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ニュースNo.189(2004年6月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.189(2004年6月15日発行)◎■裁判員制度は裁判の死だ(富山保信)
富山裁判は人間らしく生きるためのたたかい  大槻泰生

 

大井町ビラまき報告

■裁判員制度は裁判の死だ

5月21日「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(裁判員法)が成立しました。「5月28日の公布から5年以内に実施される」となっています。
最高裁や法務省、日弁連執行部が「裁判が変わる」と鳴り物入りで囃したててきた裁判員制度ですが、問題はどう変わるのか、良くなるのか悪くなるのかで す。ロースクールと並んで「司法改革」の目玉とされる裁判員制度は、はたして日本の刑事裁判の現状の改善・救済となるでしょうか。
結論から言えば、裁判員制度なるものの内実が明らかになるにつれて現行の刑事裁判を少しも改善するものではない、それどころか裁判の死、まともな裁判の消滅をもたらすものであることがはっきりしてきました。正体が露呈してきたということです。
再審請求している当事者にとって死活のかかる大問題なので少し論じます。

 まやかし「司法改革」は裁判の否定

 ―まともな裁判は姿を消す

まず前提として確認できるのは、日本の刑事裁判の実態を知るものにとって《司法改革》は急務であり切望でもあるということです。 1980年代に相次いだ4人もの死刑囚の再審無罪は、有罪率99・9パーセントの背後に膨大なえん罪が存在するという日本の刑事裁判の現実の姿を衝撃を もって知らしめました。日々処刑の恐怖とたたかいながら、それをのりこえて再審無罪をかちとった無実の死刑囚の苦闘は、じつは例外ではなく刑事裁判の原則 とか鉄則といわれるものがほとんどないがしろにされ、かえりみられない日本の刑事裁判において血の涙を流し続けてきた被告たちの典型的姿にほかならなかっ たのです。だから、心ある法曹はこの現実を少しでも改革・改善しようと努力しつづけてきたのです。従来、追求されつづけてきた《司法改革》とは、そういう ものでした。
では、現在急ピッチで進められている「司法改革」は、えん罪の根絶と人権の確立・強化をめざす努力を支え、促進するものでしょうか。ふつうに考えれば、 「司法改革」と称するのだから当然そうだと思ってしまいます。しかし、残念ながら、現実に推進されている「司法改革」なるものはまったく逆の方向をめざす ものといわざるをえません。
そもそも現在推進されている「司法改革」なるものは、その登場の経緯がものがたっているように、帝国主義列強の弱肉強食の争闘にのぞむ財界の強力な要請 を奇貨とするものでした。戦争と大失業の時代における人民の抵抗と反乱への恐怖と危機感をつのらせる支配階級、4名の死刑囚の再審無罪に示される日本の刑 事裁判の実態の露呈に危機感を抱く国家権力、御用学者が結託して「司法改革」の名をもってあたかも司法の現状が変えられることによって少しでも改善・改革 されるかのような幻想をふりまきながら、あわよくば「良心派」もとりこんで一気に戦時司法への転換を成し遂げてしまおうと狙ったのが「司法改革」にほかな らないのです。その証拠に、司法制度改革審議会(司法審)意見書ではえん罪の根絶と基本的人権の確立・強化にむけた反省も決意もかけらすら目にすることが できません。眼目は「(国民は)統治客体から統治主体へ意識の転換をせよ」、つまり「実体として社会の主人公になるのではなく意識だけ統治者と一体にな れ」ということであり、個の主体性は捨て去り下僕根性・奴隷根性の塊となって「お上に仕えろ」とあからさまに要求しています。いみじくも「政治改革、行政 改革、経済構造改革等の諸改革につづく『最後のかなめ』」と言っているとおり、「戦争と大失業」に反対し、抵抗する人民のたたかいを弾圧して戦争を遂行す る国家とその担い手をつくりあげるのにふさわしい司法制度すなわち戦時司法体制を構築しようということなのです。戦時下のお上の裁判に盾突くなんてとんで もないというのだから、再審はもとより原審においてさえ裁判は「迅速に」なんの抵抗も混乱もなく処理されていかねばならないということになります。まとも な裁判は行われなくなる、姿を消すということなのです。
この司法審意見書にもとづき司法制度改革推進本部検討会で検討が行われ、どしどし司法制度改革関連法が成立させられています。裁判員法は、その核心ともいうべきものです。

 裁判員制度はペテンの集大成

「司法改革」は本来求められていたものとは正反対をめざすものであるがゆえに、嘘とペテンによって人民を騙し、扇動し、動員することによってしか成り立ち得ません。したがって、成立させるために始めから終わりまでペテンの集大成ともいうべき手段が採られました。
最高裁は「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより、裁判が身近で分かりやすいものになり、司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながる」とキャンペーンを張っていますが、これこそ真っ赤な嘘というものです。
「国民の参加」とあたかも陪審制度もどきの制度であるかのような言い方をしていますが、陪審制度とは違って「参加」は刺身のツマでしかありません。決定 的に異なるのは陪審制度では有罪か無罪かの判定は全員一致ですが、裁判員制度は多数決で決められるということです。そのうえ量刑の決定にまで関与させられ ます。裁判員裁判は「死刑または無期の懲役・禁固に当たる罪に係る事件」つまり「重大事件」(なぜ重大事件なのか納得いく説明はありません)に適用される のだから、たとえ「無罪だ」と判定し、主張しても多数決で決定されたら「死刑」判決にも参加を強要されます。だから、もともとわかりにくいということも あってはじめから不人気だったのですが、実態がわかるにつれて不人気度は増して、どんな調査でも「参加したくない」が70パーセントとか80パーセントと いう具合に圧倒的多数を占めている有様です。「裁判員は国民の義務」とは、なんたる言いぐさでしょう。結局、あらかじめ決められたシナリオ(この点は後 述)にもとづき進行される、裁判官3名、裁判員6名で構成されたセレモニーの立会人にされるだけなのです。さらに「守秘義務」を口実にマスコミの取材や学 問的研究からもシャットアウトされるのだから、自分が参加した裁判ははたして正しかったのだろうかと検証することすらできません。これでは「裁判はますま す分かりにくいものになり」「信頼から程遠いものになる」のは必至です。
なお、それでも評議に職業裁判官以外に裁判員が加わることによって「国民の健全な常識が反映される(はずだということでしかない。正確には、そうあって 欲しいという正当ではあるが実現されない期待でしかないのでは?)」のだから少しはましになるのではないかという善意の意見があります。しかし、よく考え てみてください。国民の健全な常識の反映を期待するのなら、なぜ構成比を裁判官3名に対して裁判員は6名という具合に押さえたのでしょう。裁判員数をでき るだけおさえ、しかも全員一致ではなく多数決にしたところに「国民の健全な常識など反映させない」という魂胆が見え透いているのではないでしょうか。この 構成比だったら、裁判のプロである職業裁判官が「素人」の裁判員をいくらでも「説得」して多数決で勝てると踏んでいるのではないでしょうか。
さらに、大嘘はまだあります。
「迅速な裁判」これが曲者です。ある意味では、これがキーワードになっています。あたかも現行裁判において被告・弁護側の不当な引き延ばしや審理妨害に よる長期裁判が横行しており、これが裁判員制度によって是正されるかのようなキャンペーンが張られました。事実はまったく逆です。最高裁の資料が裏づける とおり、むしろほとんどの裁判がわずか数回の公判で決着しており、例外的に長期裁判になるのは警察・検察当局のでっち上げや証拠隠匿に起因することが証明 されています。それを事実をねじ曲げたキャンペーンを張り、「裁判員の人権保障」「迅速な裁判の実現」という口実を設けて集中審理を強行しようするのだか ら、被告の公正な裁判を受ける権利を蹂躙・剥奪するのみか、こんな不正・不当な裁判ならざる「裁判」に執行者として裁判員の参加を強制するという、二重、 三重に卑劣な手口といわねばなりません。
最高裁の「国民のみなさんの積極的な協力なくしては成り立ち得ない制度」とは、恫喝にも等しい言い方です。あらかじめ「不適格者」を排除したうえで、事 件報道で処罰感情を煽り立て、予断と偏見を植え付けたうえで遂行される「裁判」が、事実を争い、真実を究明する場と呼べるでしょうか。積極的に協力するに 値しない制度なのです。
つぎにシナリオの作成とその内容についてみてみましょう。「迅速な裁判の実現」のために裁判官、検察官、弁護人による事前準備が行われ、争点整理にもと づき裁判進行のシナリオが決められます。このシナリオ作成段階で被告・弁護側の反証計画の提出、すなわち手の内を明かすことが求められるのですが、これが どういう結果をもたらすかは賢明なみなさんにはおわかりの筈です。これまで無実を証明する証拠を隠したり、証人の証言を妨害したりと様々な違法・不当な妨 害行為を働いてきた捜査当局に、これまでにもましてフリーハンドで反証活動の妨害をゆるすことになります。かといって、争点整理の段階で提出されなかった 反証計画を法廷で実行することは裁判長の訴訟指揮によって阻止されるのだから事前に計画を明かさざるを得ないというジレンマに苛まれることになります。い ずれにせよ反証活動は阻害されるわけです。
さらに、これまで常にあらそわれてきた証拠開示はどうなるのかという問題があります。日弁連執行部は「司法改革」をうけいれる代償に「取調の可視化」が 実現されるかのような幻想を振りまいてきました。しかし、そんなものはなにひとつ担保されてもいなければ、保障されてもいません。むしろ事態は逆で、事前 準備、争点整理の段階で提出された証拠以外は永遠に陽の目を見ないことになります。証拠の目的外使用の禁止という枠がはめられますから、法廷に提出された 証拠の学術研究のための使用さえ場合によっては禁止・処罰されることさえありうるのです。そして、提出されなかった証拠は捜査・検察当局の手によって門外 不出とされるか、破棄されることになってしまいます。いや、そもそも事前準備で明らかにされた証拠以外にどんなものがあるのかということさえ知ることもで きなければ、それを法廷における追及で聞き出すということもできなくなるのです。
これまでも検察側は証拠リストさえ提出しないというやり方で闇の中に閉じこめてきましたが、それでも法廷での尋問・追及によって風穴をこじあけるという ことがまったく不可能というわけではありませんでした。ところが、これからは争点整理による制限、「証人保護」の名による制限(場合によっては証人の氏名 さえ秘匿されることさえある)をもって弁護人の尋問・訴訟活動に対する処罰も含む制限、妨害を加えたり、もっと徹底的に国家権力の御用弁護士ともいうべき 公的弁護士(弁護士会ではなく法務省の監督下に置かれる。弁護士自治の破壊と御用弁護士化は「司法改革」の重要な狙い)の採用というかたちで第二の検察官 を訴訟に立ち会わせるという方法を採って、被告の無実を証明する証拠は存在しないという虚構を成り立たせることが可能になるのです。

 再審もできなくなる裁判員制度

これは、けっして牽強付会ではありません。私の原々審・一審に即してみてみましょう。当初、法廷に提出された目撃者の検察官面前 調書(検面調書。検察官が取り調べて作った調書)はよくできており、それを読んだだけだとまるで私が真犯人であることに疑いを入れる余地などあり得ないと 当の無実の私が思ってしまうくらいでした。ところが、いざ法廷で目撃証人を尋問したら証言は変転し、なによりも司法警察員面前調書(員面調書。警官が取り 調べて作った調書)が何通もあるという証言が出てきたのです。この事実は隠されていました。検察官は員面調書の提出を頑強に拒否・抵抗しましたが、とうと う提出させ、それが一審無罪に結びつきました。裁判員制度のもとでは、これはできなくなります。私の無実を確信し、弁護士としての倫理と信念にもとづく訴 訟活動を展開して無罪判決をかちとった弁護団は、これからはその弁護活動ゆえに次々と処罰され、私は信頼する弁護団を奪われて、弁護活動らしい弁護活動を 保障されることなく、目撃証言の変遷をものがたる員面調書の存在自体を知ることができないままに公判は進行し、待っているのはシナリオどおり「有罪」の判 決です。おまけに、目撃調書が何通存在するのかもわからないのだから、再審請求する手がかりさえないという状態に陥ります。
事態はもっと悲惨かもしれません。なんとか再審請求する手がかりだけでも掴みたいと裁判員、証人に訴えたり、マスコミに取材を要請したり、学者に調査・ 研究を依頼したら、「守秘義務」や証拠の目的外使用禁止の侵害で処罰されることは十分予測され、再審請求さえできなくて途方に暮れるほかなくなるのです。
紅葉の秋です。さあ出かけましょう  危惧すべきことは、まだあります。司法制度改革関連法が次々と成立させられるとともに、刑法改悪・重罰化をはじめ治安弾圧法の強化が目論まれていますが、 共謀罪という団結権を否定・破壊する悪法を軽視するわけにはいきません。これをゆるせば、再審活動や支援運動さえ処罰・禁止の対象にされてしまいます。な にしろ労働組合の団体交渉を行おうという会話でさえ犯罪に問おうというのだから、裁判所への申し入れさえ犯罪視され、「かちとる会」の集まりですら弾圧さ れかねません。まやかし「司法改革」とともに阻止・粉砕あるのみです。
未来は絶望かといえば、けっしてそうではありません。裁判員法の施行は5年後、「国民のみなさんの積極的な協力なくしては成り立ち得ない制度」にしめさ れるように、「司法改革」、戦時司法体制構築の攻撃は円滑に進んでいるどころか、確固たる展望を持ち得ていないのです。以前も紹介しましたが、日弁連はま だ「司法改革」絶対反対派が三分の一の勢力で健在であり、実態が明らかになるにつれてジリジリと力を伸ばしています。これは私たちの再審運動もまったく同 様です。確信を持って、倦まず弛まずにがんばれば必ず目的は達成できます。がんばりましょう。

(富山保信)

富山裁判は人間らしく生きるためのたたかい

 大槻泰生

 東京高裁第三刑事部による富山保信さんの再審請求棄却決定に、私はどうしようもない怒りと涙をおさえることができませんでした。

1974年10月3日の事件発生以来、国家権力は、権力に反抗するものはこういうことになるのだという、みせしめ施策をとりつづけて今日まできました。 だから、富山裁判は無理な証拠・証人認定を行いました。大勢の目撃証人のなかから権力にとって都合のよい証人のみ申請しました。そして、それを最高裁まで が追認しています。

私は慎重かつ公正であり後世の批判にたえうる決定をと考えています。そのためには「警察・検察は隠し持っているすべての証拠の開示をすべき」であり、裁判所はその命令を発すべきであります。

しかし、今回の決定は、富山さんが犯人であるという検察側主張を否定する人の証言をとりあげず、予断と偏見にもとづく誤った判決を維持しています。証拠 開示をしないのは、国家権力による犯罪の全体像が白日のもとに暴かれるからです。裁判所が隠された証拠の開示を命令し、事実審理を開始せざるをえないよう な創意的な行動を起こそうではありませんか。

小泉自民党政権は、アメリカの自国の石油資源確保のためのイラク侵略に憲法を無視・否定して参加しました。恫喝と開き直りで、多国籍軍への参加も強行し ています。公明党の賛成と協力で、賃下げ・首切りの強行、労働法の改悪による労働者の弾圧など団結権の侵害、医療・介護・国民年金等々福祉の切り捨て、教 育基本法の改悪による国家への忠義・忠誠心の強要など戦争国家への道をひた走っています。私たち人民を犠牲にして、生き延びようと画策しています。

花より団子の秋? それを阻む道は唯一、当たり前のことを当たり前のこととして認めない、当たり前でないことを当たり前のこととして認めるといった、今の政治状況をかえていこうではありませんか。富山裁判は、そうしたたたかいの重要なひとつです。

富山さんは無実・無罪なのです。再審開始を行え、と声を出して要求しようではありませんか。戦争はいやだ、8・6ヒロシマの再現はいやだ、と行動を起こ そうではありませんか。富山裁判を通して、人間らしく生きるためにたたかいぬこうではありませんか。

(おおつきやすお・反戦被爆者の会会長・広島「かちとる会」会員)

 

大井町ビラまき報告

□大井町ビラまき報告(5/30)

今回は、
亀さん・・・・・・12名
富山さん・・・・・5名
山村・・・・・・・1名
でした。

入梅前の最後の晴れ間。真夏を思わせる強い日差しに、始める前から気分は萎えていた。
そんな私を尻目に、亀さんは相変わらずのハイペースで署名を取っている。しかも、富山さんの前にも署名する人が並んでいるではないか。「かちとる会」のハルウララは富山さん以外ではないと侮っていたが、これはちょっとまずい展開である。
三十分が経過するが、まだ一名の署名も取れない。焦りはじめた頃、富山再審集会に何度も来てくださっている大井町在住の方が通りかかった。
「暑い中、大変ですね」
「ええ。(そんなことより)署名お願いします」
「もう、署名しましたよ」
「再審が棄却になり、異議審になりました。今度は東京高裁第四刑事部宛の署名です(貴重な一名、ここで逃してなるものか)」
結局、この日は一名だけ。
「ハッハッハッ。ハルウララだ」
という亀さんの高笑いにがっくり肩を落とす。亀さん、余裕である。
翌日、新聞を見ると、この日のダービーで優勝したのもカメハメハだった。(山村)

大井町のYさんから

休載

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ニュースNo.188(2004年5月15日発行)

 

タイトル 無実の富山さんの再審無罪をかちとる会ニュース ●ニュースNo.188(2004年5月15日発行)◎真実はひとつ、私は無実です。

大井町ビラまき報告

真実はひとつ、私は無実です。
大山(だいせん)と梨の花
大山(だいせん)と梨の花

真実はひとつ、私は無実です。
勝つまでがんばります。

ご存知の通り、3月30日、東京高裁第三刑事部(裁判長・中川武隆)は私の再審請求を棄却しました。それに対して弁護団と事務局 は不眠不休の奮闘で4月5日の異議申立書提出期限までに異議申立書を書き上げ、提出し、現在、審理は東京高裁第四刑事部(仙波厚裁判長、嶋原文雄、秋山敬 裁判官)に係属しています。

2004年 藤の花房
(2004年 藤の花房)

○まったく不当な再審請求棄却決定

再審請求棄却決定は、まったく不当なものです。ゆるせません。怒り心頭に発しています。

①真実に反する棄却決定

私は無実です。事件には、まったく関与していません。真実はひとつ、私は無実です。
品川区大井町で事件が発生した1974年10月3日午後1時すぎ、私は豊島区千早町にある前進社にいました。指揮するなど不可能です。
確定判決は誤判であり、訂正されなければなりません。再審請求棄却決定は間違っています。正しい決定は再審開始でなければならないのです。

②責務を放棄した棄却決定

棄却決定は、再審請求に対してまともに応えていません。裁判所としての職責を放棄する不当なものです。
周知のとおり、私の裁判では一審無罪・二審有罪であるにもかかわらず、最高裁は「(上告理由は)単なる事実誤認の主張」と称して具体的判断を回避しまし た。無辜(むこ)が事実誤認を主張する、これほどの上告理由が他にあるでしょうか。最高裁の上告棄却理由は職責放棄であり、自ら「裁判の死」を宣告したも 同然です。
だから私たちは確定判決の誤判である所以を具体的、科学的に指摘して再審請求を行いました。そして、多くの学者、弁護士の方々が「慎重かつ公正な審理の うえで、後生の批判に耐えうるような決定を出されるよう望みます」という要請を東京高裁第三刑事部に対して行われたのです。
東京高裁第三刑事部は、再審請求書、鑑定書や新証言をはじめとする新証拠および意見書、そして学者、弁護士の方々の要請書に正面から応えるべきでした。 それが職責というものです。そして、それこそが「無辜の救済」という再審の本来の目的を実現することになるはずです。
しかし、棄却決定はまともに見据えることもしなければ、論じてもいません。論点をはぐらかし、誤魔化しているだけです。事実認定に科学的知見を導入する という世界の刑事裁判の趨勢に背を向け、目撃証言の信用性を論じるにあたっても鑑定・鑑定書の内容を歪曲して論難しています。卑劣なやり方です。証拠開示 問題にも答えていません。これが「慎重かつ公正な審理」の結論といえるでしょうか。「後生の批判に耐えうるような決定」でしょうか。今後の日本の刑事裁判 の行方を左右しかねない審理を担当している歴史的責務に背き、職責を放棄するものと言わざるをえません。恥を知るべきです。
卑劣漢ぶりを示す証左を指摘しておきます。ひとつは、私は犯人ではないとする新聞記者・K氏の証言の信用性を、事実調べも行わないで否定したことです。 ふたつめは、決定を行った3月30日という日付です。いずれも悪辣な魂胆が透けて見えます。本当にゆるせません。

③再審請求を9年9ヶ月も放置

再審請求を行ったのは1994年6月20日です。それから9年9ヶ月もたっています。9年9ヶ月も放置したあげく、やっと行ったのがこの決定です。
こんな決定のために9年9ヶ月が空費されました。
9年9ヶ月という短くない歳月は、後でも触れますが、重大な意味を持っています。えん罪によって10年間投獄しただけでは飽き足りないで、さらに9年 9ヶ月もの貴重な歳月を私の人生から奪ったのです。確定判決に劣らぬ悪辣なものと断罪せざるをえません。「法匪」とは、こういう所業をいうのではないで しょうか。

○意気軒昂と異議審に臨む

私、弁護団、「かちとる会」をはじめとする人たちは、再審請求棄却決定にもかかわらず、意気軒昂としています。ますますなんとしても再審開始決定をかちとろうと闘志を燃え立たせています。
たしかに棄却決定は残念なことでした。しかし、それによって闘志はそがれていません。

①攻勢的に攻撃を迎え撃った

私たちは、昨年(2003年)10月8日の「求意見書」が再審請求棄却策動だと見抜きました。すでに再審請求から9年4ヶ月近くたち、追いつめられていたのは裁判所だったのです。
私の無実はあまりにも明らかでした。そして、確定判決・有罪判決にはあまりにも無理があり、説得力を持ちませんでした。したがって、時がたてばたつほ ど、同種の事例が増せばますほど確定判決の誤判であることが浮き彫りになってきました。なによりも再審請求人である私が確信を持って訴え続けることによっ て「富山は無実。少なくとも、確定判決には無理があり、確定判決維持は不当」が斯界の常識として定着し始めたのです。裁判所は一刻も早く棄却決定を出して 再審闘争を叩きつぶす必要に駆られましたが、私たちの着実なたたかいの前進によって阻まれてきました。あえて言えば、この9年余は、裁判所にとって棄却決 定を出したくても出せない9年余だったのです。私たちにとっては着実に裁判所に迫ってきた9年余でもありました。主導権を私たちが確立しつつあるという事 態に、ついに耐えきれなくなって蛮勇を奮う役割を担うことになったのが中川裁判長だったのです。
私たちは、この対決構造をしっかり把握しました。だから、一瞬も油断しないで身構え続け、攻勢的に暴挙を迎え撃ったのです。
学者、弁護士の方たちに広く富山再審の現状と高裁第三刑事部の再審請求棄却策動を訴え、「慎重かつ公正な審理のうえで、後世の批判に耐えうるような決定 を出されるよう」要請をしていただきました。私たちの真実に基づく真剣な訴えに多くの方が耳を傾け、お願いに応じてくださり(91名の方に賛同いただきま した)、いまも賛同の通知が届いているほどです。
3月30日の決定に対しても、ただちに翌日、翌々日と再審請求棄却決定弾劾のビラをまき、同時に異議申し立てのたたかいをやり抜きました。

②弁護団、鑑定人、「かちとる会」とともに

再審請求棄却攻撃とのたたかいの過程は、弁護団、鑑定人、「かちとる会」の真価を遺憾なく発揮しました。
不眠不休で異議申立書作成に取り組み、素晴らしい異議申立書を書き上げた弁護団と事務局は、異議審勝利に向けて活性化しています。鑑定人の方にも科学者 の良心にかけて協力を約束していただいています。「かちとる会」のみなさんのご支援には感謝あるのみです。今後ともいっそうのご支援、ご協力を、心からお 願いいたします。

③真実ほど強いものはない

私たちは、究極の勝利を確信しています。なぜなら私たちの訴えは真実にもとづくものだからです。この訴えは必ず人々の心をと らえます。東京高裁第三刑事部への要請のお願いに多くの学者、弁護士の方が応じてくださったことが、それを証明しています。倦まず、弛まず、粘り強く、 もっと多くの人に、富山再審、私の無実を訴え、知ってもらえれば、確実に再審無罪に至ります。阿藤周平さん(八海事件元被告)が言われるとおり「真実ほど 強いものはない」のです。

大山と水田
(大山と水田)

○勝つまでがんばります

再審闘争は異議審、原審にたとえれば控訴審の段階にうつりました。事件発生から29年7ヶ月、不当逮捕から29年4ヶ月、一 審無罪判決から23年2ヶ月、二審逆転有罪から18年11ヶ月、再審請求から9年11ヶ月、あらためて原点・出発点にたちかえりながら獲得目標を確認した いと思います。
いうまでもなく獲得目標は再審無罪です。これ以外にありません。そのうえで、たたかいの前進とともに獲得目標の内容がいっそう豊かになっていることが明確になってきました。

①誤った裁判を放置できない

私は無実です。それにも関わらず、私を有罪とするような間違った裁判など承伏できません。嫌なものは嫌、我慢できないことは我慢できないのです。無実の者はあくまでも無罪でなければなりません。
無実の者が無罪を要求する、これは当然のことです。ましてや無実の者が雪冤に必死になるのは、あまりにも当然のことではないでしょうか。
1980年代に相次いだ死刑確定囚の再審無罪は氷山の一角であり、その陰には多くのえん罪者の血の涙が流れています。帝銀事件の平沢さんや波崎事件の冨 山さんのように獄死を強いられた人も少なくありません。これまで多くのえん罪者が雪冤のために苦闘を重ねてきました。困難に挫けないでたたかいぬいてきた 人たちが今日のえん罪とのたたかいの地平を築いてきたのです。
こうしたたたかいに連なり、先人のたたかいの教訓と成果を学び、受け継いで、たたかいの前進と勝利をなんとしてもかちとらねばなりません。嫌なものは嫌 だけで終わらせるのではなく、嫌なもの、間違ったものはきちんと改めさせる、すなわち再審無罪として結実・定着させてこそ人間社会の進歩にとって意味があ るのです。
再審闘争は単に誤判を改めさせるだけに終わることはなく、えん罪とのたたかいをとおしてえん罪を根絶するために刑事裁判の発展とあり方、社会のあり方を 根底から問いかけずにはおきません。たたかいは人を鍛え、成長させます。請求人をはじめたたかいにかかわるすべての人々を豊かに成長させずにはおきませ ん。人間が個々に分断・対立させられて、共同性が破壊されつつあるなかで、再審闘争は再審という具体的獲得目標の達成をめざす苦闘をとおして「万人は一人 のために、一人は万人のために」という連帯と団結を学ぶ契機となり、人間性を回復し、培っていく揺籃となるのです。
じっさい、私たちは、再審請求から9年9ヶ月も放置されたあげく再審請求も棄却されたにもかかわらず、意気軒昂と異議審闘争に立ち向かおうとしているではありませんか。

②富山再審は日本の刑事裁判のバロメーター

富山再審に具体的に即して論じましょう。
富山再審の最大の争点は目撃証言の信用性です。さらに、いまひとつ重要な問題として証拠開示問題があります。
まず、目撃証言の信用性をめぐって。
私たちは、事実認定にあたって科学的知見を導入するよう主張してきました。そして、確定判決の有罪の根拠をなす目撃証言の信用性を科学的手法・分析を駆 使した鑑定によって粉砕しました。例えば、写真面割りに使用された写真が不適切であることを実証的に証明する鑑定書、確定判決が「本件目撃証人中最も良質 の証人」とするI証人の視力では16・45メートル離れた目撃地点から犯人の人相を識別することはできないことを実証的に証明する鑑定書、目撃証言の科学 的分析によって暗示・誘導の存在を証明する鑑定書という具合にです。
ところが、決定はこれらの鑑定の内容を正確に論じることなく鑑定結果を否定しました。私がその誤り、不当性を論じるよりも弁護団が異議申立書のなかで鋭く指摘していますので、紹介します。
「これら(鑑定書)は、いずれも認知心理学の専門家が、その専門領域で、専門的知見に基づき、実験を経て、特定の結論を提示したものである。
このような証拠について、裁判所は、どのような姿勢で臨むべきか。
認知心理学の専門家は何年もかけて内外の文献を検討し、実験を繰り返し、論文を発表し、学会で意見を開陳し、専門家の批判を受け、さらに研究を進め、専門領域を究めている。
かりに、このような専門家の提示する結論や推論過程に素人が幾ばくかの疑問を感じたとしても、そのような疑問は、認知心理学の初学者がその未熟さゆえに 覚えた疑問でしかない可能性が高い。法律学の世界でもそうであろう。経験ある学者の結論に対する初学者の疑問は、ごく稀に多少あたっていることもないとは 言えないが、多くは専門家の間では議論済みのことで、大体が勉強不足に起因する疑問である。勉学の過程なら、それでよい。初学者は勉強不足に基づく疑問を 専門家に提示し、これに答えてもらうことで、自分の足りないところを思い知り、納得する。これが勉強するということである。
しかるに、そもそも、認知心理学の専門家でないものが、専門家に質問を発することもなく、したがってその答えを得ることもなく、たまたま頭に浮かんだ疑 問をもとに、経験ある専門家の出した結論を信用できないとか、間違いであるなどとして否定することは、大胆かつ愚かな誤りというしかない。身のほどを知ら ない行いであり、一言でいって、まことに恥ずかしい行為なのである」という指摘・弾劾に裁判所は答えることばをもっているのでしょうか。一事が万事この調 子なのです。
証拠開示問題にいたっては、触れてさえいません。
これが日本の刑事裁判の現状なのです。この現状に風穴をあけ、この現状を変えていかねばなりません。そのたたかいを推進するにあたって重要な確認点は、 富山再審はきわめてわかりやすい裁判、つまりきちんとやればたたかえる裁判だということです。したがって、ここで勝たなかったら、勝てなかったら、他のた たかいはもっと困難ということであり、なんとしても勝って現状に風穴をあけなければならないということを意味します。富山再審はそういう位置を与えられて いるのです。そして、実際にそうした責務に着実に応えつつあると自負してよいのではないでしょうか。多くの学者、弁護士の方々に賛同していただけたのは認 知されつつあるあらわれではないでしょうか。
最後にもう一度確認します。私たちは勝利に向かって確実に前進しています。たしかに局面、局面ではたいへんな困難の連続です。けっして平坦な道を進んで いるわけではありません。しかし、私たちは、勝利への道を堂々と進んでいるのです。営々とたたかいつづけている人々との大合流のときが近づいています。究 極的勝利のときを展望しつつ、足下の一歩一歩を踏み固めながら、不屈にがんばりましょう。これからもよろしくお願いいたします。

(富山保信)

 

大井町ビラまき報告

うり美・・・・・1
山村・・・・・・0
富山・・・・・・0

ビラまき報告にもの申す

 かちとる会ニュースの読者は、最後のこのビラまき報告から読むという人が圧倒的に多いようだ。ところが、このビラまき報告が存続の危機に陥っている。それは、なぜか。
誰が決めたか定かではないが、ビラまき報告は署名が一番取れた人の「勝者の弁」が圧倒的となっている。しかし、一生懸命頑張って署名を一番とったあげ く、ビラまき報告を書くというのはやる気が削がれはしないだろうか。実際、なんで勝った人が書くんだという意見が勃発。勝った人が書くのではビラまき、署 名取りに力がはいらないではないか。かえって逆効果になっている気がしてならない。
そこで私が「今度からは負けた人が書くようにしましょうよ。負けた人が勝った人からコメントを聞いて書くというのは?」と提案。すると「それをビラまき 報告で書いてください」と富山さん。わたしは返り討ちにあった気分である。ちなみに今回は、私が勝っているのに、である。
さて、次回は誰が書くことになるのでしょうか。私の意見が通るとしたら、かちとる会の署名取りハルウララ(負け続ける競走馬)は、一体誰に?次号、好御期待。(うり美)

ハルウララ 本家「ハルウララ号」です。

大井町のYさんから

休載

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