カテゴリー
NEWS

ニュースNo.141(2000年6月1日発行)

 

●ニュースNo141(2000年6月1日発行)◎今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味(前号に続いて)

大井町ビラまき報告

3・18集会 ― 浜田寿美男さんの講演

 今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味

(前号に続いて、3月18日の集会での浜田寿美男さんの講演を掲載します。)

99・9パーセントの有罪率
「日本の司法文化」
「有罪への確信と無罪可能性のチェック」
無罪判決は想定しない日本の裁判
一生無罪判決を書かない裁判官
一事不再理の逆をいく日本の裁判
富山事件における目撃証言の信用性
供述証拠の形成過程が問題
検察に都合のいい目撃者のみ選別

(以上前号)
(以下今号)
控訴審判決の「基準」
目撃条件は良好か?
写真面割りの過程はブラックボックスの中
空くじなし
写真面割りの後の面通しは無意味
捜査官の間で情報交換が行なわれている
富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述
どの犯人を見て選んだのか?
科学的な検証の姿勢がない日本の裁判
仮説検証型でなく仮説固執型
日本の刑事司法全体を考え直す時

 証拠が結果として法廷に提出されるのみで、その証拠収集の過程がまったくブラックボックスの中にある。そしてしばしば、裁判所に おいても、この過程へのチェック抜きに審理がなされてしまう。富山事件の確定判決はまさにその典型で、しかも、それがその後のひとつのモデルとして位置づ けられていくので問題の根は深いわけです。
実際、ある心理学者が最近刊行した『嘘をつく記憶』という本の中でも、この点が無批判に取り入れられています。これは『判例タイムズ』に載った控訴審判 決に基づいてのみ書いています。一審の判決とかに当たっていただいたら、こんなに簡単には言えないということはすぐにわかるはずなんですけれども、どうし ても表に出た判決しか見ないでそこで判断してしまう。この本の著者も心理学者ですけれども、菊野春雄さんという大阪教育大の方のようですけれども、『嘘を つく記憶』ということで 記憶の間違いやすさというのを指摘しているという意味では啓蒙書として意味のある本だと思いますが、一つ一つ挙げられている例で非常に困った例がある。
富山さんの事件も、東大井内ゲバ殺人事件ということで挙げられていますけれども、控訴審判決の中からの引用というか、『判例タイムズ』にまとめられたも のをそのまま引用している。いわゆる孫引きのような状態です。控訴審判決の「写真面割りの正確性を担保するための基準」、七つの判断基準と呼ばれているん ですが、これが富山事件の控訴審判決で出されて、その後の目撃に関わる裁判の中で、一つの理想的とまでは言わないにしても、基準として扱われてきているわ けなんですね。『判例タイムズ』の中でも「実務上極めて参考になる判断を示しており、意義も深いもの」だという形で評価しているのをこの本も引用して、控 訴審判決の基準を載せています。

控訴審判決の「基準」

この控訴審判決の基準は、表向きそれだけを見ますとなるほどそうじゃないかと思ってしまうようなことが書かれているわけです。例えば、判決では、次のように記されている。
一番目が、「写真識別者の目撃条件が良好であること見たとか、視力に問題があるということなら別だけれど、そうじゃないということが大事だと書かれています。当然、そういうふうに思いますよね、これだけ見ると。
二番目が、「早期に行われた写真面割りであること」。
三番目、「写真面割りの全過程が十分公正さを保持していると認められること」。そこにはいわゆる写真帳についても言及されていて、「捜査官が犯人らしき特定の者を指摘するなどの暗示、誘導など行ってはいないこと」、なども書かれています。
四番目に、「なるべく多数者の多数枚による写真が使用されていること。その場合、体格、身長等をもあらわすものも収められていれば最も望ましい」。
五番目に、「提示された写真の中に必ず犯人がいるというものではない旨の選択の自由が識別者に確保されていること」。
六番目に、「識別者に対し、後に必ず面通しを実施し、犯人の全体像に直面させたうえでの再度の同一性確認の事実があること」。
七番目に、「上の識別は可及的相互に」、可及的というのは出来るだけということですね、「相互に独立した複数人によってなされていること」。

これだけ読みますと問題ないじゃないかと見えるかと思います。ところが、実際には、これを富山事件に合わせてみますととんでもな いことが出て来ます。判決は、富山さんの事件についての写真面割り、面通しの手続きは少し問題を孕んでいるにせよ、おおよそこの基準を満たしているという ものなのですが、一つ一つ見ますととんでもないことになります。

目撃条件は良好か?

一番目、写真識別者の目撃条件が良好であることとなっていますけれども、確かに白昼行なわれた事件で、しかも、それは日常的出来事じゃなくて殺人行為ということですから、誰の目も引く、見逃すようなことじゃない、それだけ見ますと、目撃条件が良好であるように見えます。
しかし、目撃者一人一人を見ますと、一つは視力の問題があります。控訴審判決で最も重要な証人だと言われているIさんという方は、普段はメガネをかけて いるのにこの時はメガネをかけてなかったというわけで、視力が問題になります。Iさんについては、視力は良くても0・4で、しかも16・45メートル離れ た犯人を目撃したもので、同一性識別は不可能という鑑定証拠が再審で改めて弁護団から出されたと聞いています。
一番最初に写真面割りをしたと言われていますTkさん、車に乗っていて助手席から見たという人です。この人は当時から糖尿病で目が問題で、二審の時にはもう失明していたという人です。事件当時どの程度の視力があったのかものすごく問題ですね。
また、視力の問題だけじゃなくて、これは箱田さんという心理学者の方が鑑定でやりましたけれども、殺人事件なんかを目撃した時は、犯行者の顔を見るより は、むしろ現場のその凄惨な様子に目を取られてしまう、あるいは、凶器に目を取られてしまって、顔をちゃんと覚えることはむしろ難しいのではないかと言わ れています。凶器注目効果と言われていますけれども。
さらに、この事件の場合、目撃された犯人の側は四人いるということになっているわけです。その四人のうちの一人が指揮をしていて、その指揮者に似ている として富山さんの写真が選ばれたという話になっているんですが、四人も見るということは大変なことなんですね。一人の人間がやっているなら、間違いなくこ いつを見たと言えなくはないですけれども、四人を見ている場合には、どの人間を見たのかという話になります。しかも、この事件は、目撃供述をもとに四人と も容疑者が挙がっているのではなくて、指揮者だけしか特定できなかったというわけです。先ほど詳しく説明(注・うり美さんの現地調査報告/139号に掲 載)がありましたけれども、四人のうちの誰を見て、富山さんの写真を似ていると同定したのかということが非常にあいまいな形でなされているわけです。そう しますと、目撃の条件は良かったと単純に言えるかどうか、これはかなり慎重に検討しなければならないはずなんですね。
ところが、漠然と、白昼行なわれた殺人事件でたくさんの人が見ていて大丈夫じゃないかと、こういう非常な安易なところに流れているような状況なんですね。

写真面割りの過程はブラックボックスの中

二番目に、早期に行われた写真面割りであることとあります。確かにこれは事件の翌々日に写真面割りが始まるわけで早期なのかも知れません。
しかし、三番目に書かれている、写真面割りの全過程が十分公正さを保持していると認められること、つまりどういう形で写真が選ばれて、どういう手続き だったかということですが、富山事件ではこれが証拠としては明確に出されていないわけです。ブラックボックスの中ということなんです。
控訴審の裁判所は、大雑把に言えば、写真面割りをした時の取調べ警察官を連れてきて、ちゃんとやりましたか、ちゃんとやりました、ちゃんとやったんです ね、というだけで認定してしまっています。警察官は嘘を言わないという裁判所の考えがあるわけです。けれども、捜査官だってやっぱり立場がありますから、 誘導しましたと言えるわけがありません。法廷に出てきた時に、実際にあったことをしゃべるのではなくて、やはり欠点を突かれないような答え方をしますね。
そうすると、捜査官が法廷に出てきてしゃべったからといって、事実をそのとおり再現しているかというとそうはならないわけです。これは当たり前なんです けれども、裁判所はなかなかそういうふうに認定してくれません。形式上、法廷で警察官が、ちゃんとやりました、誘導はやってません、目撃者に写真を見せて それらしいと言ったことはありませんと言ったら、それは調書という形で文書に残りますから、証拠として利用できる、間違いない、これだということで、十分 公正さを保持していると認められるとこういう話になる。
結局、二番目、三番目については、それこそ、写真面割りの場面をビデオテープにでも撮ってもらわないと証明はできないですね。そこで、先ほど言いました ように、私たちは今、取調べに関するガイドラインということを考えています。その中で最大のものは、捜査過程を見えるようにすること、可視化と言っていま すけど、つまり、写真面割りをするのだったらビデオを撮りなさいよ、ということを言っているわけです。それをやりさえすれば、何がそこで起こったかという ことは歴然とするわけです。それくらいの装置は簡単ですから、できることなんですね。できることだからやってもらえればいいのですけれど、やらないです ね。二番目、三番目についてはまさにブラックボックスの中です。

空くじなし

四番目、なるべく多数者の多数枚による写真が使用されていること、これも大きな問題です。
この間、面通しとか面割りについて、いろいろ研究がなされてきています。これまでも目撃者の記憶というのは確かに危ないとよく言われている。だからちゃ んとチェックできるようにしましょうということなんです。心理学実験などを使いながらどういうチェックが必要なのかを研究しているんですが、その中で一番 重要な部分はここだと私は思っています。
例えば、目撃証言以外の他の証拠からこの人が犯人である可能性が高いということになった場合、目撃者が確かにその人物を見たのかどうかをチェックするた めに、面通しの場合であれば、一人の被疑者に対して、その被疑者と身長とか体格とか容貌が比較的似ている人達をあと八人ほど呼んで来て、その中に被疑者を 混ぜて、そのうえでちゃんとこの人だという特定ができるかどうかということをやらなければいけない。つまり、記憶のチェックなんですね。あとの八人は犯人 じゃないということがはっきりしている人達です。犯人じゃないことがはっきりしている人を混ぜて面通しをする。しかも、顔の特徴なんかも似ている人でなけ ればいけません。例えば、犯人は二十代だというふうに供述しているとすれば、二十代位の人をあと八人集めて来なければならない。被疑者一人だけが二十代 で、あとは四十代、五十代だったら、歴然と被疑者だとなってしまいますから。よく似た人で、しかもこの人は犯人じゃないということがわかっている人達を混 ぜて調べるということをやらなければいけない。ちゃんとそういう形で記憶を確かめるというのが、面通しの一番大事なところなんですね。
ところが、控訴審判決の基準の四番目で言われていることはどういうことかと言うと、いわゆる面割りというやつです。面割りというのは、犯人の可能性があ る人達を集めてきて、この中におらんかと言って調べる、これがいわゆる面割りです。先ほど、やっていないことがわかっている人を混ぜて記憶をチェックする というのと、犯人かもしれない可能性を持っている人達とかその写真を並べておいて、この中にいないかと言って調べるのとはまったく違うんですね。ところ が、控訴審判決があげている基準というのは、そのへんの区別を一切していないわけです。控訴審判決は、たくさんの人を集めてこの中に似た者はいないかと やって選んだということ、たくさんの中から選ぶことが大事だと書いてあるんです。
この事件は中核派が革マル派に対してやった事件ということになっていますから、中核派の人達でかつて逮捕された経験のある人達の二百枚近い写真で面割り をやっているわけです。全員、中核派と思われている人達の写真を並べ、この中にいるかと聞いているわけです。そしたら、誰を当ててもいいんです。私は鑑定 書の中で皮肉をこめて書いたんですけれども、“空くじなし”ということなんです。たまたま空くじがはっきりしたケースがあって、その人はその時捕まってい て犯行を起こしようがないのですが、後で、しまったというのではずしてしまう、そういうことをやってしまうんですね。
“空くじなし”の写真面割りというのは、ちょっと考えればおかしいとわかるわけですね。だけど控訴審判決はそれをすべきだと書いてある。しかし、犯人で はないとわかっている人を混ぜての写真帳でなければチェックという意味での機能は果たせないということです。警察官の写真を並べてその中に富山さんの写真 を一つ入れておけばいいですね。180センチの四角張った顔の人を並べておいて、その中から当てさせたら警察官を選んだということもありえる、ということ になればそれはちゃんとチェックしたことになるんですが、そういう、記憶をチェックするという発想が控訴審判決には全然ないわけです。こう見てきますと、 まったくおかしい基準なんですね。 五つ目もそうです。提示された写真の中に必ず犯人がいるというものではない旨の選択の自由が識別者に確保されているこ と。写真帳の中に犯人が入っていないかも知れないということをちゃんと言わなければいけないとなっているけど、これだって警察官が法廷に出て来てちゃんと 言いましたでお終いなんですね。弁護人の方は、チェックできないわけです。

写真面割りの後の面通しは無意味

六つ目、識別者に対し、後に必ず面通しを実施し、犯人の全体像に直面させたうえでの再度の同一性確認の事実があること。
つまり、写真面割りの後、実物を見て確認しろと、それは大事なことなんだと言っている。だけど、写真面割りで特定した者をもう一回実物で見せた時、やっ ぱり違いますと言うかというと言わないわけです。写真で間違った人を選んでしまったら、その写真の顔が記憶に残りますから、面通ししてもだめなんですね。 つまり、人の記憶というのは、重ねて見ていきますと歪んで来るわけです。この人だと言ってしまえば、後になってもともと見た時のイメージを取り出してきて チェックすることはできない。ビデオテープだったらできますよ。人間の記憶はそんなふうにできておらんということです。だから、控訴審判決は、写真面割り をした後ちゃんと面通しをしなさいと書いてあるんですけど、写真面割りをした後やる面通しは無意味だということです。
しかも、この場合、単独面通しです。先ほど言いましたように似た人を集めてきて、違うとわかっている人を混ぜてやった面通しならまだしも、捕まえて来た一人の人間を見せてこいつかと言うわけですから、そんなのは確認したことにはならないと言わざるを得ません。

捜査官の間で情報交換が行なわれている

最後に可及的相互に独立した複数人によってなされていること。
できるだけ相互に独立した形で取調べを、例えば目撃者が40人いたとすれば、40人別々に、お互いに情報交換しない形で調べなさい、そのうえで、それぞれが特定の人を指示したならそれをもって証拠になるんだと言うわけです。
これも理念としてはその通りであります。だけど、本当に相互に独立した取調べがなされ、事情聴取がなされたのかどうかのチェックがなされなければ、これ は空文句なんですね。結局、また捜査官が出てきて、相談するようなことはありませんでした、それでお終いということになるわけです。
実際に富山事件を見ますと、同じ捜査官が、二人のそれぞれ違う目撃者に事情聴取していることが明らかです。しかも、日本の場合は、捜査を進めていく過程 で捜査会議を必ず開いていきますから、捜査官の間で情報交換をやっているわけです。捜査官がチームでもって写真面割りをやっている中で、それぞれ独立した 形で事情聴取がなされていくなんてことになるかどうかというと、はっきり言ってならないわけです。
ですから、私達がガイドラインの中でも提言しようと思っているのは、これはなかなか難しいことかもしれませんが、実際の捜査担当者とは違う人間が写真面 割りの手続きをしなければいかん、事件のことを知らない人が写真面割りをしなさいということです。つまり、こいつじゃないかと思っている人が調べたら、ど うしてもそうなってしまうわけです。写真面割りくらい誰だってできるはずですから、写真面割りとか面通しについての一定の訓練を受けた捜査官が、どういう 事件であって、誰が犯人であるかの目星とか、一切情報として知らない状態で、目撃者に対して写真を見せて、この中にいたら教えてください、いないこともあ り得ますよ、とやらなければいけない。これは当然のことだと思うのですね。だけど、そういう手続きは一切踏んでいないわけです。
このように、基準として確定判決が挙げているものを、具体的に一つ一つ富山事件の目撃者に関して当てはめていきますと、完全にそれが筋違いのものになっていることがわかるだろうと思います。
このような控訴審判決の基準が、その後の目撃供述を軸にした事件で援用されているということがあるわけで、そういう意味では、富山事件の再審請求を勝ちとるということは、単に一事件にとどまらず類似の目撃事件にとっても大きな意味があると思います。

富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述

鑑定書でも書きましたけれども、富山事件の目撃供述に関して、歴然と変遷しているものがいくつもあります。例えば、一番典型的なのは年齢、身長ですね。時期を追って見ますと、明らかに富山さんの実際の年齢や身長に合わせてきれいに収束していくわけです。

記憶は変遷すると言っても、「正解」に向かって一様に変遷するというのはおかしいわけです。見たときの印象というのはその時のも のですから、バラついていて自然なんですね。私がもし捜査官だったらこんなことはしないですね。バラバラでいいと、人間の年齢についての記憶なんかええか げんなもんやと思いますけどね。この間の京都の日野の小学校の事件なんかでも、その前の神戸の事件なんかでも、ええかげんなわけです。
富山事件の目撃供述のように、こんなうまいこと富山さんの年齢の二十六、七歳に移っていくなんて、こんな不自然な供述取ったらあかんと、僕だったら言い ますね、最初のままでいいんやと。例えば、二十四、五歳と言った人がいて、その次の取調べの段階で、もう一つ位年取っていたように思いますなんて言うんで すね。人の年齢を、一つ位なんていう差で言うでしょうか。考えられないことをやっているわけです。まあ、警察官というのはお役人さんですから、正確さを求 めるというか、なんか厳格らしいのを求めるようですね。
僕なんか見ますと、二十五才位と言っていて、その後、一つぐらい年を取っているように思います、というのを読んだだけでこれはおかしいと思いますよ。これだけでも誘導の証拠だと、僕は言えると思うのですけれども。

どの犯人を見て選んだのか?

そういう中で、「七人の犯行場面供述の変遷」、これは取り繕うのが大変だっただろうと思います。

第一期、第二期、第三期とあげているのがちょっとわかりづらいと思います。第一期は事件直後の供述です。直後といっても10日ほ どありますけれども、その段階でのもの。第二期というのは、写真帳を作りなおしてもう一度調べ直した時のもの。第三期というのは富山さんが逮捕された後、 面通しが行なわれる検察官の取調べの段階。三つの時期に大きく分かれます。

その第一期の段階で、目撃者達は四人の犯人を見て、そのうちの一人として富山さんの写真を選んだわけです。四人の犯人のうちの誰かを見て、写真帳の中から富山さんの写真を似ているということで選んだということになっています。
ところが、第一期の段階で、どの犯人を見て、富山さんの写真を似ていると選んだのか見てみますと、バラバラなんですね。
第一期で、ガードレールの手前側の歩道上で指揮をしていた人物として、富山さんの写真を選んだのはOさんとIさんだけです。
Yさんは一応指揮をしていたということになっているんですが、車道上で殴っている犯人のすぐ横にいた人物として、富山さんの写真を選んでいるわけです。 Sさんは車道上で鉄パイプで殴っている人物ということで富山さんの写真を選んでいる。Kさんも車道上で殴っている人物として富山さんの写真を選んでいま す。Tkさんは殴っているところを見たうえで、逃げている所を見たとなっています。
殴っている所を見ているということになると、「歩道上の指揮者」を見ているのではないわけです。だけどみんな富山さんの写真を選んでいるわけです。これはどう考えても矛盾するわけです。これを検察官はどう思ったのだろうと、僕は思うのです。
員面調書の、一番最初の段階が明らかに矛盾するわけです。明らかに矛盾するのでどうしたかというと、結局、供述を動かすよりしょうがない。富山さんを逮 捕して、起訴に持ち込む過程で、検察官が証拠固めをするわけです。証拠固めをするためには、何が必要かというと、矛盾しちゃ困るということで、目撃供述を それぞれ動かすわけです。見た場面を動かす。
歩道上で指揮をしているところを見たという話になっていますOさんとIさんは、とりあえず、軸として動かさなくてもいいということになりました。
ところがそれ以外の人は全部動かさなければ困る。例えば、車道上で殴っている場面を見たというKさんは、追いかけてくる手前の所で見ていたということに なります。一人の男を四人の男が追っかけて、車道上で三人が殴って、一人が歩道上で指揮をしていた、その後、四人が一緒になって逃げた、こういう流れに なっている中で、殴っている人を見たというのでは困るので、追いかける前の所で見たんだという話になるわけです。前にずらしたわけです。
Yさんは、車道上で三人が殴っているすぐそばに指揮者がいたという話になっている。これも具合が悪いということで、段々とその指揮者の位置がずれてきて、最終段階では、ガードレールの内側まで変わっていく。
Sさんと、Tkさん、それからTgさんは、殴っている場面を見たという話になっている。これは具合が悪いということで、逃げていく所で見たという話に変わっていくわけです。

第一期では、犯人が四人いて、目撃者はそれぞれ違う人物を見ているのに、みんな同じ富山さんの写真を選んでいる。富山さんがいろんなことをしていることになる。それでは矛盾するというので、第三期で供述を今言ったような形で変えざるを得ないわけです。

科学的な検証の姿勢がない日本の裁判

こういう目撃供述をはたして信用していいのか。こういうのを信用してはあかんと言わなければいけないはずですが、なにしろ裁判所 では99・9%の有罪率ですから、それでもって突っ走りますと、こういう無理な証拠も有罪証拠として使われてしまうということになる。裁判の事実認定の過 程を見ますと、事実はどうだったのかということですから、まさに科学的な検証の姿勢、これが正しいのかどうなのかという検証の姿勢がなければいけないわけ ですが、日本の裁判の中にはそういう科学的な検証という姿勢が本当にないですね。

仮説検証型でなく仮説固執型

この人が犯人だというのは一種の仮説ですよね。誰も見てないわけですから、仮説なわけです。仮説が正しいかどうかを検証するとい うのが裁判の手続きであるはずなんですけれども、日本の刑事裁判には仮説検証という姿勢がまったく欠けている。検察官の方もそうですけれども、裁判所の方 も、仮説検証ではなくて仮説固執型だと、仮説にこだわって、こだわって、こだわりつくすというのが検察官の姿勢であり、裁判所の姿勢のように私には見えて しまう。
いかにしてそれを仮説検証的な手続きに変えていかなければならないのかということを、心理学をやっている人間としてこれからもやっていきたいと考えているところです。

日本の刑事司法全体を考え直す時

やはり、日本の刑事司法全体を考え直していくという作業をしなければいけない思います。
これまで日本の刑事司法はいっぱい間違いを犯してきている。ところが、いっぱい間違っているにも関わらず、日本の刑事司法は、間違った後、その間違いがなぜ起こったのかという調査を一切していない。
事情聴取の過程を録音テープに収めるとか、あるいは面通しを先ほど言ったような形で、やっていないことがわかっている人を入れてその中から選ぶようにし なければいけないということが、イギリスなんかで盛んに言われてきています。イギリスという国は、えん罪だということが明らかになれば、なぜ、こういうえ ん罪が、間違いが起こったのかということを国をあげて調査しているわけですね。どこがおかしいということがわかれば、そこを直していくということをしてい るわけです。
ところが、日本の刑事裁判、戦後五十数年の中で、たくさんのえん罪事件、表に出ていないものも含めればものすごい数だと思うんですけれども、どれ一つと して国のレベルでチェックするということをやっていない。最高裁が指揮を取って、なぜ間違ったのかチェックしなければいけないはずだと私は思うのですけれ ども、一度もやって来なかった。そのうえ、国家賠償請求の裁判が起こっても、松山事件のように、死刑が確定してしまった人が再審で無罪になったというもの についても、国家賠償を認めない。当時の捜査も裁判も違法はなかったと言う。違法がなかったのに間違ったというのなら、どうして間違ったのかのチェックを 当然やらなければいかんのに、やらん。全然変わって行かないですね。
そういう司法文化の一つの結果として、この富山事件もあると私は思います。ですから、富山さんの事件に限らず日本の刑事裁判全体、それこそ日本の司法文 化そのものを問うということをやっていかなければいけないんじゃないかと思っていますし、そのためにも、富山さんの再審請求が認められて、公判廷で改めて 議論され、無罪の判決が出されるようにならないといけないと思います。こんな歴然とした無罪事件で有罪が出るんですから。帝銀事件なんかも歴然とした無罪 事件だと私は思うのですけれども、帝銀事件の場合は、平沢さんは獄中で四十年死刑囚として生活して亡くなる。そのあと死後再審ということで第十九次再審、 第十九次ですよ。富山さんは何次でしたっけ。第一次ですね。十九次までやれということではありませんけれども、そういう事態だということを改めて認識しな ければいけないんじゃないかと私は思います。あまり十分なことがしゃべれなかったんですけれども、これで終わりたいと思います。

(小見出しは事務局の責任でつけさせていただきました)

 

 5月の大井町での署名集めは、

Kさん
6名
亀さん
6名
うり美さん
5名
山村
4名
富山さん
0名
合計21名

今回は、「疑わしきは罰せずですから」と署名してくれた人、「僕は思想的には『左』ではないけど、えん罪は許せないので」と署名して千円カンパしてくれた人、「ずいぶん前からやってらっしゃいますよね」と署名してくれた人、等々でした。
また、この日、うり美さんに某テレビ局のディレクターが「えん罪事件ということなら取材したい」と話しかけてきて、その後、富山さんから詳しく説明を聞 いていました。結局、その人が担当しているのはワイドショー的な番組で、こういう「政治性」のある事件を取り上げるのはむずかしいということだったようで すが、話を聞いてもらっただけでもよかったと思いますし、今後何かのきっかけにならないとも限りません。うり美さんは、「最初に私に話しかけて来たんです からね、私に!」と盛んに強調していました。確かにうり美さんのお手柄ではあります。 (山村)

  今回、私が署名を取った人達は、以前に署名してくれた人や、以前何度か私達の前を通りかかっていて、今回初めて署名してくれたという人だった。署名も何ヵ 月、何年と続けると、最初は「信用できない」と思っている人でも、「ここまでやるならどうやら本気だろう」と思うものらしい。考えてみれば、私が署名に参 加した頃に比べると、大井町の署名取りは非常にやりやすくなった。言い方を変えれば富山事件が認知されてきたという実感がある。
「ああ、富山さんの事件ね。まだ決着つかないの?」と声をかけていく人も何人もいるし、こちらが何も言わなくても、ビラなどで事件そのものは知っていてすぐ署名してくれる人が多くなった
今回、私が署名を取った人達は「この前も署名したわよ」と言って署名してくれた人、「以前にカンパ送ったんですよ。頑張ってね」と言って署名してくれた 人、「家族の分も署名していいんでしょ」と言って二人分署名をしてくれた人達でした。今までのビラまきが実を結んでいるような、そんな感触を得たビラまき でした。 (うり美)

 「第七歩目になりました。汗ばむ季節になりました。食事を取って体力をつけましょう」

(カンパ1000円を頂きました。いつもありがとうございます。) (山村)

カテゴリー
NEWS

ニュースNo140(2000年5月1日発行)

 

●ニュースNo140(2000年5月1日発行)◎今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味(次号に続く)□大井町ビラまき報告(休載)

3・18集会―浜田寿美男さんの講演

 今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味

99・9パーセントの有罪率
「日本の司法文化」
「有罪への確信と無罪可能性のチェック」
無罪判決は想定しない日本の裁判
一生無罪判決を書かない裁判官
一事不再理の逆をいく日本の裁判
富山事件における目撃証言の信用性
供述証拠の形成過程が問題
検察に都合のいい目撃者のみ選別

(以下次号)

控訴審判決の「基準」
目撃条件は良好か?
写真面割りの過程はブラックボックスの中
空くじなし
写真面割りの後の面通しは無意味
捜査官の間で情報交換が行なわれている
富山さんの特徴に合わせて変わっていく供述
どの犯人を見て選んだのか?
科学的な検証の姿勢がない日本の裁判
仮説検証型でなく仮説固執型
日本の刑事司法全体を考え直す時

 こんばんわ。京都の花園大学におります浜田と申します。私、この事件で、6年程前に目撃に関わる鑑定書を書きました。富山事件の 再審請求が現在の刑事司法においてどういう意味を持っているのかというテーマで話をしてほしいということでしたので、目撃供述の矛盾などにも絡めながらそ のへんの話をさせていただきたいと思っています。1974年の10月だったと思いますけど、狭山事件の控訴審で10年余り闘ってきた結果、弁護団の方では裁判所が無罪判決を出し てくれるのではないかと期待をしている中で、結果的には一審の死刑は破棄されましたけれども、有罪判決そのものには変わりがなくて無期懲役という形で判決 が下されたということがありました。その後、弁護団が10年余りの弁護活動を改めて総反省するということで、なぜ勝てなかったのか、あらゆる争点について もう一度議論をしなおそうということになりました。
いろんな争点があるのですけれども、その中の一つとして、自白の問題を改めてやっていきたいということになりました。石川さんの場合は自白が取られてな おかつ第一審の段階では自白を維持したということで、彼が自白をし、それを公判廷でも維持したということが非常に大きな足かせになっていたのですね。第二 審の段階で有罪判決が維持されてしまった最大の理由はおそらく自白だろう、自白についての争点をもう一度洗いなおそうということで、弁護団だけで議論する ということでは問題が限られてくるということで、関心を持ちそうな精神科医あるいは心理学者に声を掛けて研究会を開くということが当時ありました。
当時、狭山事件の弁護団事務局が大阪にあったんですね。解放運動の中心となりますと関東では難しくて、どうしても関西が中心だった時期で、弁護団の事務 局が大阪にあって、その事務局にたまたま私の大学時代の知り合いがいたものですから、その人から声が掛かって、狭山事件の自白についての研究会に参加した と、それがこういう刑事事件に関わり始めた最初です。
以来二十五年間こういう事件に関わることになりました。もともと、私、発達心理学と言って子供の心理学が専門なんで、子供の心理学をやっている人間がな んでこんな刑事裁判にどっぷり漬かっているんだとまわりからいろいろ言われるんですけれども、ともあれ、そういうきっかけで刑事裁判の仕事に入って、その 後弁護士さんとのつきあいがおのずとできまして、狭山事件の方はきちんとした形でまとめられなかったんですけれども、その後、甲山事件という知的障害の子 供達の施設で起こった事件に関わりました。この事件は殺人事件ということになっていますけれども、おそらくこれは事故だっただろうと思う、事故が事件とい う形にすり替えられてしまった事件だと思います。この事件、昨年ようやく無罪が確定しました。事件そのものは1974年なんですね。狭山の控訴審の判決が 出た年に事件が起こった四年後に起訴されるといういろんな経緯をたどるんですけれども、1978年に裁判になって、その後、事件の最大の争点は知的障害の 子供達の目撃供述であろうということになりまして、弁護団だけでは知的障害の子供達の表現の問題を十分扱えないかもしれないということで、狭山の自白研究 会で知り合った弁護士さんから連絡があって協力してもらえないかという話になって、1979年位から甲山弁護団の一員として活動するようになりました。
決定的なきっかけはこの甲山事件でして、いよいよもう足抜けできないというところまで追い込まれて、おかげさまでというのかなにか知りませんが、20年間つきあってようやく無罪を勝ちとれたというところです。こうしたきっかけでいろんな事件に関わりになりまして、えん罪事件の恐ろしさというのを、当事者ではありませんけれども、自白とか目撃供述をずっと追いかけて行く中でつくづく痛感させられてきたということなんです。そのひとつとして富山事件もありました。富山事件の争点も目撃供述が中心ということで、再審の段階で改めて目撃供述の心理学的な 検討をしてもらえないかという話があって、かなり膨大な量の目撃供述とか公判証言があったんですけれども、それを読み取るという作業をやり鑑定書にまとめ ました。今日は、改めて今日の目で見たときにどういうことが言えるのかという話をしてみたいと思っています。

99・9パーセントの有罪率

レジュメの方に、いくつかの本を参考に、その文章を抜き書きしているものが資料としてあります。

まず一つ、「日本の司法文化」と書き出していますけ れども、とりわけ日本の刑事司法における一番大きな問題は刑事裁判における有罪率、これは 非常に大きな問題をはらんでいるのではないかと思っています。有罪率はなんと99・9%です。99・9%以上なんですね。つまり、千人に一人無罪が出れば ええとこだという状態。そういう状態が今の刑事司法の状態なんです。
具体的に、1996年の場合、その年に求刑がなされて判決が出されたものだけの数なんですけれども、全体で5万4221人の人達が求刑を受け判決をこの 年に迎えています。その結果、5万4221人のうち無罪は35人なんです。これ、どれだけの数かというと大変な数字で、逆に5万4千何人の人は有罪だとい うことになります。無罪率は0・06%、有罪率は99・94%ということになります。
ただし、否認事件に限りますと、つまり法廷で自分はやっていませんというふうに否認した人について言いますと、もう少し無罪率は上がります。5万 4221人のうち否認した人は3660人。そのうち無罪判決が出たのが35人ということになります。パーセンテージにしまして0・96%です。ですから否 認事件に関しては99%が有罪で残り1%位が無罪になりうる、つまり百人中一人ということになります。
これは世界的には類を見ないことなんですね。例えばアメリカ、イギリスのように陪審制を敷いている所でありますと、数10パーセント、無罪が出るわけで す。制度が違いますので単純に比較できないにしても、日本の場合、これだけの数ということは、つまり起訴されればほぼ間違いなく有罪だということになりま す。

もう一つ言いますと、裁判が機能していないとも言えますね。

「日本の司法文化」

レジュメに抜き書きしているのは、今年の2月に出た本で、佐々木知子さんという元検察官の方が書いた『日本の司法文化』という本 に書かれているものです。この佐々木知子さんという人は推理小説作家でもあって、何年か前に横溝正史賞かなんかを貰ったということで、そういう意味では有 名な人なんですが、この本、ぜひお読みいただいたらいいと思いますが、非常に困った本です。検察官サイドでずっと書いていまして、例えば、わが国では起訴 するかどうかは非常に重要だと書いてありまして、起訴する際の基準というのは、有罪か無罪かという裁判官の基準とほぼ同じであると言っているわけです。つ まり裁判官の基準と検察官の基準は変わらない、現に99・9%の有罪率ということですから、検察官が起訴すればまず間違いなく有罪だし、それだけ検察官は 起訴について厳格な審査をしているんだと、こう言うんですね。つまり、無罪者を起訴するようなことはしていないというのが主張であるわけです。
また、わが国の人々はみんな、悪い人は罰しなければいかんという、事件が起こればその真相を明らかにして犯罪を犯した当人を逃すことなく罰しなければい けないという文化を日本人はみんな持っているんだという主張を縷々(るる)述べております。最後のところでも、日本人というのは「有罪の者を逃すなど論 外」だという見方をしているんだと書いています。検察庁の方は有罪者を逃すことのないように厳格に審査をして起訴に臨んで、現に起訴されたとおり99%ま で有罪の判決をもらうだけのことはやっているんだと豪語しているんですね。これは実に恐いことだと、私、思っています。

「有罪への確信と無罪可能性のチェック」

レジュメの2ページに、「有罪への確信と無罪可能性のチェック」と書きました。そこでも同じように佐々木知子さんの文章を抜き書 きしてますけれども、「わが国の 刑事訴訟法の大きな目的は真実究明である。実体的真実主義には二つの側面がある。無実の者を有罪にしないという消極面と 有罪のものを正しく罰するという積極面である」としまして、彼女は、起訴するかしないかについて非常に厳格にしている、その点がむしろ問題じゃないかとい う言い方をしています。「慎重すぎるスクリーニ ングは、消極目的をまっとうしようとする余り」、つま り無実の者を有罪にしないようにという消極的部分 をまっとうしようとする余りに、「積極目的を軽視する恐れがあるのではないか」と書いてあるわけです。つまり、有罪者を逃してしまう危険性があるんじゃな いかということを彼女は言っています。こういう発想です。
大阪高裁の元裁判長でありました石松さんという人は、刑事裁判の最大の目的はなにかというと無実者を探しだすことだと言っています。つまり、これは格言 でよく言われますけど、「百人の有罪者を逃すことがあっても、 一人の無実者を罰してはならない」、これは人権上大変 重要な見方だと私は思います。刑事 司法の歴史的な展開を見ていきますと、有罪者を必ず罰するというところから、それを適正な手続きに基づいて罰しなければいかんというところに移ってきて、 さらには、現在は少なくとも無実者を罰することがあってはならないということを強調しているのが世界的な動きなんですけれども、日本の刑事司法の中では、 有罪者を逃してはいけないことが大事なんだということが相変わらず考えられている、しかも、それは国民に支持されている、日本の司法文化はそういうところ にあるんだという主張を佐々木さんという人はしているわけです。これは、おそらく佐々木知子さんに限らない、司法関係者のかなり大多数の人達が持っている 意見だろうと、佐々木知子曰く、弁護士も一部の人達はやいのやいの言うてるけど、大抵の弁護士はそうは思っておらんとこう書いております。ぜひお読みいた だいたらと思います。

無罪判決は想定しない日本の裁判

それはともあれ、そういう形で考えて来た時、裁判官の方も、実は99・9%というこの司法文化に左右されていると思うのですね。
同じくレジュメの2ページの上に、羽柴駿さん、この人弁護士さんですけれども、『刑事法廷』という本が二 年ほど前に出されてまして、この中に実におもしろいエピソードが載ってましたので、それを挙げました。
裁判官も、99・9%の有罪率となりますと、仕事上どういう感覚を持つかというと、目の前にいつも被告人が座っているわけですけれども、法廷の中では、 被告人が千人いると、この千人の人達を裁くにあたってそのうち9百99人までは有罪だという感覚を持っているわけですね。つまり、目の前に被告人が次々と 入れ替わり、裁判が終わる都度変わっていくわけですけど、その千人のうちわずか一人位しか無罪者はおらんということになります。
心理学の言葉の中に期待率という言葉がありますけれども、次にどういうことが起こるかという期待をそれぞれパーセンテージ、一定程度のあるパーセンテー ジでこういうことが起こるだろうと、期待を統計に取るわけではないんですけれども、感覚として人は持っているわけです。例えば飛行機に乗ったら事故に遭う のは確率的に0・0、何%か知りませんけれども、大体大丈夫だろうと思ってみな乗っているわけですね。それが2百回に一回でも落ちるということになれば大 分警戒するということになると思います。ある程度の期待率をわれわれは持ちながら日常生活を送っている。裁判官も一緒なんですね。そうすると、千件のうち に一件しか無罪が出ないとなると、まあ、大体、そこに座っている奴は有罪という思いでやっぱり見てしまいますよね。ですから、理屈のうえでは証拠を見て有 罪心証あるいは無罪心証を取るということになるんですけれども、心理学的意味での期待率ということで言いますと、千人のうち一人だということで、現に裁判 官達は無罪判決を書くのに非常に勇気がいるというわけです。めったに起こらんもんですから、よほどのちゃんとした証拠がなければ無罪判決は書けないという 思いになってしまう。
羽柴駿さんの『刑事法廷』に書かれているのは、そういう雰囲気を非常に強く伝えているエピソードだと思うんです。これは交通事故の事件、横断歩道を横 切っている人を轢き殺したという事案で、被害者の人がどういう経路をたどってその横断歩道を通ったのか、ひょっとして運転していた人にとって死角に当たる 位置にその人がいたのではないか、そのへんが議論になったもので、どういう経路を歩いたのかということが法廷で最大の問題として議論されてきた。ところ が、検察側の立証がなかなかちゃんと行かなくて、裁判所が苛立ってきているという場面が書いてあります。その裁判の中で、公判が終わった後、裁判官が ちょっと来て下さいと言って、検察官と弁護人を自分の部屋に呼び入れたというわけです。法廷でやっている表舞台と、三者会談という形で裏で弁護士さん、検 察官、裁判所がいろいろ議論をするという両面があるわけです。われわれは裏の部分は見えません。この事件の場合、弁護士さんが検察官と一緒に判事の部屋に 呼ばれてどう言われたかというと、こう言ったというんですね。検察官に向かって怒りを露にズバリと「検察官、これは大変な失態ですよ。このままでは有罪の 心証がとれません」と言ったと。これは恐ろしいことだと私は思うんです。つまり、有罪の心証を取らしてもらわないと困るやないかと、あんたちゃんとしなさ いと説教したという。弁護士さん曰く「裁判長、有罪の心証がとれないとおっしゃるのなら、無罪の判決を下さればよいのではありませんか」と言うのですけれ ども、それに対して言葉を濁したという話で終わります。
つまり、裁判官というのは有罪判決を書くのがほとんどで、聞くところに依りますと、司法研修所で判決を書く練習をやるらしいんですけれども、無罪判決を 書く練習というのはないらしいんですね。何を書いてももちろんいいわけですから、たまに、証拠を見て司法修習生が無罪判決を書くとえらい怒られるという話 を聞いたことがあります。無罪判決というのは想定していないわけですね。ですから、裁判官は困るわけです。ちゃんと立証してもらわないと、このままでは私 は無罪判決を書かなければいけない立場に追い込まれてしまいますよという趣旨なんです。

一生無罪判決を書かない裁判官

こういう司法文化の中で裁判が行なわれていく。もちろん一部の裁判官、残念ながら一部と言わざるを得ない、一部の裁判官の中には ちゃんと無罪判決を証拠に基づいて書く人達もいるわけですけれども、千人に一人ですから、おそらく裁判官の中には一生無罪判決を書かない人もいるんじゃな いかと私は思います。一度そういうのを調べていただいたらいいんじゃないかと思うのですが。刑事訴訟法をやってらっしゃる人達が、各裁判官の無罪率、有罪 率を出して、全体統計が99・9%の有罪率、各個人ごとだと百%有罪の人がかなりいるんじゃないかと私は思います。百%の裁判官が何%いるかというデータ を出していただくと非常に助かるなぁと私は思うんですけれども、それぐらいの状況だということなんですね。

一事不再理の逆をいく日本の裁判

その中で何が行われているのかということになります。富山事件の場合も一審は無罪でした。これはある意味で画期的な判決だったん だと私は思います。私も無罪判決を読んで、なかなかよく出来た判決だと思います。弁護団の第一審の主張もちゃんとした形でやられていたと思います。ところ が、残念ながら一審で無罪が出ても検察側は控訴できる。大体、一旦無罪が出たものが控訴できるというのが恐いですよね。もちろん、何か決定的な証拠が新た に出てきて控訴できるのならいいですよ。だけど、ある裁判所で無罪が出たやつを、もう一度蒸し返して審理ができるなんて考えられないことです。「疑わし  きは被告人の利益に」という法理があるわけですけれども、一旦無罪が出ているのに対し検察官控訴が認められている、これ、どういう国なんだと私は思うんで すけれども、日本の司法文化というのはそういうところにあるということなんですね。
諸外国を見ますと、一事不再理ということで検察官控訴というのは本来認められない。もちろん逆に有罪になった場合には控訴ができるというのは人権上当然 なんですけれども。一旦無罪が出たものをもう一回検察側が、権力側が蒸し返すことができるというのは許されないと私は思うのですが、残念ながらそういう事 件がけっこうある。
そして、二審で有罪になる事件ほど後が恐いものはない。むしろ、一審有罪で二審無罪の方がいいんですよね。それで確定する可能性が高くなりますから。逆 のケース、甲山事件なんかそうなんですが、一審できれいな無罪判決が出て、ところが二審で差し戻しという判決が出て、二十年余り引きずってしまったという 結果になる。弘前大学教授夫人殺人事件という推理小説みたいな名前の事件がありますけれども、あの事件も一審無罪、二審でひっくり返って確定してしまう。 そして、獄中で真犯人を知っているという情報を聞きつけた那須さんは、娑婆に出てからその人を訪ね当てて、時効が来てましたのでその真犯人が名乗り出たこ とで、ようやく再審が開始されたという事件があります。ですから、二審でひっくり返るというのは本当に大変なんですね。富山事件もまさにその大変な中を やっているわけですけれども。

富山事件における目撃証言の信用性

富山事件の場合は、他に一切の証拠がなくて、犬の臭気選別がありましたけれどもおよそ証拠とは言えない杜撰(ずさん)なものです から、決定的なのはやはり目撃だったわけですね。白昼に行なわれた事件ですから、約40名の方が目撃していたわけです。都内の路上で白昼ということですか ら、それくらいの目撃者がいて当然なんです。その目撃者のうち法廷に出てきたのは一審、二審合わせて6人ということですけれども、事実上証拠として出てき た人を合わせますと七人ということになります。これだけの目撃者が富山さんの写真を選んで、この人がやったんだということであれば、そこだけ聞くと、まず 間違いないのではないかと思いますよね。
ところが、この供述証拠というのが問題なんです。物証の場合は、物証でも作ってしまうような人がいますので、困りますけれども。この間、松山事件の国家 賠償請求裁判が棄却されましたけれども、あの事件は鑑定に回す前にはなかった血液が、鑑定後、帰ってきた時には付いていたという、考えられない事件です。 それでも国家賠償請求裁判は認められないですね。当然そんなことは認めなければいかんと僕は思うんですけれども、違法な捜査はなかったと、だから責任はな いのだという結論です。こんな事件、なんで間違ったんだと僕は思うわけです。なんで間違ったのかということを国家レベルで調査しなさいと言いたいところで すけれども、賠償はしないわ、調査はしないわ、なんにもしないという司法文化なんですね。これもひどいと私は思いますけれども。
それはともあれ、富山事件に戻りますけれども、物証の場合にはよほど何か操作をしない限りそのまま証拠として使えますけど、言葉でしゃべった証拠、いわ ゆる供述証拠は、自白であれ、目撃供述であれ、その供述が取られてきた過程があるわけです。供述というのは、例えばわれわれがビデオを撮ったみたいに、も しビデオで現場を撮ったとして、撮ったものがそのまま記憶の中に刻まれて、法廷でそのまま出されてくるのなら、僕も文句のつけようがないかもしれませんけ れども、残念ながら人間の記憶というのはビデオテープみたいにできていません。かなりいいかげんなものなんですね、記憶そのものが。それにまた事情聴取さ れる過程でいろいろ言われますから、それで歪んでいく可能性があるわけです。

供述証拠の形成過程が問題

問題は、供述証拠が形成されてきた過程なんですね。どういう過程を踏んでその供述が出てきたかということが問題なわけです。とこ ろが、法廷ではなかなかその過程の部分が表に出なくて、結果として挙がった証拠だけ出されて、こういうことを言っとるんだから間違いないやないかと、こう いうことになるわけですね。
ところが、その供述の過程というのはまったく外から見えない。捜査官が、どういうことで、誰をどこに呼んで、どういう取調べをして、こういう供述が出て きたのかということがわからない。ブラックボックスなんですね。ブラックボックス、闇箱の中、ここで、何が起こっているのかわからない中で事情聴取が行わ れて結果だけがポコッと出てくる。ポコッと出てきた供述でもって、こいつを見たと、写真でちゃんと選んだと、面通ししたらこいつだと言ったと、だから間違 いない、そのレベルで判決がなされて来てしまっている現実があるんですね。
ところが、やはり出てくる過程が問題なんですね。とりわけ自白に関して、実に興味深いものが、警察官向けの本の中に出てきたりします。その一部をレジュメの3ページに挙げています。
つい最近、日弁連の下の本屋さんで見つけて買った本で『犯罪捜査101問』があります。これ古くから出ている本なんですが、改版されまして、その最新 版、2000年版のものです。その中に驚くことが書かれているんですね。101問の中の一つの問答なんですが、つまり、被疑者が否認をしている場合にどう いう取調べをするかという質問に対する答えの部分。この書いている増井清彦さんという人は元大阪高検の検事長をやった人です。ですから、現場の人がこう考 えているということがよくわかるわけですけれども、「否認している被疑者の 取調べに当たっては、次の事項に留意すべきである」として、「予め記録及び証 拠物等を精査検討して事件の全 貌を把握し、確信をもって取調べること」、これはいい、その確信をもってというところを具体的にこう書いてある。「頑強に 否認する被疑者に対し、『もしかすると白ではないか』との疑念をもって取調べをしてはならない」、こう書いてあるんです。逆じゃないかと、誤植じゃないか と思うような、これも驚くべき司法文化ですね。こういう思いで調べるわけです。
目撃者の場合もそうです。一定こいつがやったんではないかという思い込みを持ちますと、それに合わせた形で証拠が集められてゆく。証拠収集という言い方 をしますけれども、別の言い方で証拠固めとも言います。これ、よく言ったもんだと、語るに落ちる言葉だと思うんですよ。証拠固めというのは、捜査官が持っ た想定に合った証拠を集めて来る。つまり、無罪証拠も当然あるはずなんですね、実際やってない人間だったら無罪証拠はいっぱいあるはずなんですが、できる だけ無罪証拠には目をつぶって、有罪証拠を集めてくるというニュアンスを証拠固めという言葉はりっぱに語っているわけですね。

検察に都合のいい目撃者のみ選別

―公正な裁判はできない

現に考えていただいたらわかりますが、40人程の目撃者がいたうち、法廷に6人選ばれてきた、これは検察側にとって非常にいいも のを選んできた、そうじゃなくて真実をちゃんと見ている者だけ選んできたとも善意に解釈すれば見えなくはありませんけれども、やっぱり検察に都合のいい目 撃者を選んできて、あと34人の中に、実は富山さんじゃないということが表れている供述が入っている可能性があるんですね。34人全部出してくれればいい じゃないかと思うけれども、いわゆる当事者主義というのを採っていますから、検察側は自分達にとって都合のいい証拠だけ出せばいいということになってい る。
ところが、検察官のみが捜査権を握っていて、弁護側は捜査権を持っておりません。あと34人の氏名を訪ねあてて、一人一人全部調べられればいいですが、 そんなことはできません。検察側のみが捜査権を持っていて、弁護側は何にも持っていなくて、選ばれた証拠だけ、固められたやつだけ出てくるわけですから、 圧倒的なハンディがあるわけです。せめて、全部証拠開示しなさいと、四十人余り調べたんだったら、34人から調書を取ったんだったら、証拠として出てきた 7人の他のあと30何人全部出しなさいと、出すのがあたりまえだと思うんですけど、出さないですね。まして再審段階、確定してしまったやつを、出してあた りまえと思うのですけど、それだけ自信があるのでしたら全部出しなさいよとなるんですが、出さないんですね。検察官が出してきた証拠は真実を語っているの ではないと、純粋に選んできたということでなくて、むしろ、一定の想定を立てた中で、その想定した犯人に合う証拠のみを集めてきたという危険性があるわけ ですね。
そういう証拠収集の過程が見えなければ本来公正な裁判はできないはずだと思うんですが、全部そこのところはブラックボックスなわけです。結果的に、私な んかが鑑定するというのはブラックボックスの中をどう覗くのかという話になっちゃうわけです。出てきた供述証拠の中から、ブラックボックスの外に出てきた 供述証拠を最大限読み込むなかで、どういう捜査が行われてきたか、そのブラックボックスの中を推測する以外ないということになります。推測するなかで、 けっこういろんなことが見えてくるのもまた事実です。先ほど現場検証に基づく報告がありましたけれども、一つ一つ見て行きますと、とんでもないことが行な われているということがよくわかるんですね。
ブラックボックスの中が見えないというのが非常に困るということで、最近、こういう刑事裁判に関わる問題について関心を持つ心理学の研究者も増えて来まして、研究会を組織して、やがて学会にしようということで動いています。

(小見出しは事務局の責任でつけさせていただきました)

以下次号

 

4月の大井町での署名集めは、その前日運転免許試験だったうり美さんが、見事合格したのはいいのですが頑張り過ぎダウン。富山さん、亀さん、山村の3人で行いました。

結果は、

亀さん・・・9名
山村・・・9名
富山さん・・・0名 でした。

「その第七歩目(だったかな)。三蔵法師一行が徒歩で天竺に行くようなものだと考えています。焦らない、焦らない,と思っています。」(カンパ1000を振り込んでいただきました。ありがとうございました)

カテゴリー
NEWS

ニュースNo139(2000年4月1日発行)

 

●ニュースNo139(2000年4月1日発行)◎3・18集会報告□大井町ビラまき報告

3・18集会報告

 20世紀のうちに私たちの手で再審開始を

 -真実を裏付ける証拠開示-

「かちとる会」は、3月18日、品川区大井町の「きゅりあん」で、花園大学教授の浜田寿美男さん、八海事件元被告の阿藤周平さんをお招きして集会を開きました。

集会のタイトル「二十世紀のうちに私たちの手で再審開始を・・・真実を裏付ける証拠開示」は、定例会で検討し、今年こそは再審の門をこじあけたいという思いで考えたものです。このタイトルを今回もKさんが見事な毛筆で書いてくださり、会場の正面に貼りました。
今回の参加者は78人。東京で開いたこれまでの集会で一番多い参加者で、立ち見も出るほどでした。初めて参加した人も14人いて、うち大井町で署名して くださった人が4人もいました。毎月1回、必ず大井町に立って来たのは無駄ではなかったと大変うれしく思いました。お忙しい中、来てくださった皆様に心よ り御礼申し上げます。
今回、司会は亀さんにお願いしました。最初、亀さんは抵抗していましたが、うり美さんをはじめみんなに「絶対できるって!」と押され、最後は「よし、やってみるか」と引き受けてくれました。
「大井町の署名集めで常にトップを走っている亀です」と始まった司会は、朴訥とした、亀さんの誠実さがよく伝わってくるものでした。

集会は、最初にうり美さんが「現地調査を行なってみて」と題する報告を行いました。

うり美さんは、現地調査に基づいて、検面調書の矛盾、員面調書から検面調書への変遷、検察官の誘導を説明し、「この事件は、検察 官による極めて意識的なデッチあげだと思います。一審の裁判官は、こうした検察官による暗示・誘導を指摘して無罪にしました。ところが二審の裁判官は員面 調書は記憶が整理されていない段階のもので矛盾してもしかたがない、検面調書の方が整理されていて信用できると言っています。
しかし、これらの変遷が記憶の整理で説明できるでしょうか。ところが最高裁も二審判決に追随しました。富山さんは二審、上告審で、二度、三度とデッチあ げられたのに等しいと思います」と指摘し、最後に「再審制度は真実を究明し、無辜の救済をはかることを制度の理念、目的としています。そうであるならば、 再審の裁判所が二度と同じ過ちを犯さないよう、私たちは強く訴えるとともに、再審が一日も早く開始され、富山さんの無実が証明されるその日まで最後までた たかいぬくことを誓いたいと思います」と結びました。
アンケートへの回答に「かちとる会の報告のていねいさは無実を証明するための気迫を感じました」と書いてくださった方がいましたが、うり美さんの頑張りがよくわかる説明でした。

次に、甲山事件をはじめ数々の事件で供述分析を行い、富山再審でも、鑑定書「富山事件目撃供述についての心理学的視点からの供述分析」を提出してくださった浜田寿美男さんが、「今日の刑事司法における富山事件再審請求の意味」と題して講演を行なってくださいました。
浜田さんは、「『百人の有罪者を逃すことがあっても一人の無実者を罰してはならない』という格言は、人権上重要な見方だと思うが、現在の日本の刑事司法 の中では、『有罪者を逃してはいけないということが大事』と相変わらず考えられており、結果として有罪率99・9%以上という状況が生まれている。裁判官 もこの99・9%に左右されていると日本の司法の現状を説明し、富山事件について、「約四十人の目撃者がいて、法廷で明らかになったのはそのうちの7人。 あと27人の中には富山さんが犯人ではないという供述がある可能性がある。検察官のみが捜査権を持っていて、弁護士は何も持っておらず圧倒的にハンディが ある。せめて証拠は全部出すというのがあたりまえだと思うが、検察官は出そうとしない」と証拠開示の重要性を指摘し、検察官がそれを拒否していることを批 判しました。
そして、現在、心理学者や法学者、法曹関係者たちの間で「法と心理学会」設立の準備が進み、目撃供述を証拠とする場合の「ガイドライン」が検討されてい ることを説明、富山事件の確定判決に書かれている「写真面割りの正確性を担保するため」と称する「七つの基準」が基準ならざる基準であることをひとつひと つ具体的に批判していきました。
そして、「裁判の事実認定の過程は、科学的な検証の姿勢がなければならないと思うが、検察官のみならず、裁判官にもその姿勢が欠けている」「これまで日 本の刑事司法はいっぱい間違いを犯している。ところが、なぜ間違ったかの調査を一切していない。そういう司法文化のひとつの結果として富山事件もあると思 う」「富山さんの事件に限らず、日本の刑事裁判全体、それこそ日本の司法文化そのものを問うということをやっていかなければならないと思っている。そのた めにも、富山さんの再審請求が認められて、公判廷で改めて審理されて無罪の判決が出されるようにならなければいけないと思う」と述べられました(浜田さん の講演については次回以降のニュースに掲載する予定です)。

次に阿藤周平さんが、八海事件の当事者として七回の裁判をたたかった経験を話され、「八海事件が起きてから50年になろうとして いるが、やっていないのに死刑判決、これは50年経っても、百年経っても忘れられない。激しい怒りを感じる」「自分が無実なのは真実。裁判官が死刑判決を 二度、三度と出しても、真実は必ず明らかになるというのが私の支えだった。真実ほど強いものはない」「みなさんの力強い支援があったからこそ、私は支えら れた。そのお礼として二度と八海事件のようなえん罪を起こさないために、私は富山事件をはじめとするえん罪事件の支援をしている」「富山さんの再審を支援 して七年になる。くじけずにみなさんとともに頑張っていきたい」と訴えてくださいました(阿藤さんの講演は、次回以降のニュースに掲載する予定です)。

次に、富山再審弁護団から葉山岳夫弁護士が、富山再審の現状を報告してくださいました。葉山弁護士は、検察官が弁護団が求めた証 拠開示を拒否したことを怒りを込めて弾劾し、現在、裁判所に証拠開示命令を求めていることを報告、「弁護団は無実は無罪に、無罪の証拠を全て開示せよとい う叫びを強め、再審勝利のためにまず証拠開示を勝ち取っていきたい」と決意を述べられました。

次に「かちとる会」から山村が発言しましたが、もうこの段階で集会終了予定の九時を過ぎており、用意していた原稿のほとんどを削り、証拠開示を求める署名運動への協力だけを訴えました。

カンパアピールは、今回も坂本さんに行なって頂きました。「この事件の目撃証言がいかにおかしいか明らかになったと思います。阿 藤さんが言われるようにたたかいの輪を広げていかなければなりません。そのためには費用がかかります。ぜひ富山再審勝利のためにカンパをお願いします」と 手短に、しかし、力強く訴えてくださいました。時間がなくて申しわけありませんでしたが、にもかかわらず5万3千9百52円も集まったのは坂本さんの力だ と思います。

最後に、再審請求人の富山保信さんが、「再審の現状を決定的に突破していくには証拠開示がカギ。検察官が隠し持っている証拠を開 示せよというたたかいに再審の成否がかかっている」「証拠開示を求める署名の輪を大きく拡げていく必要がある。これが再審の高い塀と狭い門を突破していく 力になると思います。単に私だけでなく、すべてのえん罪に苦しむ人たちの無罪をかちとっていく、真実を明らかにしていく力をつくり出していく最大の突破口 になると確信しています。署名へのご協力をよろしくお願いします」と訴え、集会を終わりました。

みなさんのおかげで大変充実した、感動的な集会になりました。ありがとうございました。この集会をテコに必ずや再審を開始させ、再審無罪をかちとりたいと思います。今後ともご支援をお願い致します。 (山村)

□3・18集会報告

「現地調査を行なってみて」

今回、私は、集会の最初に「現地調査を行なってみて」と題する説明をした。初めに、富山事件の概略とこの事件の争点となっている目撃証言の信用性について、当日講演していただいた浜田寿美男先生の鑑定書を引用しながら説明に入った。
まず、公判で明らかになった7人の目撃者たち(一審証人=5人、二審=1人、供述調書のみ開示=1人)は、事件直後には富山さんとは似ても似つかない犯 人像を言っていたこと、それにもかかわらずこの目撃者全員が富山さんの写真を「犯人に似ている」として選んでいること、また警察の取り調べを受けるに従 い、だんだん富山さんに似た容貌を供述するようになっていることを説明した。
次に、目撃者たちがどの位置で、どの犯人を目撃したのかについての説明に入った。目撃者たちは、早い人で事件発生から3日後、遅い人で41日後に行われ た写真面割りで富山さんの写真を「犯人に似ている」として選んでいる。しかし、7人全員が富山さんの写真を選んでおきながら、どの人物を見て写真を選んだ のかということになると三つに分かれる。
この事件の警察・検察側が主張するストーリーは、犯人4人が被害者を追いかけてきて、そのうちの3人が殴り、1人は殴打に加わらず指揮をしていた(「指揮者」)であったというものである。富山さんはこの「指揮者」とされている。
ところが、この7人の目撃者のうち、4人が「車道上の殴打犯人」、1人が「車道上の殴打場面にいた指揮者」として富山さんの写真を選んでいる。警察・検察の主張する「歩道上の指揮者」を特定して富山さんの写真を選んだのは2人だけだった。
この点について、浜田先生の鑑定書には「はたしてこれが同一人物であるだろうか。それはありえない。そもそも殴打に加わらなかった指揮者と、殴打を直接 行った人物とが一緒のはずがない。にもかかわらず、この七人が写真面割りで同一人物を選んだのである。これを決定的矛盾と言わずして何と言おう」と書かれ ていることを紹介し、この明らかに矛盾にはらんだ供述を、検察官が検面調書において矛盾を整合させたカラクリを図を使って説明した。
「車道上の殴打場面の指揮者」を特定して富山さんの写真を選んでいた目撃者の供述は、「歩道上の指揮者」に変遷、「車道上の殴打犯人」を特定して富山さ んの写真を選んでいた4人のうち3人は「逃走段階の犯人を見た」という供述に変遷、一人は「追走場面(犯人を待ち伏せしている場面)の犯人をみた」と供述 を変遷させている。
検察官は、富山さんが「歩道上の指揮者」であったとしたいがために、それにそぐわない5人の目撃者の供述を殴打場面から逃走場面、待ち伏せ場面へと場面 を変えて、目撃者たちの供述が「歩道上の指揮者」と矛盾しないように目撃者を誘導して供述を変えさせ調書を作り直したのである。このようにして検面調書 は、富山さんが指揮者であったとするために、員面段階のとても同一犯人を目撃したとは思えない供述の矛盾を整合させ、その矛盾を解消させている。

私たち「かちとる会」は、目撃者たちがどの場所でどのように事件を目撃したのか、現場で検証してみた。その結果、検察官が作りあ げた一見矛盾を解消させたかのように見える検面調書にも、実に無理がある、つまり紙の上での辻褄合わせでしかないということがはっきりわかった。

集会では、検面調書で「車道上の指揮者」から「歩道上の指揮者」に変わったY証人、「追走場面(待ち伏せ場面)の犯人」が出てき たK証人、「逃走場面の犯人」が出てきたTK証人の供述の矛盾を図を使って説明した。TK証人にいたっては、供述どおりに行動するのは時間的に不可能であ る。これは現地調査で亀さんと富山さんが実際に走ってみてわかった。

現地調査をやりながら、これらをコンピューターグラフィックで再現してみたらおもしろいだろうということになり、その予定で作業 を進めていたが、どうにもこうにも間に合わず、しかたなく口頭で私が説明をしたのであるが、会場に来ていた人たちにどこまで説明しきれたか、いささか不安 である。
今回の集会は、初めて参加してくれた方が14名もおり、しかも大井町周辺の人の参加も多く、月1回の大井町でのビラまき、署名取りというのはかなり重要であるということがわかった。

集会が終わると、毎回のように、「もっと、早く作業を進めていれば良かった」とか、「ああ言えば良かった、ああすれば良かった」とか、はたまた「今度は、こんなふうにしよう」とかいろいろと思うものである。
今回も、集会直前になってようやくエンジンがかかった私に、山村さんが翻弄されっぱなしだった。私は、集会当日になっても自分が説明する「現地調査を行なってみて」の原稿ができあがらず、山村さんのストレスを倍増させてしまった。
「集会前に何回かリハーサルをしておこう」なんて偉そうなことを言っていたのは私なのだが、説明の原稿は集会直前までかかり、ギリギリできあがった原稿 を持って会場に駆け込み、リハーサルどころか本番でそのまま読み上げたという感じであった。なんとまあ慌ただしい、そして毎回、こんな感じなのである。  (うり美)

2000年3・18集会

 アンケートへの回答から

集会に参加者にアンケートとお願いしたところ、多くの方々が協力してくださいました。ありがとうございました。

▼はじめて日本の司法の生の状況に触れ、変えるべきことが山積している現状を知りました。 (男性/38歳)
▼浜田先生のお話から、ぎょっとするような、日本の司法事情がよくわかりました。
富山事件についての「妙な点」が数々出てきましたが、目撃証言が争点というならば、検察は、残り30何人の供述を明らかにすることが最低限必要ですね。この事実(明らかにされていないという)には、非常に驚きました。
この点だけでも、検察の主張にバイアスがかかっていると思わざるを得ません。
その他、明らかになっている目撃証言も、だんだんと集約されている点も妙だな、と感じました。大変勉強になりました。
(女性/30歳)
▼浜田、阿藤両氏の話は考えさせられました(えん罪や人権侵害は、あすは我が身だと思いました)。
(ニュースで)大井町でのビラマキと署名運動の記事を読みました。息の長い活動に感動をおぼえました。亀さん、うり美さん、山村さんガンバレ!
労災事故で、労働省と交渉して六年位になるのにまだ決まりがつかず、仕事もしていず、カンパ出来ないでいます。郵便代も大変なのでお金がない時はニュース送らないでいいですよ。
集会時は時間の許すかぎり出席したいと思います、その時はお知らせください。よろしく。
(男性/72歳)
▼現地調査報告は非常によかった。
浜田先生の(確定判決の)七基準の全面批判はわかりやすかった。
阿藤周平さんのえん罪に対する激しい怒りは正義の叫びであり、すさまじい気迫に弁護士として応えなければならないという思いを強くしている次第である。
かちとる会の報告も力強かった。
(男性/63歳)
▼いつもながら「かちとる会」の報告のていねいさは、無実を証明するための気迫を感じました。
浜田さん、阿藤さんのそれぞれの立場からの真実の追及の姿勢は感動しました。
あらためて「再審開始」をかちとることが大事だと確認しました。
(男性/53歳)
▼熱がある集会でよかったと思います。
現地調査報告―確信をもちました。
(男性/49歳)
▼浜田先生の話がきわめて鮮明でわかりやすかった。資料にあった裁判官や検察官の考え方のひどさはあらためてびっくりさせられる。
阿藤さんのお話も初めてうかがって、権力に対する深い怒りと憎しみを持っておられることに学ばされ、自分もその怒りと憎しみをわがものとして、がんばって、再審勝利まで闘わなければと決意した。
(男性/56歳)
▼昨年12月の死刑執行について。
臼井法相は再審中であろうとも、再審が認められる可能性がないようなら執行していくと述べました。
“一人の無実者も罰してはならない”との立場どころの話しではない現状に怒り!
「私は弁解しているんじゃないですよ。真実を述べていたんです。それを裁判長は、弁解しているとしか見ない!」「十七年、えぐりとられたまま、それが少 しでも癒されるとすれば、それはえん罪事件がなくなること」……阿藤さんが昨日のように覚えている怒り、ここにえん罪とは何かがある。
(女性/43歳)
▼講演の途中から参加したが、浜田さん、阿藤さんの講演がいずれもとても良かった。 (男性/48歳)
▼浜田寿美男さん、阿藤さん、ともに迫力のあるものだった。
富山さんの無罪を明らかにする資料、説明、今回とくによかったと思う。
(女性/45歳)
▼今回の事件説明は、“足で歩いた成果”を感じました。証拠開示をかちとる説得力、数と論理。 (男性/46歳)
▼浜田氏の講演も、阿藤氏の講演も内容がよかったが、時間が長いので、少々つかれました。 (男性/53歳)
▼証人の言辞の矛盾、目撃証人のそれぞれは矛盾そのもの、絶対的。その経過の説明でよく納得できました。
阿藤さんの話は重みがあり、感激的です。
(男性/62歳)

 

 「司法改革」とは何か―その正体

「司法改革」ということばを耳にし、目にする機会がふえました。

司法の現実を知るものにとって、その改革は急務です。あらためて言うまでもなく、改革が目指すものは、人権擁護・人権保障をまっとうするためにはどうすべきかでなければなりません。
昨年(1999年)6月、内閣に司法制度改革審議会が設置され、7月27日から審議が始まっていますが、いまその方向に沿った審議がはたして行われているのでしょうか。
もともと「普通の人」にとって“司法”は「他人事」であるうえに、マスコミにもてはやされる中坊公平なる人物があたかも目的は良いことであるかのように声高に叫ぶものだから、「司法改革」の本当の狙いが何なのかは見抜かれてはいないように思われます。
司法制度改革審議会の委員は13名で、会長は元行政改革会議委員で司法改革に行革と同じ手法、考え方を持ち込もうとしている京都大学法学部教授の佐藤幸 治。他の委員も、元日弁連会長にもかかわらず住宅債券管理機構(住管)社長をつとめ、不良債権の回収を「国策」と称して裁判官、検察官、警察と一体となっ て推進し、安田弁護士不当逮捕に道を開いた小渕内閣特別顧問の中坊公平、組織的犯罪対策法や少年法改悪の中心人物である東京大学法学部教授の井上正仁、団 体規制法(第二破防法)を発動した公安審査委員会委員長の藤田耕三、曾野綾子・・・と反動的人物のオンパレード。主婦連事務局長を除いてまがりなりにも弱 者の立場、人権擁護の立場から司法の現場にかかわった人物はおらず、財界代表が二名、「労働界」代表も元在タイ日本大使館一等書記官で労働貴族最右翼のゼ ンセン同盟代表、学者はいずれも政府自民党の“人づくり政策”“行政改革政策”に協力した御用学者ばかりという顔ぶれで、司法制度改革審議会設置法案に賛 成した民主党や公明党からさえ異論がでたほど。12月21日に発表された「司法制度改革に向けて―論点整理―」(「論点整理」)によれば、今年(2000 年)内に中間報告、来年の七月までに最終意見を取りまとめるとあります。
「論点整理」の掲げる「司法改革」の目標は、一言で言えば《戦時司法への転換》です。日米新安保ガイドラインのもとで侵略戦争を遂行するために「この国 のかたち」を作り替えようとするものであり、「国民がより利用しやすい司法制度の実現」「陪審・参審制度」「法曹一元制度」などまやかしにすぎません。

少々長くなりますが、核心点を引用します。

― 「日本国民は、膨大な財政赤字と経済的諸困難あるいはある種の社会的閉そく感を抱えつつ新しい世紀を迎えようとしている」
― 「この国が豊かな創造性とエネルギーを取り戻すために、政治改革・行政改革・地方分権推進・規制緩和等の経済構造改革が構想され、実施に移されつつ ある。これらの改革は、国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会 の構築に参画していくことが、二一世紀のこの国の発展を支える基盤であるという認識を共有するものであって、今般の司法制度改革はその最後のかなめともい うべきものである」
― 「国際社会」が「自由経済原則を基礎とする地球規模の経済市場を創出しつつあり」「国際的ルールは決して所与のものではなく、各国が自らの立場を明確に主張し、利害を合理的に調整するという過程を経て形成されていくべき」
― 「世界に展開する個人や企業等の安全とその権利をいかにして保護していくのか」
― 「我々(人民)は、従来、ともすると人的諸関係に過度に頼り、また、安易に行政に依存しがちではなかったかを反省しつつ、自律的個人が共生するためのルールの在り方について、もう少し自覚的に取り組む必要があろう」
― 「いま、この国は、国際社会において積極的な貢献を果たすことが現実に期待されているのであり、そして、それが同時に、この国が自らの正当な利益を主張し、確保していく最善の道でもある」

だが、上記の「要請」にもかかわらず現状は、

― 「二一世紀の我が国社会で司法の比重が増大するなか」「司法の機能不全を指摘する声も少なくない」
― 「法曹制度の土台をなす」「弁護士の在り方について広く検討する必要がある」

さらに、

― 「国際的な法的紛争が増大しつつある」
― 「司法制度改革は国際的視点を抜きに論ずることはできない」
― 「国際的ルールの形成・発展に積極的に参画する」
― 「諸外国への法整備支援体制の在り方や、国際仲裁法制の整備等国際的紛争を円滑に解決する方策をも検討する必要がある」

というのです。

なんともあからさまな主張ではありませんか。周辺事態法、組織的犯罪対策法、日の丸・君が代法、外国人登録法・入管法改悪、団体規制 法(第二破防法)、そして今年一月に衆参両院に設置され「数年のうちに改憲をめざす」憲法調査会という脈絡のなかに、「司法改革」の正体は歴然としていま す。戦争をやれる国家のための《国家改造計画》です。

わかりやすいことばに翻訳すると、こうなります。

「司法改革」の方向性のひとつめは、日米の激しい争闘にみられるような弱肉強食戦を生き抜くための司法に変えなければいけない、「市 場原理・規制緩和・自己責任は時代の要請」だから「行政に甘えるな」、戦後的諸権利を剥ぎ取って犠牲はすべて労働者人民におしつけるということです。

ふたつめは、治安の強化にほかなりません。

それらを実現するためのキーワードが、「弁護士の在り方」だというのです。すなわち、「市場原理・規制緩和によって企業活動に伴う紛 争が増大するから弁護士を増やす必要がある」が、その弁護士は支配階級に奉仕する御用弁護士でなければならない、そのためには司法試験合格者の増員や司法 修習制度の廃止だけではなく司法試験に合格していなくても法律業務に一定年数たずさわった者に弁護士資格を与えたり、司法書士、弁理士、税理士、行政書士 にも弁護士業務ができるようにする、さらに広告規制緩和や弁護士事務所の複数化・法人化といった弁護士業務の営利事業化を促進するうえに、公職との兼職と 営利を目的とする企業の使用人となることの禁止も撤廃すること等をとおして弁護士会の変質を狙っています。「弁護士会にも規制緩和を」とは、弱肉強食の論 理を貫徹させるということであり、人権擁護のためにたたかう弁護士を淘汰して、大資本や国や自治体などの行政、巨大法律事務所に属する弁護士が殆どにして しまうということにほかなりません。その結果は、社会的弱者のためにたたかい、人権擁護を使命とする弁護士会は変質させられ、弁護士自治は解体されること となります。かくして人権思想は解体され、基本的人権は抹殺されていくのです。
治安の強化は、これまでの比ではありません。捜査権限の強化のために、司法取引、付帯私訴、時効の見直し等が検討されています。司法取引とは、被告側が 有罪を認めるかわりに検察側が起訴の一部を取り下げたり、罪状を軽くしたりする制度であり、黙秘権の否定にほかなりません。これをゆるしたら、「共犯証 言」の捏造はいくらでも可能であり、デッチ上げはやりたい放題になります。付帯私訴とは、被害者の加害者にたいする損害賠償の民事裁判を刑事裁判といっ しょに行う制度であって、被告人の“無罪推定の原則”を否定して「被告人は有罪」の前提で審理するということです。要するに憲法と刑事訴訟法の原理的転換 にほかならず、断じてゆるすわけにはいきません。

さらに怒りに耐えないのは、「一審の審理だけでも相当長期間かかるものがあり、国民の刑事司法全体に対する信頼を傷つける一因とも なっている」と被告側の防御権を否定していることです。八海事件に典型をみるように、長期裁判の最大の原因は権力がデッチ上げをおこなうからではありませ んか。責任を被告に転嫁して拙速裁判を狙うだけでなく、弁護人が違法な弁護活動を行うからだと懲戒処分を企むにいたっては言語道断です。
「司法改革」は、法曹関係者や一部の訴訟当事者のみの問題ではなく、すべての人民の未来を決することがらであることがおわかりいただけると思います。す でに悪辣な「司法改革」の正体を見抜いてたたかいにたちあがっている心ある弁護士諸氏とともに、阻止あるのみです。 (富山保信)

 3月の大井町での署名集めは、

Kさん
7名
山村
6名
うり美さん
4名
富山さん
2名
合計19名

 今回は、前回、前々回続けてゼロという汚名を返上すべく頑張りました。

6ページのうり美さんの原稿にありますが、署名集めの前に行なった現地調査で全速力で走らされた亀さんはダウン(無理言ってゴメンなさい)。その分をKさんが頑張ってくださいました。
なお、3月26日の成田空港に反対する三里塚での集会で富山さんが76名の署名を集めました。 (山村)

 大井町のYさんがまたカンパを振り込んでくださいました。いつもありがとうございます。
振込用紙に書かれた伝言から……

▼「春も近い。明日のための第六歩。すみませんが三月の集会は出勤日に当たりますので出席できません(休日なのに)」(2月25日)

▼「“第六歩”(かな)。陰ながら支えられたらと思います」(3月28日)

 3月18日の集会に、大井町駅前で署名してくださった方が4人も参加してくださいました。中には3年前に署名してくださった方もいて、毎月どんな時も大井町に立ち続けて来たことが報われた思いで大変勇気づけられました。
こうした地道な一歩一歩が確実に実を結びつつあることに、富山再審の勝利を確信できるように思います。これからもがんばります。 (山村)