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ニュースNo144(2000年9月1日発行)

 

●ニュースNo144(2000年9月1日発行)◎報告 8・6ヒロシマ大行動に参加して

大井町ビラまき報告

ホームページをつくりました 見に来てください

 念願のホームページを開設しました。

アドレスは、
http://www4.ocn.ne.jp/~tomiyama/ (* 2000年9月現在。現在は移転しております)

Eメールは、

tomiyama@io.ocn.ne.jp

です。ぜひ、見に来てください。感想、ご意見をメールでお寄せください。

内容は、とりあえず、「富山事件とは」とニュースの掲載から始めました。ニュースは139号から掲載しました。3月の集会での浜 田先生の講演も載っており、鑑定書にある収束図(目撃者が供述する身長や年齢、体格、顔つきなどの「犯人像」が取調べを経るにしたがって富山さんの特徴に 向かって収束していく図)も、カラーでよりわかりやすくなっています。
今後、いろいろと内容を充実させていきたいと思います。多くの方々のご訪問をお待ちしています。ご意見や感想もぜひ送ってください。 (山村)

五十の手習い

「原稿は手書きに限る。ワープロなんてとんでもない。パソコンなんか論外だ。遊びのためにパソコンを覚えるんならいいけどな」と 言っていたのが、ある事情でパソコンを覚える羽目になり、いまではパソコンで編集をさせられる体たらく。強がりではなく、琴線に触れる文章を書ける力を身 につけようと思ったらパソコンから入ってはだめです。御存知だと思いますが、推敲過程が残りませんから。幾人かの賢明な作家が手書きにもどったと聞きまし たが、さもありなんと言いたくなります。

とは言うものの、たしかに便利は便利です。編集など一遍味を占めたらやめられません。原稿の推敲は手書きでやって、完成原稿をパソコンでうってこいというのが、一番都合のいい主張でしょうか。

それはともかく、若い人と話すたびにホームページは?メールは?と聞かれて断絶を思い知らされ、やっと追いつこうと始めた次第。 「ホームページへの感想・ご意見をください」=お知恵拝借もメールが「当世風」(こういう表現がそもそもマッチしていないらしい)なのですが、ちょっと事 情がありましてメールは十月末か十一月まで待っていただかねばなりません。それまでの時間を活用して腕を磨き、「メル友」でバリバリやりますので、乞うご 期待。なんて事を軽薄に口走っていいのだろうか、と思わないでもありませんが、物事を本当にやろうと思ったら先に宣言してしまって退路のない立場に自分を 追い込むのが確実なやり方ですから、あえて公言することにします。これでできなかったら、大恥ですね。だから、おおいにジタバタすることにします。
さて、「サメの脳味噌」と「ノミの心臓」を持つ森首相は「IT革命」を呼号していますが、なにが革命なものですか。革命というのなら、それによって人間生 活が豊かで余裕のあるものになるはずなのに、マスコミでさえ「いっそう格差が拡がる」と指摘しているではありませんか。所詮、資本(家)が肥え太るために これでもかこれでもかと人民の膏血を搾り取る装置としていかに張り巡らすかというものでしかなく、誰が誰のために、もっと本質的には誰のものかを抜きに論 じる限り不毛です。人民の武器として使いこなす、そのために英知を養い、研ぎ澄ませましょう。 (富山保信)

報告 8・6ヒロシマ大行動に参加して

今年も「被爆55周年-再び戦争をくり返すな! 8・6ヒロシマ大行動」に、富山さん、うり美さん、私で参加しました。今回は「かちとる会」も実行委員会に参加団体として登録しました。

 集会は広島県立総合体育館で開かれ、昨年を上回る2800人の人々が参加しました。

集会に先立って、会場前で富山さんの無実と再審無罪を訴えるビラをまきました。炎天下、2千枚近くのビラをまくことができました。昨年に続き、富山さんが一番張り切ってまいていました。

集会は、沖縄のフォークシンガーまよなかしんやさんと世羅高校生によるバンド演奏で始まりました。

この日、もっとも心を打たれたのは、詩人の栗原貞子さんによるご自身の詩の朗読でした。栗原さんは車椅子で登壇、原爆が投下され た年の八月末に書かれた『生ましめんかな』、1991年の自衛隊掃海艇派遣に際して詠まれた『何のために戦ったのか』を朗読されました。「……一度目は過 ちでも、二度目は裏切りだ」という言葉は深く心に残りました。

沖縄から、7月20日、人間の鎖で嘉手納基地を包囲したたたかいの共同代表もされている佐久川政一さんが、サミットに対し2万 7100人の基地包囲で「沖縄からの平和の発信」を行ったことを報告、「うないネットコザ」の桑江テル子さんが「軍隊は国を守るが国民は守らない」「沖縄 サミットに対抗し、五ヵ国の女性たちのサミットを開き、日米新ガイドライン撤廃などの声明を発表した」と報告しました。
「核と戦争、憲法改悪を許さないヒロシマ、『日の丸、君が代』強制に立ち向かうヒロシマ」から、「森首相の言う『十八歳の国民すべてに奉仕活動を』は徴 兵の準備で許せない」「高校生の結集に、跡継ぎができたようで感激した」という「反戦被爆者の会」の下田礼子さんをはじめとする方々からの発言がありまし た。前の日の「集まろう!高校生8・5平和文化祭」に取り組んだ高校生からの発言も初々しくさわやかなものでした。「広島大学の一年生で被爆三世」の「戦 争をとめる力は、今ここにいる僕たちのなかにある」という発言も力強いものでした。

集会の参加人数も運動の昨年以上の広がりを感じさせるものでしたが、集会の後のデモも、うり美さんが「こんなにいたっけ」と驚いたほどでした。
七日は、広島「かちとる会」の人々との交流会。この間の再審の進展状況を報告し、みなさんと楽しいひとときを過ごさせていただきました。
また、八日の朝、大槻泰生さんともお会いし、いろいろなお話を伺いました。大槻さんは「ヤッちゃんのことは何とかしたいと思うとるけん」と富山さんの再 審を心配してくださっていました。ニュースの原稿もいただきました(六ページに掲載)。帰り際、うり美さんが「富山さんはいい人に恵まれているよね。うら やましい」としみじみと言っていました。
お忙しい中、交流会に集まってくださった「かちとる会」や富山さんの友人の方々、そして宿泊の便宜をはかってくださった広島の方々にお礼申し上げます。
その後、私とうり美さんは富山さんと別れ、時刻表と首っ引きになり、「青春きっぷ」を使い、各駅停車で阿藤周平さんの住む大阪に向かいました。座りっぱ なしで腰が痛くなった頃、ようやく大阪に着き、出迎えてくれた阿藤さんは「なんや、各駅で来たんか」と半分あきれていました。阿藤さんは、「釣りに行って 真っ黒や」と日焼けしてお元気そうでした。再審の状況や東京の「かちとる会」の活動を報告、阿藤さんは「また、集会やるんやろ。その時は東京に行くから」 「東京のみなさんによろしく」とおっしゃっていました。
8月6日から9日まで、今年も充実した楽しい四日間でした。 (山村)

生ましめんかな

栗原貞子

こわれたビルディングの地下室の夜だった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめて、いっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭。
汗くさい人いきれ、うめきごえ
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
この地獄の底のような地下室で
今、若い女が産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりで
どうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな己が命捨つとも

1945・8・30

 

広島「かちとる会」の大槻さんから

1945年8月6日午前8時14分強、放射能に射ぬかれ、爆風に吹き飛ばされ、全裸の体を熱線によって灼かれ、生き地獄・人間の尊厳の究極的破壊。あれから55年の年月が過ぎました。しかし、私たち被爆者にとって昨日のことのような出来事として感じられます。
私は、爆心地より1・3キロの所で被爆しました。左半身を家屋の大きな大木で押しつぶされ、倉庫の窓からの光線により視力が0・02まで奪われて、いま だに病院に通っています。そして、あの日をもって伯父たちの姿は私の前に現れません。その伯父たちの安否を気づかって、毎日陰膳を供えていた伯母や母の姿 も今はありません。そして、高陽第一診療所の建設運動など被爆者解放の闘い、反戦・反核・反差別の行動を私と一緒に闘ってきた妻幸慧も志半ばに失ってしま いました。
  かつて、私自身が先の十五年戦争を「聖戦」と信じて闘いました。朝鮮から強制連行されてきた人たちの細かい行動も、サボリ行為と見なして摘発し処置してい ました。思えば広島はいつの時代でも軍都でした。日清・日露と言われた戦争以後、アジア侵略の拠点としての最重要な出撃基地でした。敗戦間近には本土決戦 の準備の中心として、第二総軍(西日本の軍の総司令部)が置かれ、好むと好まざるとにかかわらず、広島市民は戦争に協力、加担してきました。その結果が原 爆の投下でした。
戦争は最大の差別行為であり、その被害者は労働者階級に他なりません。そして、それを食い止められる力を持っているのも労働者人民であります。新安保ガ イドライン法の制定、憲法・教育基本法の改悪、組織的犯罪対策法など数多くの人権無視・人間否定の法律を成立させ、大東亜共栄圏構想を夢見て、被爆者抹 殺、差別・分断、英霊化攻撃をしかけてきています。森首相の「神の国」発言など戦争への挑発は日毎に増大し、小選挙区制による懐柔と恫喝により、すべての 政党・団体が大政翼賛化しています。そして、警察国家への道を一直線に進み、いきつく所は「8・6ヒロシマ」の再現だと私は考えています。
なぜなら、権力に反対するものは何がなんでも処罰する姿からも明らかであります。富山裁判はデッチあげであります。
20世紀最後の年、2000年8月6日を期して、21世紀に向けて、人権を守る反戦・反核・反差別の新たなる運動を築きあげたいと考えています。 (大槻泰生)

 今回は、

9名
2名
富山 0名

でした。うり美さんは夏バテか、体調を崩してお休み。

天は我を見捨てず

 ここ数十日の30度を越す猛暑の中、今日は台風の接近で大雨の予想、ビラまきは大変だと思いながら向かいましたが、天気は曇りでそんなに暑くもなく心地よい風に恵まれました。
しかし、私は完全に夏バテで、このところ”時計をはずしたまま“の生活をしていたせいもあり、時間の感覚が麻痺していたようです。待ち合わせ時間の11 時半を一時間間違えてしまいました。何を思ったか、喫茶店で一服して12時過ぎに出たら待ち合わせにちょうどだと勘違い、店を出てのんびり歩いていると大 井町駅前で山村さんが手を振っている。アレッと思って時計を見たとたん、完全に時間を間違えていることに気づきました。
そういうわけで、大分遅れて署名集めを開始し、これで一人の署名も取れなかったら何を言われるかわからないと必死に頑張って四名の署名を集め、なんとか体裁がついたとホッとしました。
  あと数名と思い、立ち止まってビラを読んでいた主婦らしい人に声をかけて説明をしていましたら、そこに四人の家族連れが通りかかり、「まだ署名やっている の。以前署名したけどその後どうなっています」と声をかけてきました。この間の経過と裁判長が変わったことを話し、再度署名をとお願いしましたら家族全員 で署名してくれました。そのやりとりを聞いていた主婦の人も「では、私も」と署名をしてくれました。
あと一名で十名でしたが、もう時間がなく、勘違いからの遅れに悔いが残りました。
署名を終わってしばらくすると豪雨になりました。その時はもう定例会の場所に着いていたので、「天は我に味方するのだ」とゆっくり煙草を吸いました。ふ と、いつか大井町のビラまきで待ち合わせしている時、先日亡くなったKさん(前号のニュース)からショートホープの煙草を貰ったことを思い出しました。私 が「どうしたんですか、貰ったんですか」と聞くと「これだよ」と言ってパチンコをする手のまねをしました。「ちょっと時間があったので」といたずらっぽく 笑われたことが思い出されました。
この日の定例会には、新しい人が参加してくれました。Kさんがお亡くなりになり、打ちひしがれていた中でしたので、新しい人が参加してくれたことに勇気づけられました。 (亀)
(左は森研一さんの絵)

R・Mさんから

誠に小額ながら通信費の一部にでもおあて下されば幸いに存じます。
どうやればこのご無念を晴らせるのでしょうか。実に残念です。

愛媛県の方から

富山さんの再審無罪を求める署名5筆が送られてきました。