と確信する。
メタルだとは思いつつも、クラシックへの想いも依然あり、作曲などもぽつぽつしていた。
同じく17歳のとき、演劇部の催しで劇付随音楽の作曲と演奏を委嘱される。当時は新ウィーン楽派にこっていたので、ベルクばりの4度音程ばかりからなる音列を使った、無調だけどロマンティックな曲を作った。
ピアノはずっとやっていたが、同じく17歳のときの発表会でベートーヴェンのヴァルトシュタインソナタを弾いた後、ピアノ教室をやめる。
エレキ・ギターをこつこつと練習し、18歳(高3)のときには、秋の高校祭のときにバンド演奏をする(アンセムのコピーバンド)。あるガリ勉君に「大学入 学は5年計画かい?」と言われるが、そんなつもりはさらさらなかったことはいうまでもない。

【大学生期】

上京。プロミュージャンとなるべくアクティブに活動する。
20歳(大学3年)のとき、法学のゼミは避け、シューベルトの歌曲を研究するゼミに入ろうとするも、「法学部生は、法学のゼミに入らないとだめだ!」とのたまうおせっかいな友人に文字通り腕をつかまれ、ひっぱられ、刑事法のゼミに入る。
ゼミは、えらくハードだった。鹿児島夫婦殺し事件、甲山事件、大高緑地アベック殺人事件、大野城事件、野田事件等々の重大事件の記録を片っ端から検討し た。模擬裁判もやった。他大学のゼミと討論会もやった。他大学のゼミと合同合宿もやって、山田悦子さん(甲山事件の被告人だった方)にきていただき、話し をうかがい、涙した(当時は上告中だった)。自主ゼミもしょっちゅう開き、よく討論した。このような過程を通じて、刑事法の世界にはまっていく。
22歳(大学4年)のとき、主として経済的理由から音楽家になるのを挫折。バンド脱退。
ちなみに、バンド名はRAZINGSTEEL。バンド自体は現在も頑張っている。応援してください!
挫折後、本格的に刑事法の世界へ。

【大学院生期】

やはり僕は音楽だろうかと思い、26歳(D1)のころからMIDIによる作曲を始める。
曲を作ってMIDI音楽関係雑誌に投稿すると必ず掲載される。
本業に深刻な影響を与えたため、28歳(D3)のころにすっぱりMIDIからは足を洗い、博士号へ向けてまっしぐら。
D論執筆後、息抜きに、あるクラシック音楽雑誌の企画、「CD批評新人賞」に応募し、「あと一歩だった方々」30名の1人となる。

【社会人期】

32歳のとき、15年ぶりにピアノを始める。全く手が動かなくなっていたことに驚愕する。
仕事を理由に練習をさぼりがちなため、33歳のときにホームページをつくり、演奏の公開を始め、ペースメーカとする。
ホームページはあくまでも刑事法講義支援が主目的だったのだが、今年(2003年?)はさまざまな事情で大教室での講義をほとんど担当しないため、本末転 倒だが、音楽をメインにすえることに決定。ピアノ演奏だけじゃなく、これまで作ってきた曲なども公開。
これを大学のサーバに置くのはなんとなく後ろめたいので、別のサーバに心機一転、設置。

業績

『合理的疑いを超えた証明──刑事裁判における証明基準の機能』(現代人文社、2003年)
「目撃供述に関する裁判例の検討」「刑事裁判における証拠説明の意義」
「刑事裁判における証明基準の研究──「合理的な疑い」の機能的検討(一~七・完)」
「情況証拠による事実認定に関する試論」
「犯人識別供述の信用性評価に関する試論」
「証明と証明責任」
「「合理的疑い」の果たすべき機能」
「刑事裁判における事実認定研究試論(一)」
「再審理論の再検討」
「誤判原因の分析方法」
等々、書籍、論文、判例研究多数。

7月8日 みなさんのご参加をよろしくお願いいたします。

□広島に行って来ました

 3月8日、富山再審・異議審の学習会のため広島に行って来ました。「学習会をするから資料がほしい」という要請に「俺行くから」 と二つ返事で応じたのはいいが、いざとなると事件の説明から始まって、原審そして再審請求、さらに東京高裁第三刑事部による再審請求棄却決定、そのうえ異 議審とは何かに至るまでを40分から1時間で語り尽くすのはそうたやすいことではありません。そこで考えついたのが「そうだ、たしかビデオがあったはず だ」。捜し出して見てみるとなかなかのものではありませんか。さっそくダビングして持参したところ、40人の集会参加者のほとんどが「わかりやすい」と好 評。あらためて制作者の山村、うり美の二人に感謝。ただひとつしゃくにさわるのは、私の74年、81年当時の写真が登場するたびに「エエーッ」「嘘ーッ」 の声があがること。誰にも若いときはあったのです。もちろん私にも。本当に遺憾に思いました。
 それはともかく、たしかにビデオはわかりやすい。ものすごく説得力があります。私が出(獄し)てからのヴァージョンの内容濃いものを創る必要があると痛感しました。
私が学習会で話したなかで強調したのは、とにかく楽しくやろうということです。たたかいは楽しいものであり、そもそも楽しくなくては長続きしないという のは私の持論です。いかにも広島らしく律儀者の集まりという学習会でした。こういう学習会を年に何回かできれば素晴らしいし、ぜひともできるようになりた いものです。            (富山)

□M先生から

いつもニュースをお送りいただき、ありがとうございます。カンパ(ニュース代)として、5000円をお送りします。なお、4月1日より〇O大学に勤務することになり、転居することになりました。
つきましては、今後は、ニュースを下記の住所までお送りいただきたく存じますので、よろしくお願いいたします。 (3月30日)

 

大井町ビラまき報告

亀・・・・・6
山村・・・・2
うり美・・・1
富山・・・・4

ビラまき報告も月日が経ってから書こうとすると、忘却の彼方となってしまう。記憶というのは、日に日に失われていく。(だから早く書けっていったでしょ!と叱責されそうだ)
そんな消えいりそうな記憶をひもときながら、何とか仕上げたい。

この日、大井町駅前には、顔が真っ黒に日焼けしてるのか、はたまた黒く塗っているのか判別がつかない、所謂「ガングロ」の女子高生が 2人、地ベタに座りこんで話していた。そんな中、私たちは署名とビラまきを始めた。楽しそうに話しこむ女子高生2人を尻目に、私達はせっせとビラをまく。 だが私達の行動は、この女子高生達の目に一体どのようにうつっているのだろうか。今時の若者言葉で言えば「ウザイ」とでも思ってるのだろうか。私はビラを 渡すのを躊躇していた。
そこに富山さん、果敢にも女子高生達に話かけている。「えー、10年も入ってたのー」悲鳴にも近い女子高生の声は駅前に響き渡っていた。富山さんが署名 をお願いすると「します、します」と言って心よく署名をしてくれていた。なんということか。一度に2名も署名がとれて、富山さんご満悦の様子。
そして、さらなる幸運が。20代の男性が富山さんのビラを受けとると「10年も臭いメシ食べてたんですか?」「僕も少年院にいたことがあるから」と意気投合。すぐ署名をしていた。まるで富山さんの独壇場だ。
この日の私は、亀さんが「向こうでも署名してますから」と誘導してくれたおかげで1名獲得。ゼロはなんとかまぬがれた。
今回の教訓。人は、みかけで判断してはいけませんね。 (うり美)

大井町のYさんから

休載

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