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ニュースNo160(2002年1月1日発行)

●ニュースNo160(2002年1月1日発行)◎今年こそ!

上申書

 

今年こそ再審開始を!
検察官は証拠開示を!
裁判所は事実審理開始を!
阿藤周平さんから富山事件の再審請求が出されて7年半。その間、弁護団および支援者のみなさんの申し入れにもかかわらず、東京高裁は何らの回答もなく放置したまま現在に到っています。
富山さんの無実は、第一審の東京地裁の無罪判決が明快に指摘しています。この無罪判決を不当にも破棄した東京高裁の判決は全くひどいもので決して許されるべきものではありません。
しかしながら、一審の無罪判決は今も厳として生き続け、今回の再審請求によって富山さんの無実はより明確に立証されています。
ここに到って東京高裁は、徒らに審理の引き延ばしをせずに速やかに再審開始の決定を出すべきです。
しかるに今日に到るも、なぜか結論を出さず先送りしている高裁の態度は、私には全く不可解でなりません。
昨年12月から今年にかけて、私が関わってきた二つのえん罪事件が最高裁で却下されました。その一件のえん罪は女性(当時54歳)で近く下獄します。何ともやりきれない気持ちで胸が痛みます。
しかし、やらなければなりません。不当な裁判、誤った判決に対して断固として闘わねばなりません。これは私に課せられた生きる道であり、えん罪者にされた私にとっての宿命だと思っています。
今年は、富山事件の再審開始を勝ちとる闘いをより強力に押し進めてゆく中で、みなさんと連帯して前進してゆきたいと心しています。

□今年の「かちとる会」の年賀状

今年は、必死に走っている富山さんを尻目にうり美さん、亀さん、山村は馬に乗っているという図です。
今年もMさんに描いて頂きました。年末のお忙しい中、無理を言って申し訳ありませんでした。「かちとる会」の年賀状を楽しみにしてくださっている方々がいます。おかげさまで今年も素敵な年賀状を出すことができました。ありがとうございました。

新年のひと言

日々新たな気持ちで、新鮮で強力な自分を創り出しながらたたかいに取り組むつもりです。
いっそうのご支援、ご協力をお願いいたします。 (富山保信)

再審請求から7年半もほおっておくなんて許されることではない。裁判官も、一人の人間としてどうなのか考えてほしい。自分だけ良ければいいと上だけを見 ているのなら、雪印の社長と同じ。裁判官も、自分の良心に従って判決を下すのではなく、権力の方だけを向いてそれに従っているのなら、最後はみんなの前に 頭を下げることになる。 (坂本)

毎年、恒例のごとく『新年のひと言』を書かされるたびに、「はて、今年はどんな目標をたてようか」などと数年前までは真面目に考えていたのだが、昨今の私はあえて目標をたてないことにしている。
なぜなら、数ヶ月もすると、目標を立てたことすら忘れているからである。
そのようなわけで、『新年のひと言』を書くために、いろいろと頭をひねって考えた。目標を立てないかわりに如何に生きるかについて。
今の世の中はめまぐるしく変化し、昨日の出来事すら今日はもう過去の出来事と思えるぐらい、情報があふれ加速し真実を見極めることが難しい。
明らかにこの世の中は不条理で、そんな不条理な世の中に真実を見極め、さらに自ら希望を見出し生きるのは、もっと難しい気がする。
大人と言われる年齢になって久しいが、大人になって収得したことといえば、背負うこと、我慢すること、協調という名の妥協をすることぐらいである。自由に生きるということは、結局誰かを犠牲にし、誰かが我慢していることだったりしないだろうか。
世の中は、いい人ばかりではない。だからといってまんざら捨てたものでもなく、「人間ってすばらしいな」と思える人はときどきいたりする。
人生には、自分の力で変えられるものと自分の力では変えられないもの、この二つの要素がある。人は、あの時こうしていれば今とは違う人生があったんじゃないかと思うが、結局は同じ。
人は悲しい出来事にあって、はじめて他人の悲しみや痛みを知るように、落ちぶれて、はじめて人間の弱さを知る。過去に遡ってやり直しはできないからこそ、今やるしかないのである。同じ過ちを繰り返さないために。
人生は、いい事ばかりではない。他人の人生が良く見える時だってある。しかし、羨んでもしかたない。自分で変えられる人生と、変えられない人生の狭間 で、今ある自分のすべてを使って精一杯生きるしかない。泣いたり、笑ったり、怒ったりしながら生きればいい。
結局、人生なんとかなるものである。今までもそうであったように、これからも。
これを信念ならぬ『新年のひと言』!?としよう。  (うり美)

「やりつづける者は成功し、歩きつづける者は目的地に到着する」
最近読んだ宮城谷昌光の『晏子』の中にあった言葉である。
あたりまえのことを言っているようだが、その言葉を発する者の意志、決意に込められた気迫には凄まじいものを感じる。
困難そのものよりも、それを前にしての躊躇が、この言葉から遠ざけてしまう。
新年にあたって、この言葉に立って歩みつづけることを新たな決意としたい。 (亀)
「今年は、雪の中に健気に咲く福寿草のイメージでいくことにしよう」と年賀状の図案に福寿草を選んだら、うり美さんに「無理、無理」と一笑に付された。
確かにそんな清々しい決意をさせてくれるほど世の中は甘くはない。今年もいつもの強気で行くことにしたい。
再審請求から7年半。
たたかいとは、相手がいるのだから、思いどおりにいくはずもない。しかし、覇気では相手を上まわりたい。
思いは通ずるもの、いや、思いは通じさせるものである。
闘いつづけるためには、自分を堅持しなければならない。ゆるがせにできない原点というものがある。
とにかく最後の勝利まで絶対に退かないということだ。 (山村)

 12月25日、富山再審弁護団は、東京高裁第三刑事部に証拠開示命令を求める左記の上申書を提出しました。
(なお、ニュースに載せるにあたり、目撃者など一部の名前については仮名にしました 。)

 

上申書

請求人 富山 保信

一 上記請求人弁護人は、1999年2月9日付をもって証拠開示命令の申立をなし、御庁におかれて、検察官に対し、別紙証拠目録記載の証拠につき弁護人に閲覧謄写させよとの命令を発せられるよう求めた。

二 その後弁護人は、数回にわたり御庁におかれて、速やかに検察官に対して、上記命令を発せられるよう上申書をもって、あるいは面会して申し入れたが未だに上記命令を下されないまま満2年以上が経過した。


・ 適正、公平かつ迅速な裁判を受ける権利は、再審請求人についても保障されていることは御高承のとおりである。
莫大な丁数の控訴事件が数多く御庁に係属しているため結果として本件申立事件につき審理が遅れている事実については理解し得ないものではない。しかしなが ら、別紙証拠目録記載の証拠の開示は、「事案の真相を明らかにし」(刑訴法1条)、請求人につき再審開始決定を下されるためには、決定的に重要な証拠とな り得るものであり、一日も早く御庁が証拠開示命令を下されることが憲法、刑訴法上要請されているものと思料する。

・ けだし、白鳥再審事件における再審棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件において最高裁第一小法廷は以下のとおり判示されている。

 「同法435条6号にいう『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋 然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとする ならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断す べきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、『疑わしいと きは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解すべきである。」(昭和50年5月20日決定・最高刑集29巻5号180頁、同旨福 岡高裁平成12年2月29日決定・判例タイムズ1061号272頁)。

本件申立にかかる別紙証拠目録記載の各証拠は後述する理由により、上記判示のとおり、まさに「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」となり得るものである。

・ さらに再審請求後に得られた他の証拠をも再審事由の存否を判断するに際して、その検討の対象とすることができることは、最高裁第三小法廷平成10年10月27日決定が以下のとおり判示されるところである。

  「刑訴法435条6号の再審事由の存否を判断するに際しては、大隈誠作成の前記書面等の新証拠とその立証命題に関連する他の全証拠とを総合的に評価 し、新証拠が確定判決における事実認定について合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠(最高裁昭和46年(し)第67号同50 年5月20日第一小法廷決定・刑集29巻5号177頁、最高裁昭和49年(し)第118号同51年10月12日第一小法廷決定・刑集30巻9号1673 頁、最高裁平成5年(し)第40号同9年1月28日第三小法廷決定・刑集51巻1号1頁参照)であるか否かを判断すべきであり、その総合的評価をするに当 たっては、再審請求時に添付された新証拠及び確定判決が挙示した証拠のほか、たとい確定判決が挙示しなかったとしても、その審理中に提出されていた証拠、 更には再審請求後の審理において新たに得られた他の証拠をもその検討の対象にすることができるものと解するのが相当である。」(最高刑集52巻7号369 頁)

上記判示は、再審請求を認容する事案についても妥当する。
本件再審請求事件につき別紙証拠目録記載の証拠の取調べは決定的に重要であると思料する。
無実を叫ぶ請求人の強い要望にもかかわらず、これらの証拠が早急に開示されることなく、時を経過することは、憲法上の要請に応ええない結果に陥るものと思料する。

四 最高裁判所第二小法廷昭和44年4月25日決定(証拠書類閲覧に関する命令に対し検察官のした異議を棄却する決定に対する特別抗告事件・最高刑集23 巻4号248頁)は、地方裁判所の証拠調に入った段階での証拠開示命令に関する検察官の特別抗告に対して以下のとおり判示された。

  「裁判所は、その訴訟上の地位にかんがみ、法規の明文ないし訴訟の基本構造に違背しないかぎり、適切な裁量により公正な訴訟指揮を行ない、訴訟の合目的的進行をはかるべき権限と職責を有するものであるから、本件のように証拠調の段階に入った後
、弁護人から、具体的必要性を示して、一定の証拠を弁護人に閲覧させるよう検察官に命ぜられたい旨の申出がなされた場合、事案の性質、審理の状況、閲 覧を求める証拠の種類および内容、閲覧の時期、程度および方法、その他諸般の事情を勘案し、その閲覧が被告人の防禦のため特に重要であり、かつこれにより 罪証隠滅、証人威迫等の弊害を招来するおそれがなく、相当と認めるときは、その訴訟指揮権に基づき、検察官に対し、その所持する証拠を弁護人に閲覧させる よう命ずることができるものと解すべきである。
そうして、本件の具体的事情のもとで、右と同趣旨の見解を前提とし、所論証人尋問調書閲覧に関する命令を維持した原裁判所の判断は、検察官においてこれに従わないときはただちに公訴棄却の措置をとることができるとするかのごとき点を除き、是認することができる」

本件においては、まさに「その閲覧が被告人の防禦のため(本件においては請求人の再審開示決定を得るため)特に重要であり、かつ、これにより罪証隠滅、証人威迫等の弊害を招来するおそれがなく、相当と認めるとき」に該当する。

五 本件刑事事件においては、第一審(東京地裁)、第二審(確定判決が下された東京高裁)、上告審を通して、富山保信被告人(現請求人)に関連して罪証隠滅行為は一切なく、警察官、検察官からこれを指摘されたことも一切なかった。
本件再審請求事件については、罪証隠滅のおそれは全く存在しない。まして開示される証拠についてこれを隠滅することは不可能なので、上記各判例の法理は本件事件について一層妥当するものと思料する。
以下、従前の申立書、上申書に付加して証拠開示の必要性につき上申する。

六 本件では34名の目撃者の供述調書があることを捜査責任者の中島敏が法廷で証言している。そのうち、供述調書が開示されたのはY、S、Tk、O、I、K、Tgの7名であり、残り27名の目撃者の供述調書は明らかにされていない。
1994年6月20日提出の浜田寿美男花園大学教授による鑑定書「富山事件目撃供述についての心理学的視点からの供述分析」(以下、「浜田鑑定書」)にもあるとおり、上記7名以外に

目撃者33名(あるいは30~31名)
調書作成者27名
写真面割実施者19名
写真選別者13名(うち9名は請求人の写真を選別せず)
請求人写真選別者4名
面通し実施者13名(うち10名は請求人を同定せず)
面通しでの請求人同定者3名
が「ブラックボックス」の中にあり、いまだに明らかにされていない(浜田鑑定書20~21ページ)。
確定判決は「起訴後の立証はそのうちで検察官が良質と思料する者を選択して証人申請するものであろうから、目撃証人の数が限定されるのは当然であろう」と する。しかし、浜田鑑定書が述べているように「ここに言う『検察官が良質と思料する者』が、真実を明らかにするために『良質』であるのか、それとも検察官 が請求人=犯人指揮者とする犯行仮説を支持するうえで『良質』(つまり有利)であるのかを、はっきり区別しておかねばならない。もちろん原則的には当然、 前者でなければならないのだが、そうである保証は当のブラックボックスの内を覗くことができる検察官以外に与えられていない。」(浜田鑑定書22ページ) のである。
これらの証拠について、検察官は「再審事由に該当する証拠がない」として開示を拒否しているが、「再審事由に該当するか」否かは検察官の判断のみにまかせられることではなく、裁判官、弁護人、請求人の検討をとおして判断されるべきことである。

七 本件は、犯人3人が車道上で被害者を殴打し、少し離れたガードレールの内側の歩道に指揮者が立っていたというものであり、請求人はこの「指揮者」とされている。
ところが、本件で明らかになっている7人の目撃者の事件直後の供述は、そのうち5人が車道上の殴打場面にいた犯人を目撃したとし、2人が歩道上の指揮者を 目撃したとして、いずれも請求人の写真を選んでいる。違う場面にいた、したがって当然にも別の人物を目撃していながら同じ請求人の写真を選んでいるのであ る。物理的に同一人物は、同一時刻に異る場所に存在し得ない。また、同一人物は、同一時刻に指揮者としての行動と殴打犯としての行動とをすることは出来な い。
7人の目撃者の供述は相互に決定的に矛盾している。
この点について、浜田鑑定書の第二部、第一章「7人の目撃者たちは同一の犯人を目撃したのか」(131~238ページ)に詳しく展開されている。
「7人の目撃者はいずれも一致して、写真面割で請求人の写真を選び、面通しでは請求人を犯人であるとほぼ確認したということになっている。とすれば、当然のことながら、7人の目撃者たちは、犯行グループのなかの同じ人物を目撃して記銘し、その記憶
像をもとにして面割・面通しに臨んだのでなければならない。各目撃者が互いに違う人物を目撃、記銘して、そのうえで同一人物の写真を選別するというよう なデタラメなことがあってはならない。これはまさに真実のための大前提である。」(浜田鑑定書136ページ)

八 しかし、7人の初期供述は以下のようになっている。
・ Sは、10月6日付の供述調書で、殴打犯人4人のうちの1人として10月6日に請求人の写真を選別した。
Tkも、10月5日付の供述調書で、車道上の殴打犯人の1人として請求人の写真を選んだ。
Kも、10月12日付の供述調書で、車道上で殴打している犯人の1人として請求人の写真を選んでいる。
Tgも、11月13日付の供述調書で、車道上で殴打している犯人4人のうち、2人を念頭に写真面割を行って2枚の写真を選び、そのうちの1枚が請求人の写真であるとしている。
・ 一方、Oは、10月7日付の供述調書で、車道上の殴打には加わらず、他の3人の殴打犯人を指揮した歩道上の人物を念頭に写真面割を行い、請求人の写真を選んだ。
Iも、10月8日付の供述調書で、歩道上で指揮をし、殴打に加わっていない「甲」を念頭に写真面割を行い、請求人の写真を選んだ。
・ 他方、Yは、初期供述(10月3日、10月6日)で、車道上で指揮をとっていた人物として請求人の写真を選別した。
・ 以上のとおり、請求人の写真を選んだという7人の初期供述において、請求人の位置、行為態様についての供述はバラバラである。

九 確定判決は、目撃者らが「歩道上で指揮していた人物」を特定して、その人物を念頭に写真面割した結果が一致したのだと認定している。
「最初期の供述で見るかぎり、この確定判決の認定に合致する目撃供述をしたのは、7人の目撃者のうちなんと2人(I、O)だけなのである。目撃者たちが犯 行グループのうちの誰を目撃し、誰を念頭に写真面割を行ったかという最も肝心なところで、一番最初の供述が7人の間で大きく食い違う。それにもかかわらず この最初期から、写真面割結果ではいずれも請求人の写真を選別したのである。」(144ページ)
「Y・・・車道上の指揮者
S・・・殴打犯行の中心人物
Tk・・・殴打犯行に加わり、逃げ出し、最後路地に逃げ込んだ人物
O・・・歩道上の指揮者
I・・・歩道上の指揮者
K・・・殴打犯人の1人
Tg・・・殴打犯人の1人
ということになる。これが同一人物であるだろうか。それはありえない。そもそも殴打に加わらなかった指揮者と、殴打を直接行った人物とが同じはずがな い。にもかかわらずこの7人が写真面割で同一人物の写真を選んだのである。これを決定的矛盾と言わずして何と言おう。」(鑑定書233~234ページ)

一〇 7人の初期供述は同一人物を目撃したものとは思われないのに、これが最終供述の検面調書では同一人物を目撃したものと解釈しうる範囲に収束していく のである。「殴打場面の犯人を見た」としている5人のうち1人は「ガードレールの内側の歩道上にいた」と変え、もう1人は犯人と被害者が出会った場面で目 撃したと変え、残りの3人は犯人が逃げていく場面に変わる。目撃した場面、時点を変えることによって矛盾が生じないようにしたわけである。
この点について、浜田鑑定書は次のように述べている。
「最後の検面調書によれば、7人が見たのは、
Y・・・歩道上の指揮者(位置が車道中央から歩道に移る)
S・・・逃げ出したあとの犯人
Tk・・・路地に逃げ込むときの犯人
O・・・歩道上の指揮者
I・・・歩道上の指揮者
K・・・被害者と犯人グループが出会った場面の犯人の1人
Tg・・・逃げて行くときの犯人の1人
となる。これで7人の目撃者が見た人物が同一でありうることになる。しかし、この7人のなかで最初から変遷しなかったのはO・Iの2人だけである。あと 5人の供述は大きく変化した。事件にもっとも近接した時点での供述がもっとも正確であるべきところ、7人中5人もの目撃者が、3か月余りもたった時点で、 ここまで供述を変えたことの問題は重大である。
そして、この7人の供述変遷が相互の矛盾を解消すべく変遷したものであることは明らかである。捜査官がもっとも信用できると考えたO・Iの『歩道上の指揮 者』を軸に立てて、それに整合すべく供述が変えられていったのである。」(浜田鑑定書234~235ページ)
「犯行場面についての7人の目撃供述のあいだには歴然たる相互影響関係があったと言う以外にない。そしてこの事実は、7人が真にこの犯行に加わった犯人を 正しく目撃して記憶に刻み、写真面割においてこれを正しく選別したとの結論を、決定的に覆すものだと言わねばならない。」(同236ページ)

一一 「7人の供述のうち5人についてはその供述変遷に決定的問題があるにしても、残りのO・I供述の信用性そのものはゆるがないとの見方」に対しては、 「第一に、7人の供述相互間の矛盾解消へ向かう、尋問者を媒介とした相互影響関係があったことが証明された以上、O・I供述は言わばその軸になったという だけであって、これがこの相互影響関係から独立であったということにはならない。7人の間の相互影響関係の存在は、この7人の供述の信用性を総体として疑 わしめるものである。」「第二に、7人の初期供述において目撃したとする人物が異なるのに、写真面割で同一人物の写真を選別したという事実は、まさに写真 面割手続きそのものに誘導が強力に働いたことをさし示すものである。もしO・Iの事情聴取が他の目撃者たちに先んじて行われていたならば、まだしもこの2 人だけは他の影響をうけなかったと主張できる余地がなくはない。ところが彼らの事情聴取はもとより、その写真面割自体が、Tk・Y・Sの写真選別結果を得 たのちの第4、第5番目のものであってみれば、これまた誘導の影響を離れたものとは言えないことにならざるをえない。」(浜田鑑定書236~237ペー ジ)
このO・Iには、一緒に事件を目撃した目撃者がいたのである。Oには自分の車に乗せた2人の客(Aとその姉)、Iには横断歩道上で出会って一緒に目撃したという同僚(B)がいた。

一二 1998年9月25日に行われた弁護団との折衝で、東京高等検察庁西正敏検察官は、Bの供述調書やAの姉の事情聴取報告書についてその存在を認めている。これが開示されれば、O・Iの供述の信用性についての重大な資料となることは間違いない。
再審請求書でも述べたように、Aは弁護団の事情聴取に対して、指揮者の特徴について「やせて小柄で貧弱な男」「細面で青白くキツネ顔の男」と言い、180 センチという請求人の身長を聞いて「そんな大男じゃない。それだけははっきり言える」と述べ、捜査で使われた請求人の写真を見て「こんな男じゃない」と否 定している。Aとその姉は警察で事情聴取を受けており、供述調書あるいは捜査報告書が存在することは間違いない。Oの供述の信用性を判断するにあたって、 Aとその姉の供述調書あるいは捜査報告書の開示は不可欠である。

一三 また、I証人は右0・3~0・4、左0・1~0・2程度の視力で16・45メートル離れた指揮者を目撃しており、このような目撃条件では顔の識別は不可能である。
このことは、弁護団が1996年1月12日に提出した1995年12月28日付K教授作成の鑑定書、2000年7月31日に提出したH教授作成の 2000年6月23日付鑑定書、同じくK教授作成の2000年4月7日付「顔の認識における目撃者の視覚的印象のビデオ映像による再現」および添付のビデ オテープ等によって明らかにされている。
しかし、I証人は法廷で細かい目鼻だちまで述べている。このI証人の供述の信用性も、I証人と一緒に事件を目撃したBの供述調書を見ることによって判断することができる。

一四 さらに、最初の110番通報者であり、最初に請求人の写真を選んだTkと一緒に事件を目撃したCの存在がある。Cは車を運転し、その助手席にTkを 乗せ事件を目撃した。Tkが最初に請求人の写真を選別した目撃者であることは控訴審の最終段階になって捜査責任者中島敏が明らかにした。しかし、一審にお いてはもちろん、控訴審の最終段階にいたるまで、検察官はYが最初に請求人の写真を選別したとしてきた。控訴審で、Yを取り調べた警察官今野宮次もそのよ うに証言した。「最初の110番通報者」「最初に請求人の写真を選んだ」という重要目撃者・Tkを、なぜ検察官は一審および控訴審の途中まで明らかにせ ず、Yを「最初に請求人の写真を選んだ目撃者」としてきたのだろうか。これもCの供述調書あるいは捜査報告書が明らかになればはっきりするはずである。

一五 以上のとおり、未開示の別紙証拠目録記載の証拠は、「再審請求後に新たに得られた」証拠として、「確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば」とうてい本件確定判決は下し得なかった証拠となり得る、決定的な証拠と思料される。
よって、御庁におかれては、速やかに証拠開示命令を下されたく上申に及ぶ次第である。

別紙証拠目録

1 請求人の1975年1月13日逮捕当時の写真
2 Bの供述調書及び同人の取り調べに関する捜査報告書
3 Aの供述調書及び同人の取り調べに関する捜査報告書
4 Aの姉の供述調書及び同人の取り調べに関する捜査報告書
5 Cの供述調書及び同人の取り調べに関する捜査報告書
6 Mの供述調書及び同人の取り調べに関する捜査報告書
7 その他の目撃者の供述調書及び各取り調べに関する捜査報告書
8 目撃者に対する面通し等に関する捜査記録書類
9 1974年10月1日から3日にかけての前進社の出入りに関する捜査記録書類
10 1974年10月1日から3日にかけての尾行に関する捜査記録書類

    

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ニュースNo159(2001年12月1日発行)

●ニュースNo159(2001年12月1日発行)◎世紀を越えて・・「八海」の教訓をいまに – 八海事件五十周年・東京集会

大井町ビラまき報告

世紀を越えて・・「八海」の教訓をいまに
八海事件五十周年・東京集会
 2001年4月、広島で、「八海事件発生五十周年記念のつどい」が実行委員会の主催で開かれた。阿藤周平さんも発言されるということで、私たち東京の「かちとる会」も広島に駆けつけた。広島の「かちとる会」の人々も参加してくれた。
この広島集会の成功を引き継ぎ、東京でも「八海五十周年」の集会を開けないだろうかという話が阿藤さんから「かちとる会」にあった。
八海事件の経験を若い人たちに引き継ぎたい、「八海の教訓」を風化させたくないという阿藤さんの気持ちが強く伝わってきた。長年、富山再審を支援してく ださっている阿藤さんの思いに応えたい、なんとかして集会を成功させたい、というのが「かちとる会」みんなの気持ちだった。
しかし、そうは言っても、決して大きくはない「かちとる会」が、「八海五十周年」と銘打った“大集会”を準備するのは大変なことである。富山再審集会は 何度もやっている。富山再審集会なら、どんなことを準備するかも、どれだけの時間や労力がかかるかも大体わかっている。しかし、「八海五十周年集会」と なった場合、規模も内容もまったく違うものになる。
不安が先立つ私たちに比べて、富山さんはやる気満々だった。「かちとる会」だけでなく、えん罪事件の支援や人権問題に取り組んでいる人々と力を合わせて やっていこうということになり、富山さんが動いた。袴田事件など幾多のえん罪事件の支援を行い、「人権と報道・連絡会」の中心的なメンバーでもある山際永 三さんに相談したところ、一緒にやってくださるとの快諾を得ることができ、集会実行委員会が発足した。
集会は10月27日と決まり、会場も都心の全水道会館を借りることができた。
集会での講演は、当事者である阿藤周平さんはもちろん、心理学者で八海事件の研究もなさっている浜田寿美男さん、八海事件弁護団だった西嶋勝彦弁護士が引き受けてくださり、シンポジウムも行うことになった。
阿藤さんや山際さんのご尽力もあり、集会の呼びかけ人には、八海事件弁護団の児玉憲夫弁護士、佐々木静子弁護士、元日弁連人権擁護委員長の竹澤哲夫弁護 士、浜田寿美男さん(花園大学教授)、足立昌勝さん(関東学院大学教授)、木下信男さん(横浜事件再審ネットワーク代表・明治大学名誉教授)、桜井善作さ ん(月刊『野火』発行人)、福冨弘美さん(71年警視総監公舎爆破未遂事件冤罪被告)が名前を連ねてくださった。
この方たちの呼びかけに応えて、多くの方々が集会に協力してくださった。八海事件弁護団をはじめとする55名の弁護士の方々など、100名を越える人々が賛同人になってくださり、集会開催のための賛同金の呼びかけにも応えてくださった。講演者の名前を見ても内容の濃い、いい集会になることは間違いなかった。しかし、一体、どれだけの人が集まってくれるだろう・・・参 加者の数が惨憺たるものだったら、「多くの人に、とりわけこれからの世代を担う若い人たちに八海事件の教訓を伝えたい」とはりきっている阿藤さんを落胆さ せることになったらどうしよう。想像するだけで心臓が縮む思いだった。
必死になって集会への参加を呼びかけ、祈るような思いでビラをまいた。呼びかけ人や賛同人になってくださった大学の先生も自分の関係している大学の学生にビラを渡してくれた。亀さんは、集会があると聞けばどこにでも行ってビラをまいてくれた。そして迎えた集会当日。
午前中に映画『真昼の暗黒』を上映した。
映画の前に、実行委員会と事務局を代表して、山際永三さんが開会のあいさつをされた。
山際さんは、集会が多くの方々の協力のもとに開催されていることを報告し、「日本にはえん罪が多すぎる。50年前の八海事件に学んで、その教訓を生かす ことがもっともっと必要なのではないか、八海を忘れてはいけないという発想で今回の集会も準備しました」とし、
「日本では、死刑が確定した人が57人いるが、そのうちの27人が死刑再審を申し出ている」。しかし、「支援のわれわれの側でも、横の連絡が取れていま せん。その中で、袴田事件を中心にして、名古屋の名張事件、狭山事件、この三つの事件はいろいろな意味で再審の重要なポイントで粘り強くやっている事件で すから、なんとか横の連絡を取って、一緒にやっていこうという話になってきています」
「今、戦争へ、戦争へという準備が進んでいる。こんな時にこそ、むしろ人権という形で、日本の民主主義社会は一体どうなったんだということをわれわれは考えながら、再審あるいはえん罪に取り組んでいきたいと思います」と結ばれた。

『真昼の暗黒』は、正木ひろし弁護 士の著作『裁判官』を映画化したもので、八海事件を世の中に広く知らしめた映画だ。出演者のそうそうたる顔ぶれ、リアルな拷問場面や法廷でのやりとり、 「おっかさん、まだ最高裁があるんだ!」と阿藤さん役の青年が叫ぶラストシーン・・・何度か観たが、やはり迫力のある優れた映画である。
1956年に作られた古い映画だが、現在版権を持っている会社から借り、映写も専門の人にお願いしたので映像は鮮明だった。
映画を上映している間にどんどん人が集まりはじめ、午後からの集会の時には会場はほぼいっぱいになり、最終的には116名の人々が参加してくださった。

午後からの集会の最初に、「映画『真昼の暗黒』後の八海事件」と題したスライドを上 映した。八海事件と言っても、その詳しい経過を知る人は少ない。特に、若い人は「八海事件」という言葉すら知らない人が多い。八海事件の全容を知らない人 のためにと、うり美さんが中心になって集会用に作ったスライドである。
「おっかさん、まだ、最高裁があるんだ!」・・・八海事件はこの叫びの後、大変な経過をたどる。
阿藤さんは獄中から正木ひろし弁護士や自由法曹団に無実を訴える手紙を書く。これに応えて正木弁護士、原田香留夫弁護士たちが立ち上がる。全国でまき起 こる支援運動。その中で1957年10月、最高裁は有罪判決を破棄して広島高裁に差し戻す。1959年9月広島高裁で無罪判決。しかし、その後、最高裁は 一転、今度は無罪判決を破棄、差し戻しを言い渡す(1962年5月)。1965年8月、広島高裁で阿藤さんに再び死刑判決。二転三転する判決。死刑と無罪 を行き来する歳月。結局、1968年10月に無罪が確定するまでに18年の年月が費やされることになる。
この経過を、新聞記事や写真などで作ったスライド、阿藤さんの獄中記の朗読、ナレーションで説明した。
「阿藤さんは、自らの体験を伝え、二度とこのような悲劇が起こらないようにとえん罪の根絶を訴えています」というナレーションの締めくくりの後、阿藤周平さんが壇上に登場した。

阿藤周平さんの発言から
「映画の拷問はあれは本当なんです。拷問の場面だけは、今でも頭から離れたことがありません。昨日のごとくよみがえってきます」「『なぜ、やりもしない のに、やったと言うのか』と言う人がいるが、実際にこの身に拷問を受けた人じゃないとわからない」「誰も味方をする人がいない中で行われる拷問がいかにひ どいものか」
「私はこの映画を見て、心が痛むより怒りの涙が出る。悔し涙が出る。こういうことを二度と起こさせてはいけない。そのために一生懸命がんばっていかないといけないと思う」
「弁護士の先生方が、私を守るということだけにとどまらず、不正な裁判と闘っていた。それを非常に心強く思った」
「八海事件は真実が勝ったわけですけれども、それは、みなさんの不正な裁判に対する怒り、そして大きな支援の力があったからこそと私は思っています。大 衆の力は偉大なものです。必ずや真実は晴れる。しかし晴れるのを待つのではなくて、晴らすために一生懸命がんばらなくてはならない」
「私は無罪で出所した時、この18年間の苦しみがもし癒されることがあれば、それはこの世からえん罪事件がなくなった時だと、日記に書いています。残念 ながらそれは今もって実現していません。おそらく私の存命中、いやいやもっと先まで、悲しいことですがえん罪事件は増えても減ることはないと思います。し かし、それを見過ごすのではなくて、みなさんと一緒になって、それに立ち向かっていくという強い心を18年の獄中生活で養うことができました。それは八海 事件のたたかいの中から学び取った一つの大きな財産だと思います」
(阿藤さんをはじめとする講演の内容は実行委員会の報告集として出す予定である。今回は簡単に要旨を掲載する。)
次に、八海事件弁護団の西嶋勝彦弁護士が講演された。

西嶋勝彦弁護士の発言から
西嶋弁護士は、最初に、阿藤さんたちの弁護を引き受けることになって経緯を話され、八海事件の特徴として、
・松川事件とともに、裁判批判の先駆けになったこと、
・第二次控訴審で、検察官が従来の捜査を倍する力と時間をかけて、異例の「再捜査」を行い、阿藤さんたちのアリバイを証言する人たちを「偽証罪」で逮捕、アリバイ証言を覆させるということをやったこと、
・真犯人Yと警察が一体となって作り上げた事件。Yの「共犯説」を作り、維持させたのは警察であり、検察官であり、それを支持した裁判官の存在だ、
・18年におよぶ長期裁判、
の四点をあげられた。
「長期裁判というのがこの八海事件の最後の特徴になると思います。18年間の裁判、本体の事件の記録が96冊、それから別件の『偽証』事件の記録が31 冊、合計すると127冊。調書一冊の厚さが大体5センチとすると、127×5で6メートル35センチ、二階建ての建物を優に越えます。調書の厚さが平均3 センチとしても、3メートル80センチ、この天井じゃまだ足りない。それほどの記録の事件でありました」
そして、第三次上告審で、真犯人Yの証言を覆し、阿藤さんたち四人の無実をどのように証明していくかという裁判上の課題とともに、
「最後に残された課題が冷えきった世論といいましょうか、再度の有罪判決に対し、その状態をどう逆転させ、どう裁判闘争を盛り上げてゆくかということで あり、弁護団の編成もそのひとつの課題でした。全国で弁護団を募り、神戸から、あるいは関西から、そして最後は東京にという具合に大衆的な裁判闘争が構築 されていきました」
そして、困難を乗り越えて無罪をかちとっても、
「私たちは完全に白、無実だと終始一貫思っている。しかし、世の中には、『本当は犯人ではないか』という目で見る人が最後までいた。八海の地元でも、阿 藤さんたちの無罪が確定した後、まだ割り切れない気持ちでいたというのはそのへんも絡んでいるかも知れません。えん罪事件の終わった後もなかなかむずかし いものだということがわかります」

えん罪を晴らし、無罪が確定しても、世の中はそれを容易には認めようとしない現実があることを指摘し、雪冤のむずかしさを語られた。

西嶋弁護士の発言の最中に、阿藤さんとともに八海事件の被告して救援運動をたたかった稲田実さんから「体調がおもわしくなく、歩行困 難なため集会に参加できず申し訳ありません。皆様によろしくお伝え下さい」という電報が届き、西嶋弁護士の発言の後、司会から読みあげられた。会場からは 大きな拍手がまきおこった。

 浜田寿美男さんの発言から

次に、心理学者として甲山事件の無罪確定のために尽力され、八海事件についても研究されている浜田寿美男さんに講演をお願いした。
浜田さんは、「八海事件の経験を阿藤さんから聞いて、自分自身甲山事件という八海18年を塗り替える(裁判が始まってから21年)事件に関わって、日本の刑事裁判というのは本当に変わらないと思った」と語った。
そして、やってもいないことを自白する心理について話された。
「やってもいない人間がなぜ、たとえ拷問があったとはいえ、やったと言ったんだとまわりから責められたという話が阿藤さんからありましたけれども、これは なかなかわかってもらえないですね。おそらく実際に自白を取っている取調官自身もわかっていないのではないかと思います。やっていない人間が言うはずがな い、強く責めて、責めきったところで自白すればやっぱりこいつが犯人だと思い込む。
目の前に(無実ゆえに)苦しんでいる人間がいても、その苦しみの内実というのは捜査官には見えないわけです。だから捜査官は間違ったことをやっていると は思っていない。拷問という酷いことをやっているわけですが、それでも殺人事件を犯したこいつらが悪いんだと、拷問ができる心理というのは、ある意味でこ いつに間違いないという確信なんですよね。しかし、人間の確信というのがどれだけいいかげんなものかということは、いろんな裁判を見てても、取り調べの過 程を見ていてもわかります」
「えん罪事件の一番大きな原因のひとつに自白という問題がありますけれども、自白する側の心理が理解されていないことがあると思います」
「拷問が一番典型だと思うわけですが、拷問でなくても、身柄を取られて長期にわたって取り調べを受ける、あるいはお前が犯人だという形で人格的に非難さ れ、屈辱的な思いを味わい続ける、それがいつまで続くか見えない、そういう辛さの中で自白に落ちていく。いつまで続くかわからないという見通しのなさ、そ れは、その中に身を置かれた人間にしかわらかない」
「もう一つは、やってない人間が取り調べを受ける時の非現実感。実際にやった人間ならば、犯行がまざまざと記憶に残っている。自白をすれば、あの犯罪の結果としては私は死刑になるんだということがつながりとして、現実的に感じられる。
ところが、やっていない人間は、なにしろやってないのだから、捕まってもちゃんと弁解すればわかってくれると思う。自分がやってないものですから、調べ られていること自体が非常に非現実的な感覚なんです。これだけの事件で『自白』をすれば死刑になるかもしれない、という理屈はわかるわけですが、自分のこ ととして現実感を持って感じるのとは別問題です。なにしろ自分はやってないんだから、やってない人間がなんで死刑になるんだというのがごく素朴な感覚で す。ですから、真犯人ならば自白をすれば死刑になるかもしれないというのが重しとして自白を思いとどまる理由になりますが、やってない人間は現実感が持て ないために、それが重しにならない。むしろ真犯人の方が自白に対する抵抗力が強い」
そして、こうした自白をする心理とともに、証拠を見て判断するのではなく、思い込みで「こいつが犯人だ」と決めつけてしまう裁判官の心証形成を問題に し、「えん罪が戦後54年、一向になくならないのは、なぜ、えん罪が起こるのかというチェックを公の機関が一切してこなかったことが最大の問題。それが日 本の刑事裁判が変わらない理由」と指摘された。

児玉憲夫弁護士の発言から
 八海事件弁護団で、今回の集会の呼びかけ人にもなってくださった児玉憲夫弁護士が、この日、大阪から駆けつけてくださった。急遽、発言をお願いした。
児玉弁護士は、「下飯坂判決が再度の差し戻しの決定を出した年の1962年4月に弁護士になり、佐々木哲蔵弁護士の事務所に入った。その5月に下飯坂判 決があり、弁護団に加わった」と弁護団に加わって経過を話され、1963年8月30日の逆転有罪判決で阿藤さんたちが収監された日の思い出を語り、「真実 を追求し、正義を求める裁判がいいかげんなものであったのでは、民主国家はできないはず。二度とそういうことが起きないようにするのが、国の責任であり、 国民の責任であろうと思います。そういう意味で、事件から50年、判決から32年になりますが、こういう集会が開かれていることは大事だと思います。阿藤 さんがいろいろな所で訴えていることも大事なことだと思います」と結ばれた。

その後、福富弘美さんの司会によって、阿藤さん、西嶋弁護士、浜田さんのシンポジウムが行われ、討論が深められた。
最後に、桜井善作さんが集会のまとめをしてくださった。
桜井さんは、「ある再審の運動をやっている方が、長いトンネルに入って先が見えないような状況の時に、阿藤さんの支援を受けて大変勇気を得た、トンネル の先にかすかに光が見えた気がした、阿藤さんは真実は必ず勝つという揺るぎない信念を持っているすばらしい方だと言っていた」と紹介し、「心がより小さい ものに寄せられ、人の輪をより多く結集させる。そういう姿勢、感性というものが、私たちの中に日常的に培われることが必要」と指摘、小泉首相の「憲法もな にもあったものではない」戦争政策を批判し、「こういう事態を打ち返す力が私たちになければならない」「個々の運動を強めると同時に、大きく連帯する」 「小泉内閣打倒の声をあげながら、そういう思いや運動と一体化した個々の運動を広めていくことが大事じゃないかなと思っております」とまとめられた。

今回の集会では、会場の後ろに、阿藤さんが最初に正木弁護士に書いた手紙や正木ひろし弁護士が法廷で使った模型など、普段はなかなか見る機会のない貴重な資料が展示された。ご協力頂いた方々に心より感謝したい。

多くの方々の協力によって大変いい集会になった。参加者は116名にもなり、事前の心配は幸いなことに杞憂に終わった。集会は大成功だった。
また、賛同人の方々が寄せてくださった賛同金のおかげで大きな赤字を出すこともなく終わることができた。
集会が成功したのは、やはり、阿藤周平さんの存在が大きかった。18年のたたかいを 通して無罪をかちとり、その後もえん罪とたたかい続けて来られた阿藤さん。74歳になった今もなお、八海50周年を契機に自らの体験を若い人たちに引き継 ぎたいとがんばっている阿藤さんの存在がこの集会の成功を切り開いた。集会の講演を引き受けてくださった方々も、呼びかけ人や賛同人の方々も、この阿藤さ んのたたかいに応えてくださったのだと思う。
また、山際永三さんには、実行委員会の連絡先を引き受けて頂くなど、事務局として準備をともに担って頂いた。山際さんと打ち合わせをしながらの集会準備の過程は大変勉強になった。
今回の「八海五十周年集会」で培われた力をえん罪の根絶、人権擁護のために生かしていきたい。そのためにも、個々の運動でがんばるとともに、大きな連帯 の輪を作っていく必要を強く感じた。今回の「八海五十周年・東京集会」の成果を、そうしたたたかいにつなげていきたいと思う。
最後に、今回の集会開催のためにご協力頂いた多くの方々、集会に参加してくださった方々に心より御礼申し上げます。   (山村)

□ 阿藤さんの手紙

 阿藤さんが二審死刑判決の後、獄中から正木ひろし弁護士に最初に書いた手紙がある。

わら半紙に丁寧に罫線を引いて作られた手作りの便箋。几帳面で端正な字が並ぶ。ひとつも崩していない。
手紙は10数枚にわたってひとつひとつ事実をあげて無実を訴えている。
集会の後、阿藤さんは懐かしそうにその手紙を見ながら、
「あの頃は、わしもずいぶんとむずかしい言葉を使こうたんやな。きっと必死に辞書引いて書いたんやろな。今はもう書こうにも書けんで。見てみぃ、擱筆(かくひつ)って何や。え、こんなの今じゃ意味もわからんで」と他人事みたいに笑った。
(注・擱筆=筆を擱くこと=文章を書きおえること)。
やってもいない罪で、一審、二審と死刑判決を受けたあとの独房。書くことしかできない、それしか訴える術がない、書くことによってしか自らを救う道は切 り開けない、そうした切羽詰まった状況の中で書かれたものなのだろう。文章、使われている言葉、筆跡、すべてから張り詰めたような緊張感、阿藤さんの必死 さが伝わってくる。
阿藤さんは、今はもうこんな漢字は使わない。こんなカッチリした字も書かない。ちょっと崩した書き慣れた達筆の手紙やハガキが届く。
阿藤さんにとって、以前のような手紙を書かなくてもいい今、それは多くの犠牲を払って勝ちとったかけがえのない日々なのだろう。「今じゃ意味もわからんで」と笑う阿藤さんの顔を見ながら、そうした日々が訪れて本当によかったと思った。   (山村)

 

2001年最後の大井町での署名集めは、
亀・・・・・・4
うり美・・・・2
富山・・・・・4

寒い日であった。山村は仕事で欠席。
いつもの昼休み時と違って夕方にやったのだが、どうやら夕方の方があっているようだ。昼休みは、ビラを読んできちんと考えてからということで、引き返してきたときには私たちはもういない。ところが、夕方にはその場で決着となる。通行人の層が異なるのか。

この日は、母親と高校生の娘さんが署名してくれるという具合に快調。一時はダントツでトップを走って、このまま独走かというほどだった。
終わりよければ全て良し。今年一年よく頑張った、となった次第。来年はもっと広範囲に登場というか、新規開拓を心がけたい。  (富山)

 

  「不幸なことが世界各地でぼっ発している21世紀ですが、こんな時こそ地道な努力だけが有効です。
今年はひょっとしたら暖冬かもしれません。
案外、活動が楽かもと思います。 明日の為に第19歩目」というお便りを11月末に頂き、
12月末に、
「2001年も終わりに近づきました。実りある新年になりますようにお祈りします。
明日のために第19歩目」
というお便りを頂き、それぞれ2000円のカンパも頂きました。ありがとうございました。

Yさんのお便りでは、9月、10月ともに「18歩目」、11月も「18歩目」、12月に「19歩目」となっていました。
実際にYさんから頂いているのは、9月が「第18歩目」、10月が「19歩目」、11月に「20歩目」、12月「21歩目」です。
「18歩目」が3回という“足踏み状態”が生じているのは、ひとえにニュースの発行が遅延し、Yさんのお手元に届くのが遅くなっているせいです。申しわ けございません。他の読者の方々にもお詫びいたします。なんとか、早急にもとのペースに戻したいと努力しておりますので、今後ともよろしくお願い致しま す。  (山村)

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ニュースNo158(2001年11月1日発行)

 

●ニュースNo258(2001年11月1日発行)◎法と心理学会第2回大会開かれる□大井町ビラまき報告

 

□法と心理学会第2回大会開かれる

富山再審弁護団と鑑定人が報告

10月20日、21日、「法と心理学会」第二回大会が、東京・一橋記念講堂で開かれ、昨年の第1回大会に続き、今回も富山再審弁護団や鑑定人による富山再審の報告がなされました。
報告は、2日目に行われた「口頭発表」で行われ、富山再審弁護団から小原健弁護士が「弁護人はなぜ心理学に接近したか」と題して講演しました。
続いて富山再審で鑑定書を提出しているK教授によって「目撃者の視力は顔識別にどのように影響するか(Ⅰ)――富山事件の目撃者(視力0・4)の視覚世 界」、H教授によって「目撃者の視力は顔識別にどのように影響するか(Ⅱ)――視力0・4の視覚世界に基づく写真面割りと髪型」と題する報告が行われまし た。

小原弁護士は、今回の報告の目的を「弁護人としての具体的事件の経験を通して、目撃証言に関する心理学上の知識を裁判実務に活用するための方策を考察する」として、富山事件の弁護を通して心理学に接近していった経過、そこでの成果、今後の課題等について発表しました。
小原弁護士は、まず、一審無罪判決をかちとったにもかかわらず、二審において、裁判官が写真選別についてのおよそ非科学的な「基準」を設け、富山さんに 有罪を言い渡したこと、上告審におけるの苦闘の中で、「被告人を見たことのない者が、状況の説明のみによって、被告人の写真を特定することができる」こと から、本件の写真選別で使われた富山さんの写真自体の暗示性に注目、心理学者に実験による検証を依頼した経過を報告しました。
「目撃者は、現実に目撃した犯人の容貌自体に基づく情報に依拠しなくとも、相当の確率で被告人の写真を犯人らしい人物として引き当てることができる」――1986年8月21日付H助教授(当時)の鑑定書。
この心理学者の協力を得た最初の鑑定書は、捜査官による目撃者に対する暗示・誘導のみならず、写真選別に使われた富山さんの写真が選ばれやすい条件にあったこと、つまり写真そのものに暗示性があったことを科学的に明らかにしたものでした。
しかし、最高裁は事実審理を行おうとせず、この鑑定書を取り上げようとしませんでした。そして、1987年11月10日、最高裁は上告を棄却しました。
小原弁護士は、弁護団が1994年6月20日の再審請求申し立てにおいて、上告審で提出した最初の鑑定書とともに、浜田美寿男教授の鑑定書「富山事件目 撃供述についての心理学的視点からの供述分析」(富山さんを「犯人」とする供述や写真面割り結果等は、捜査官の抱いた仮説の誘導力のもとに生み出されたも ので、信用できないことを明らかにしたもの)、「凶器注目効果の鑑定から、事件の目撃者の写真選別結果が心理学上、信頼性を欠くこと」を明らかにしたH教 授の鑑定書を提出したことを報告、再審請求後も、確定判決が「本件目撃証人中最も良質の証人」としたI証人の証言の信用性を突き崩すK教授の鑑定書やビデ オ映像、H教授の鑑定書を続けて提出していることを報告しました。
小原弁護士は、一審、控訴審段階では弁護団に心理学者の協力を求めるという発想がなかったこと、一審、控訴審でこうした心理学鑑定を出せていたら、状況はもう少し変わっていたかもしれないことを指摘しました。
再審では、「裁判官にとっては、確定判決で示された基準が、自己の判決において依拠するべき基準であり、その基準に科学的裏づけがあるか否かという問題 意識は希薄であり」、「人の同一性、識別供述が科学的知識に基づいて検証されなければならないことであることについて、裁判官を十分に説得することができ ていない」「今後の努力が大切」と率直な感想を述べられました。
小原弁護士は、今後の展望として、
「弁護人は、できるだけ早期に心理学者と接触し、人の同一性識別に関する問題点を把握し、具体的に主張、立証を展開するべきである。そのためには、人の 同一性識別に関する問題について、だれがどういう鑑定をすることが可能であるかという情報ネットワークが必要。日弁連がその機能を果たせるのではないか」 と提起され、
「科学的根拠に基づき、かつ裁判官の賛同も得られるような目撃証言ガイドラインが必要である。これについては現に法と心理学会でも進められている。できあがったガイドラインから、再審事件も見直してみる必要がある」
「法律実務家は、早期の段階で目撃証言について学習するべきである。目撃証言を、できるだけ科学的根拠に依拠して検証しようとする姿勢自体が、正確な証拠に基づく、正しい裁判を実現しようとする謙虚で合理的な姿勢に結びつく。
目撃証言を疑う姿勢は、証言の背後にある捜査官の意識的、無意識的な誘導を見抜く力を求める。それは、捜査の実態に対する知識と権力に対する健全な批判精神を必要とする。
また、目撃証言は、衝撃的で決定的な印象を与え、その結論は全か無かの先鋭なものになるので、明白な結論を示す目撃証言をあえて否定するためには、科学的根拠に対する信念と独善を戒める謙虚な人権感覚が必要である。
さらに、自己の経験則自体を対象化し、動かしがたい事実に照らして改変を施し、この改変を避けて論理操作で思い込みを絶対化する独善性や硬直した態度を乗り越える内面の作業も必要である。
考えてみれば、これは、虚心に証拠に向き合い、あくまでも真実を探求するという、あるべき事実認定の姿勢そのものである。
したがって、目撃証言論は、たんなる目撃証言の評価にとどまらない。裁判に対する姿勢そのものにつながる」と結んで報告を終わりました。

小原弁護士の報告の後、鑑定人のK教授とH教授の発表が行われました。
K教授は、1996年1月、東京高裁に提出した、確定判決が「本件目撃者中最も良質の証人」としたI証人の信用性を否定する内容の鑑定について報告しま した。この鑑定書は、100名に近い人々の協力を得た実験によって、視力0・4の目撃者が、初対面の人物の顔を16・45メートルの距離から識別(I証人 の目撃条件)することはできないことを明らかにしたものです。
K教授は、その後、このI証人の視覚世界をビデオ映像を用いて再現し、2000年7月に東京高裁に提出しました。この映像も会場のスクリーンで紹介されました。
さらに、弱い視力の者が人物同定をする場合に手がかりになると考えられる髪形に注目したH教授が、この映像を使って実験を行い、髪形を手がかりとしても、しなくても的確な人物同定はできないことを明らかにした鑑定書について報告しました。
K教授、H教授の報告は、コンピューターによる映像を駆使した大変わかりやすいものでした。会場のスクリーンに映された映像には、群青色が徐々に白みか けていく、太陽が昇る直前の空を背景にした山なみが描かれていて、これを、H教授は、報告の最後で「富山再審の夜明けをイメージしたものです」と説明され たのを聞いて、思わず胸が熱くなりました。
そして、一審以来、26年余にわたり富山事件の弁護に取り組んで来られた小原弁護士の報告は大変説得力があり、真実探求への思いの込められた格調高いものでした。
お忙しい中、報告を準備してくださった3人の先生方に感謝致します。(山村)

桜井善作さんが発行する  『野火』に載りました

木下信男先生が書かれた「裁判官の犯罪『冤罪』」の出版記念パーティに参加した時のこと、「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さん を救う会」の門間さんたち手作りのご馳走を、あれもこれもと夢中になって口に運んでいたうり美さんと私の所に、桜井善作さんが近寄ってきた。思わず箸を止 めた二人に、桜井さんは「今度、ゆっくり二人の話を聞いて、『野火』に載せようかと思うんだけど、どう?」と聞いてきた。
「エーッ、私たちなんかに何を聞くんですかぁ~」
「どうしてあなたたちみたいな女性が、富山事件なんていう難しい事件の支援をやっているのかと思ってさ、その辺のところを時間を取って聞きたいな。一度、インタビューさせてよ」
インタビュー?!
インタビューなんて、したことはあるけど受けたことはない。二人で顔を見合わせて「どうする?」
桜井さんは「いいのができると思うんだな。ね、また、連絡するから、考えておいてよ」
私たちがインタビューされるなんてと、くすぐったいような思いで、半分冗談かなと思った。
しかし、考えてみたら、桜井さんはそんなことを冗談で言う人ではなかった。9月になって、10月8日頃はどうかという問い合わせが来た。
富山事件のことで『野火』のインタビューを受けると聞いた時、富山さんは「それはすごいじゃない」とうれしそうだった。
「でも、私たち二人にインタビューしたいんだって」
「?」
「富山さんは来なくていいみたいよ」
「ふうん・・・」
富山さんはちょっと不満そうだった。

小金井市にある桜井さんのお宅におじゃました10月8日は、朝から雨の降り続く肌寒い一日だった。そして、その日の未明から、アメリカによるアフガニスタンへの攻撃が始まっていた。
うり美さんと駅からの道々、
「桜井さん、何を聞きたいのかな?」
「きっと、私たちみたいなのが富山事件やってるのが不思議なんじゃない?」
「アメリカのアフガン攻撃について意見聞かれるかな。何か意見言える?」
「わかんない。いろいろ聞かれたらどうしよう」
「桜井さん、私たちの内容のなさにあきれないかな」・・・
そんな不安を抱えて呼び鈴を押した私たちを桜井さんは温かく迎えてくれた。
インタビューは、やはり、アメリカによるアフガニスタン攻撃への感想から始まったが、緊張する私たちを前に、桜井さんがまず話を切り出してくれた。
「アフガンへの攻撃開始がニュースで流れて、けさから何人もの『野火』の読者が僕の所に電話をかけてきた。世界はどうなっていくのだろう、自分の子供は、孫の世代はどうなるのだろうという不安をみんな強く感じている」
桜井さんの話は、ブッシュへの批判から、「その尻馬に乗って」戦争体制をつくろうとする小泉首相への批判におよんだ。思わずうなづきながらメモを取る二人。どっちがインタビューしているのかわからない。
「あれっ、これじゃ、僕が取材されているみたいだな」と桜井さんも気づき、「実はこれで『かちとる会ニュース』の原稿が書けると思いました」と大笑いになった。これで少し緊張がほぐれた。
インタビューは、「9・11」、アメリカによる攻撃開始から小泉政権批判に始まり、それぞれが富山事件に関わってきた経過、富山再審への思い、阿藤周平 さんのことと続き、いつの間にか予定の1時間を大幅に過ぎていた。桜井さんは話を引き出すのがじょうずだ。この方を前にしているといろいろと話したくなっ てしまう。
(インタビューの詳しい内容は、『野火』の146・147合併号をご覧ください。そして、これを機会に『野火』も講読して頂けると幸いです)

インタビューが終わり、録音用のテープレコーダーがしまわれ、お菓子を頂きながらの雑談になった時、「で、どうして私たちから話を聞こうと思ったんですか」と、私たちが一番聞きたかったことを桜井さんに質問した。桜井さんが言われたのは次のようなことだった。

先日、9・11の後、仕事で海外に行く息子から「僕に何があっても、間違っても『無関係な人間を巻き込んで』なんて言わないでよね」と言われた。僕も息子に「good luck 」としか言わない。
世界のどこで起きたことでも、自分と関係のないことはないはずなんだけど、そうは思っていない人が実に多い。
富山事件のような政治的えん罪事件、しかも内ゲバ事件といった場合、ほとんどの人は自分とは関係のないことだと思っている。
しかし、こういう難しい事件がどう扱われるかに、その国の人権感覚、司法のあり方、政治状況が顕著に現れると僕は思っている。
こういう事件は自分とは無関係と思っている人たちに、あなたたちがどうして富山事件に関わっているかを知らせたかった。

富山事件を『野火』で取り上げて頂いたこともうれしかったが、それ以上に桜井さんといろいろお話できたことがうれしかった一日でした。 (山村)

『野火』の申し込みは、桜井善作さんまで

▼住所
東京都小金井市中町 3-19-12-423

▼振替口座
00150-3-66020 桜井 善作

▼購読料 1部 300円、半年 1700円、1年 3400円

▼今回の大井町での署名集めは、亀さんの「5名」のみ。
10月27日の「八海事件五十周年・東京集会」のビラまきに専念したため、署名集めの方は今ひとつでした。亀さん以外は・・・。亀さんってすごい。

▼その「八海事件五十周年・東京集会」のビラをお送りした読者の方から、次のような手紙と3000円のカンパが寄せられました。ありがとうございました。
「お手紙ありがとうございます。いつも御連絡を頂き、誠にありがとうございます。仕事の都合で参加できませんが集会の成功を祈っています。
ニュースは、大井町ビラまきを一番先に見ます(へんかもしれませんが)。続けてずーっとやっている事がとても大事な事と思い、この記事が好きです」

 「明日のための第18歩目。季節は秋です。夜はけっこう冷えるので鍋物にしてもよいかも。力がでますから。果物がおいしいからビタミン補給もできます」というお便りとともに2000円頂きました。ありがとうございました。
ところで、前回が「第18歩目」で、今回は19歩目です。

 9月の大井町での署名集めの成果は、
山村・・・・・・4名
うり美・・・・・2名
亀・・・・・・・0
富山・・・・・・0
ということで久しぶりに山村、うり美の圧勝でした。

 「明日のための第十八歩目(だったよね)。
大変な事態が同時ぼっ発しました。これを期に真実が明らかになり、事実に見合った報いがありますよう。そして全世界の共通の認識になりますように」というお便りとともに、二千円頂きました。ありがとうございました。

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ニュースNo157(2001年10月1日発行)

 

●ニュースNo157(2001年10月1日発行)◎富山保信さんと「かちとる会」が 東京高裁に申し入れ

大井町ビラまき報告

  

■富山保信さんと「かちとる会」が 東京高裁に申し入れ

 9月11日、富山保信さんと「かちとる会」のSさん、Hさん、うり美さん、亀さん、山村の計六名で、富山さんの再審が係属している東京高裁(第三刑事部)に対し、証拠開示と一日も早い再審開始を求めて申し入れを行いました。
東京高裁第三刑事部は、今年四月に仁田陸郎裁判長が異動し、代わって中川武隆(なかがわ・たけたか)裁判長が着任しました。再審請求以来、今回で五人目の裁判長です。
前回に続き今回も、第三刑事部の裁判長はおろか書記官さえ会わず、訟廷管理課から船戸訟廷管理官他二名の職員が現れただけでした。再審請求人本人である富山さんの話を聞うともしないで、裁判官は一体何を審理しようというのでしょうか。改めて怒りがこみ あげて来ました。
申し入れでは、最初に富山さんが用意した申入書(別掲)を読みあげ、以下のように申し入れの趣旨を説明しました。
「1994年6月に再審請求を行ったが、最初の早川裁判長から五人も裁判長が交代してきている。しかも主任裁判官もわからない状態におかれている。実質的には店晒(たなざら)しの状態としか思えません。
申し入れと言っても、私が裁判官に会うこともできない。それどころか去年からは書記官にも会えなくなった。訟廷管理官は裁判の内容に何の責任も持ってお らず、申し入れと言っても形だけではないか。せめて書記官に会って申し入れできるように検討してほしい。裁判長が交代するたびに何度もしきりなおしという 状態は、再審請求の当事者としては極めて遺憾なことです。裁判所はいろいろな事件を抱えているというのでしょうが、再審請求していることを正面から捉えて 取り組んでほしい。
弁護団の折衝でも裁判官に伝えてもらっていますが、証拠開示問題は切実な要求です。これまでの再審無罪事例でも証拠開示がカギになっている。裁判所が証拠開示命令を出すよう強く求めたい。
具体的には、この事件では四十人の目撃者がいて、そのうち三十四人の供述調書があると二審で捜査責任者の警察官が証言しています。これは調書にも記載さ れており、当然裁判官も知っていると思いますが、そのうち七人の供述調書しか開示されていません。検察官は自らの主張にとって不利な証拠は出そうとしな い。
確定判決の是非を問う再審なのだから、すべての証拠を開示して判断すべきです。検察官が持っている証拠は税金を使って集めたもの。国費を使って集めた証 拠は国民の前にすべて出してしかるべきであり、検察官のみが隠し持っているのではなく、その判断を第三者に問うべきです。少なくとも公務員であるならばそ うすべき。なのに証拠開示を拒否している検察官は職権を使って立証活動を妨害しているに等しい。
しかも、今回は全証拠を開示せよというのではなく、具体的に特定して開示を求めている。しかし、検察官は、本件での私の逮捕写真すら開示しようとしませ ん。逮捕写真の開示を拒否する理由があるとは思えない。誰が考えてもおかしい。裁判所は、検察官に対し証拠開示命令を出してほしいと強く要請したい。その ことを必ず裁判官に伝えてほしい」
富山さんに続いて「かちとる会」のSさんが次のように発言しました。
「正直言って、再審請求から七年、ここまで放置されているとなると、検察官と裁判官がグルになっているのではないかとさえ思えてくるんですよね。七年間 というのは、生まれた子供が小学校に入るという年月ですよ。僕は、富山さんの再審をうやむやにするために、裁判長を交代させているのではないかとさえ思 う。
検察官が証拠開示を拒否するのは職権乱用ではないでしょうか。公平な立場で、裁判所は、すべての証拠を出すよう検察官に言えるはずだと思うんです。法は 誰に対しても平等なんでしょ。これが通らない。力のある方ばかり向いているというのは信用を失うことになる、公正な裁判のためにもぜひ証拠を開示するよう に裁判官に伝えてください。
僕はこの前も来ましたが、毎回同じことを言うしかないという事態は、まったく審理が進んでいないということですよ。大体、僕たちが話したことは裁判官に伝わっているんですか。
富山さんの立場に立ったら、罪人だという烙印を押されたままなわけで、それがどういうことか、裁判官も人間ならわかるんじゃないですか。裁判所はこんな りっぱな建物だが、外は良くても内側が伴わなければ何にもならない。自分たちの都合の悪いことは蓋をするという体質はよくない」「事件からすでに二十七年 が経とうとしている。このままでは、富山さんにとって有利な証人が死んでしまうかもしれない。裁判所が証拠開示を命令しないということは、裁判所が証拠隠 滅をはかっているはいうことにもなりかねませんよ」
その後、Hさんが発言しました。Hさんは、大井町駅前での署名で知り合って以来、集会などに参加してくださっている方で、裁判所への申し入れにも昨年に引き続き駆けつけてくださいました。
Hさんは、
「刑事裁判の鉄則として、物的証拠がなければ有罪にできないはず。目撃証言というのは非常に問題のある証拠とされている。しかも、七人の供述調書だけを 開示して、他は隠して有罪をつくりあげている。二審判決を読んだが、これが法の専門家の文章かと思わせるような杜撰(ずさん)な内容だった。これに不審を 抱かないで容認するのはおかしい。
申し入れに来ても、裁判所はいつも上に報告すると言うだけでしょう。上がったり下がったりのエレベーターじゃあるまいし。
私が特に強調したいのは、三十四人の調書をすべて出すことが重要だということです。これを強く裁判所に要請したい。
一日も早く富山さんの人権の回復、つまり再審無罪をお願いしたい。皆さんも人の親でしょ。七年の歳月の意味を裁判長によく伝えてほしい」
「再審請求から七年間も放置しているという事例が他にあるのですか。どうして、せめて二~三年で開始するというようにならないのでしょうか。再審を請求 する側に新しい証拠を捜せというが、検察官が隠している証拠があるんですよ。それを出せというのが、裁判所の仕事ではないですか。
二審の有罪判決に自信があるのなら、七年も放置することはあり得ないと思う。検察官にすべての証拠を開示させ、それを見て判断を下すという方法もあるの ではないでしょうか。本件の目撃証言が作られたものであるのは素人でもわかる。三十四人の供述調書すべてを出して審理するのが公正な裁判というもの。七年 も再審無罪を求めている人がいることの意味を考えてほしい」
と訴えてくださいました。
亀さんも証拠開示の重要性について、開示を求めている証拠の意味を具体的にひとつひとつ説明しながら訴え、山村も富山さん本人の声に裁判所は耳を傾けてほしいと訴えました。
船戸訟廷管理官の対応は、申し入れの内容は伝わっているのかという追及には「必ず伝えている。しかし、私たちとしては裁判官に感想を聞く立場にない」と 言い逃れ、坂本さんに「裁判所は都合の悪いものには蓋をするのか」と言われ、「そんなことはありません」とあわてて答えるというもので、内容のある回答は 得られませんでした。だからこそ、訟廷管理官ではなく、せめて係属部の書記官に会って話を聞いてほしいと訴えているのです。
富山さんが、再度、
「公正で迅速な裁判を受ける権利は憲法に保証されていることです。再審においてもこのことは守られなければならないはず。公正な裁判で結論を出してほしいということに対する回答は再審無罪以外ないと確信しています。
前任の粕谷さんは、前回の申し入れの内容を高裁第三刑事部に伝えると言っていたが、いつ伝えたのか、きちんと伝えたうえでそれに対して裁判官からどうい う回答があったのか申し入れをした私たちには伝わって来ない。今回、裁判官がどう聞いていたか回答はもらえるのですか」と問うと、船戸訟廷管理官は「前任 の粕谷は直ちに伝えたと思う。私たちが、裁判官が何と言ったか聞く立場にないことは理解してほしい」と言い、富山さんが「では、どういう形で伝えるのか」 と聞くと、「メモを見ながら主任書記官に伝えます」。富山さんが「文書としては残さないわけですか」と聞くと、「そういうことではなく、メモを見ながら伝 えています。それは信頼してもらうしかありません」。
すかさず、Hさんが「報告したらメモは抹消してしまうんですか」と突っ込むと、船戸氏「個人的なメモなので」、Hさん「去年の六月に来た時のメモは引き 継いではいないのですか」、船戸氏「そういうものはありません」、富山さん「報告書も出さないのですか」、船戸氏「報告書という形では出しません。皆さん のおっしゃったことは細かい内容も含む申し立てなので、次回は文書で出してもらえれば助かります。書面で出すのを原則とするので。今回は信頼してもらうあ りません」。
最後に、全員で証拠開示と再審無罪を強く訴えて申し入れを終わりました。
規則で申し入れの時間は三十分とのことで、三人の裁判所職員は三十分は義務でありがまんしなければならないとでもいうかのように、最後の方は時計の方を しきりに気にしていました。時計を見やりながら落ちつかない三人の職員に、「真面目に聞いているのか」と、申し入れが終わってからSさんが言っていたよう に「机をドンと叩いてやりたかった」は、全員の気持ちでした。
この日は台風が東京を直撃する大暴風雨という天気にもかかわらず、びしょ濡れになりながら集まってくださった「かちとる会」の方々、ありがとうございました。
申し入れの後、高裁前でビラまきも行う予定でしたが、とても出来る天候ではなく、ビラまきは九月十四日に行い、千枚をまききりました。 (山村)

申入書

 私は無実です。1975年1月13日の不当逮捕以来、一貫してこう訴え続けてきました。そして、1994年6月20日の再審請求以来、これに《一刻も早く再審を開始して無罪判決を出してください》という訴えが加わりました。これは、本当に、私の心からの願いです。
しかし、日を追うにしたがって私の切なる願いとは逆の方向に、すなわち真実に目を背けたまま誤判の訂正を拒否して、私の苦しみからの解放を妨げようとす る方向に向かっているように思われてなりません。再審請求からでも、すでに7年3ヶ月がたとうとしています。その間、裁判長の交代だけでも中川裁判長で5 人目です。そのたびに、しきりなおしになります。それが実現されるならば、たちどころに私の無実=真実は誰の目にも明らかになる検察官が隠し持っている証 拠の開示命令は、回避され続けているではありませんか。
私は無実です。この真実の訴えが、逆に私が罪を逃れるための嘘とされ続けていることがどれほどの苦痛を強いるか、わが身に置き換えて考えてみてください。ほんの少しの想像力さえあればできるはずで、けっして無理な要求ではないはずです。
私は、身に覚えのない「殺人犯」という汚名を晴らすにあたり、当たり前のことが当たり前のこととして実現される裁判、正しいことが正しいこととして通用 する裁判であれば、私の無実は判明すると信じて審理に臨みました。近代刑事裁判が到達した地平と成果をそのまま適用すれば可能なはずなのです。現に、第一 審(原々審)では、それができたではありませんか。ところが、第二審(原審)は《無実の救済》という刑事裁判の使命に背を向けて「逆転有罪」判決を下しま した。予断と偏見を押し通すために、あえて近代刑事裁判が到達した地平と成果を踏みにじったのです。あろうことか、最高裁まで職責を放棄して、確定判決= 誤判を容認してしまいました。20世紀末という時期なら当然おこなわれて然るべき裁判は実現されないまま今日に至っており、いっさいの矛盾は私に押しつけ られています。
私は無実です。私の無実=真実が踏みにじられたままであること―ここに私の苦しみの原因があります。あるべき裁判、当たり前の裁判、すなわち21世紀冒頭にふさわしい裁判を行ってください。そして、私を不当かつ理不尽な苦しみから解放してください。
中川裁判長はじめ3人の裁判官が原判決を自分の手で書くつもりで虚心坦懐に審理に臨まれるならば、必ず私の無実に気づかれるはずだと確信します。そし て、再審無罪判決を盤石のものたらしめるためにも検察官に証拠開示命令を出すだろうと信じて疑いません。誤りを率直に誤りと認めて改める裁判所のあり方こ そが日本の刑事裁判を血の通った信頼できるものにし、その前提があってはじめて、「法の安定性」はその名に相応しいものになります。検察官にたいする証拠 開示命令と再審開始・無罪を願ってやみません。
2001年9月11日

富山保信
東京高等裁判所第三刑事部御中

 9月の大井町での署名集めの成果は、
山村・・・・・・4名
うり美・・・・・2名
亀・・・・・・・0
富山・・・・・・0
ということで久しぶりに山村、うり美の圧勝でした。

 「明日のための第十八歩目(だったよね)。
大変な事態が同時ぼっ発しました。これを期に真実が明らかになり、事実に見合った報いがありますよう。そして全世界の共通の認識になりますように」というお便りとともに、二千円頂きました。ありがとうございました。

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NEWS

ースNo156(2001年9月1日発行)

●ニュースNo156(2001年9月1日発行)

◎6・30集会報告(3)阿藤さんの講演

大井町ビラまき報告

 

□6・30集会報告(その3)  

無実は無罪に ・・・再審の扉を打ち破ろう

阿藤周平さんの講演

6月30日に行われた富山集会での阿藤周平さんの講演を掲載します。見出しは事務局の責任でつけさせて頂きました。

 こんばんわ。今日は天気が悪いのにわざわざ足を運んで頂いて誠にありがとうございます。私も大阪からまいったんですけれども、列車に 乗っている時から雨が降って、大変かなぁ、集会どうなるんだろうと心配していたんですけれども、やはりみなさんおいで下さって、本当にありがとうございま す。
私は何回かここでお話していますが、また同じようなことになると思います。しかし、私は私の経験したことしか話せないんです。その経験から、今も続いているえん罪がこれからもう起きないようにしたい、それが私の願いなんです。
この4月に広島で八海事件の50周年の集会がありました。みなさん、「かちとる会」の会報でお読みだと思います。そこで申しあげたんですけれども、とに かく私は死ぬまで八海の体験を語っていく。八海で何があったかそれをみなさんに知って頂いて、この先、命の続くかぎり八海の私として、えん罪を受けた生き 証人として、えん罪をなくすたたかいをしていきたい。警察がどのようにひどい拷問によって、やってもいないことを自白さ せたか。その「自白」によって、裁判所は私に3回も死刑判決を出している。八海事件は裁判所に7回も行っているんです。最高裁は、第一小法廷、第二小法 廷、第三小法廷と三つしかありませんがそれに全部行っている。
三回目の最高裁の判決は、もうこれ以上やってもむだなんだと、ここらへんでピリオドを打った方がいい、これ以上被告やら家族に迷惑をかけたらいけないんだ ということを言って自判し、無罪判決が確定しました。三回目の最高裁の判決に敬意を表しますけれども、私は遅すぎたと思うんです。それまで十八年近くか かった。もっと早くその判決が出なかったのかと思います。

□支援の力の大切さ
私、今日こういう資料を持ってきたんです(冊子『地獄の図・・・八海事件に見る』を見せる)。これはあまり市販されていません。
今回、特にみなさまに申しあげたいのは大衆運動がいかに大切か、えん罪を受けた者にとって、そして裁判所を監視する上で、いかに大切なものであるかということです。そのことを八海は示しているんですよ。
八海事件は第1回目の差戻し審で無罪になった。その時には大きな支援運動があったわけです。けれども、無罪になってヤレヤレと解散してしまった。ところが、検察官は再上告する。無罪判決に対して、有罪にしろと再上告をしたわけです。
私たちは最高裁を信じていました。ところが、二度目の最高裁は第二小法廷で、下飯坂というのが判事なんですけれども、松川事件を有罪にしろと言った有名な 裁判官で、八海事件でも無罪を破棄して有罪にしろという判決を出したわけです。運動が途切れたその隙をついて、死刑にしろということで、また差し戻しで す。それでまた2回目の差戻し審で広島高裁にもどって、今度は死刑判決になった。その時に八海の運動はなかったわけです。その時、運動は途切れていたんで すけれども、それを神戸の高等学校の先生が支援に立ち上がってくれました。その時の冊子がこの『地獄の図・・・八海事件に見る』です。その運動の成果がこ れに書かれているんです。いかに難しかったか。一旦、運動が途切れて、またこれを掘り起こすのはなかなか難しいんです。それを神戸の先生がこの冊子で ずっーと書いている。どういうふうに運動を作っていったか。高等学校の先生が社会科の教室で『真昼の暗黒』を上映して生徒に見せるんです。今だったら問題 になるでしょうね。それで生徒から私に激励のハガキが来るんですよ、頑張ってくださいと。その先生方はね、教職員組合の全国大会で訴えている。広島の原水 禁運動でも毎年まわって訴えている。
八海のたたかいでは強力な武器があったからよかったんですよ。『真昼の暗黒』の原作となった正木弁護士の『裁判官』『検察官』。そして映画『真昼の暗 黒』、こ れが武器だった。それが全国的に広まった。でも、私は、そういう武器がなくても、みなさん一人一人が口頭で、こういう事件があったと言うのも一 つの武器だと思っています。身近な武器なんですよ。
えん罪事件を起こさないために、今起きているたたかいを通じて、みんなの力で権力の横暴を押さえないといけないんです。何回も何回もこうやって富山さん の集会に来てね、同じこと言ってますけれどもね、やはり運動をやらなければいけないんです。一人でも二人でもいいんです。知って頂きたいんです。現にこん なひどい裁判、えん罪で苦しんでいる人がいると知って頂きたいんです、みなさん。
私は独房で12年間過ごしましたが、何が一番に心強 かったか。自分の信念には自信がありました。けれども、高い塀を越えて支援者の声が私に伝わってくる、力づけてくれる、それが大きな原動力になってたんで す。今でも私は思います。もし、あの時に一高等学校の先生たちが立ち上がって、全国の高等学校の先生たちに支援運動を広めてくれなかったらどうなっていた か。3回目の最高裁で無罪を勝ちとったのは、みなさんの支援のおか げなんですよ。それがなかったら私、絞首刑になってたかもわかりませんし、絞首刑になってなかったら、まだ獄中でね、やれ再審や、やれ再審やって請求を出 してたかもしれません。それを思うと身の毛がよだつ恐ろしさです。それを考えると、いかに支援運動が大切かということです。私が、18年八海で苦しめられ た本人が言ってるんですから。
だから、私はこうして何度も何度もみなさんに申し上げたいんです。裁判所を監視しようと。権力に対して、一人の力では弱いからみんなの力を結集してあたっていこうと。

□警察は変わっていない

私の無罪が確定して32年になります。八海事件が起きて50年、半世紀です。しかし、今も警察は同じことをやっている。一緒ですよ。私はえん罪事件はなくならないと思います。
五十年前の、私たちの時の警察と今の警察、変わったのは服装だけだと思うんです。それと当時は女性の警察官が全然おりませんでしたからね。そんくらいのも んですよ。中身は一つも変わってない。取り調べにしたって、今でも拷問はありますよ。今の拷問は巧妙になっているんです。私の時にはぶったり叩いたり。今 の警察は知能犯になってますから簡単には暴力はふるいませんよ。朝から晩まで取り調べをやったりして、精神的に苦痛を与える。これもはっきりした拷問なん ですよ。肉体の拷問よりも、もっときついかもわかりません。私は今もどこかでえん罪が起きているんじゃないだろうか、警察で誰か無理な取り調べを受けてい るんじゃないだろうかと思います。
八海事件でも私たちの無実を証明する証拠が警察にあったんですよ。私は事件現場に行かれないという、時間的に合わないんだという証拠があったんですよ。な のに私たち無実の4人をぶって、叩いて、「はい、やりました」で終わりなんです。そして、あとから警察にとって都合のいい「証拠」を持ってくる。
いい例があります。吉岡という真犯人は、逮捕されて血が着いた爪から何から全部取られているわけです。その爪から血液反応が出ているんですよ。私たちも 爪を取られました。鑑定書にそれがどう書かれたかというと、吉岡の爪の血液反応は、左手の人差し指から出たとか、右手の何から出たとか、一つ一つ克明に書 いているわけです。僕たち四人のは、4人の爪を全部一緒にして、それじゃ誰の爪かわかりゃしませんわね、それで血液らしいものを見たけども、これは微量や からわからんと。そういうことをやるんです。
八海事件の被害者宅の前に畑があるんですけど、そこに足跡があった。犯人の足跡だということで、僕らの履き物も全部押収された。その足跡を出せと裁判所に 弁護人が言ったわけです。そうしたら警察は、ちょうど新庁舎に移転した、その時に証拠品をなくしてしまったと、こう言うんですよ。ひどいもんです。これ、 現実にあった話なんです。僕は今でも警察の制服を見たらあまりいい感じはしません。根っから私には染みついてますから。

□検察官   ・・・権力は何をするかわからない

八海は無罪が確定するまで十八年かかりました。本来なら6、7年で終わっているはずなんですね。それを検察官が上告して、最高裁に行ったり来たりして、そ れからまた7年以上かかっているんです。無駄なことをやっているんです。検察官が面子のためにそれをやるわけですよ。私が絞首刑になろうと、無実の罪に苦 しんでいようと、そんなの関係ないんですよ。とにかく面子です。私は検察官の面子のために3回、死刑判決を受けた。
黙っていたら、検察官は何をするかわかりませんよ。八海の時だって、みなさんも御存知と思いますけれども、私たちに有利な証言をしている証人を偽証罪で逮 捕して、ぎりぎり20日くらい勾留して、いじめて、嘘の証言をさせている。五年も六年も経ってから偽証罪でしょっぴいて、私のアリバイを崩す。そして起訴 して、裁判で検察官は自分から執行猶予の求刑をする。そうまでして3人を偽証罪で有罪にして、それを僕たちの八海事件の裁判の土俵へ持ってくるわけです。 そういうことやるんですよ。
検察官はそこまでやる。諦めない。
八海事件は無罪になってますけど、偽証罪にかかったその証人たちは有罪が確定してそのままです。矛盾してますよ。偽証罪にされた三人に弁護士が再審請求 を出そうと言いましたが、その3人はこれ以上騒いでもらいたくないんだと、再審請求出したら新聞社が騒ぎますよね、そんなことしたくないんだ、そっとして おいてくれと言うんです。みんなの面前に、また八海で蒸し返されるのはご免だと。それで、そのままです。
そうかと思えば、八海には真犯人がいるんですが、吉岡って言うんですけれども、その真犯人が阿藤たちと一緒にやったとずっと言っている。それが、最後の、 3回目の上告審の時に、その真犯人が無期懲役で広島刑務所にいたんですけれども、良心の呵責に耐えかねて、阿藤君たち4名は関係ないんだと、無実だという 訴えを書いて、最高裁、最高検、弁護人と、全部に発信しようとしたわけです。すると広島刑務所は発信を不許可にするんです。刑務所が握りつぶしているんで す。おまけに、そういうものを外に出そうとしたからということで、吉岡という男は懲罰房に入れられているんです。それでも、無実であるということを何とか 訴えたいと、最後の手段で、吉岡は出獄する人に口頭で、広島の原田弁護士に、阿藤たちの無実を訴えた書面を最高裁に出したけれども刑務所が発信してくれな いんだということを言うてほしいと頼む。出所した人が原田弁護士に伝えて、それで問題になりました。参議院の法務委員会にかけられ、当時の法務省の局長が 呼び出された。そして、実際に吉岡の上申書はあって刑務所に保管していると、だけど一切出さないんだと言っているわけですよ。それで、その書面を提出しろ という提出命令を最高裁判所が法務省にした。そうすると法務省はしぶしぶ出してきました。十九通出ました。それを第3回目の上告審の口頭弁論の時に取り調 べた。
私は吉岡の書面で無罪になったんだとは思ってません。それが決定的な証拠だとは思ってません。他にたくさんあったんですから。それより私が怒るのは、そ ういうものを広島刑務所と検察庁がグルになって差し押さえたりして出さない、その権力の陰険なやり方に私はものすごく怒りを感じるんです。
だから、みなさんに申し上げたいんですよ。みんなで監視していないとあかん。権力は何をするかわからないんです。甲山事件もね、民衆の力です。検事は上告 を断念しましたが世間が怖いからです。そこに、ぼくは大衆の力、運動がいかに必要かということがよく示されていると思うんです。

□むちゃくちゃな裁判官がいる

私が富山さんの再審を支援して12年位になるでしょ。今もってまだ結果が出ない。私にはわからないですわ、なぜ出ないのか。なぜ再審請求をしてから7年も 8年も結論が出ないのか、裁判所はなぜほったらかしにしているのか。みなさんもそう思いませんか。ほったらかしにしているのか調べているのかもわからない んです。裁判官は高い塀の向こうやからね。ああいう人種の考えていることはわかりません。もっと開けた裁判官がいたらよろしいんですけども。
八海事件の時もそうでした。むちゃくちゃな裁判官がおりました。第一審の藤崎裁判長というのがいるんです。その藤崎が退官して、福岡で公証人になってい る。それからしばらくして参議院の選挙があったんですよ。それに藤崎が全国区で立候補したわけです。立候補すると所信表明というのがありますが、そこに藤 崎が何を書いたかというと、「八海事件は黒だ」というのが所信表明になってたんです。当時、正木ひろし弁護士が「阿藤君、藤崎が参議院議員に立候補したけ ど何票とれるか見ものや」言うて。五十票かなんかだった。しかし、所信表明でまだ「八海事件は黒だ」と、えらい執念ですよ。
当時、八海事件の裁判と並行して、岩国の大きな事件の一審があったわけです。20歳くらいの若者が犯人でした。それに藤崎は死刑の判決を出しているんで す。その時のことを藤崎が本に書いているんですが、阿藤を死刑判決にしたのは当然だから平然と言い渡した、もう一人の20歳くらいの人を死刑判決をするの には躊躇してものすごく悩んだと書いている。僕を死刑するのは平気でできたと言うんです。そういう裁判官ですよ。そういう裁判官にかかったら、どんなにえ ん罪だと訴えても、自分の無実を訴えてもだめなんです。裁判官は高いところでじっと並んでいる。僕たち被告をじっと見てる。君たちは罪を逃れたいから嘘を 言っているんだというような頭なんです。そこへ私たちがなんぼ真実のことを言ったって、裁判所は信じてくれません。それが原因で八海事件では7回も裁判が 続いた。
先ほど木下さんのアピールにもありましたが、狭山事件の控訴審判決を出した寺尾裁判長、八海事件では、一審、二審の死刑判決を覆した最高裁の調査官でし た。ところが、狭山事件では有罪判決で無期を言い渡している。死刑にするのは自信がなかったんでしょう。一等減刑して無期にしている。私もですが、狭山事 件でも減刑にしてくれとは裁判所に訴えてないんですよ。やってないのだから無罪しかない。有罪だと言うのなら死刑。八海でも有罪と認定したら死刑なんで す。それを無期懲役にしとく。裁判官は自信がないんです。怖いんです。寺尾裁判長はわかってるんですよ、石川さんが無実だというのを。わかりつつ一等減じ て無期。自分の良心をごまかしているんですよ。だから私はね、私の事件で無罪にしたからって偉い裁判官だと思ってません。当然のことをやった。ただ勇気は いるかもわかりません。あたりまえのことをするのに勇気なんかいらないと思うんですけれどもね。
私の時は7回の裁判ですからね。こんな裁判は、あとにも先にも、もうないでしょ。起こらないでしょ。起こっては困りますけれども。その間、裁判官が何人関 わったか。その半数が有罪、あとは無罪に分かれたんです。八海事件という一つの事件を見るのに、例えれば、リンゴなんですよ。リンゴが置いてある。同じリ ンゴを見るのに、左から見るのと、右から見るのとでは違ってくるわけですよ。色は違うかもわかりませんよ。でもおんなじリンゴなんですよ。それが片やリン ゴじゃなしに梨だと、ぐるぐるぐるぐる振り回されている、八海は。そういう裁判が実際に起こっていたんです。
いろいろと司法の改革とか陪審員とか言われますけれども、僕は一緒だと思うんですよ。陪審員でもえん罪事件は減ってないですよ。アメリカでもえん罪はありますがな。

□富山さんの無実を信じて

  私が富山さんの再審を支援し始めたのは、まだ富山さんが獄中に閉じこめられている時です。12年位前、まだ私が60歳くらいの時です。まだ私も若くて仕事 をやっていた時です。今、私74歳になります。なんと長いことでしょう。私にはわかりません7七年も8年も、裁判所はなんでこんなにほおっておくのか。
しかし、私は、結局、真実は強いと思うんです。それは、八海も証明しているし、死刑で25年も30年も独房にいて再審で無罪を勝ちとった方々にも当てはま る。強いんですよ、真実は。必ず勝利するんですよ。だから、私は、富山君の再審でも、富山君の無実を信じてこうやって応援してるんですよ。そして、二度と そういうえん罪が起きないためにみなさんと手を取り合ってたたかっていく。
それが八海が勝利した大衆運動なんです。そこに結びつくんです。だから私はみなさんにいつも申し上げるんですけども、やはりみなさん一人一人と一緒に、同 じ心で、こんなことを許したらだめなんだと、二度とこんなことがあってはいけないんだと、これからも起こしてはいけないんだという気持ちで関わっていきた い。それが富山君の再審のひとつの輪なんですよ。出発点なんですよ。これによって他のえん罪事件とたたかっている人たちと連帯していきたい。この運動を通 じて、今起きているえん罪事件、そしてこれからも警察や検察の横暴、そして裁判所がまちがった判決を出さないように私たちが監視しなければいけない。
私は八海で苦しめられてきました。私はまだ忘れてい ません。50年経っても忘れていません。この前も広島で申し上げたんですけれども、50年が、半世紀が経ちました。私が24歳の時なんです。今、74歳。 だけども、この私の身から八海事件を離すことはできないんです。離れないんですよ。今も目に浮かんでくるんですよ、あの警察の拷問が。あの部屋の配置が。 取り調べた刑事はメガネかけてこうだったとか、浮かんでくるんですよ。忘れられないんですよ。
自分は命のあるかぎり富山さんの再審を支援していく。ほんと、富山さんの事件とはね、心中してもいいと思っている。でも、やはり生きているうちに富山さ んの再審無罪を見たら、私は本当に心から好きなお酒をね、飲めるだろうなと思うんですよ。たまに断ってるんですけれどもね。
みなさんにもいろいろ身近なところで、職場でも井戸端会議でも、八海の阿藤がこういうふうに言っとったと伝えてもらって、少しでも開かれた司法に、えん罪 の起きない社会にしたいと思うわけです。なかなか無理だと思うんですけれど、無理でもやらなきゃいけません。この集会に来ていただいたみなさんと一緒に、 えん罪をなくすために私は頑張っていきたいと思います。どうか、みなさん今後ともよろしくお願いいたします。

  八月の大井町での署名集めは、
亀・・・・・・3名
山村・・・・・2名 でした。
富山さんはビラまき、うり美さんはお休み。

  「明日のために第十六歩目。台風一過で、日本全国は被害が大変なものでした(東京は そうでもなかったけど)。しかし、歩みを止めず、進みましょう」というお便りとともに 二千円頂きました。ありがとうございました。

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ニュースNo155(2001年8月1日発行)

●ニュースNo155(2001年8月1日発行)◎6・30集会報告–原田弁護士の講演

大井町ビラまき報告

□6・30集会報告

6月30日に行われた富山集会での原田史緒弁護士の講演を掲載します。見出しは事務局の責任でつけさせて頂きました。

  初めまして。ただいまご紹介にあずかりました弁護士の原田と申します。先程ご紹介頂いたように、私は昨年の四月に弁護士登録を致しまして、それから一年 ちょっと経ってようやく弁護士生活二年目に入ったばかりという駆け出しの新米です。そうしたわけで、こうして皆さんの前で弁護士としてお話をさせて頂くと いう機会も慣れておりませんで、かなり緊張しており詰まってしまうこともあるかと思いますが、どうかご容赦頂いて、最後まであたたかく見守って聞いて頂き たいと思います。(会場から拍手起こる)ありがとうございます。私は見てのとおりの若輩者でございまして、先程ご紹介頂いたように、この富山事件が発生した1974年に生まれております。ですか ら、当時の時代背景とか、正直申し上げてピンと来ないところがあります。例えば、中核派と革マル派が抗争をしていただとか、前進社を公安が見張っていただ とか、そういったような話をお聞きしましても、正直申しあげましてピンと来ないところがあるのですけれども、私が生まれてから今まで短いなりにも過ごして きた27年間という時間、それとほとんど同じだけの時間を富山さんはひたすらえん罪とのたたかいのために費やして来られたんだということを思いますと、途 方もない長い道のり、気が遠くなるような時間だったのではないかなと感じます。そうしたわけで、たまたま偶然ではありますが、なんとなく不思議なご縁を感 じますとともに、再審が一日も早く開始されて、富山さんの苦労が報われる日が来ることを切に願ってやみません。
私がこの富山再審弁護団に加えさせて頂いたきっかけというのは、昨年4月に弁護士事務所に入りまして、そちらの事務所のボスの先生が、「もう20年来、僕 が弁護士になった頃からずっと無罪を争ってきた事件があるんだ」ということで、箱いっぱいの記録を見せられまして、こういう事件なんだよということを説明 されました。私、最初に事務所に入る時に、刑事事件に興味があるというようなことを言ったせいかもしれないのですが、それじゃこの事件に一緒に加わって やってみないかということで、声をかけて頂きました。この弁護団の先生方がそうそうたる大ベテランの先生方ばかりで、そういった先生方がもう二十年以上苦 労を積み重ねてやって来られたのに、今さら私が入っても何もできることはないんじゃないかと気後れも感じたのですけれども、こんな機会は二度とないと言っ ては大変失礼な言い方かもしれませんが、なかば勉強させて頂くような気持ちで、フットワークの軽さだけ、若さだけ、それだけでも役に立てるかと思いまし て、加わらせて頂いて今日に到っております。

■事件の概要

前置きはこのくらいにして本題に入らせて頂きますが、この事件の概要ですとか、一審判決の内容、二審判決の問題点などにつきましては、私よりも長年支援し てくださっている皆さんの方が詳しくご存じなのではないかと思い、私が長くここでお話するのも僣越な気もするんですが、毎年、新たにこの事件を知って集会 に参加される方もいらっしゃるということなので、まずは簡単にこの事件の概要と、二審判決の問題点について説明させて頂いたうえで、7年前の再審請求以 来、弁護団は再審開始に向けてたたかっているのですけれども、現在の弁護団の、主に私が昨年参加してからのことになってしまいますけれどもそうしたたたか い、今後の見通しなどについてお話させて頂きます。
まず、事件の概要なんですが、このプログラムにも簡単に書かれていますが、事件が発生したのは1974年の10月3日、午後1時過ぎ、場所は東大井の路 上、ちょうどこの会場の近くで起きました。中核派に所属すると思われる4名の者が革マル派に所属している一名の郵便局員を路上で待ち伏せ、中核派四名のう ち3名が革マル派の1名に襲いかかって、用意していた鉄パイプで全身を殴打し、残りの1名はそばのガードレールの中で周囲を警戒したり見張っていて、機を みて逃走を指示して、それを合図に4人が逃走して行った、被害者は頭部などを殴られまして病院に運ばれたんですけれども、この日の夕方に死亡したと、こう いった事件であります。
現場には凶器である鉄パイプとかヘルメットは残っていたんですけれども、それは犯人を直接特定できるような証拠ではなかったので、警察は現場付近に聞き込 みとかしまして目撃者を捜しました。その結果、警察の方で接触できた目撃者というのが約40名ということであります。その中には、話を聞いてみたら実際よ く顔を覚えていないとか言った人もいて、34名について供述調書という形で調書が作成されて、さらにその中の26名の人に百枚以上の写真を見せて、この中 に犯人はいないかということで写真面割りをしたんですね。その時に示した写真帳というのは、中核派の活動家の写真ばかりを集めて作った写真帳だった。この 事件の背景には、事件の起こる以前に、革マル派によって中核派の活動員が虐殺されるといった事件があったそうでありまして、それに対する報復だと警察は見 て、中核派の活動家の写真だけを集めて写真面割りを行ったということです。
写真面割りを行った人のうち、最終的に11名が富山さんの写真を、この人が犯人です、あるいは犯人に似ていますという形で選別したということです。そし て、警察はそのうちの何人かに日比谷公園の集会に参加している富山さんの顔を見せて、あいつがそうかという形で確認をしました。目撃者たちは、最初、大勢 いる人の中からあの人がそうですと自分で富山さんの姿を見つけることはできなかったみたいなんですが、警察の方があれがそうじゃないかという形で確認をし て、そうですという答えを得たという経緯がありました。
1975年、事件発生の翌年の1月13日に、富山さんが凶器準備集合罪および殺人罪ということで、4名のうちの指揮をしていた1名にあたるんだということで逮捕され、のちに起訴されるということに到ったわけです。

■一審判決について  第一審の裁判は東京地方裁判所で開始しまして、1981年3月に富山さんは無罪という判決が出ました。
本件では、主に目撃証言の信用性が一番大きな争点となりました。それから、事件現場に遺留されていた鉄パイプに巻かれていた包帯四点を並べて、富山さんか ら押収した靴の臭いを警察犬に嗅がせて、これと同じ臭いのものを持ってくるようにと命じたところ、そのうちのひとつを持ってきたということで、これもひと つの争点になりました。
第一審、東京地裁が無罪であると判断した理由を簡単に紹介します。判決は目撃証言の信用性について判断するに際して、第一審では5人の目撃者が証人として 取り調べられまして、その証言、あるいは警察、検察段階での供述調書の信用性が争点となったんですけれども、これらの供述および証言の信用性を判断するに あたって、第一審判決は、まず、これらの目撃者が犯人を目撃していた時間というのは、たまたま歩いてないしは車で通りかかっただけで、ごく短時間しか見て いないという点を指摘しています。そして、さらに目撃をしてから証言するまでの間に、かなりの時間が経っているということ、そして、その間に捜査官によっ て数回にわたって事情聴取を受け、あるいは写真選別や面通し等の特定のための作業を経ていると、こういったことを考慮して、目撃者の供述について、一番初 めの、目撃した直後の記憶がそのまま忠実に供述や証言に反映されているものかどうかということに関しては慎重に判断する必要があるということにをまず前提 にしています。
そして、そうした考えに従って、5人の目撃者について、一番最初の供述から裁判所の法廷で話したことまで、犯人の特徴についてだけでなく、具体的な目撃状 況、どこでどういうふうに見たとか、4人のうちの誰がどういうふうにしていたとか、犯行状況などの周囲の状況も含めて、具体的に細かく証言の内容を検討し ています。 プログラムに供述変遷表(別に掲載)という形でまとめられていますけれども、これをざっと見ていってもわかるように、それぞれの目撃者の供述 は、事件が起こってすぐのものから、時間が経つに連れてだんだん変化しているのがわかります。こうした供述の変遷について、第一審判決はどういう評価をし たかというと、まず、事件後まもなく作成された供述調書で目撃証人たちが犯人の特徴を述べているけれども、それぞれの言っていた特徴点は必ずしも一致して いない、にも関わらず、その後、捜査官による事情聴取や写真選別、面通し等を経ていくうちに、次第にそれぞれの目撃者の供述する犯人の特徴というのがだん だん共通のものに近づいていっていると判決は分析しています。
具体的に言いますと、顔の特徴に関しては、例えば、供述変遷表にあるYさんという目撃者は10月3日、これは事件直後の供述なんですけれども、「丸顔」と 述べて います。それが、時間を経過するにしたがって、「やや 面長で角張った感じでアゴが出ていた」とか、「アゴが 張っていた」というような、当初 言っていなかったことが表れてきます。次のSさんについても、当初は「面長」と言っていたのですが、最終的には「角張った顔」と言うようになっています。 同じようなことはOさんの供述にも見られる特徴です。体格に関しても最初は「中肉」だとか「やせ型」だとか言っていた人たちが、最終的にはみんな「ガッチ リ」だとか言うようになっているんですね。
こういった供述の変遷というのはおかしいと第一審判決は考えて、こういった供述の経過をみると捜査段階における捜査官の影響があるとも言える、とまで第一 審の判決は言っています。すなわち、富山さんが犯人であるというような捜査官の見込みに基づいて、だんだん富山さんの特徴に合うようにそれぞれの目撃者の 供述が変えられていると、その過程で捜査官の思い込みによる暗示や誘導そういったものがあったのではないかと明示しています。こういったことを述べて、第 一審判決は、これらの目撃者の供述について信用性にはかなりの疑問が残ると言って、これをそのまま採証の用に供することはできない、証拠としては採用でき ないよということで信用性を排斥しました。
アリバイに関しては、富山さんは当初からずっとアリバイを主張していたんですけれども、相当高度の立証ができていると判決は触れておりまして、最終的に無罪という判決を下したわけです。
この第一審判決を私、最初に読みまして、一般的な感覚として、この供述の変遷というのを見た時、やはり、誘導だとか暗示だとかがあったと考えるのが普通 で、そういった危険性があるということを第一審判決はきちんと認識して、それをもとに慎重に判断をしている、そういった意味で妥当な判決ではないかと思い ました。そして、目撃直後の供述が最も信用できるというふうに考えるのが、やはり自然であろうと思います。第一審判決は、やはり、一番最初にそれぞれの人 が違う特徴を言っているというところに注目しまして信用性を排斥している、非常に自然で妥当な判決ではないかなと私は思いました。

■二審判決について

こういった形で第一審は無罪だったんですが、検察官が控訴しまして、1985年6月に東京高裁の判決が出ました。一転、有罪、懲役10年という判決でした。
この第二審判決というのはいろいろ問題があるんですけれども、簡単に言わせて頂くと、まず、判断の根底として、いろいろ供述が変遷しているというようなこ とはとりあえず置いておいて、目撃者が犯人の特徴をどう言っているというようなことよりも、とにかく写真面割りで最初に富山さんの写真を選んだと、何人も の人が一致して富山さんの写真を選んだということを何よりも重視しているというわけです。そして、第二審判決は、言語表現というのは、その目撃者の表現力 不足などによって不正確な描写にとどまってしまうこともあるし、もともと記述不能な、あるいは困難な印象というのもあるから、言語表現のみを重視するのは よくないと、むしろそういう場合には、写真の利用というのを広く考えていいのではないかというふうに言っています。
そして、その一方で、写真面割りには危険性があるということには触れたうえで、そういう危険性があるものだから、正確性を担保するためには、次のような基 準を満たしていることが必要であると述べて七つの基準を立てているんですね。ですが、この七つの基準というのは弁護人の方の立場から見ると、非常に非科学 的であって、抽象的であって、本当に正確性を担保するための指針とはなり得ないものなんじゃないかという批判がされています。
例えば、その七つの基準の中に、「写真面割りの全過 程が十分公正さを保持していると認められること」と、要するに捜査官による暗示だとか誘導だとか、 そういったものはなかったんですよということが認められればいいと言っているんですけれども、面割りを行う過程について、捜査官がどのように言ってその写 真を示したか、どういった順番でその写真を示したか、そういったものが何も記録に残されていないわけです。ですので、結局のところ、面割りに立ち会った捜 査官を呼んできて、その人に不公正なことはなかったですかと聞いて、その人がそんなことはなかってですという供述をすれば、それでその公正さが認められる ということになってしまうんですね。これでは全く基準にならないということです。七つの基準はそれぞれいろいろな問題点があって、この基準はおかしいとい うことは、今、心理学的な側面からも批判をされているところです。
ところが、二審判決はこういった基準を立てて、この基準を満たしていれば写真面割りを信用してもいいんだということで、写真面割りを何よりも重視している んですけれども、写真面割りという手法に関しては、非常に問題性、危険性が大きいということで指摘をされています。どういったところに問題があるかという ことなんですけれども、例えば、面割りを行うにあたって、担当した捜査官がその事件の捜査を行っている捜査官で、犯人がこいつではないかということをいろ んな情報から知っている、あるいはそういった見込みを持っている場合に、意識的にしろ、無意識的にしろ、写真の示し方とか、確認のしかたとか、質問のしか たとか、そうしたもので暗示を与えてしまう、それによって目撃者が捜査官が選んでほしいと思っている写真を、こちらも無意識なんですけれども、選んでしま う危険性があるということですね。さらには、写真自体が選ばれやすい暗示性を持っていることもあると言われております。すなわち、いかにも犯人らしい顔つ きをしている人だとか、人相が悪く写っている写真だとか、そういったものは、それだけで選ばれやすいということがあると言われています。
写真面割りというのは非常に危険だということが、慎重にやらなければならないということが、アメリカやイギリスとかの国々ではかなり研究されているんで すけれども、この第二審判決というのは、言葉上は危険性があるということは言っておきながら、それを軽視しているというか、それをきちんと認識していると は思えません。写真面割りの結果のみをあまりにも重視し、それに寄りかかりすぎているというような印象です。
二審判決は、このように写真面割りについての基準を立てたうえで、本件の目撃者がそれぞれ富山さんの写真を選んだ、その写真面割りの過程には特に問題はな いと、七つの基準を満たしていると判断して、富山さんを写真面割りで選んだことこそが重要であるという前提に立って、それに反する供述変遷だとかそういっ たものについては無視するか、こじつけ、相当強引な解釈をして、こういった変遷があっても合理的なんだというようなことを言うんですね。
例えば、そのこじつけの例ですと、最初「細面」と言っていたのが「顔が角張っている」に変遷していることについて、細面というのは長目の顔を意味して角 張った顔というのと両立できるとも言える、というようなことを二審判決は述べています。あるいは、やせ型というのはいわゆるのっぽという意味にも解される うえ、体型全体についての表現であるとしても、顔面を中心とした印象を述べたものであるとすれば、ガッチリというのと必ずしも矛盾しないとか、普通の人が 見れば、どう見てもおかしいんじゃないかと思うようなことを判決の中で平気で述べています。そして、供述の変遷はさほど重視すべきものではないんだという 解釈をして、写真面割りで選んでいる以上、この目撃者の証言は信用できるんだと結論づけて、富山さんを有罪というふうに判断しているわけです。この二審判 決というのは目撃証言の見方に根本的な誤りがあると考えられます。
先ほど、写真面割りが持つ危険性というものについては触れましたけれども、人間の記憶というものは非常にあいまいなものです。通常、ある状況を目撃した ら、それをそのままビデオテープのように脳の中に記憶されて、それがそのまま出てくると人間は考えがちなんですけれども、実はそうではない。記憶をしてか らそれを思い出すまでの過程でさまざまな外的要素、内的要素、あるいはそれを記憶する時にも心理的状況だとか外的要素とかいろいろなものが影響して、記憶 というのは非常にあいまいなものになって変容していってしまうものなんだということが、心理学の分野ではかなり研究されているんですね。ですけれども、一 般の感覚として、目撃者が出てきて、私はこの人を見ました、この人で間違いありませんと力強く言ってしまうと、何かものすごく強固な証拠のように思われて 扱われてしまうということが起こるわけです。こういったところに目撃証言の怖さというのがあるわけです。ですから、こういったことに関する研究が進んでい るアメリカやイギリスでは、例えばイギリスでは、政府の委員会で目撃証言について研究して、危険なものだからそれだけで有罪にすべきではないのではないか というような提言を行っていたり、あるいはアメリカでは、記憶についての研究を専門にしている心理学者を専門家証人として法廷に呼んで、記憶のあいまいさ だとか、目撃証言の危険性について証言をしてもらい、それを判断の材料にするとか、そういったことがかなり行われてきているんですね。
一方、日本ではどうかというとまだまだそういった認識はない。特に日本の裁判官というのは、自分たちは事実認定だとか証拠評価をするプロなんだからと、科 学的な知見を取り入れてそれに従うということは考えないで、自分たちはプロなんだからということで自信を持っているんですね。そのくせ、一般の人の感覚か ら見ても、どう考えてもこれはおかしいんじゃないかというような判決を一方で書いたりする。こういった裁判所の姿勢というのがこの富山事件の第二審判決で は非常によく表れていると思います。

■再審開始に向けて

こうして、第二審判決で有罪が出まして、その後、上告棄却ということで確定してしまいました。そこから再審に向けての長い道のりが始まるのですけれども、 刑訴法上、再審を開始するためには、無罪を言い渡すべき明らかな新証拠が必要だということになっているんですね。弁護団はそういった新証拠を収集するため いろいろ苦労されたと思うんですけれども、七年前の1994年に再審請求を出したわけです。新証拠の中には、法廷には出て来なかった他の目撃者の証言に関 するものですとか、アリバイに関するものですとか、そういったものも多くあるんですけれども、先ほど申し上げたように、裁判所が目撃証言に対して持ってい る誤った認識、これを覆すことは再審開始のための大きな柱になると考えて、心理学者の方々の協力も得て、そういった科学的なアプローチから二審判決の目撃 証言の見方に関する誤りを実証していこうという試みをずっと続けています。
1994年に再審請求書を出した際に、鑑定書や報告書などを提出しています。それぞれ非常に大部なもので詳しい内容については簡単にはお話できないのです けれども、例えば、鑑定書では、本件のように凶器が使われ血も流れる、そのような残忍な事件においては目撃者の注目というのは凶器だとか、あるいは実際に 殴っている実行犯の方に向けられるのが通常であって、それからちょっと離れた場所に居た指揮者に注目がいって、それをよく記憶しているなんてことは普通は ありえないとし、実際に事件を再現したビデオを撮りまして、それを何人かの被験者に見てもらって、指揮者を識別できるかどうかという実験して、実際には指 揮者を識別することは非常に困難であるという結果が出ています。
あるいは、先ほど、写真自体に暗示性があって、特に選ばれやすい写真というものがあるんだと、そういう性質をもともと持っている写真があるんだというよう なことをお話しましたけれども、今回の事件をまったく目撃していない人たちに、事件の概要ですとか、ちょっとした犯人の特徴だとかの情報を与えて、今回の 事件で実際に目撃者たちに示されたのと同じ写真を見せて、この中のどの人が犯人だと思いますかと聞きましたら、実際はまったく目撃もしていないのに富山さ んの写真を選ぶ人が何人もいたと、そのような実験も行われています。
こういった科学的な見地を取り入れて、第二審の目撃証言の見方は誤っているんだということを実証し、再審を開始すべき新証拠ということで提出しています。
ごく最近の動きとして報告させて頂きますと、昨年の七月に新たに鑑定書とビデオを証拠として提出しました。これは、確定判決の中でもっとも良質の証人だと 言われておりますI証人という人がいるんですが、その人が事件当時、本当に犯人の顔を識別することができたのかということを実験を通して実証しようとして いるものです。
具体的にどういうような実験なのかと言いますと、当時のI証人の視力は大体0・4くらいだったと推測されるのですが、I証人が立ち会って作られた実況見 分調書によれば、犯人を目撃した時の彼と犯人との距離は16・45メートルであったと記録されています。ですので、視力0・4の人が、16・45メートル 離れた場所から人を見た場合にどのような見え方をするのか、その人の顔を識別することができるのかどうかということを実験したわけです。
実験は、何人かの被験者に視力を0・4に調整するようなレンズを目に着けてもらって、実際に16・45メートル離れた人物を見てもらいます。同時に、ビデ オでその人物を撮影し、そのビデオの画面も被験者に見てもらいます。そして、ビデオのピントをちょっとずつずらしていくわけです。ビデオの画面の見え方 と、0・4の視力で実際に16・45メートル先の人物を見た時の見え方が同じになったところで被験者に合図してもらう。
そして、何人かの被験者たちの平均値を取り、それに合わせて、実際に0・4の視力の人が16・45メートル離れた場所から目撃したのと同じような見え方をするビデオを作成しました。
そのうえで、そのビデオを十七人の人に二十秒間見てもらい、その後、三十枚写真を見せて、その中から今ビデオで見た人を選んでくださいという実験をしまし た。その際、髪型というのは人を識別する時の大きな手掛かりになるのではないか、目鼻だちがわからない場合でも髪型が似ているということだけで判断するこ とがあるのではないかということで、コンピューターで写真に細工をしまして、それぞれみんな同じ髪型だけど顔は違うという写真を30枚作って並べたんです ね。それを17名の人に見てもらって選んでもらった結果、正しい人物をこの人ですと言って選んだ人は一人もいなかったということが明らかになっています。 さらに、同じ方法で、今度は写真に手を加えず髪型をそのままにした写真、要するに髪型を識別のための手掛かりに使える写真を見て選んでもらうという実験も 行ったのですけれども、この場合でも正解した人は18人中3人しかいなかったという結果になっています。この実験の結果から言えることは、視力が0・4の 人が、16・45メートル先の人物を見た場合、実験ではビデオを見てすぐに写真選別をやったんですけれども、そういう状況であってもほとんどの人が識別で きなかったということでした。
実験と同じ状況で目撃したI証人が、富山さんが犯人であるとする目撃証言というのは、科学的実験結果と相反していて信用できないのではないかということがこの鑑定書で明らかにされています。

■心理学へのアプローチ

こうした法律学あるいは実務と心理学との提携というか、接点を捜していこうという試みが行われております。昨年の11月に、心理学者、法学者、弁護士など の実務家を中心としまして、「法と心理学会」という学会が設 立されました。ここでは、目撃証言についてもかなり大きなテーマになっておりまして、先ほど の二審判決の「七つの基準」、これに代わる新たな目撃証言の正確性 を担保するための基準というものを考えていこうではないかということで検討も進められ ています。実際に使える基準を作るというのは非常に難しくて、まだ形になっていないのですけれども、目撃証言の問題性とか写真面割りの危険性について日本 においても研究が進められ、かなり認識されてきている状況にあります。今年10月には、「法と心理学会」第二回大会が東京で開かれるんですけれども、その 際には、弁護団の方からも、心理学と弁護活動との接点とか、心理学的なアプローチの方法だとか、そういったことに関するレポートを富山事件の経験をもとに 行う予定でいます。
こうした科学的な知見を少しでも裁判所に理解してもらって、取り入れようという姿勢を示してもらえたらということで、われわれも裁判所に本や資料を持って いって働きかけをしています。どこまで裁判所が動いてくれるのか、まだちょっとなんとも言えないところなんですが、学会とかそういった所ではこうした動き があるということです。

■証拠開示の重要性

それから、弁護団が重点的に取り組んでいることのひとつとして証拠開示の問題があります。わが国の刑事訴訟制度においては、例えば、検察官が自分の手元に 被告人にとって有利な証拠、この人が犯人ではないと言っているような供述調書ですとか、そういったものがもしあったとしても、検察官がそれを裁判に出す意 志がなければ、それを被告人に対して見せなくてもいいというようになっているわけです。しかし、それはおかしいと、実際、過去にも、検察官の手元にある証 拠が開示されることによって、それまで闇のなかに葬られていたような事実が見つけ出されて、それがもとで再審が開始されて、再審無罪をかちとっているよう な事例がかなりあるということで、弁護団では、富山さんの事件に関しても、そういった再審開始のために力になるような証拠があるのではないかということ で、ずっと検察官に証拠開示を求めてきました。ですけれども、検察官はそういった再審開始事由となるような証拠はないと言って、頑として開示を拒んでいる んですね。
これに対して、弁護団としては、1999年2月に、裁判所の方に証拠開示命令の申し立てというのをしました。裁判所から、この証拠については開示しろとい う検察官に対する命令が出れば、それでも検察官が拒否する場合もなかにはあるんですけれども、裁判所の命令となると検察官としてもある程度尊重せざるを得 ないというようなこともありまして、裁判所になんとか検察官に証拠を出せという命令をするよう申し入れをしているんですね。その後も定期的に裁判所に行き まして、もちろん再審開始が一番の目的なんですけれども、とりあえず証拠開示だけでもやってくれということで申し入れをしています。しかし、その度に、検 討できていないとか言われまして、そうしているうちに時間が経って、裁判官の方も交代する。で、今度は、今、検察官はどういうふうに思っているんでしょう かね、ちょっと確認してみてくださいというようなことを裁判所から言われて、検察庁に行ってまた拒絶されると、そういったような状況でまったく進んでいな いんですね。
この件に関してはちょうど二週間くらい前に、新たに、なんとか証拠開示命令を出してくれということで裁判所に上申書を出しまして、来週、裁判所に弁護団が赴いて申し入れを行う予定でいます。
具体的にどういう証拠の開示を求めているかと言うと、本件では目撃者が何人もいますが、法廷に出た供述調書というのはその中の数名のものでしかない。弁護 団の方でいろいろと調査したところ、どうも富山さんは犯人ではないと言っている目撃者もいるということで、目撃者の供述調書について全部出してくれと求め ています。
その他に、アリバイの関係で、事件が起きた時、前進社という所に富山さんはいたのですけれども、そのことを立証するために、当時、前進社を警察が監視をし ていて出入りする人を見張っていてそれを記録につけていたらしいと、それを出してくれと求めています。
また、富山さんが本件で逮捕された時の逮捕写真がまったく出てきていません。本件で目撃者がこれが犯人に似ていると特定した富山さんの写真というのは、 1975年に富山さんが逮捕された時の写真ではなくて、それより3~4年前に別件で逮捕された時の写真が使われて、それを目撃者が特定して調書に添付され ているわけです。もしかしたら、その時の写真と事件当時の富山さんの姿は大分変わっているんじゃないかと。1975年に逮捕された時の写真がもしあれば、 事件当時に一番近い姿を写しているわけですから、その時のようすがわかるわけです。そうすると、事件当時の富山さんというのは、目撃者が目撃した犯人とは 実は似ていないで、3~4年前の写真がたまたま似ていただけなんじゃないかと、そういったような推測も成り立つわけです。こうしたものについて出してくれ と検察庁に求めているんですけれども、全部拒否しているといった状況です。

■再審の困難性を打ち破って
再審開始・再審無罪を

今までお話して、いろいろやっているけれどもまったく進んでいないんじゃないかという感想をお持ちかと思うんですけれども、私も昨年の4月に弁護団に加え させて頂いて、正直申し上げて、再審というのはこんなに大変なのかとびっくりしました。ニュースなんかでは再審開始まで10何年かかっているとか、そう いったようなことは聞きますけれども、私の意識が低かったのかもしれないですが、どうしてそんなに時間がかかるんだろうということを深く考えたことはな かったんですね。ところが、本件も再審請求から七年が経過していると、昨年から弁護団の活動に加わらせて頂いて、何度も裁判所に事実の取り調べをしてくれ だとか、証拠開示をしてくれだとか申し入れに行くんですが、その度に、忙しくて手がつけられないとか、まあ、はっきりそういうふうには言いませんけれど も、まだまったく検討していない状況だとか、他に大変な事件がいっぱい来ていて大変なんだとか、そういったことしか言わないわけですね。で、そうこうして いるうちに、ちょっとやってくれるかなと思うと、二年くらいで裁判官がどんどん交代していく。そうするとまたこの事件は放置されたままになってしまうとい うようなことなんですね。現実に今動いている事件の方が優先されてしまって、再審に関してはどうしても後回しにされてしまうという状況があります。
こんな状況だということは、正直、私も知らなくて、裁判官の中では、しかたがないとかいう形で常識化しているのかもしれませんけれども、やはり、一般の市 民の方、ましてやえん罪とたたかっている請求人の方にしてみれば、こんな理由で何年も待たされるというのは本当に納得がいかない、許せないことなんじゃな いかと思います。せっかく再審という制度が設けられていても、その権利は実質的には全然保証されていないじゃないかと言いたくなるような状況なんですね。 今、司法制度改革の方で、刑事事件についても迅速化が必要だとかいうことで強く叫ばれていますけれども、再審のこうした現状をなんとかしなくちゃいけない という声はどうも聞かれないようで、そういうのは弁護士としても、もっと声をあげて活動していかなくてはいけない分野なのかもしれませんけれども、現在は そういう状況なんですね。
こう言ってしまうとなんか絶望的な感じになってしまうんですけれども、再審開始をどうしたら勝ちとれるか、弁護団の方でも、なんと言ったらいいのかな、苦 心しているというか、例えばマスコミに申し入れたらどうかとかいろいろ考えるんですけれども、なかなか再審が実現しないという状況なのです。
私、こうした形で加わらせて頂いて、富山さんにも初めてお会いして、非常に穏やかな方でびっくりしましたけれども、その心中の無念さですとか、不屈の闘志 というのは本当に如何ばかりかと思います。私、まだまだ経験も浅いですし、微力ではありますけれども、一日も早く再審開始を勝ちとれるように頑張っていき たいと思いますので、みなさんもご支援をよろしくお願い致します。今日は、不慣れなもので大変お聞き苦しかったところもあるかと思いますが、みなさんあり がとうございました。(会場から拍手)

  今回の大井町での署名集めは、
亀・・・・・・5名
山村・・・・・2名
うり美・・・・0名
でした。

  「明日のために第十六歩目。遅くなりまして申し訳ありません。今年の夏は例年になく暑いようですので、熱中対策は忘れない方がよいです」
とのお便りとともに 二千円頂きました。いつもありがとうございました。

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ニュースNo154(2001年7月1日発行)

●ニュースNo154(2001年7月1日発行)◎6・30集会報告–① ②

大井町ビラまき報告

□6・30集会報告

  無実は無罪に 再審の扉を打ち破ろう!

6月30日、「かちとる会」は、大井町の『きゅりあん』で、富山さんの無実と再審を訴える集会を開きました。
今回、どのくらいの人が参加してくださるかと始まるまで不安だったのですが、雨模様の中、64名もの方々が参加してくださいました。初めて参加された方も 10名いて、富山再審弁護団以外の弁護士の方の参加もあり、富山さんの先輩や友人も駆けつけてくれて、今までにない広がりを感じた集会でした。この間、 「かちとる会」が地道につくりあげてきたものがようやく実を結びつつあるように思いました。
初めて参加してくださった方、昨年の集会に初めて参加したのに続き今回も参加してくださった方、何度も集会に参加してくださっている方、遠方にも関わらず駆けつけてくださった方々、本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。
今回の司会は山村が行い、最初に、体調を崩されて残念ながら今回参加されなかった木下信男さんからのメッセージを読み上げました。メッセージは「日本の裁 判の腐敗を糾弾する闘いの先頭に、今こそ富山事件を立てて、闘っていこうではありませんか」と熱く訴えるものでした(別に掲載)。
今回のメインは、昨年4月に弁護士になり、富山再審弁護団に参加された原田史緒弁護士の講演です。富山事件が起きた年に生まれたとのことで、若々しい、新鮮な視点で富山再審に取り組んでくださっています。
原田弁護士の講演は、ポイントを押さえてていねいに準備されたもので、わかりやすく大変好評でした。この一年間の弁護活動を通しての率直な感想は、原田弁 護士の真摯な姿 勢を感じさせ、心を打たれました。初々しさの中にもキリッとした力を持った講演に、「さわやかな風が吹き込んだという感じがした」とアン ケートにも書かれています。6ページに掲載したアンケートへの意見の 他に、「再審が大変なことは一般的には知っていたが、原田先生の話を聞いて何が大変 なのか、いかに弁護団が苦闘しているのかがよくわかった。原田先生がその点を率直に述べていたのがよかった。再審制度の不備を改めて感じ、何とかしなけれ ばと思った」とおっしゃっていた方もいました。
原田弁護士の講演は、次回のニュース(8月号)に掲載する予定です。
阿藤周平さんは、うり美さんの記事にもあるように、富山再審にかけた思いを語り、自らの八海事件での体験を踏まえて、富山再審をかちとるためには国民的な 運動を大きく作り上げていくことが必要と、富山再審への支援を訴えてくださいました。阿藤さんの講演は9月号のニュースに掲載する予定です。
東京の「かちとる会」の活動報告は、うり美さんが行いました。また今回は、広島から、富山さんを「息子のように思うとる」という大槻泰生さんが上京し、広島での活動の報告と富山再審にかけた思いを語ってくださいました。
カンパのお願いは、いつものように今回も坂本さんにお願いしました。
「長い間、労働組合で支部長として旗を振ってきた。ある時、警備に来た品川署の警察官が『俺の言うことが法律なんだ』という言い方をした。そんなことを許 しておいたら、泣く子も黙る特高警察と言われたような時代に逆戻りするよう舵をきられる。今、小泉政権によって、ポイントが切り換えられつつあるような気 がする」「えん罪をなくすということは、権力に対してものを言うことなんだと思う。ひとりひとりが大きく口を開いて、おかしいことはお かしいではないか と言わなければならない」「この運動を続けていくことが、権力にポイントを切り換えられても、汽車は正しい方向に行くんだということを教えることになると 思っている」「運動をしていくにはいろいろと費用がかかります。ぜひみなさんの協力をお願いしたいと思います」
坂本さんの訴えに応えて、会場から39、021円もカンパが集まりました。この他に26、000円のカンパが届いています。合計65、021円のカンパ、ありがとうございました。
また、木下信男さんの著書「裁判官の犯罪『えん罪』」も8冊売れ、浜田寿美男さんの『自白の心理学』も3冊売れました。
1975年に富山さんがデッチあげ逮捕された時から弁護に携わってきた主任弁護人の葉山弁護士が「デッチあげを絶対許さない」「富山再審の勝利をかちとるため生涯をかけてたたかう」と力強く挨拶してくださいました。
最後に、再審請求人の富山保信さんが発言。富山さんは、「検察官は国家権力を使って集めた記録を全部自分の手ともに置いていながら、被告側に有利な証拠は 絶対に出そうとしない。証拠開示が私の再審のカギになる」「今の司法反動に対して、この再審で打ち返していかなければいけないと思っている。ひとつひとつ の現場で勝利を積み重ねていくことを通して切り返していくたたかいをやっていきたい」「皆さんと一緒になって、まず自分が先頭でがんばっていきたい」と訴 えました。
それぞれの発言については、4ページのうり美さんの記事にも紹介されていますので、合わせてご覧ください。
原田弁護士や阿藤さんをはじめ集会を担ってくださった方々、集会を準備してくださった「かちとる会」の人々、多くの参加者の力によっていい集会になりま した。「画期的な 集会だった」「みんな生き生きしていていい集会だった」という感想も聞きました。富山再審運動がもうひとつ大きくなったように思いま す。これまでやってきたことは無駄ではなかった、小さくとも一歩一歩の積み重ねが確実に力になっていくのだと改めて思いました。再審の困難性の前に、壁に ぶつかったり、展望を見失いかけることもありますが、こうした集会での出会いは勇気と力を与えてくれます。もっと、もっとがんばらなければと決意を新たに しました。
ともに富山再審の開始、再審無罪をかちとりましょう!  (山村)

  □集会報告
6月30日、富山集会は「富山再審-無実は無罪に 再審の扉を打ち破ろう」というタイトルで行われた。
集会をやろうとすると、まずはこのタイトル名に苦労する。再審請求を申し立ててから今年で7年になるが、遅々として審理が進まないため、今回もなかなか気の利いたタイトルが思い浮かばなかった。
定例会で結局決まらず、定例会のあとの酒席(本会議という)で「これがいい!」と決めたのが、「来て、見て、納得!-富山事件」(どっかで聞いたことがあるようなフレーズ!?)であった。
ついついリズムの良さに決めたはいいが、今回は富山事件のビデオ上映はないし、図や展示物での説明もないため、初めて富山集会に参加した人に、「納得!」 するまで理解していただけるだろうかという懸念から、このサブタイトルは抹殺されてしまった(ちょっと、残念!)。
結局、「再審の扉を打ち破ろう」という無難なタイトルに落ち着いたというわけである。
さて、今回の集会は、そのタイトルどおり、再審の扉を打ち破るための「富山再審にかける想い」が発言者一人一人から感じられた集会だったように思う。
富山再審弁護団からは、昨年の4月から弁護団に参加した原田史緒先生が講演を行った。原田先生は、富山事件が発生した1974年に生まれており、「当時の 時代背景は正直言ってピンとこないが、私が生まれてから今まで短いなりにも過ごしてきた27年間という時間、それと同じ時間を富山さんはひたすらえん罪根 絶の闘いのために費やしてきたと思うと、途方もない、気が遠くなるような時間だったんじゃないかと思う」「経験も浅いし、微力ではありますけれども、一日 も早く再審無罪を勝ち取れるようにがんばっていきたい」と語っていた。
「富山さんの事件とは心中してもいいと思ってる。元気なうちに富山さんの再審開始の結果を見たら、心から好きなお酒を飲めるだろうなあ」と語ったのは八海事件の元被告とされた阿藤周平さん。
「富山さんとは、子供のじぶんから知っている。彼のお父さんとは、郵便局の仲間です」「富山君を『支援』するのではなく、自分の問題としてたたかっていき たい」「広島で もこのような多くの人たちの集会が持てるように一生懸命がんばっている。富山の再審請求が勝ち取れるまでがんばっていかなくてはいけない と思っています」と語ったのは、広島かちとる会の大槻泰生さん。
「われわれは、ともすると権力は犯罪を行うものだと、えん罪をデッチあげるものだというようなわけ知り顔になって、権力に対して一点でも許すようなことが あってはならない。そのようなものがあるとするならば、それをぶち抜かなければわれわれの未来はあり得ない。デッチあげを絶対に許さない、このことを貫き 通すことが決定的に重要だと思っている。阿藤さんが富山再審と心中するつもりであると言われましたが、こうなった以上、私も徹底的にやるしかない、生涯か けて闘わなくてはならないと思っている」と語ったのは主任弁護人の葉山岳夫先生。
そして、私はかちとる会の活動報告で、「私がこの再審運動に関わってからでさえ十三年になる。私自身、この再審運動に関わることにより、いかにえん罪で苦 しめられている人が多いのか、いかに泣き寝入りをしている人が多いのか、そして一度汚名をきせられたら、なかなか自分の無実を証明することは難しいという 今の社会の闇の部分を見ることによって、この社会のあり方というものに矛盾を抱くようになった。そういう意味においては、私のこの13年間は決して無駄な 時間ではなかったと言えるかも知れないが、富山さんにしてみれば汚名をきせられている時間が日々蓄積されているという状態だと思う。もう、こんな悲劇が起 きる世の中を止めにしなくてはならない。今後も他のえん罪事件の人達と連帯しながら全力でがんばる」と誓った。
集会をするたびによく思うのだが、富山再審運動は、さまざまな人に支えられていることを強く感じる。この想いに報いていくには、必ずや再審を開始させ、無罪を勝ち取ることでしかないだろう。たとえ何年、何十年かかろうと。 (うり美)

□あなたの意見を次の企画に生かしたい― アンケートから

▼一つ一つの発言にとても重みがあり、大変感動いたしました。原田史緒弁護士が新たに弁護団に加わったことはものすっごくよかった。非常にさわやかな風が吹き込んだという感じがします。ともに無罪までたたかいぬきましょう。(49才/男性)
▼原田弁護士の話も、阿藤さんの話もよかったです。再審運動が丁寧につくられてきている様子が伝わってきました。困難な闘いですが、がんばりましょう。 (46歳/女性)
▼原田弁護士の奮闘に敬意を表します。整理されてわかりやすかったです。
阿藤さんのご発言は冤罪に苦しめられてきたご自身の体験から、大衆運動を起こさなければいけないことが強く訴えられ、身のひきしまる思いで聞きました。
素晴らしい内容の集会だったと思います。これからもっと積極的にがんばりたいと思います。 (57歳/男性)
▼若い弁護士の参加、うらやましい。
阿藤さんのお話は、いつも感動し、考えさせられます。若々しい声で、引き込まれる話です。  (42歳/女性)
▼多くの人が参加したと思います。日本の司法、裁判は長く時の権力にしたがっていると思います。人権を守らなくてはいけないと思います。皆さんよくがんばっていると思います。  (68歳/男性)
▼阿藤氏の講演でえん罪のこわさが身にしみました。もしかしたら明日は我が身となるかも知れません。本当に、本当に、権力は正しく行われなければ「真昼の暗黒」です。こわい世の中です。でも、みんなの力で一すじの光となることを祈りたいと思います。  (62歳/女性)
▼どうやって、この扉をうちやぶるか! 多士済々の方々の総決起ですね。工夫を凝らした集会企画が印象にのこっています。心ひきしまる集会です。
法学部に学ぶ学生たちにとって、テキストにでも演習用に使える「事件」です。すでに刑をつとめ、くやしいと思いますが、あきらめないで頑張って下さい。
人の親になっていれば、それぐらいであろう若手の弁護士の方(原田弁護士)の講演を聞きながら、感動しました。真実の継承というのは一世代でなく、脈々として伝承されているものだということを教えられました。感謝!
阿藤さんの話も感動!(大衆の運動の不可欠性)
人の話は聞くもんですね。  (52歳/男性)
▼阿藤氏が、この運動を大衆運動として闘っていくことの重要性を語られていました。私も本当にそのことが重要であると思います。人権の闘 いとして大衆の中に多くの支持を得ていくこと、そのことの本当の意味をとらえていくことに、再審の展望が開かれるのだろうと思います。  (51歳/男 性)
▼原田弁護士の講演が良かった。  (59歳/男性)
▼原田弁護士が若く美人で、富山弁護団にこんな人がいるのかと少しうれしくなった。
木下先生の本「裁判官の犯罪『冤罪』」が出版されたが、一回出た判決を正す(覆す)のに、どうしてこのように消極的すぎるのか。完全な人間はいない。
日本にも陪審制をという声もあるが、今のように、刑事犯として疑われた人は、自分で無罪を証明できない限り有罪にするのはよくない。また、中核派で目立つ存在だった富山さんを、犯人像としてつくりあげた検察側、組織のあり方も早く正してほしい。
トイレ休憩があったら本がもっと売れそうだ。集中力も長丁場はなかなか続かない。
うり美さんが、前に学校の弁論大会で優勝されたことがあると聞いていたが、今日もなかなか迫力がありよかった。 (41歳/女性)
▼皆さんのお話はわかりやすかったし、とても良かったですが、図があった方がもっとよくわかるかなと思いました。  (28歳/女性)
▼「かちとる会」のあいさつがよかった。
原田さんの講演は事件説明よりも、彼女の感想、意見等に時間をさいてもらいたかった。
阿藤さんもやはり年を取ったなぁと思います。しっかり老人力がついてますねぇー。 (59歳/男性)
■阿藤周平さんから(アンケートに書いてくださいました。)
この集会に参加して下さったみなさん、本当にありがとう。えん罪事件のために共にがんばりましよう。みなさんの御健闘をお祈りいたします。一日も早く再審開始を。  (阿藤周平/73歳)

□木下信男さんからのメッセージ

本日の富山事件の集会に、体調不全のため出席できませんので、書面にて、ふつつかな意のある所を述べさせて頂きます。
ご承知と思いますが、われわれを支援してくれている、阿藤周平さんに対し、かつての八海事件一・二審死刑判決を覆し、広島高裁に差し戻したのは、当時最高 裁で調査官をしていました寺尾正二、その人の力でした。阿藤さんの苦難はなお続きましたが、その寺尾氏が、狭山事件控訴審において、裁判長として、一審死 刑の石川一雄さんに、死刑は破棄しますが、無期懲役を言渡したのです。石川さんの以後の苦難はこんにちまで続いてやむことはありません。
これは、いったい、どういうことでしょうか。簡単に言えば、狭山の差別裁判であることを、つまり石川さんの無実であることを知悉していた最高裁が、それを 糊塗するために、永久に無罪にすることのない無期懲役を、寺尾に強いたことは間違いありません。「裁判長、これはペテンだ!」と叫んだ弁護人の絶叫が、こ れを示してあまりあります。
わが国の刑事裁判は全く腐敗しているのです。現在、司法制度改革審議会が、なお論議を続けておりますが、このわが国の裁判の腐敗を根底から剔抉(テッケツ、えぐりだすこと)しない限り、到底、その成果を望むことはできません。
富山事件の、一審無罪・二審逆転有罪判決も、わが国の刑事裁判の腐敗を余りにも明白に示しております。再審請求以来、東京高裁が、裁判長を次々に更迭し、 審理をヤミクモに遅延させる以外に、何らの誠意ある、責任を明確にする対応を見せていない事実こそが、これを実証している、と言うことができましょう。
しかし私たちは、これにたじろいでは、絶対になりません。日本の裁判の腐敗を糾弾する闘いの先頭に、今こそ富山事件を立てて、闘って行こうではありませんか。
皆様がたの、熱烈なご支援とご奮闘を、切に切に要望させていただきます。 (木下信男)

□検察官は証拠の全面的開示を!

(6・30集会に参加し、広島に戻られた大槻泰生さんから早々と原稿を頂きました。紙面の都合で二度にわけて載せさせて頂きます。)
1945年8月6日、午前8時14分、放射能に射抜かれ、爆風に吹き飛ばされ、全裸の体を熱線によって灼かれ、生き地獄、人間の尊厳の究極的破壊、あれから56年の年月が流れました。
マスコミの世論操作によってものすごい人気(?)を得ている小泉首相は、戦前に「欲しがりません。勝つまでは」のスローガンで戦争へと駆り立てていった考 え方と同じ考え方で、中小の企業や弱者を切り捨て、老人や子供たちの福祉を切り捨てて、戦争をやるための「改革」に乗り出しています。
私は、あの戦争を「正義の戦い」であると信じて加担してまいりました。その結果が原爆投下です。私の肉親は地獄の洗礼後、56年を経過した今日も私の元に帰ってきませんし、私自身、雨の前日や寒い日など気候の変り目には体が痛みます。
戦争は最大の差別行為であり、その被害を受けるのは労働者階級であることはいうまでもありません。それならば、被害をくい止める力を持っているのも労働者だと考えています。
小泉首相は「聖域なき構造改革」という名のもとに、憲法第9条の改変、平和・人権の圧殺を狙う教育基本法の改悪、司法改革など、私たちが幸せになれる世のなかをめざす改革の動きとは反対の方向へ進んでいます。
富山再審は、このような情勢の中で勝利しなければならないのです。富山君は無実であり、無罪です。検察官の手持ち証拠を全面的に開示させなければなりませ ん。私たちは自分のたたかいとして、検察官はすべての証拠を開示せよと声を大にして要請していこうではありませんか。再審の扉を打ち破り、数多くのえん罪 事件の勝利にむけてたたかいぬこうではありませんか。
(無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる広島の会・大槻泰生)

  □検察官は隠し持っている証拠を開示せよ!

富山再審弁護団が証拠開示命令を求める上申書を提出
6月15日、富山再審弁護団は、東京高裁第三刑事部に対し、検察官に証拠開示を命ずるよう求める上申書を提出しました。
上申書は、三年間にわたって証拠開示を求めて、検察官、裁判所と折衝してきた経緯を述べ、検察官が弁護人の再三の申し入れにもかかわらず、開示を拒否し続けていることに対し、
「検察官は、不提出証拠の中に、再審開示事由に該当することを証明するに足る証拠はないとして、開示を拒絶しているが、再審開始事由に該当することを証明 するに足る証拠であるかどうかの判断は、検察官の視点からのみ判断されるべきことがらではなく、開示した後に、請求人、弁護人、裁判官らの視点から点検を 行い、初めて客観的な判断が可能となるものであり、検察官の述べるところは、開示を拒絶する合理的な理由とはなり得ない」
「本件にかかわる不提出証拠の中にも、請求人の無実を明らかにする可能性のある重要な証拠が含まれており、検察官はあえてそれを隠そうとしているのではないかとしか考えられない。本件確定判決は、それほどに基盤の脆弱なものなのである」
「本件において、弁護人が開示を求めている不提出証拠は、いずれも真実究明のためにきわめて重要な意味を持つものである」
「再審請求から早七年が経過しようとしている。しかし、審理は遅々として進まず、請求人の無実の叫びは宙に浮いたままである。証拠開示こそが、救済のための第一歩となりうる」
として、検察官に対して、証拠を開示するよう、裁判所が命令を出すことを強く求めています。
弁護団のたたかいに連帯して「かちとる会」も証拠開示を求める署名運動を展開しています。
みなさんのご協力をお願い致します。  (山村)

休載 (なお、今回の大井町での署名集めは、6月30日の集会のビラをまくことにしぼり、お休みしました。)

   「明日のために第十五歩目。体に気をつけて、こつこつ進みましょう」というお便りとともに二千円頂きました。ありがとうございました。

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NEWS

ニュースNo153(2001年6月1日発行)

●ニュースNo153(2001年6月1日発行)◎阿藤周平さんと富山保信さんを囲む集いinヒロシマ

大井町ビラまき報告

 

裁判官の犯罪「冤罪」著者=木下信男さん
発行=樹花舎(2400円)
富山再審の支援もして下さっている木下信男さんの著作。袴田事件、免田事件、波崎事件を中心に紹介、「犯罪の証明」もないのに死刑判決を言い渡す裁判官の 犯罪を明らかにし、無実なのに死刑判決を受けている波崎事件の富山常喜さん、袴田事件の袴田巖さんの支援を訴えられています。
「かちとる会」にご連絡頂ければ、著者である木下さんのご好意で、定価より安くおわけ致します。ぜひ、読んでください。

自白の心理学

著者=浜田寿美男さん
発行=岩波書店(700円)
なぜ人はやってもいない罪を自白するのか。宇和島事件、甲山事件、仁保事件、袴田事件を通しての分析。
「かちとる会」でも扱っています。

□6・30集会の成功を

無罪は無罪に 再審の扉を打ち破ろう!

6月30日(土)午後6時30分から、東京・品川区大井町の『きゅりあん』で、富山さんの再審の開始・再審無罪を求めて集会を開きます。ぜひ、多くの方々が参加されるよう訴えます。

■集会のプログラム
▼講演
原田史緒弁護士(富山再審弁護団)
阿藤周平さん(八海事件元被告)
▼「かちとる会」からの報告
東京「かちとる会」(うり美さん)
広島「かちとる会」(大槻泰生さん)
▼カンパのお願い
▼葉山岳夫弁護士(富山再審主任弁護人)からのあいさつ
▼富山保信さんから

□報告

富山さんの再審無罪を勝ちとろう!

阿藤周平さんと富山保信さんを囲む集い in ヒロシマ

「八海事件発生50周年記念のつどい」が開かれた4月21日の翌日、「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる広島の会」の方々が、阿藤周平さんと富山保信さんを囲む会を開いてくださいました。
この日、大槻泰生さん、富山さんの高校時代の同級生や後輩、富山さんの友人たちが集まってくださり、東京から参加した坂本さん、うり美さん、亀さん、山村も含めて十四人の集いになりました。
最初に広島の「かちとる会」から、広島での富山再審への取り組みが報告され、続いて東京の「かちとる会」事務局の山村から、この間の弁護団の活動や証拠開示を求める署名をはじめとする運動について報告しました。
その後、阿藤さんが八海事件の経験や富山再審への関わりについて話してくださいました。
阿藤さんは八海事件での権力のやり口を例をあげて弾劾し、八海事件で支援運動の果たした役割を強調され、富山さんの再審への支援を訴えてくださいました。
「権力によるえん罪を監視していかなければならない。黙っていたら何をされるかわからない。映画『真昼の暗黒』の影響力は大きかった。当初、配給を予定し ていた東映に最高裁から横やりが入り上映できなくなり、現代プロが自主上映という形で上映することになった。労働組合から援助を受け、俳優も手弁当で映画 が作られた」
「第一回の差し戻し審で無罪判決が出て一旦運動が下火になった。ところが、その後、また差し戻しになり、第二次差し戻し審で死刑が言い渡された。しかし、 もう一回、運動を盛り返すのは並大抵のことではなかった。その中で最初に立ち上がってくれたのは広島と神戸の教職員組合の先生たちで、〔『八海事件』被告 と家族を守る会〕をつくって支援してくれた」
「今はもうこんなひどい裁判はないだろうと思っていたが、それは甘かった。富山さんの事件をはじめ多くのえん罪事件がある。
八海事件は大衆の運動がなかったら勝てなかった。権力に立ち向かっていく大衆の力、一人一人の力を結集していくことが必要。富山事件でも小さくとも、一人でも、こつこつ、地道に積み上げていけばいい。真実ほど強いものはない」
「富山再審の支援を始めた時、富山君は獄中にいた。今は獄外(そと)にいるが、いまだに再審は開始されず、犯罪者の汚名を着せられたまま。宙ぶらりんな状 態で社会復帰ではない。トコロテンみたいに刑期が終わったから出されただけ。富山君は自分の意に反した10年を強いられた。外に出たからいい、ではない」
「私たちは裁判所は正しい結論を出せと要求しているが、何度も裁判官が交代し、そのたびに一からやり直しだ。裁判官は交代できるからいい。他の裁判所に行 けばそれで終わる。しかし、富山君はじっと待っているしかない」「裁判所は早く結論 を出してほしい。みんなの納得のいく決定を出してほしい。それは再審 開始の決定しかない」
「私が元気なうちに富山再審を実現してほしい。そうしたら、ヤレヤレと八海事件だけ引っさげて墓に行くかもしれん。そのためにも広島のみなさんも頑張って 支援して頂きたいと思います。6月30日には、東京の集会に行きます。その席で、こういう恐ろしいえん罪があると知ってもらって、一人でも二人でも支援の 力を貸して頂きたいとお願いしよ うと思っています」と訴えてくださいました。

  富山さんからの再審への支援の訴えの後、参加者が意見を交換しあいました。以下、みなさんの発言の要約です。山村のメモからの要約であり不十分な部分もあると思いますがお許しください。

広島大学の学生から

「教育学部の学生だが、阿藤さんの話に教職員組合の人が運動に立ち上がったというのがあった。こうしたたたかいの中で、人間どうしのつながりというのを築いていくことができると思う。大学とか街頭でたたかっていきたい」

うり美さんから

「富山再審に関わるようになって13年になる。学生の時、ルポルタージュを書きたいとえん罪に興味を持っていた。たまたま東京で阿藤さんの集会があって、 ビラを見て参加したのがきっかけで富山再審を取材し、同人誌に書いた。それから富山再審に関わるようになった。富山事件は『内ゲバ事件』で、一般の人に話 すとそのことだけで拒否する人もいるし、説明が難しい。大井町でビラをまいて署名を集めているがそのことを肌で感じながら来た。しかし、わかってくれる人 はわかってくれる。あなたがやっていないのに逮捕されたことを考えてくださいと言うと、やっぱりおかしいわよね、正しい裁判をしなければいけない、と署名 してくれる。毎月やっているので、今はもう大井町の人々に認知されていて、またやってるね、頑張ってねと声をかけてくれる人もいて、運動としては前進して きていると思う。
私は、三度目の最高裁で阿藤さんの無罪が確定した1968年に生まれた。二度と阿藤さんのような犠牲を出してはいけないと思う。阿藤さんの体験を伝える媒介になれればい いなと思っている」

Iさんから

「富山さんの高校の後輩で、広島大学に進んで富山事件を知った。現在、職場で労働運動をやっているが、最近の世の中は、労働運動を犯罪みたいに言うようになっている。そうした中で運動の重要性を痛感している。富山さんの再審でも力になりたいと思っている」

中島健さんから

「富山とは中学、高校と一緒だった。地道なたたかいが、大衆運動と結びついた時に、大きな流れを生み出すと思う。広島で『かちとる会』をやっているが、自分の取り組みを変えていかなければならないと思って阿藤さんの話を聞いていた」

友野さんから

「以前、東京で『自民党本部放火事件』でデッチあげられた藤井高弘さんの裁判の弁護団事務局をやっていた。広島で富山さんの救援運動をどうつくっていくのかが問われていると思う」

Kさんから

「富山さんの人柄は好きで、先輩というような気持ちでいる。
僕は八海事件が起きた1951年に生まれた。阿藤さんが真実ほど強いものはないとおっしゃったがまったく同感で、私も青春をかけて狭山事件に取り組んできた。
被告が獄から出たからそれでいいということではない。白を黒と言いくるめることを許していいのか、人間を虫けらのように扱っていいのか、という問題だと思う。
狭山事件の石川さんが受けたデッチあげ、差別、それは自分にかけられたものだと思っている。石川さんは今も目に見えない手錠をはめられている。石川さん、阿藤さん、富山さんの問題も自分のたたかいだと思う。ともに連帯してたたかいたい」

Tさんから

「中学を卒業し就職した頃、1969年の東大闘争があった。学生はどういうことを主張しているのか興味をもった。もっと世の中のことを知ろうと定時制高校 に入り、そこで先輩に誘われてデモに参加した。しかし、学生と労働者との間に隔たりを感じた。学生は甘いと思った。そうした中で、部落問題、狭山事件のこ とを知った。小学校時代にいわれのないいじめを受けたこともあって差別に怒りを感じた。
今、権力はむちゃくちゃなことをやってきている。教育改革をやり、憲法を変えようとしている。本気で戦争をやろうとしている。そんなことを許してはならない」

亀さんから

「東京で事務局をやっている。真実が通らないことへの怒り、真実を貫くということが原点だと思う。
阿藤さんのお話を聞いても、八海事件を起こしたシステムは今も続いている。八海事件の教訓が活かされていない。えん罪が起きる状況は変わっていない。富山 再審をかちとることを通して、それを変えていきたい。ひとつひとつ勝利を積み重ねていく必要がある。
富山再審では、証拠開示がカギになると思う。証拠開示を求める署名に協力して頂きたい。再審を壁をぶち破り、絶対に勝利したい」

坂本さんから

「1952年から1994年まで、42年間、郵便局にいて、労働組合の運動をやってきた。労働組合で松川事件や狭山事件の学習会をやったこともある。
今の労働組合の本部は自分たちの権力を守ることばかり考えていて、労働者を守ろうとしない。労働組合をやっていた時、全逓羽田空港支部が頑張っていた。あ まりにも頑張るので逆に組合の本部は恐くなったらしい。大会で、たたかわない本部に対して支部の一人が怒り、『このボ ケナスやろう!』と言って権利停止 になった。この大会は『ボケナス大会』と言って有名だが、権利停止によってこの人は組合費は払わされるのに組合員としての権利はすべて停止された。これは おかしいと首をつっこむようになった。おかしいものはおかしいと言わなければならない。
組合運動をやっている中で、ある民間の会社の争議を支援した。労働組合の『ろ』の字も知らないようなおばさんたちがビラをつくって、ハチマキをして頑 張った。その会合にいくと、おばさんたちは本当に真剣に話を聞いてくれて、その視線が怖くなるほどだった。自分がたるんでいたらこの視線を受けられないな と思った。まじめにたたかっている人たちとつきあいをしていくのは大事なことだと思っている」

大槻泰生さんから

「富山再審では証拠開示が大事だと思う。それが真実を知らせることになる。すべての証拠を明らかにすれば、富山が無実だということははっきりする。証拠開示を求める運動をやってほしい。広島で富山再審のたたかいを頑張っていきたい」

□「八海事件発生50周年記念のつどい」(広島)に参加して

阿藤さんは今年の3月、人間にとって、または阿藤さんにとって何が一番大切だと思うかという私の質問に対して、このように語っていた。
「自分に誠実に生きることかな」
「「あとをふり返ってみることも必要やけども、あとをふり返った時に、それを糧(かて)にして活かすようなもんがないといかんですよね」
「思い残すこともあるし、悔いがあることもあると思うんですよ。それを糧にするような生き方がいいなあって思ってね。自分の良心というより、持っている良心を活かすか殺すかは自分の判断次第ですから」
この言葉は阿藤さんの考え方、生き方を象徴するもののような気がする。そして、4月21日、広島で行われた「八海50周年集会」での阿藤さんの発言は、その生き方の有りようなのだと思う。
阿藤さんは、この日の発言で「この先、何年生きられるかわからないけど、命のある限り八海の私として、拷問を受け、冤罪で死刑判決を受けた生き証人として、みなさんと共に冤罪事件(の救済)に尽力していきたい」と語った。
誤認逮捕され、拷問を受け、生と死の狭間を行き来したことは、辛い経験であったと思う。もう過去のことは忘れてしまいたい、奪われた時間が多ければ多いほ ど、心の傷が深ければ深いほど、これから先の残された時間を穏やかに暮らしたいと考えたとしても、誰一人として責められないはずである。
しかし、阿藤さんは決してそうではない。「八海の阿藤」として、最後の最後まで自分が受けたえん罪の恐ろしさを一人でも多くの人に訴えたいという。その背 景には、八海事件発生から五十年経った今でも、えん罪事件が形を変えて存在する現状があるからである。そして、もう二度と同じ境遇の人をつくりたくない、 その思いが強いからでもある。
八海事件が起きたのは50年も前のことだが、阿藤さんが自らの体験を語り継ぐことによって、決して過去の話ではないのだと思い知らされる。
きっと阿藤さんは、今までも「八海の阿藤」だったように、これからも「八海の阿藤」として、語り継いでいくに違いない。  (うり美)

□証拠開示を求める署名にご協力を

  広島かちとる会・大槻泰生

先日、広島での「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加しました。八海事件は、捜査当局の予断と偏見にもとづくデッチあげであり、そのために阿藤さん は死への階段を三度にわたってのぼらされたのです。24歳から18年間、長い長い裁判を阿藤さんはどんな気持ちでたたかってきたのでしょうか。
八海事件だけではなく、数多くの裁判で無実でありながら罪に陥れられ、えん罪に苦しみ続けている多くの人々がいます。徳島ラジオ商殺しの犯人とされた富士 茂子さん、彼女は少年二人の供述によって逮捕されました。この供述が覆されて無罪になりましたが、その裁判過程がいかに長かったことか。
また斉藤幸夫さんは、証拠とされた衣類への血液の付着が警察が押収したあとのものであることが暴露されて無罪の決め手になりました。警察によるデッチあげ は数え上げればきりがありません。しかもそれらのことを知りながら、検察当局は平然と証拠を隠し続けて、被告や弁護人の証拠開示の求めを拒否し続けている のです。
富山さんの事件でも、捜査責任者が二審で「約40人の目撃者がいて、そのうちの34人の供述調書がある」と証言していますが、開示されたのは7人の目撃者 の供述調書のみです。検察官が開示しないのは、開示されていない目撃証言の中に、富山さんの無実を示す証拠があるからに他なりません。
検察官は「公益の代表者」だとするのなら、税金を使って集めた証拠を開示し、真相を究明すべきです。
小泉政権による「改革」は、弱者を救済するための諸制度を切り捨て、それによって起こる社会不安、人々の怒りを弾圧するために司法改革を行おうとするものです。
私たちは労働者人民を搾取・収奪するためにつくられた「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という、人間の弱さ、優越感を助長させる権力の道具に踊らされてき ました。そして、「あそこならやりかねない」「あれならやるぞ」という権力のささやきに同調してきました。それは私たち自身の不幸に結びつくものです。戦 争に反対し、人権の尊さを訴え、えん罪の根絶のためにみなさん一緒にがんばりませんか。
そのはじめに富山さんの「証拠開示を求める署名」にご協力をお願い致します。

5月の大井町での署名集めは、
山村・・・・・・3名
うり美・・・・・0
富山・・・・・・0 でした。
今回は亀さんが体調を崩してお休み。かわりに山村がいつも亀さんが立っている場所に立ちました。交通の激しい道路からちょっとひっこんでいて、道行く人に 声が通りやすく、立ち止まってくれる人が多かったように思いました。もちろん、亀さんの連勝は場所によるものだけではないでしょうが、それでもちょっとは 影響あるかなと思ってしまいました。
なお、精密検査の結果、亀さんはどこも異常はないとのことで安心しました。   (山村)

 「明日のための第十五歩目。時節は梅雨です。明日への貯えの時期(と思っています)なので、地道に努力していきましょう」というお便りとともに二千円のカンパを頂きました。 ありがとうございました。

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ニュースNo152(2001年5月1日発行)

●ニュースNo152(2001年5月1日発行)◎「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して

大井町Yさんから

集会にご参加ください 

再審の扉を打ち破ろう ― 来て、見て、納得 ・・・ 富山事件

・富山保信さんは無実です
・裁判所はただちに事実審理を!
・検察官は隠し持っている証拠を開示せよ!

とき  30日(土)午後6時30分開始
ところ 「きゅりあん」第二講習室(5階)
(品川区総合区民会館)(京浜東北線大井町駅前)
《講演》   阿藤周平さん(八海事件元被告)、 原田史緒弁護士(富山再審弁護団)

30日 富山再審集会
再審の扉を打ち破ろう
来て、見て、納得 ・・・ 富山事件 ぜひ来てください

  6月30日(土)午後6時30分から、大井町の『きゅりあん』第二講習室で、「かちとる会」は富山保信さんの再審の開始・再審無罪を求めて集会を開きま す。ぜひ、多くの方々のご参加をお願い致します。集会では、八海事件の元被告で、富山さんの再審をずっと支援してくださっている阿藤周平さんと、昨年4月 に弁護士になり、富山再審弁護団に参加された原田史緒弁護士に講演をお願いしています。
1994年6月の再審請求申立てから丸七年が経過しようとしています。この間、4人も裁判長が代わり、この4月に新たに着任した中川武隆裁判長で5人目 となります。これまで、いずれの裁判長も具体的に審理に着手することなく交代していきました。無罪が争われているにもかかわらず富山さんの再審は放置され たままです。
確かに富山さん自身は1995年12月に満期で出獄し、現在、獄中ではなく“外”で生活しています。しかし、「無実でありながら有罪を宣告された人間に とって、罪名や刑期の長短、さらに身柄がどうなっているのかが問題なのではありません。有罪を宣告され たこと自体が、無実の訴えを拒否されたことをもって無実を訴える私の人格が否定されたことが、耐えがたいのです」という富山さんの訴えのとおり、真実は踏 みにじられたままです。
富山さんが出獄したのは、富山さんが、不当きわまりない、そして本人にしかわからないであろう憤懣やるかたない「懲役」の日々を不屈の意志でたたかいぬき、「満期」出獄 をかちとったのであり、決して「再審無罪」で取り戻したのではないのです。富山さんの無実は晴らされていません。富山さんはいまだに「自由」ではないのです。
二審確定判決の「有罪」はいまも「生きて」おり、「判例」とされています。無実を承知のうえで「富山を有罪にせよ」とする権力の意志はいまだ貫かれている のです。このことを一時も忘れることはできません。こんな暴虐を許しておいていいわけがありません。
一日も早く再審を開始させ、再審無罪をかちとり、富山さんに本当の自由を!いまこそ再審の扉を打ち破ろう!
今回の集会は、初めて参加した人にも富山さんの無実を「来て、見て、納得」できる集会、そして、富山さんの再審開始・再審無罪をかちとり、さらにはえん罪のない世の中にするためともに歩んでいけるような集会にしたいと思います。
ぜひ、多くの方々の参加をお願い致します。  (山村)

□富山さんと「かちとる会」が東京高裁前でビラまき

4月11日、富山さんの再審が審理されている東京高裁前で、富山さんと「かちとる会 」の坂本さん、うり美さん、山村の計四名で、再審開始・再審無罪を求めるビラをまきま した。
ビラは富山さんが書いたもので、「私は無実です。一刻も早い再審開始・無罪実現を」 「検察官は私の無実を証明する証拠を隠すな」「東京高裁第三刑事部の裁判官は、私の無実を証明する証拠を隠し持っている検察官に、証拠開示を命令してくだ さい」と訴えるものです。裁判所に向かう職員や弁護士、司法研修生、市民の多くが受け取り、約一時間で 1000枚のビラをまきました。この四月に新たに着任した中川武隆裁判長にぜひ読んでほしいと思います。裁判所はただちに再審開始を!

「八海事件発生50周年記念のつどい」に参加して

 4月21日、広島で、「八海事件発生50周年記念のつどい」が「死刑と無罪の谷間で ・・・いまに活かす『八海』」と題して実行委員会の主催で開かれ、約200人の人々が参加しました。
阿藤周平さんも発言されるということで、東京の「かちとる会」も富山さんを先頭に、 坂本さん、うり美さん、亀さん、山村が参加、「広島かちとる会」からも大槻泰生さんはじめ富山さんの再審を支援する人々が駆けつけてくれました。会場入り 口では、「私は無実です。ただちに再審開始を」「人間の尊厳の回復と冤罪の根絶を」と訴える富山さんのビラや資料を参加者に配り、富山さんの無実を訴えま した。
集会では、最初に映画『真昼の暗黒』が上映され、元日弁連人権擁護委員長の竹澤哲夫弁護士が「『真昼の暗黒』は絶ちきれたのか」と題する講演を行い、その 後、阿藤さんをはじめとする方々によるシンポジウムが行われました。シンポジウムでは、元裁判官の方や富山再審で鑑定書を提出してくださった浜田寿美男さ んも発言されました。以下、発言の要旨を報告します。 (山村)

シンポジウムの冒頭、阿藤さんが発言に立ち
「さきほどの映画を見て拷問場面をどう思ったでしょう。あれは実際に行われたことです。いや、もっとひどかったんです。靴やスリッパで顔を殴った。私が自 白するまで、叩いて、叩いて、飯も睡眠もとらせない。三田尻、現在の防府駅で逮捕され、夕方に警察に着いたのですが、それから翌朝まで痛めつけられまし た。朝、鶏の鳴き声をぼんやり聞いていたのを覚えています。身も心もくたくたになって『やりました』と言ってしまった。とたんに刑事は手錠をはずし、椅子 に座らせ、うどんを出してくれた。しかし、うどんはのどを通りませんでした。
今でもその状況が目に迫ってきます。50年経ちますが、その情景は忘れられません。 どういう部屋で、椅子がどこにあったか、鮮明によみがえってくる。それは私のこの身が覚えていることだからです」
「警察は自白のみに頼り、証拠には見向きもしない。『やりました』という言葉がほしい。そのために暴力をふるう。そして私に嘘の自白をさせた」
「当時、私は軍隊から帰ってきて土工仕事などをしていました。平生の警察署は、常に私に目をつけていて、何かあったらしょっぴいてやろうとしていたわけで す。映画にもありますが、警察に逮捕された時、刑事が最初に言った『阿藤、とうとう来たのう』というのは実際に言ったことです」
「よく言われるんですけれども、本当にやっていないものがなぜ自白をするのかと。僕だったらどんなひどい目にあってもやっていないとがんばると詰めよってきた人もいる。 しかし、警察の密室での取り調べを受けたならば、いかなる人間でも落ちてしまうのではないでしょうか。これは実際に自分の身に受けてみないとわからないのではないでしょう か」 と自らが受けた拷問の実態を話された。
勾留尋問に来た裁判官に、後ろ手錠をかけられ手首が腫れているのや殴られて顔が腫れているのを見せて、拷問を受け嘘の自白をしたと訴えたが、裁判官は聞いているだけで声もかけなかったという。
裁判ではわかってもらえると思っていたが、一審、二審ともに判決は「死刑」。阿藤さんは語る。
「そこで、私は初めて、これはだめだ、このままにしたら、私は無罪なのに死刑にされてしまうと思った。私が居た広島拘置所には死刑確定囚が6~7人居た。 隣の房から『中央公論』とかいう本を借りた。そこに正木ひろし弁護士のことや正木弁護士が扱った『首なし事件』が出ていた。この先生なら、と正木さんに手 紙を書いた。自由法曹団にも手紙を出した。自由法曹団からは原田先生が来てくれて、この二人が上告審から弁護してくれた」
「(二度の死刑判決を受けて)私は外に向かって、自分の無実を知ってもらおうという強い気持ちが湧いてきました。高い塀の外へ、私は無実なのに死刑にされ ようとしていると手あたりしだいに手紙を書いた。字の勉強をして、便箋がないのでザラ紙を二つに切って便箋のように線を引いて、それを便箋にして手紙を出 したんです」
阿藤さんの訴えに、全国から支援運動が起きる。その中で、1957年10月、最高裁は「原判決破棄、差し戻し」の判決を出す。差し戻し審の広島高裁で無罪判決が出され、阿藤さんは翌年結婚する。
ところが検察官はさらに上告し、第二次上告審で、下飯坂裁判長は無罪判決を破棄し、 広島高裁に差し戻す判決を出す。そして、この第二次差し戻し審で阿藤さんはまたも「死刑」の判決を受ける。
この時のことを、阿藤さんは、
「第二次差し戻し審は三年くらい続いた。判決の日は、忘れもしない暑い八月の末、必ず無罪になると広島に来ました。この時は、子供も生まれていて、幼い子 供も連れて来ていたわけです。ところが判決は死刑。その日の夕方、身柄を拘束されました。これほど悔 しく忘れることのできないことはありません。3年後、最高裁で無罪が確定しますが、この3年間は前の8年よりも苦しかった。前の獄中は一人でしたが、この 3年間は外に乳飲み子がいたんですから」
と語り、最後に、
「今も権力への憤りは消えていません。今なお、私の知る範囲でも5本の指に入るえん罪事件があり、私はその支援をしていますが、これは恐ろしいことです。実際、この身がそれを受けているからこそそう思うのです」
「八海の無罪判決をかちとれたのは、みなさんの大きな支援の力があったからこそ。全国の人々の支援で勝利して、だからこそ今、他のえん罪事件を支援することで恩返ししたいと考えています」
「えん罪の恐ろしさは、死刑でも、1年でも、1ヵ月でも同じなんです。自分の真実を奪われた悔しさ、怒りは同じなんです」
「えん罪を作らないため、みなさんと一緒に努力したい。私は今、74歳です。この先、命が続くかぎり、八海の私として、えん罪を受けた生き証人として、えん罪をなくすたたかいをしていきたいと思っています」
と結んだ。次に九州大学の大出良知さんが発言し
「阿藤さんの話を聞いて、えん罪の歴史が凝縮されていると思った。八海事件は日本におけるえん罪の構造をよく示している。見込み捜査によって事件がスター ト、それに合わせる形で自白を作っていく。自白の強要によって虚偽の自白が作られる。これを裁判官までもが過信する。そうやってえん罪が生み出されてき た。この自白偏重主義の連鎖をどう断ち切っていくか、自白の検討、それがどう虚偽であるかの検討が必要」
「(自白の信用性についての注意則が検討されるようになったが)逆にこういう自白なら信用できるという形で使われるようになった」「自白とは、論理とか理 性を越えた怖さを持っている」「『犯人でもないのになぜ自白したのか』と裁判官も思う。一度自白するとそれを理由に有罪になる。捜査官も裁判官も自白に頼 りきっている」
と、自白偏重主義が変わっていないことを指摘された。そして、
「虚偽の自白を生み出さないためにどうするか。浜田先生のように、心理学的立場からの貴重な研究がなされている。一方で代用監獄の廃止が絶対に必要です。 そもそも密室での取り調べに最大の問題があり、それを支えているのが代用監獄。しかも日本は23日 間という長期間の拘束を受ける」
「日本でも当番弁護士制の問題が取り組まれるようになったが、イギリスでは10年以上前から取り調べへの弁護士の立ち会い、すべての取り調べ過程の録音が 行われている。録音したテープの一本は封印して裁判所に保管され、もう一本は捜査や捜査の可視化のために使われる」
「現在行われている司法制度改革審議会でも記録化、捜査の可視化が問題になったが、取り調べ一覧表を出させて捜査当局に報告させる程度で終わっている」と日本の現状を批判した。

次に花園大学の浜田寿美男さんが発言した。浜田さんは、狭山事件を契機にえん罪事件に関わるようになり、甲山事件で目撃供述、「人が語った言葉」の問題に取り組み、特別弁護人という立場で法廷に立った経過を話され、
八海事件は、1951年に事件発生、阿藤さんたちの逮捕から1968年に無罪が確定するまで約18年間という大変な年月が費やされている。甲山事件は 1974年に事件発生、1975年に最初の逮捕がなされ、1978年に裁判が始まるがようやく無罪が確 定したのが1999年。事件から25年、裁判だけでも21年かかっており、八海の18年を塗りかえた。えん罪の構造は、いまだに八海と変わっていないのを 甲山で痛感し た」
「甲山事件では、肉体的、身体的な拷問はなかった。警察は拷問に慎重になってきている。しかし、虚偽自白は減っていない。拷問があるかないかではない。逮 捕されると人格的な支配下に置かれ、おまえがやったんだろうと罵倒され続ける。みじめな思いをする。 言葉の暴力は、肉体への暴力と同じ。無実の人は、ほとんどの場合が黙秘権を行使しない 。むしろ、無実だから相手にわかってほしいと思い弁解する。しかし、聞いてもらえない 。耐えられない気持ちになる。こうした状況がいつ終わるかわからない。いつ終わるかわからない、見通しがないというのは大変辛いことだ。しかも警察は、刑 が重くなる、身内 を連れてくるなど、否認していることの不利を言う。拷問がなくても、こうした孤立無援の中で『私がやりました』と言う心境になる」
「取調官は予断、証拠無き確信によって取調べをする。現在、イギリスの取調べは情報収集に徹しようとしており、インタビューと言われている。ところが、日本の場合は尋問 。おまえがやったのだろう、謝れという謝罪追及になる。これは『やっている』ことが前提。警察官は『やっている』と思いこんでいる。そういう取調べがあるかぎり状況は変わらない。
『犯罪捜査101問』という本に、頑強に否認する被疑者に対しては、『断固として取調べよ。もしかしたらシロかと思って取り調べてはいけない』と書いてある」 と今も本質的に変わっていない警察の捜査のあり方を批判した。そして、
「司法改革が言われているが、戦後、これだけのえん罪事件が起き、死刑再審事件で無罪になった事件だけでも四件もあるのに、これまで公の機関としてなぜこ れだけのえん罪が起きたのかという調査はやられていない。こうした検討を抜きにして司法改革は考えられないのではないだろうか。そういうことを踏まえてい ない司法改革は不十分なものにならざるを得ないのではないか」 と指摘した。

次に、元裁判官で現在弁護士をされている秋山賢三さんが発言。秋山さんは、徳島地裁の裁判官をしていた時「徳島ラジオ商事件」の再審開始決定に関わったとのことで、裁判官としての25年の経験、その後弁護士になってからの9年の経験などに踏まえて話された。
「裁判官と弁護士とではえん罪についての風景が違う」
「えん罪が起きるのは、裁判官の時は個別的な問題と思ったが、弁護士になってシステムの問題だと思うようになった」
「調書は本人が書くものではなく、取調官による作文。警察官は物証を知っており、『 自白』は物証と矛盾しないように確信的に書かれている。裁判官はこの調書を信用する」「裁判官は、裁判官になった当初から判断者としている。下積み時代が ない。拷問を受けたり、留置場にいる人の気持ちはわからない。被疑者と同じ目の高さに立つことなく、 法壇から見ている」
「事実認定については陪審制度を採用すべき。えん罪をなくすためには、事実認定につ いては一般大衆の知恵を借りるしかない」

竹澤哲夫弁護士からも、誤判原因の調査の重要性を指摘された。

最後に阿藤さんが
「私の事件で、もし死刑が確定していたら、私は処刑されたか、そうでなければ獄中から再審を何回もしていたはず。それを思うと身の毛がよだつ思いがする」
「(八海事件で起きたことは)今も形を変えて残っていることを知って頂きたい」
「公正な司法が行われるようになってほしい。そうなれば、そのために、『八海18年 』は無駄ではなかったと思える」
と訴えられた。

【中国新聞の記事】 : (新聞コピー画像省略)

特集 その4

世紀を越えて    ・・・今、八海事件を考える

前号に続いて、今年三月、大阪で阿藤周平さんに伺ったお話を掲載する。

■一審も二審も死刑判決

阿藤さんは、警察による激しい拷問のすえ、やってもいない罪を「自白」させられてしまう。それは阿藤さんにとって耐えがたい屈辱であった。だが、阿藤さん にはかすかな望みがあった。それは、警察官が自分の無実をわかってくれなくても、それより〈偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いな い、そう思っていたのだという。
1952年6月2日、そう信じていた裁判所の下した判断は、阿藤さんに死刑、他四名に対しては無期懲役であった。
阿藤さんは、「一審の時はあんまりショックがなかったと言ったらなんやけどね、一審ではね、そんなにショックはなかった。それだけ裁判所を信じてたのかもわからんね」と死刑判決を聞かされた時の心情を語る。
阿藤さんは、その時、このうえの広島高等裁判所の〈もっと偉い裁判官〉なら、きっと自分の無実をわかってくれるに違いない、そう信じて二審判決を待っていた。しかし、1953年9月18日、ここでも阿藤さんに対する判決は死刑。
「二審(判決)では、今度は嘆きましたわな。もう、ガックリ来ました。(食事も)の どを通らんかったね。僕は、死刑囚のおる独房へ入れられてるんですから」
二度の死刑判決で阿藤さんは厳しい現実を目の当たりにする。もう、こうしてはいられない。阿藤さんは藁にもすがる思いで、雑誌を見て知ったえん罪事件で活 躍していた正木ひろし弁護士や、自由法曹団の岡林辰男弁護士、また人権協会等にも自分が無実であることを訴える手紙を書いたという。

■闇に葬られた真実を語る上申書

事件は吉岡一人による犯行だった。それを警察は「複数犯行説」をとり、吉岡に阿藤さんをはじめとする四人の「共犯者」の名前を言わせ、阿藤さんを「主犯」とした。
二審の広島高等裁判所は、阿藤さんに死刑、吉岡には無期懲役を言い渡している。吉岡は上告することなく服役。
阿藤さんは、吉岡に対して、今は特に憎いとも思わないと言う。もう過ぎてしまったことをとやかく言ってもしかたがない、そう阿藤さんは思うらしい。しかし、吉岡も自分たちと同じ拷問を受けて、八海事件の犠牲者であるという点に関しては強く否定した。
「同じ犠牲者でも次元が違う。あれ(吉岡)は、助かりたい、自分は罪を逃れたい、自分は罪を軽くしたい、それで友だちを引きずり込んだ。警察から責められ て責められてやったけども、結局、警察と合作して、自分はそれだけ利益を得てるわけですよね。確かに、吉岡も厳しい取り調べを受けたと思いますよ。単独犯 行を、罪のない者を引きずり込んで共犯説に変えるんですから、その変わる間にね、警察からずいぶん責められたと思いますよ。だけども、それにはね、並々な らぬ代償があるわけ。命という代償があるわけですよね、やっぱりね」
その一方で、検察官が吉岡を最後の最後まで自分たちの支配下において、法廷で真実を語らせようとしなかったのには、「吉岡もね、苦しかったんだと思いますわ」と語った。
吉岡は良心の呵責からか、阿藤さんたちは一切この事件に関係ないことを服役していた広島刑務所から、阿藤さんたちや弁護人、検察庁、裁判所へと「上申 書」として出している。だが、この上申書は無残にも葬り去られていた。この上申書が日の目を見ることになるのは1965年、広島刑務所を出所する三名に吉 岡が口頭で伝言した内容がそのうちの一人から原田香留男弁護士に、もう一人によって朝日新聞社に伝達されて初めて明らかになったのだった。これらの上申書 が公になったことにより、吉岡が上申書を書いては保安課に呼び出されてひどい目にあっていたことや懲罰房に入れられていたことも、後に明らかになった。
「吉岡、だいぶ証言台に立ってますわ。それでついに自分の良心には勝てんかったんで しょうな、やっぱり。今度、本当のこと言います、今度、本当のこと言います・・・その都度、証言に立つその前日か二日前には検事に呼び出されて、またひっ くり返って。また 、本当のこと言いますって言って、また検事に呼び出されて。もうイタチごっこみたいになってた。だから、検事の方では吉岡をとにかく捕まえておった。それ に加担したのが刑務所ですからね。吉岡、結局、しびれ切らして、出獄する人に口頭で伝言しましたわね。それだけは刑務所は防ぐことは、止めることはできま せんですわね。釈放になった受刑者が(弁護士の)原田さんの所へ吉岡の伝言を伝えに行って、それで上申書が公になった。それまで闇に葬られていた」

■青天の霹靂・・・再収監

一審、二審で死刑を宣告された阿藤さんは、最後の砦である最高裁判所へ上告した。ここでの判断は、原判決を破棄し、広島高等裁判所に差し戻すというもの だった。ここにきて、ようやく阿藤さんに一縷の望みが見え始めた。この時、最高裁が原判決を維持していたならと思うとゾッとする。
阿藤さんは、広島高等裁判所に差し戻された第一次差し戻し審で、結審のあと、判決を待たずに保釈されている(他の三名は結審前に保釈)。これで阿藤さんは「無罪判決」を確信した。
1959年9月23日、広島高等裁判所・村木裁判長は、阿藤さんたち四名全員に対 し無罪を言い渡した。
これで家族とともに今まで一緒に過ごせなかった時間を埋めることができる。これからは家族のために一生懸命働いてがんばろう。そう阿藤さんは思っていたに 違いない。せめてこれで裁判が終わってくれれば、一度無罪判決が出た以上、検察官が上訴できるという日本の裁判システムさえなければ、この後の裁判で人生 を無駄にすることはなかったのに、私はそう思わずにはいられない。
「このあとからの裁判は、今、思えば無駄だった」と、阿藤さんは言う。
検察官が再上告したことにより、再度の悪夢が阿藤さんに襲いかかることになる。
1962年5月19日、二度目の最高裁判所(第二次上告審)は、今度は無罪判決を破棄し、広島高等裁判所へ差し戻したのだった。
広島高裁での審理(第二次差し戻し審)には、阿藤さんは運送会社の運転手をして働きながら公判に通っていた。判決には、その運送会社の社長も息子さんも、 そして支援してくれた人々もみんな来てくれたという。もちろん阿藤さんは無罪判決を聞くだけだと思っていた。
ところが、1965年8月30日、夏の暑い日。一度は無罪判決を出した広島高裁は、今度は阿藤さんに対し死刑を言い渡した(他の三名には12年から15年の懲役刑)。
「(判決を)裁判所で聞いて、それですぐ後、報道陣のテント村で僕らは会見した。会見して、事務官が収監するというのを、若い弁護人たちが阻止して、僕 ら、泊まっていた旅館まで一旦帰った。それを事務官が追っかけてきて、収監するとか揉めてね、結局、夕方、僕らは拘置所に入った」
この死刑判決は、阿藤さんは予期していなかったという。その時の衝撃をこう語る。
「もう無罪だと思ってた。子供やら何やらまだ小さかったけど連れて行っていたし、(勤めていた)運送屋の社長も、社長の息子もね、全部、判決の日に来てくれたんですから 。夢にも思わんもんね。しかし、報道陣はね、七・三くらいで有罪やと思っとったん違いますかな。やっぱり、有罪にせいという差し戻しやからね。無罪にせいという差し戻しと違ってね。僕らはもう、えらいことするなあ思ってね」
その日の夕方、阿藤さんたちは、せっかく取り戻した家族との平穏な生活から、また塀の中の生活へ引き戻された。

■三度目の最高裁・・無罪への確信

「三回目の最高裁の時には自信があったね。自信を裏づけるようなものが出てきたからね」
阿藤さんはうれしそうに語った。
その「裏づけるようなもの」というのは、拘留を更新する書類だった。第二次差し戻し審の有罪判決で阿藤さんが収監されたのが8月30日。それから、毎月、1ヵ月前には次の月の拘留更新の書類が裁判所から来ていたのだという。
「僕のは毎月えらい早く来よった、3年間。今月で言えば3月の末までには、次(4月 )の拘留更新が来てたわけ。ずーっと欠かさずに、事務的に。看守が持ってくる拘留更新に拇印ついて。これが必ず来とったんです。それがね、判決が10月 25日ですねん、三度目の最高裁は。それがその前に来んのですよ、拘留更新が」
いつもなら9月の段階で来る拘留更新の書類が10月になっても、判決直前になっても来なかった。
「(弁護士の)佐々木さんがね、前の日にね、飛行機で僕の所に面会して、それから東京に行かれたんやけどね。だから、2日前ですわな。それでも拘留更新が 来ないから佐々木さんに言ったんです。『先生、これ、おかしいんやけど、毎月1ヵ月前に必ず拘留更新がね、来てるんですけれども全然来ませんよ』。僕はな んで来るもんが来んのやろうと思いますわね。そしたらやっぱりそうやった。拘留更新する必要がなかった、無罪やから。 更新期日までに無罪判決が出るんですから、次の拘留更新をする必要がなかったわけ、最高裁は」
獄中の阿藤さんは、無罪判決を確信していた。しかし、今までの裁判の経過を見る限り においては、この目で、耳で確認するまではまだ手放しで喜べない状態であったと思う。判決当日、午前10時30分。最高裁判所第二小法廷・奥野健一裁判長は原判決を破棄し 、阿藤さんらに無罪を言い渡した。最高裁自らが判断した破棄自判。この報はいち早く広島拘置所の阿藤さんのもとへ届いた。
「東京から拘置所に電話があったんでしょうね。無罪判決が下りたから支度しておくようにと、すぐさまドアを開放してくれたんです。ただ、まだ正式な書面が来ないから、それまで整理しておくようにと言われて」(1998年9月5日、阿藤さん談)

■塀を越えて

八海事件が発生してから無罪まで17年と9ヵ月。青春と言われる時代を阿藤さんは生と死の狭間でえん罪と闘い続けてきた。最高裁で無罪を宣告されるまで、 一時だって気の休まる時はなかったであろうと思う。その茨の道を必ず真実が通る時が来ると信じて、阿藤さんは生きてきたのだと思う。それは自分自身との闘 いでもあったに違いない。「自分でもよく耐えられたなあと思う」と話す阿藤さんだが、それを支えたものは一体何だったのだろうか。
「やっぱり自分の信念と、みんなの支援やね」
阿藤さんはきっぱりこう語った。阿藤さんの口から何度も聞いた言葉、「信念」。言葉で言ってしまえば簡単なのだが、私自身を含めて、信念を貫き通すことができる人間はどれほどいるのだろうか。
「壁を隔てた独房の中にいるでしょ。その中で大切なのは自分の信念と、それを支えてくれた多くの支援者。それが直接声にならなくても伝わって来ます、塀を 越えて。形こそいろいろ違うけれども、支援者、理解者が一番心強いね、無実で闘う人にとってね。孤独は耐えられるったってね、僕らの独房での生活を助けて くれる、支えてくれる支援者がね 、僕に限らずえん罪と闘ってる人には共通の強みだと思いますね」

■誠実に生きる

以前からどうしても阿藤さんに聞きたい質問があった。それは、今までの人生の中で、人間にとって、または阿藤さんにとって何が一番大切だと思うかという甚だ抽象的な質問であった。私はまるで人生の迷い人を導く救世主を見るかのような目で、阿藤さんの顔に見入った。
阿藤さんは少し考えたあとで、「自分に誠実に生きることかな」と言った。「あとを振り返ってみることも必要やけども、あとを振り返った時に、それを糧にして活かすようなもんがないといかんですよね。自分に誠実に生きることが一番ええんかな」
そして、また少し考えて、「思い残すこともあるし、悔いもあると思うんですよ。それをね、糧にするような生き方がいいなあって思ってね。自分の良心という より、持ってる良心を活かすか殺すかは自分の判断次第ですから。人に対してもそうですけれども、自分自身に対して誠実に強く生きることでしょうな。年を重 ねるにしたがってなおさら大切だと思いますわ。なかなかね、生きられるものではないんですよ、人間というのはなかなか複雑ですからね。口で言うほどそう簡 単と違うし。醜いこと多いもんね、自分の身近の周りを見たって、大きくは政治を見たって、社会を見たって。新聞を見たって暗いニュースが多いですよ。政治 に対して魅力ないもん。魅力ないようにしたのはわれわれ個々の人が魅力ないような政治にしてるんだから。一人政治家が悪い言ったってね、自分自身がちゃん としないと。だけどなかなかできんでしょうなあ、やっぱり。人間、欲が深いからね、ほんま」と笑った。

1968年10月25日。最高裁判所の無罪判決を受けて真実の扉は開かれた。阿藤さんの自宅の居間の壁には、広島拘置所から釈放された阿藤さんが満面の笑 顔で握手をしている白黒の写真が拡大されて飾られている。過去を忘れることなく、現在を見つめるかのように。 (うり美)

「明日のために第十四歩目。五月になって暖かくなるのは良いことです」というお便りとともに二千円のカンパを頂きました。ありがとうございます。

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ニュースNo151(2001年4月1日発行)

 

●ニュースNo151(2001年4月1日発行)◎司法改革・教育改革は憲法改悪に直結する戦争への道

大井町ビラまき報告

死刑と無罪の谷間で ― いまに活かす『八海』

▼日時 4月21日(土)10時~16時
▼会場 広島YMCA国際ホール
▼主催 八海事件発生50周年記念のつどい実行委員会
▼プログラム
・午前十時~  映画『真昼の暗黒』上映
・午後1時~  講演 竹澤哲夫氏(元日弁連人権擁護委員長、弁護士)
・午後2時~  シンポジウム
阿藤周平氏(八海事件元被告)
浜田寿美男氏(花園大学教授)
秋山賢三氏(元裁判官、弁護士)
大出良知氏(九州大学教授)
竹澤哲夫氏(講演者)

前号のニュースでも紹介しましたが、八海事件発生五十年を迎え、4月21日、広島市で上記の集会が開かれます。
阿藤周平さんも「集会を通じて、えん罪事件の恐ろしさを一人でも多くの人に知っていただきたい」「二度とこのような誤判が起きないよう、若い人たちにぜひ参加してほしい」とおっしゃっています。
みなさんのご参加をお願い致します。

さらに、6月30日、東京で、「無実の富山保信さんの再審無罪をかちとる会」主催で、阿藤周平さんをお招きし、富山さんの再審の開始・再審無罪を求めて集会を行います。多くの方々のご参加をお願い致します。

裁判長がまたも交代

  4月1日付の最高裁人事で、富山さんの再審を審理している東京高裁第三刑事部の仁田陸郎(にった・むつお)裁判長が横浜地裁所長に異動したことが、新聞報 道で明らかになりました。新聞では後任は、新潟地裁所長だった中川武隆(なかがわ・たけたか)裁判官が着任するようですが、詳しくは次号でお知らせしたい と思います。
仁田陸郎裁判長は、1999年4月1日付で東京高裁第三刑事部に配属になりました。この二年の間、弁護団は、仁田裁判長と折衝を繰り返し、一日も早い再審 開始・再審無罪を求め、また、検察官が隠し続ける証拠について開示命令を出すよう求めてきました。昨年7月には、「事実の取調請求書」を、鑑定書やビデオ 映像等の新証拠とともに提出、これらの証拠を取り調べることを求めました。これらの新証拠は、目撃証言の信用性が争点となっている富山事件で、確定判決が 「本件目撃証人中最も良質の証人である」としているI証人の目撃証言の信用性を否定するものです。再審請求申し立て時に提出した新たな目撃証言、鑑定書を はじめとする39点の新証拠、その後に提出した鑑定書の数々とともに、富山さんの無実を鮮明に証明しています。
仁田裁判長は、自らの任期中に提出されたこの証拠について何ら審理することなく、また、再審請求申し立て以来提出された数々の新証拠についても何の事実調 べも行わずに、さらに弁護団が求めた証拠開示命令についても回答を示さずに異動していきました。無実が争われている事件の審理を二年間も放置したままとい うのは無責任極まりないことです。
1994年6月20日に再審請求を行ってから、今年の六月で丸七年が経過しようとしています。この間、早川義郎裁判長→秋山規雄裁判長→島田仁郎裁判長→ 仁田陸郎裁判長と4人も裁判長が交代し、今度で五人目となります。裁判長だけでなく、陪席裁判官の交代もありました。これまで交代した裁判長も、「記録が 何万丁もある大きな事件がいくつもある」「他の控訴事件が忙しい」と、いずれも具体的な審理に着手することなく交代していきました。引き継ぎはなされてい るとは言っていますが、裁判長が交代するたびに記録を読み直すことからやりなおす、またふりだしに戻るというのがこの間の実態です。これでは、いつになっ ても審理は進みません。再審請求人の富山さんは憤懣やるかたない思いでしょう。
富山さんは無実です。無実が争われている事件をこれ以上放置することは許されません。裁判所がただちに再審を開始し、富山さんに再審無罪を出すよう強く求めます。 (山村)

□特集 その3

世紀を越えて  …今、八海事件を考える

つくられたえん罪

    3月上旬、私は阿藤周平さんが暮らす大阪に行って来た。八海事件は、事件発生から50年(半世紀)という歳月が流れた。あの、苦痛に満ちた無実の叫び、警察への怒りは、今も忘れられず生き続けている。阿藤さんと話をしていて、私はそのことを一番感じた。

□辛い記憶…警察の取り調べ

八海事件発生から50年という歳月が経ったわけですが、今振り返って思うことは、という私の問いに、
「50年と一言で言ったって長いですよね。私が24歳の時ですからね。今、74歳ですから、ちょうど50年。長いですよ。長いですけれども、事件の起きた その当時のことは、昨日かつい最近のことのようにね、鮮明によみがえってきます。自分が不当に逮捕されてから、ずーっと、記憶にある。忘れることはできな い」と阿藤さんは答えた。
特に、阿藤さんの脳裏から離れないのが警察の取り調べだったという。
「一番強く忘れることができないのは、逮捕後の警察の取り調べでしょうね。あれは記憶に残ってます。まだ、取り調べた刑事の顔も覚えてますからね。眼鏡か けてたとか、名前も覚えてる。三好というのは特に忘れませんわね。あれが捜査主任でしたからね。三好というのは(八海事件の後)栄転して山口県警に行っ て、そこの捜査主任になって、そこでまた八海の二の舞を踏んでるんですよ。仁保事件。あれが三好の管轄下での捜査でね」

□不当逮捕(1951年1月29日)

阿藤さんが逮捕されたのは、事件発生(1951年1月24日)から5日目であった。吉岡は事件から2日後の1月26日にすでに逮捕されていた。
「新聞を見て、あいつがやりよった。えらいことやったなあ」という話になっていたという。
阿藤さんは逮捕された時、なぜ逮捕されたのかわからなかったという。何の容疑で逮捕されたのか、馬車を壊した件だろうか、だけど弁償して話はついてるんだ から、そんなことで逮捕されるはずがない、じゃあなんだろう・・・全然検討がつかなかった。他の松崎さん、久永さん、稲田さんが捕まっているのも全然知ら なかった。
「何がなんだかわからんですわ」
「警察がね、『吉岡も、みんなも、お前もやったと自白してるから、お前一人がんばってもあかん。みんな、お前と一緒にやったと言うとる』って言ってね。そこで初めてあの事件でひっぱられたんだなあというのがわかった」
最初、吉岡は自分ひとりの犯行であること、つまり本当のことを言っていた。しかし、警察は吉岡の単独犯行を信じようとせず、阿藤さんを主犯とした複数犯行説をしたてあげていく。

□警察による拷問

阿藤さんは、自分はやってないんだと何度も何度も言ったという。
「言うても全然聞いてくれんもんね。手錠は付けたままですよ、前手錠をね。外してくれへん。大部屋でね、今みたいに一対一(の取調べ)と違うんやから。 10畳くらいの刑事部屋いうのがある。(刑事たちは)そこで火鉢に火を起こして、その火にあたってね。こっちはその辺に座らされてね。畳ですわ」
「警察に着いた時は薄暗かった。冬やから。(夕方の)5時半か6時前ですよ。それからずーっと取り調べが続いて、鶏が鳴いたのを覚えてるからね、朝の4時 か5時頃になるでしょ。その頃までしごかれた。手錠をかけっぱしで、殴られ、その手錠が前から後ろになったり。正座してるでしょ、椅子と違うんやから、安 定性がないわね」
意識が朦朧となった時、「はい、やりました」と言ったら、拷問は止んだという。「お前、最初から言うとったら、こんな痛い目をみんでもすんどるのに」と言われたが、阿藤さんは意識が朦朧として、何がなんだかわからなかった。
その後、殴られることもなくなった。そして、たばこや食事を与えられた。今でもあの時出されたうどんを覚えているという。箸は全然つけなかった。
阿藤さんは言う。
「結局一番悪いのは警察なんですよ。警察が吉岡に僕の名前出したり、稲田の名前出したり、久永の名前出したり、上田いう名前だして、全部やったわけ。そや から、あれはみんな警察から出てんですよ。吉岡の口からは出てないんです。『お前なんやろが、阿藤と一緒やろが、阿藤の友達の松崎やら、久永やら、稲田が みんな一緒にやったんやろ」って、警察は名指しですよ。結局、吉岡も『そうです、そうです、そうです』ってね。」
検察官や裁判官が勾留尋問のために警察(平生署)に来た時、阿藤さんは、「手錠の跡や傷を見せて、こんなえらいイジメられて嘘の事を言った、本当はやってないんだ」と訴えた。
「若い裁判官でね、『うーん』って聞いとるわけ。検事と判事が帰ったら、それから後がまた大変。また警察に殴られてね。『裁判官や検事の前で、お前、嘘言った』と」
今度はスリッパで殴られたという。  (うり美)

(次号に続く)

 

内堀・外堀が埋められてからでは遅い

 ―司法改革・教育改革は憲法改悪に直結する戦争への道

 (その一)

  4月3日、「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・西尾幹二電通大学教授)が編集した「歴史」「公民」のふたつの中学校教科書が、文部科学省の検定に合格 しました。「歴史」137カ所、「公民」99カ所という異常な数の修正要求に応じて、というよりは教科書検定審議会でさえこれほどの修正要求をせざるをえ ないほど歴史を歪曲した「教科書」の名に値しない代物を、この時期にあえて登場させてきたところに、「つくる会」のみならず政府・文部科学省のなみなみな らぬかまえをみてとることができるのではないでしょうか。けっしてたんなるアナクロニズム(時代錯誤)などではなく、〈このままでは日本はたちゆかぬ。も はや沈み行く泥船と化しつつある〉という上層も下層も共通の認識に達した現下の状況への激しく、鋭い対応に他なりません。日米安保新ガイドラインの締結と ならぶ決定的踏切なのです。

  じっさい、「日本人として自信と責任がもてる教科書です。修正を余儀なくされた部分もあるが、ほぼ趣意通りの教科書が誕生したことを喜びたい。我が国の歴 史への愛情を深めるのにきわめて忠実な教科書だ」と西尾が記者会見で語っているとおり、修正によってもこの教科書の反動的主張は基本的になにひとつ変わっ てはおらず、修正要求は内外の批判をかわすためのペテン、ごまかしにすぎません。
① アジアにおける帝国主義強盗同士の衝突であり、アジア侵略戦争であるアジア・太平洋戦争を「大東亜戦争」「欧米の植民地 支配からアジア諸国を解放 し、大東亜共栄圏を建設するための正義の戦争」、韓国併合は「東アジアを安定させる政策として欧米列強からも支持されたものであり、日本の安全と満州の権 益を防衛するに必要だった」「実行された当時としては、国際関係の原則に則り、合法的に行われた」、軍隊慰安婦は抹殺、南京大虐殺は否定と事実を百八十度 転倒させて侵略戦争と植民地支配を美化、正当化、
② 「歴史は科学ではない」と称して国家の形成を天皇神話から始める皇国史観を展開、
③ 特攻隊や(沖縄の)ひめゆり部隊を「故郷の家族を守るため、この日本を守るために犠牲になることをあえていとわなかった」と日本軍によって強制され た集団自決など沖縄戦の悲惨な状況は抹殺したうえで「そうした価値の実現のために生命を犠牲にしなければならない場合もある」と強調、称賛(「この部分は われわれの志を強く訴えたものであり、『つくる会』の原点とも言えるかもしれません」と本音を吐露)、
④ 基本的人権(私)よりも国益や秩序(公)の優先を強調、「核廃絶は絶対の正義か?」と否定的見解を述べて核兵器の抑止効果を強調し、核武装の必要性 を主張、国家に対する国民の忠誠と国防の義務を強調して第9条を敵視等のように大日本帝国憲法と教育勅語を賛美し、現憲法を違法に作られたものと非難して その理念を否定し、改憲を主張しているように、差別主義・排外主義・天皇主義にもとずく「日本人の誇り」を子ども達にたたきこんで「一旦緩急アレバ義勇公 ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」(教育勅語)する侵略戦争の先兵に育てる教育を行うためのものです。

  そして、これまで侵略戦争や天皇制を批判する歴史認識をさんざん弾圧してきた文部科学省が、「検定で執筆者の歴史認識の是非を問うことはできない」という 談話を発表する裏で、教科書会社に圧力をかけて軍隊慰安婦や南京大虐殺の記述を大幅に後退させたという事実を重視しないわけにはいきません。日本政府が大 東亜戦争肯定論・皇国史観にお墨付きを与えたことを意味しており、ふたたびアジア侵略戦争を宣言したに等しい歴史的暴挙です。
このまま「つくる会」教科書の採択をゆるしたら、来年四月から教育現場に、このとんでもない反動的教科書が登場します。その先に待ち構えているのは他社の 自主規制と追随の果ての「国定教科書」の再来ではないでしょうか。恐るべき事態の到来です。と同時に、事態がいかなる脈絡で推移しているかが、くっきりと 見えてきたのではないでしょうか。
いまや憲法改悪に向けた凄まじい中央突破の攻撃、すなわち戦後体制が最後的破産をとげるなかで、戦後国家を戦争と恐慌と革命の危機に備えた国家につくりか えようとする攻撃が、次々と襲いかかっています。この攻撃は改憲の後に憲法に沿って国家を再構築しようというのではなく、戦後価値体系を徹底的に解体・清 算しつくして改造した国家の実体に即した憲法に改めようとしています。そういう意味では、この間の攻撃は改憲策動と一体不可分であり、日米安保新ガイドラ インにもとずく「周辺事態法」、「国旗・国歌」法、組識的犯罪対策三法、住民基本台帳法改悪、外国人登録法・入管法改悪、団体規制法(第二破防法)、少年 法改悪等々の一連の反動攻撃につづく「司法改革」「教育改革」そして国会の憲法調査会設置と急ピッチでの審議進行と怒濤のように押し寄せる「新たな戦前」 の始まりは、私たち一人ひとりに歴史選択を問うていることが、もはや何人の目にも明らかです。
朝鮮、中国をはじめアジア各国の人民は、ただちに猛然と弾劾のたたかいに決起しています。問われているのは、日本の私たち一人ひとりはどうするのかなのです。 (富山保信)

検察官は富山さんの無実を示す証拠を隠すな!
裁判所は、無実の証拠を隠し続ける検察官に対して、証拠開示命令を!
 検察官が証拠開示を拒否

  この間、富山再審弁護団は、検察官に対して、証拠開示を求めて折衝を繰り返してきました(ニュース148号、150号参照)。
3月28日、東京高等検察庁・太田修検察官は、弁護団が開示を求めた未開示証拠について、「必要性がない」と最終的に開示を拒否しました。
弁護団が開示を求めた目撃者の供述調書や捜査報告書、富山さんのアリバイを示す証拠、逮捕写真などはその存在が明らかになっています。弁護団はこれらにつ いて、捜査を行った警察官の証言などによって、具体的にその存在を指摘しています。また、この間の折衝の過程で検察官がその存在を認めたものもあります。
検察官は今回の判断に先立ってこれらの証拠を見て検討しています。開示すべきか否か、未開示の証拠が再審を開始する事由になるか否かは、検察官一人の判断 に任せられるものではありません。裁判官、弁護人、そして再審請求人の富山さん自身が見て判断すべきことです。検察官の判断のみで「必要性がない」などと どうして言えるでしょうか。
検察官が保管している証拠は、一人検察官のためのものではなく、真実発見のためのものであり、検察官の「開示拒否」を断じて許すことはできません。
弁護団は今後、裁判所に、無実の証拠を隠し続ける検察官に対して証拠開示命令を出すよう求めていきます。「かちとる会」も証拠開示を求める署名運動を広く展開していきます。多くの方々のご支援をお願い致します。  (山村)

  3月の大井町での署名集めは、春の嵐の中で行われた。その中で亀さんは2名の署名を集め、富山さんと山村は完敗。うり美さんはお休み。

  「明日のための第十三歩目。桜は満開で春は来ました。終わらない冬はありません」というお便りとともに二千円のカンパを頂きました。ありがとうございました。