今年こそ再審開始を! 日時 6月29日(土) 午後5時開場 5時半開演 発言 阿藤周平さん、 富山再審弁護団、 富山保信さん 他 |
戦争への道−憲法・教育基本法の改悪を許しません! 広島の北西允(まこと・広島大学名誉教授)氏を代表とし、詩人の栗原貞子さんたちを呼びかけ人とする「意見広告の会」が呼びかけた「戦争への道−憲法・教育基本法の改悪を許しません!」「私たちは、卒業式・入学式への『日の丸・君が代』強制に反対します」とする意見広告に「かちとる会」も賛同し、会の名前を載せました。 |
司法研修所編 『犯人識別供述の信用性』について 富山裁判は、目撃証言の信用性が最大の争点である。 同書は、「第一部 序説」のところで、「犯人識別供述については、学者、実務家による研究もかなりよく見られる。そして、諸家の論稿中において、犯人識別供述には、供述証拠一般の危険性に加えて、固有の危険性があることがつとに指摘されている。」とし、「供述証拠は、物証等非供述証拠に比べて一般的には証明力が劣るといわれる(略)、犯人識別供述も、供述である以上、その例にもれない。そればかりか、犯人識別供述には、その固有の危険性があるといわれる」としている。 「人の観察力、記憶力は、脆弱なものである。人の観察力、記憶力は不正確、不完全なものであるがゆえに、人は、犯人の容貌等の特徴のうち、わずかの特徴しか記銘することができない。しかも、記銘した特徴も、日時の経過によって、消失したり、変容したりする。そうすると、後日、犯人との同一性の有無について、確認を求められた際に、犯人と『同一人物である』『よく似ている』『似たところがある』などといった同一性を肯定する方向の感情を抱いてしまうことがある」 A 人の容貌等の相似性「(知覚の対象となる人が)とくにそれまで一面識もない人の場合は、その容貌等を正確に知覚することは困難である。人の容貌等は多かれ少なかれ相似しているからである。そして、容貌上の相似点がある場合には、人は、その相似点にとらわれて同一人物であるとの感情を抱きやすい」 B 人物観察の日常性 「犯罪という出来事と容貌等の知覚・記憶は別であり、犯罪という出来事が鮮明に記憶に残っているからといって、容貌等の知覚・記憶が正しいとは限らない」 「目撃者と犯人との距離、角度、明るさ、目撃時間の長短等、目撃時の客観的条件、目撃者の年齢、視力、目撃時の心理状態等の主観的条件のいかんが、犯人観察の正確性に大きな影響を及ぼすものであろう。夜間の、瞬時あるいは極めて短時間の目撃は誤謬を含みやすい。距離が相当離れている場合には、容貌の識別が可能ということから、識別供述が直ちに正確であるということにはならないであろう。恐怖、驚愕、狼狽下の目撃も過誤を含みやすい」 D 容貌供述のストーリー性の欠如 「犯罪事実自体は、ストーリー性を有しており、記憶に残りやすい。しかし、人の容貌 「犯人識別供述は、犯人を観察し記憶した人物像と、呈示された写真あるいは実物とを比較対照するという判断作業を本質とする」 「犯人識別供述は、犯人を観察し記憶した人物像と、呈示された写真あるいは実物とを比較対照するという判断作業を本質とするが、その判断に当たって、いろいろな暗示が作用する。例えば、識別者が被害者である場合は、強い処罰願望があり、第三者の場合も、正義感等から処罰願望を抱き、これが暗示として作用することがないとはいえない。写真面割りにおいては、写真の枚数、種類、配列等いかんによっては、暗示となる。逮捕された被疑者を単独で面接させると、逮捕の事実自体が強力な暗示となることもある。警察官の不用意な言動が暗示として働くこともある」 G 記憶の混同、変容「人は、ある場面で見た人物を別の場面で見た人物と取り違えてしまうことがある。人の記憶は時間の経過とともに薄れ、あるいは変容するものであり、その結果、『以前に見たことがある』という既知感情を抱くと、それが契機となって、『この事件の時に見た』と思ってしまうことがある。 H 容貌についての言語化の困難性「人の容貌を言語によって正確に表現することが困難であることは自明である。また、同じ言葉を用いても、その意味するところが同一である保障はない」 I 供述心理 「人は、一度被告人が犯人であることを承認すると、これに固執する傾向がある」 「犯人識別供述の場合は、写真面割りあるいは面通し等の影響により、オリジナルな記憶が変容することを避けがたい。しかも、本人がその変容に気づかないことも希ではない。それゆえ、証人が被告人を犯人であると断じた場合、果たしてオリジナルな記憶に基づくものなのか、それとも、変容した記憶に基づくものなのか、後日検証することは困難である」 K 供述態度等「犯人識別供述の危険性は、供述そのものに内在するものであり、供述者が誠実であるとか、利害関係をもたないとか、供述態度が真摯であるとかとは、直接のかかわりをもたない場合が多い。供述者の誠実性、中立性、供述態度の真摯性を具備している場合であっても、犯人識別に誤りがあることも希ではないのである。しかるに、供述者の誠実性、中立性、供述態度の真摯性等は、証言の信用性判断の一つのメルクマールとなることから、犯人識別供述は、危険性を内包しているのにもかかわらず、信用されやすい」 目撃証言を証拠とする場合の危険性について、このように「文献等によって指摘されてる」として列挙しながら、同書は、「第二部 具体的裁判例の検討」で、著者自身が「証拠関係に直接当たっていないので、判決裁判所の判断を所与のものとし、これを前提とせざるを得ない。したがって、研究の結果については、一定の限界があることを承知されたい」と書いているように、確定した判決が正しいことを前提にしている。 紙面の都合もあり、今回は「第一部 序説」について述べるにとどめたい。今後、「第二部 具体的裁判例の検討」、「第三部 考察」について論及していきたい。次回のニュースでは、「第二部 具体的裁判例の検討」について、特に、二審・確定判決の「写真面割りの正確性を担保するための基準」(「七つの基準」)批判を中心に述べたいと思う。 (山村) (2002年6月号に「その2」掲載) |
「かちとる会」“合宿”報告 それでは、山村さんの真摯な文章のあとに、私のナンセンスな文章で恐縮ですが、2月9日から一泊二日で行われた合宿の報告をしたいと思う。 温泉三昧 私たちに用意された部屋は、20畳位ある和室で、足を伸ばそうが大の字に寝ようが自由自在の広さであった。 昇仙峡 翌朝。外の景色を眺めるとピンと凍りつくような寒気。私は、まさかこの寒いのに昇仙峡に行く人なんていないだろう、ワイナリーがいいなぁなどと呑気に思っていた。旅館の人に昇仙峡のことを聞いてみると、「春には春の、冬には冬の良さがありますよ。行って損ってことはないでしょう。一度は行ってみたらいいですよ」なんて言うものだから、少しその気になったのは事実だが。 なんで、こうなるのだろう。私たちは、昇仙峡行きのバスを待っていた。「寒いなぁ、寒い」と跳ねて、ふと空を見上げると、ヒラヒラと雪が舞っていた。今年になって初めて見た雪。何か嫌な予感である。ブルブル。寒い。 美術館 仙娥滝からさらに登ったところに、「影絵の森美術館」があった。そこは、影絵の巨匠藤城清治(ふじしろ・せいじ)氏の作品が、所狭しと飾られていた。70年代にテレビで活躍したカエルのケロヨンは、この人が作ったキャラクターなのだそうだ。影絵というと何か黒々としたイメージがあるが、黒い部分がある分、他が鮮やかに見える。ここにきようやく現実から逃避できたような気がした。このファンタジーの世界に暫く身を投じていたい、そんな気持ちであった。 おわりに 1泊2日の合宿も、終わってしまえばアッと言う間。しかし、一体私たちは何をしに行ったのか? 今、思うとあんなに寒かった昇仙峡も結構楽しかったなあと思ったりしている。昇仙峡は、暖かくなったらもう一度行ってみたい。 |